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I have an old wooden box at home to keep an old microscope that is a product of Leitz made in Germany in 1909. The front door of the box is decorated by several pieces of workmanship. But the backside is just covered with a peace of old paper that seems to hide the damaged area of the box. The carbon black staining suggests the history of the box. Almost the end of the Second World War in 1945, Nagoya city was heavily attacked by US air forces and Kojima hospital was burnt down. My grand father was a surgeon and a director of the hospital. He barely rescued the microscope from the fire.
我が家には古く汚れた木箱がある。その中に1909年製のドイツLeitz社顕微鏡が収納されている。表扉は組み込み細工で飾られて美しいが、背中側には紙が張ってあり無様である。箱の中側から覗くと、張り紙部分は、素人修理の形跡らしく、本来の木箱の材質とは別の材質の端切れ板がはめ込まれている。
じつは、張り紙で隠している部分は火災の傷跡である。太平洋戦争末期1945年に名古屋は大規模な空襲を受けて市街地の広範囲が焼失した。そこにあった祖父が院長を勤めていた小島病院(外科病院)もその時に焼失した。祖父(三浦大蔵)は、炎に包まれていた診療室から、かろうじてこの顕微鏡を運び出したのである。
小島病院は小島浦三郎が名古屋市東区久屋町に建設した外科病院である。浦三郎の長男は憲(けん):昭和天皇の侍医となり駒込病院長を兼務した。次男は博(はく):帝国女子医学薬学専門学校(東邦大学の前身)の外科学教授となった。憲が東京帝国大学医学部に入学してまもなく、小島浦三郎が病死し、その妻子らが名古屋に残った。憲は自分の母親や2人の弟と1人の妹を養育するためには、外科病院を存続させる必要があった。しかし憲は医学部に入学したばかりで外科医として戻ることができないので、東京帝国大学医学部第一外科医局の中で病院を引き受けてくれる人材を探した。その時に、病院長として抜擢された外科医が若き日の三浦大蔵だったのである。三浦大蔵は東京帝国大学医学部大正10年卒、小島憲は大正15年卒である。この経緯は、三浦大蔵の長男(三浦巌)の口述を三浦裕が記録したものである。
三浦 裕
名古屋市立大学医学部分子医学研究所分子神経生物学(生体制御部門)准教授