中国における梅毒の病名史
梁永宣
梅毒が中国へ伝入した時期について、歴代研究者の見解は一致していない。しかし多くは、十六世紀初にヨーロッパ・アジアの海路貿易が開拓された後、広州から伝入して流行したとみる傾向にある。これは史実と基本的に合致する。というのも十六世以前の様々な医籍に淋病・陰蝕病などの記載はあるが、病名から症状を推測しても、みな梅毒の特徴と符合しないからである。
一方、十六世紀初期以後の急速な蔓延に伴う多くの研究により、中国医学の梅毒への弁証施治もしだいに成熟し、後世の治療に確固たる基礎を築いた。十八世紀以後もこれに大きな変化はない。それゆえ十六〜十七世紀末は、中国医学の梅毒弁証治療に核心を築いた時期といえよう。本論の重点もここにある。
現存の中国医書で梅毒の病名を最も早く記したのは元・釈継洪『嶺南衛生方』の一五一三年復刻版で、その復刻時に梅毒関係の内容が加えられたと程之范氏は考察する。本書には「治梅毒瘡方」とあり、「木棉疔」と「天疱瘡」の別名も記すが症状記載はなく、また治療処方もない。
一五二二年の韓{矛+心}『韓氏医通』は「黴瘡」の名を記す。黴を『説文解字』注は「久雨にあたった青黒」、『漢語大詞典』は「物が長期に湿りカビがはえた色」という。黴の字を使ったのは、本病に「湿にあたった」の意を含ませたからだろう。同年の兪弁『続医説』は、「悪瘡が弘治年間末に広東より始まったので、これを知らなかった呉人は広瘡と呼んだ。またその形が似ることから楊梅(ヤマモモ)瘡ともいう」と記した。これが「楊梅瘡」の語源解釈の最初とされる。
一五二九年の薛己『外科心法』、一五五六年の汪機『外科理例』と徐春甫『古今医統大全』は、ともに「楊梅瘡」の名を踏襲して他の名をいわない。一五六五年の竇夢麟『瘡瘍経験全書』は数多くの皮膚疾患を図示して記載し、本病について「梅毒を一名を広東瘡、一名を黴瘡といい、黴の音は梅」と記す。 一五七五年の李 『医学入門』は、「楊梅瘡…俗称は様々で、天疱とも大麻風ともいう。考えるに…形が鼓釘や大豆に似るのは脾に属して顔中に数多く生じ、大風痘という。…形が魚瘡に似て内に白水が多く、押すと緊張がないのを天疱瘡といい、この類の軽症」、と論述した。彼の命名は主に梅毒疹の発生部位によるのだろう。一五八七年の 廷賢『万病回春』と一五九六年出版の李時珍『本草綱目』も楊梅瘡の名だけを用いる。
一六〇四年の申斗垣『外科啓玄』は梅毒を詳細に論述し、その随伴症状で分類・命名した。たとえば楊梅結毒・楊梅癬瘡・翻花楊梅瘡・陰楊梅瘡・楊梅痘子・楊梅疳瘡・梅圈瘡などなど。いずれも病証の後に図があり、一目了然となっている。一六〇八年の王肯堂『証治準縄』は「楊梅瘡」の分類表題下に、「広瘡」「翻花瘡」「綿花瘡」の名を採用した。
一六二四年の張介賓『景岳全書』は発病地方と形状の大小から区別し、「楊梅瘡は腫れて突出し、赤く爛れた様が楊梅のようなので命名された。これを西北人は天泡瘡と名付け、東南人は広東瘡という。ふつう毒が軽くて小さいと、茱萸のようなので茱萸瘡という。毒が甚だしくて大きいのは爛れがひどく、綿花のようなので綿花瘡という」、と述べる。
一六一七年の陳実功『外科正宗』は、「楊梅瘡というのは、形が楊梅に似るから。時瘡というの時気(流行)によって邪気が侵襲してくるから。また棉花瘡ともいうので、三名称がある」という。梅毒専門書で一六三二年の陳司成『黴瘡秘録』は従前の命名法を総括・分類し、「楊梅瘡」と「黴瘡」に統称して他の名を使用しなかった。また一六六五年の祁坤『外科大成』陳実功の命名法を援用し、論述も基本的に前人を踏襲した。
以上の経緯で梅毒についての論が定型化され、後世まで続いていったのである。
(北京中医薬大学医史教研室)