私は2008年7月29日 空に星がまだ光っている午前4時、ファインビュー室山をタクシーに乗って出発した。午前4時30分に展望台に着いてタクシーを降りる。タクシーの運転手は「よほど好きなのですね。私はこんな暗い森の中を一人で歩くなんて、とても怖くてとてもできません。」と言う。車を降りるころから、夜がようやく白々と明けはじめた。何も怖いことはあるまい、と思いつつも熊が出たら怖い。鈴をならしながら気持ちのよい早朝の林道を一人で歩き始めた。午前4時51分に車止めに到着し、その脇を乗り越えて車の轍に挟まれた中央にオオバコが茂る林道をそのまま進んだ。自動車が一台通過できるしっかりした林道である。大滝分岐に着くと、そこには大きな道標があった。大滝山4時間30分の表示がやや下向きになっているのは、看板が壊れかかっているのではない。下り坂の登山道が矢印の方向にあることを具体的に表しているのである。ほとんど登山客が通らない大滝への道は草で覆われてしまって、登山道の存在は茂みを分けないと見えない。
誤って、そのまま広い林道をその冷沢へ下ってしまう登山客がきっとあるだろう。この分岐が鍋冠山登山の唯一の迷う可能性のある注意すべき分岐である。その分岐を正しくみつけ出して10mほど下ると冷沢用水の由来が書かれた看板が立っている。
そこからしばらくはクマザサに覆われているが、すぐに開けた森の中のなだらかな小道に出る。朝日が漏れる小道は快適そのものである。森に入り込む朝日によって朝露に輝くゴゼンタチバナの群生地に出る。ゴゼンタチバナの花は6枚の葉の株に咲いている。何故か4枚の葉の株には花は咲かない法則がある。葉が6枚か4枚か、という現象と花が咲く現象がどのようにリンクしているのだろうか?そんな疑問を考えながら広い稜線を歩いていると三角点があるので、そこが鍋冠山の山頂であることに気がつく。そこからは八丁ダルミと称されるゆるやかな坂道の登山道が続く。明るい森の中の一本道は快適そのものである。道は細かい針葉樹の落ち葉で満たされていて、2日前の雷雨後はまだ誰の踏み跡もない。
突然、お腹の白いオコジョが登山道の真ん中を走って来た。私と目が合って、ちょっと立ち止まってから直角に曲がって薮の姿を消した。私は、これほどまで静かですばらしく歩きやすい山道は他に知らない。大滝山の東斜面の花畑の急登を登り切ると、ひょっこりと蝶ヶ岳と大滝山を結ぶ縦走路に出る。突然眼前に長塀尾根の向こうに穂高連峰の岸壁が広がる。