結 論

 本稿は、現在の日本・中国・韓国でもライケンの訳語として用いられる「地衣」および関連語彙について、中国の歴代文献における記載を中心に、名物学的考 察を主な目的に研究したものである。当結果は年代順に以下のように総括できる
 現伝最古と思われた記載は「京里先生」著として伝わる『金匱録』『神仙服食経』の両書にあり、車前(オオバコ、Plantago spp.)の別名とされる「地衣」だった。当『金匱録』の成立は後漢以降、葛洪 (281-341) 以前と推定される。また『芸文類聚』所引の『列仙伝』呂尚伝にも「地衣」が記載されていたが、道蔵本『列仙伝』呂尚伝には記載がなかった。一方、『金匱 録』『神仙服食経』『列仙伝』の三書はいずれも神仙思想と深く関連する書で、成立時期も比較的近いと考えられた。とすれば成立当初の『列仙伝』に「地衣」 の記載があったとしても不自然ではない。いずれにしても隋代以前の文献において、「地衣」が神仙関連の書にのみ記載されていたことは興味深い。
 唐代では「地衣草」という植物が崔知悌の処方に用いられていた。この「地衣草」は『本草拾遺』(739) によると、地面に生えるコケであるという。さらに中唐以降、白居易らの韻文に「地衣」が詠まれていた。その「地衣」は敷物を意味し、華やかな宮廷生活を象 徴する語であり、この上では舞踊が催されていた。さらに技術的・社会的背景から、「地衣」と称された敷物は西域の影響をうけていた可能性が示唆された。
 唐が滅んで五代十国の時代に入ると、『日華子本草』(10世紀)に「地衣」という植物が記載された。『日華子本草』は「地衣」を「苔蘚」の一種であると する。むろん「苔蘚」とは現在のコケ植物に該当する表現ではなく、ある種の隠花植物をさしていたらしい。一方、当時の韻文で花蕊夫人「宮詞」に代表される ごとく、まだ敷物の意味で「地衣」を用いていた。したがって、当時期の「地衣」には二つの意味があったことになる。
  宋代になると、歴代本草書を集成した『證類本草』が編纂された。当書では初唐・崔知悌の処方に記された「地衣草」と、五代の『日華子本草』に記された「地 衣」が、別個のものとして収載される。さらに『證類本草』所引の『嘉祐補注本草』(1060)土馬?項には、下等植物の分類・命名法も記述されていた。こ の分類概念は日本の『万安方』(1315)や『炮炙撮要』(1581) ・李氏朝鮮の『東医宝鑑』 (1597) にも引用があり、周辺国への影響も窺えた。
 ところが明代の『本草綱目』(1592) は「地衣」と「地衣草」を同一物とみなし、一項目にまとめて収載した。以上が「地衣」をライケンの訳語として採用する前までの語意変化である。
 ここでライケン (Lichen) という単語の歴史を略述しておきたい。第1章で述べたが、Lichenの語源であるλειχηνは、当Dioscorides『De Materia Medica Libriquinque(薬物誌)』に掲載された薬用植物でもあった。『De Materia Medica Libriquinque』は、832年に設立された「Bayt al-?ikma(智恵の館)」において H. ibn Is??q (808-873) らの手によってアラビア語に翻訳されている(1)。この翻訳が行われいた時期の中国では、まさに第4章で扱った白居易 (772-846)らが敷物をさす「地衣」を韻文に詠んでいた。また、この翻訳が行われた場所はアッバース朝の首都バグダートであった。アッバース朝は 751年、タラス河畔で唐軍と交戦し、勝利する。その際、唐軍の捕虜から製紙技術を得たという(2)。そして795年、バグダートに製紙工場が建設され た。製紙技術はさらにヨーロッパに伝わり、ルネサンスまで促したとされる(3)。
 アラビア世界で発展したギリシャ古典の翻訳と研究の成果は十字軍の要因もあり、中国ではなくヨーロッパにもたらされた。そしてルネッサンスを迎え、 『De Materia Medica Libriquinque』が再評価されたのである。当書からは多くの植物学用語が生まれ、その一つがLichenであった。
 さらに製紙技術もヨーロッパにもたらされ、15世紀のJ. Gutenbergによって活版印刷が考案された。16世紀、印刷術は宗教改革も促し(4)、宗教改革はイエズス会等の布教を海外に向けさせた。イエズス 会士の利瑪竇 (M. Ricci; 1552-1610) は布教活動のため明に赴き、徐光啓 (1562-1633) らと共に『幾何原本』(1607) を著わした(5)。しかし、この時期の翻訳書に植物学関連書はなかった(6)。そして西洋近代植物学を最初に中国に紹介した書こそ、李善蘭とロンドン伝導 会が派遣した二人の宣教師 (A. WilliamsonとJ. Edkins) (7)による『植物学』(1858)だった(8)。古代ギリシャの『De Materia Medica Libriquinque』から1900年近くも歳月を経たライケンは、当『植物学』において「地衣」と漢訳された。「地衣」という語句自身もまた、 1600年前後の歳月を経てライケンの訳語に使用され、いずれも長い歴史のある語句だった。
 当『植物学』は日本で、1867年に初めて足利求道館から翻刻された。田中芳男「垤甘度爾列氏植物自然分科表」(1872) や『植学訳筌』(1874) にライケンの訳語として「地衣」が採用され、現代まで標準和名として定着している。現在の中国・韓国でもライケンに「地衣」の漢字表記を用いるのは、恐ら く当経緯と関連するだろう。他方、『植物学』渡来以前の日本で、ライケンの音写訳語として「利仙」「利鮮」が存在したこと、「地衣」は19世紀初頭からセ ン綱 (Musci) 植物に相当する名称になったことも明らかにし得た。
 こうした1700年におよぶ「地衣」の語史からみるならば、ライケンの訳語とされた期間は150年にも満たない。しかしながら現在の「地衣」という語句 は、西洋植物学のライケンという伝統を継承していると同時に、漢字文化を如実に継承していた側面も研究では明らかにし得た。


引用文献

(1)矢島祐利『アラビア科学の話』岩波新書、1965年、36-38頁。
(2)T. F. カーター著、藪内清・石橋正子訳『中国の印刷術』東洋文庫、平凡社、1977年、27-29頁。
(3)伊東俊太郎ら編『科学史技術史事典』弘文社、1983年、209頁(町田誠之分筆)。
(4)伊東俊太郎ら編『科学史技術史事典』弘文社、1983年、62頁(庄司浅水分筆)。
(5)樊洪業『耶?会士与中国科学』中国人民大学出版社、1992年、19-23頁。
(6)梁啓超著・小野和子訳注『清代学術概論』東洋文庫、平凡社、2003年、306頁。
(7)楊文衡・杜石然・陳美東・金秋鵬・廖育群編著『中国科技史話』中国科学技術出版社、1990年、下冊301頁。
(8)沈国威『植学啓原と植物学の語彙-近代日中植物学用語の形成と交流』関西大学東西学術研究所、2000年、17頁。


謝辞

指導教官の真柳誠先生、筆者の質問にお答えいただいた加納喜光先生および大形徹先生、資料を拝見させていただいた久保道徳・沈国威両先生のご厚意に深甚の 謝意を申し上げる。