第 7章 日本におけるライケンの受容と訳語

 第1章において、ライケンは中国の李善蘭ら『植物学』(1858) に初めて「地衣」と訳されたことを明らかにした。この『植物学』は日本において1867年に足利求道館から翻刻され、さらに1873年、相次いで3種類の 翻訳版が出版された。また「垤甘度爾列氏植物自然分科表」(1872) や『植学訳筌』(1)(1874)に、ライケン (Lichen) の訳語として「地衣」が明記され、標準和名として定着し、現在に至っている。とするなら『植物学』がもたらされる以前、ライケンを記述した日本の文献は あったのだろうか。また「地衣」とは異なるライケンの訳語は、存在したのであろうか。


1.ライケンを記載した西洋書の舶来

 ライケン (Lichen) という語を日本人が初めて目にしたのは、いつごろの事であろうか。西洋植物学と日本人の接点として最初に注目すべき書は、R. Dodoneus『Crvydt boeck』(1554)であろう(2)。本書は1659年にZ. Wagenaerが稲葉正則に送ろうとしたことから(3)、これ以前に日本へ舶来していたことがわかる。本書には幾つかのライケンと考えられる種が記され おり(4)、その一つである「Boom mos(木のこけ)」(ラテン語: Muscus aborum)は、『(戊辰)阿蘭陀本草和解』(1748) において「サルオガセ」の和名がつけられている(5)。Lichenという語の日本における初出文献について、筆者は現在のところ明言できる段階には至っ て いない。ただし『遠西医方名物考』(1822-34刊)には、ライケンを音写したと考えられる記述があるので、以下に挙げる。なお原文中のカギ括弧はその まま表記し、傍記は( )で、割注は[ ]で記した。

『遠西医方名物考』
依蘭(ヱイラン)苔 リセン イスランヂキュム 羅
          ヱイスランドセ モス   蘭
榕按ニ、是レ和名「ハナゴケ」ト呼ブ一種ノ苔ナリ。深山ノ岩石、林中ノ地上ノ老木等ニ生ス。西洋ニ於テハ往昔始テ依蘭地(ヱイスランド)[欧州巴洲(エウ ロツパ)北海島ノ名]ニ採リ和蘭ニテ「ヱイスランドセ、モス」ト名ツク「モス」ハ苔ノ義。即チ依蘭地苔[ヱイスランドモス]ナリ。今是ヲ略訳シテ依蘭(ヱ イラン)苔ト名ツク…(6)

 文中の「ヱイスランドセ モス」は、「蘭」とあることからオランダ名であることがわかり、「Ijsland mos」の音写と判断できる。当植物の学名は当時、Lichen islandicumであった。文中の「羅」とはラテン語名(学名)の略記であり、Lichenが「リセン」と音写されていることがわかる。Lichen islandicumは、現在エイランタイ (Cetararia islandica) と呼ばれるライケンの一種である(7)。
 エイランタイは、村上屋『薬種荒物寄』(1804-1862年間)・永見屋『西洋薬寄』(1836-1862年間)に輸入記録がある(8)。また畔田翠 山『白山草木志』(9)(1822)や嘗百社『(未乙)本草会物品録』(10)(1835)には、邦産が報告されている(図7-1)。さらに水谷豊文の江 馬活堂宛書簡にエイランタイに関係する問答がある(11)。この他、岩崎常正(灌園)『本草図譜』(1828)(図7-1)、『(新訂増補)和蘭薬鏡』 (12)(1828)、『窊篤児薬性論』(13)(1856)にも記載され、P. F. von Siebolt (1796-1866) もエイランタイを用いて医療行為を行っていたという(14)。
 このようにエイランタイは多くの蘭学者によって認知され使用されていたのだった。


2.伊藤圭介によるライケンの訳語

 さらにエイランタイの属名として、Lichen(ライケン)という語句を記す西洋薬物書もがあった。つまり『植物学』が日本に渡ってくる以前に、一部の 日本人はLichenという語句を目にしていたのである。では日本人によるライケンの訳語は存在したであろうか。
 その一例として江戸時代の植物学書である伊藤圭介『泰西本草名疏』(1829)は附録に、Linnéの二十四綱分類を紹介するので、これを挙げよう。な お原文中のカギ括弧はそのまま表記し、傍記は( )で、割注は[ ]内に記した。

『泰西本草名疏』附録下
第二十四綱…
一 シダノ部…
二 蘚部〔此目次目トモニ苔蘚ヲ云今権ニ苔蘚ノ字ヲ仮リ用ヒテ是ヲ分ツ〕…三 苔類 此ノ目ノモノハソノ茎葉根トモニ一体ナルモノナリ十三類アリ 利仙 (リセン)。[艾納(マツノゼニゴケ)、石蕊(ハナゴケ)、キブノリ、「エイスラントセモス」、ノ類]扶屈斯(ヒュキュス)[昆布(コン ブ)、黒菜(アラ メ)ノ類]…。
四 菌部…(15)。

 リンネ分類体系では第24綱CrytogamiaにFilices・Musci・Algae・Fungiの四群を置かれ、ライケン属はAlgae内に置 かれていた(16)。つまり上掲文のシダノ部はFilices、蘚部はMusci、苔部はAlgae、菌部はfungiに当たる。しかも「苔部」の「利 仙」には、「エイスラントセモス」が挙げられている。したがって「利仙」はLichenの訳語だったのである。
 他方、ライデン博物館にはSieboltが日本で採集した139個の標本の存在が残されており、その中にライケンが含まれていた(17)。また採集者名 に伊藤圭介の名もあった(18)。すると伊藤圭介はSieboltからライケンの知識を教えられたかもしれない。伊藤圭介は文久元 (1861) 年9月、幕府の蕃書調所物産所出役として江戸で勤務し始めた。その期間、後に「垤甘度爾列氏植物自然分科表」(1872) を著わす田中芳男を伊藤圭介は同居させ、修学させた。伊藤圭介が外出する時、田中も常に随行したという記録もある(19)。しかし田中芳男は「垤甘度爾列 氏植物自然分科表」において、なぜかライケン (Lichen) の訳語に伊藤圭介の「利仙」を採用せず、中国の『植物学』から「地衣」を採用したのである。


3.宇田川榕庵によるライケンの訳語。

 一方、化学書である宇田川榕庵『舎密開宗』(1836) にはリトマス (litmus) 色素の製法についての解説があり、その原料としてライケンらしきものを挙げる。なお原文中の傍記は( )で、割注は[ ]内に記した。

『舎密開宗』内篇 第1巻 第六章 攪擾進溶解
○勒佉毋斯ハ藍キ顔料ナリ酸ニ遭ヘバ紅色ニ変ズ利鮮・邏摂児刺(リ セン・ロツセルラ)(オルセイルモス)或ハ利鮮・巴列爾律斯(リ セン・パレルリュス) [共ニ蘚類]ニ尿。石灰。加里。或ハ曹達ヲ和シテ発酵セシシテ長サ寸許ノ方錠トス…

『舎密開宗』内篇 第16巻 第二九四章 色分
青勒佉[ラック・クールユレア]○按ニ勒佉毋斯○利鮮○邏摂児刺或ハ利鮮巴列尓律斯[共ニ蘚名]ノ粉末ニ曹達ヲ加ヘ、尿ニ浸シ乾 ス者、此浸汁或其染紙ハ酸 ニ遇バ紅色ニ変ジ、其紅変スル者、亞尓加里ニ遭バ還タ青色ト為ル。故ニ舎密家、見酸ノ試薬ニ用テ要品トス”

 ここで勒佉毋斯(ラクムス)が指示薬として記述されることや、リトマス (litmus) のオランダ語が「lackmos」であることから考え、勒佉毋斯がリトマスをさすことは間違いない。では「利鮮・邏摂児刺」「利鮮巴列爾律斯」とは何であ ろうか。当文は引用文であることを表わす「○」印があるので、宇田川榕庵が用いた24種の洋書のいずれかからの引用である。したがって当文の出典と特定す る事は難しい。そこでE. Acharius『Synopsis Methodica Lichenum』(1814)に基づき、「邏摂児刺」「巴列爾律斯」に相当する種小名をもつ学名を探してみると、リトマスゴケ (Roccella tinctoria (L.) DC. syn.: Lichen roccella)、ニクイボゴケ属の一種 (Ochrolechia parella L. syn.: Lichen parellus) が見いだされた。とくにリトマスゴケは古くから、リトマス色素の原料として知られていた植物でもある(20)。とすれば「利鮮」が属名Lichenの音写 だったことは疑いない。


4.小結

(ⅰ)エイランタイは江戸時代の蘭方医によって薬物として用いられ、当時もっともよく知られたライケンであったと考えられる。
(ⅱ)江戸時代にライケン (Lichen) は、少なくとも伊藤圭介『泰西本草名疏』(1829)に「利仙」、宇田川榕庵『舎密開宗』(1836) に「利鮮」の訳語があった。
(ⅲ)田中芳男はライケンの訳語に師の伊藤圭介による「利仙」という訳語を用いず、李善蘭ら『植物学』(1858) に載る「地衣」を用いた。
(ⅳ)『植物学』の成立年以前に、日本においてライケンに「地衣」という訳語をあてた文献は見いだせなかった。


引用文献と注

(1)小野職愨訳 田中芳男閲 『植学訳筌』 文部省1874年、13頁。「(L.) Lichenes 地衣科」。小野職愨は、前章に述べた小野蘭山の孫。
(2)上野益三『日本博物史』平凡社、1974年、80-81頁。
(3)上野益三『日本博物史』平凡社、1974年、266頁。木村陽二郎『植物学史論集』八坂書房204-205頁。
(4)A. L. Smith, Lichens(London: Richmond Publishing, 1975), 3.
(5)野呂元丈『(戊辰)阿蘭陀本草和解』国立国会図書館(白井文庫)所蔵、特1-542。
(6)宇田川玄真(榛斎)訳述・宇田川榕庵校補『遠西医方名物考』内閣文庫所蔵、195-282、第27巻 第22丁。
(7)E. Acharius, Synopsis Methodica Lichenum (London: Richmond Publishing, 1978), 229.
(8)宮下三郎『長崎貿易と大阪 輸入から創薬へ』清文堂出版276頁,1997年
(9)「霞婆里(カスミバリ)方言 別山ノ頂ニ多シ。土人曰、此レ硫黄ノ気ナリト。用テ淋病ヲ治スト云。味苦。地上苔ニ雑リ生シテ、長サ一二寸、太サ燈心 ノ如シ。大小アリ。形状鹿角菜ニ似テ、外書白色、内空、梢ニ二岐ニ成リモアリ。蛮書ニ載ルヱイラン苔也。
(10)名古屋市蓬左文庫編『名古屋叢書三編』第19巻 269頁『(未乙)本草会物品録』
(11)遠藤正治『本草学と洋学-小野蘭山学統の研究-』思文閣出版,45-50頁,2003年、および江馬文書研究会編『江馬家来簡集』思文閣出版, 1974年,45-46頁,江馬活堂宛
「御頼申上候蘭薬六種御恵被下辱奉存候(以下6種を挙げ、3つめに、)イスランドモス、木曽深山中古木の朽タル所ニ生スルヘハリゴケノ一種少々掛御目申 候、此ものイスランドモスニ似申候」とみえる。また、本書注に「1826年の書簡か」とある。
(12)宇田川玄真『(新訂増補)和蘭薬鏡』科学書院、1988年、408-411頁、424頁、641頁。
(13)オランダ・ハンデワートル原著 林洞海訳『窊篤児薬性論』第4巻第18丁 内閣文庫195-292。「依蘭苔 リセン、イスランヂキュス羅 エイ スランドセ、モス蘭 欧羅巴洲ノ北方寒地ニ産スル所ノ木葉ノ如キ蘚苔ナリ。依蘭苔ニ在テハ、此苔ヲ以テ啻ニ医薬ニ供スルノミナラズ。又日常ノ食料トス、故 ニ依蘭地苔ノ名アリ」。
(14)呉秀三『シーボルト先生その生涯及び功業』平凡社、1968年、第2巻322頁(覆刻の底本は吐鳳堂刊の大正15年第2版)。
(15)名古屋蓬左文庫編『名古屋叢書三編』第19巻名古屋市教育委員会、昭和57年、269頁。
(16)リンネ氏著『Genera Plantarum(植物の属)』植物文献刊行会、1939年、1034-1077頁。
1935年、下巻、1131-1156頁。
(17)根本曽代子『朝比奈泰彦伝』広川書店、1966年、358-359頁。
(18)Y. Asahina, "Lichen and Bryophyte Specimens collected by Siebold and his Contemporaries in Japan", Bulletin of the National Science Museum, 4(1959): 374-387.
(19)杉本勲『伊藤圭介』吉川弘文館人物叢書,S63年 188-194頁
(20)鳥本昇・松本昭「リトマス考」『大阪と科学教育』第1巻(1987年)43-46頁。


図の出典

図7-1 名古屋蓬左文庫編『名古屋叢書三編』第19巻名古屋市教育委員会、昭和57年、269頁。『本草図譜』同朋舎出版、1981年、第37巻 第16葉。神宮文庫所蔵本の影印。