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「はてしない物語」
-----行動分析学と認知行動療法の論争-----
「行動」分析学
認知「行動」療法
似た二つの用語を並べてみると「認知」という言葉が認知行動療法に付加されている差に気がつく。「認知」は人間脳が持つ主体的な判断機能の一つである。これは客観的に評価することが難しい脳機能であり、スキナー(Burrhus Frederic Skinner, 1904-1990)の行動分析学では、人間の精神はブラックボックスであるとして意識的に取り扱わない。行動分析学は本人の「認知」過程の取り扱わない立場を取るが、認知障害患者や広汎性発達障害の行動を矯正する方法論としては素晴らしい実践力を持つ。OCD治療においても、本人の「自由意志や自律性」を鑑みない環境要因によって、迅速にOCD行為を強制的に止めさせる効果が誘導できるだろう。しかし環境要因が消え去れば治療効果も消える脆弱性がある。一方、認知行動療法は、本人の「認知」過程を重視し、その導入までに時間がかかるが、一旦治療が成功すればその効果は永続性が高い。
人はさまざまな方法を試みて不安からの救われる治療法を求めてきた。その病態判定にポジトロン断層法(Positron emission tomography;PET)による脳内代謝系を観察できるようになったことから、OCDの強い不安の原因は帯状回皮質の異常興奮が関与していることが明らかになってきた。この局所的な異常興奮反応を停止させるには、直接的に脳定位手術により前頭葉から帯状回皮質への神経繊維を切断する治療法や、SSRI(elective Serotonin Reuptake Inhibitors)薬剤療法も効果がある。しかし、こういった物理化学的な外力に依存しなくても、脳自身の内在性の力(自己認識能力)で、脳の局所エネルルギー代謝まで変化させる認知行動療法の手法に私は感動を覚える。
さらにこれらの治療法を比較して私は不思議な事実に気がついた。不安や恐怖を主訴とするOCDの治療法の中で、認知行動療法だけは逆説的に「不安や恐怖を増強させる」不思議な手順が含まれている。「暴露反応妨害法」は、不安から救われたと願う患者に対して、最も恐れる対象に暴露させて、不安を高める。暴露直後に感情を数値化して、客観的対象物として制御できる形に変身させて数値処理する巧妙なトリックを使いながら、最大限に不安を高める。不安の程度が低い暴露では治療効果が乏しく、不安が強い暴露ほど成功しやすいと言われる不思議な治療法である。不安がまるで薬のように作用している。もし暴露されるべき不安の根源を患者自身が自覚していない場合には、動機付け面接により、不安の核心を徹底的に露呈する作業が加えられる。
未来は不確実である。将来を考えると希望もあるが不安も大きい。生きることに価値を見出し、自分の未来を設計し、今をどう生きるかを真剣に考えれば考えるほど不安が高まり、期待も膨らむのは自然である。その不安を克服する精神力が、芸術の創造性や科学の革新性の原動力にもなっている。仮に不安を感じる脳機能が消えて、すべてに満足する脳があったとする。そこからは何も新しいものは期待できないだろう。創造的で革新的であればあるほど、不安は高まって当然である。「暴露反応妨害法」は不安を消失させる治療ではない。不安を必要とする治療法なのだ。不安から逃避せず自己制御できる感情であることを本人に悟らせ、OCD行為以外に広がった行動の選択枝から本来望む行動を選択させる手順を踏む治療法である。認知行動療法の原理は人間性に根ざした民主的手順を踏んだ治療法であると例えることができるだろう。治療の主体者も、対象者も、享受するのも、本人自身である。
認知行動医療法は当事者の主体性を重要視する。自分自身の力で克服すべき課題をどこまで明確化でるかによってその成果は大きく変わる。「どうして治療したいのですか?」という問いに、「もっといい人生を歩みたい。」という抽象的な意識レベルでは成功しないだろう。患者自身が具体的に問題点を意識し、目標を明確にイメージする必要がある。治療の主体も対象も本人自身の価値判断に委ねられている。認知行動医療法は外から既存の規範を強制するものではなく、本人の主体性に任された自由度の高い治療法なのである。
私は、就寝前に子供にさまざまな物語を読み聞かせながら楽しんでいる。昨夜は「はてしない物語」を読み終えた。この物語は、書き出しは引き込まれるような面白いトリックで楽しかった。しかし途中で陳腐な夢物語が続いて飽きてしまった。主人行のバスチアン・バルタザール・ブックス(BBB)の夢が次々と適えられて、どんどん傲慢になる姿にも嫌悪感が湧く。さらに、物語の途中に、繰り返し登場する「けれどもこれは別の物語、いつかまた別のときにはなすことにしよう。」という文句で話の筋を折られるのが気に障った。物語の最期の最期に「けれどもこれは別の物語、いつかまた別のときにはなすことにしよう。」という文句で終わって初めて、この無責任な表現に作者の思いが込められていたことを知る。まるで「あなたが、あなたのために、あなただけの物語を書きなさい」と教示されているようにも読める自由度の高い、不思議な物語である。
「ファンタージェンへの入り口はいくらでもあるんだよ、きみ。そういう魔法の本は、もっともっとある。それに気がつかない人が多いんだ。つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。」
-----(ミハエル・エンデ著「はてしない物語」上田真而子・佐藤真理子訳より) -----
三浦 裕 (みうらゆたか, 名古屋市立大学 医学研究科 分子神経生物学助教授 )
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