第
6章 日本における「地衣草」と「地衣」
第1章では、日本で現在、Lichenの訳語に用いている「地衣」が、中国の『植物学』に由来することを明らかにした。さらに第2章から第5章におい
て、地衣という語の初出は、後漢から晋にかけて著わされたと考えられる『金匱録』および『神仙服食経』の可能性が高いことを明らかにし、また地衣が車前の
別名であったことも分かった。そして『金匱録』の佚文は、平安時代に著わされた『医心方』(984)
に記されていた。その後の中国で、地衣は敷物をさす場合と、車前ではない別の植物をさす場合とに分かれて記載されていた。このように多様な意味をもつ地衣
は、日本でどのように認識されていたのだろか。
1.日本における「地衣草」「地衣」の初出文献と認識
日本人が「地衣」という語を目にしたのは、いつ頃のことであろうか。また日本の文献において、「地衣」はいつから現れるのであろうか。
さて平安時代に編纂された『本草和名』(1)(918頃)および『和名類聚抄』(2)(931)
に、地衣の記述はない。しかし前章でとり挙げた『本草拾遺』(739)
は「地衣草」の項を収録するが、『本草和名』の編述に利用されている(3)。すると平安時代以前に日本へ渡「地衣草」という薬物名が伝わった可能性はあ
る。一方、地衣という語句の日本における初出文献は、第3章で論じた『医心方』(984)になるであろう。『医心方』には『金匱録』なる書から引かれ、地
衣は車前(オオバコ)の異名であると説明されていた。
その『医心方』から300年経た後に成立した『本草色葉抄』(1284)には、下記の条文がある。
『本草色葉抄』地部
●地衣草 『證』第6巻に、「味苦く、性は平。目をはっきりさせる。地上のこけで、草のようなもの。湿った場所に生える」とある(4)。
○地衣 『證』第9巻の「垣衣」に、「暗く湿った土に陽が当たると、発生するこけである」とある(5)。
文中の『證』は『経史證類大観本草』(1108)
をさす。薬名の頭につけられた丸印は原本にあるもので、標準の名称を「●」、異名等を「○」として区別した記号である(6)。ただし、「地衣」の「○」
は、「地衣草」の異名としてつけられものではない。「地衣草」は『経史證類大観本草』の「陳蔵器余」に記された薬物名であり、独立した項目である。しかし
「地衣」は『経史證類大観本草』の垣衣項に付記されたもので、独立した条項がない薬物であった。よって『本草色葉抄』の撰者である惟宗具俊は、垣衣の項か
ら「地衣」を抜抄し、こうしたものにも「○」印をつけて並記していたことがわかる。惟宗具俊は、さらに「地衣草」と「地衣」の生態についての記述も引用し
ている。
『本草色葉抄』と同じ鎌倉時代に著された『万安方』(1315)
の「薬名類聚上」土馬騣項には、前章で挙げた掌禹錫『嘉祐補注本草』(1060)土馬騣項とほぼ同じ文がある(7)。さらに曲直瀬道三(1507-
1594)が著したと伝わる『炮炙撮要』(8)(1582) にも、類似した文がみられる。
『炮炙撮要』陟釐項
陟釐は川や海に生える石髪である。屋根瓦の苔を屋遊という。垣根に生えるのを垣衣といい、地面に生えるのを地衣といい、井戸に生えるのを井苔という
(9)。
この文は『嘉祐補注本草』土馬騣項と内容的には類似するが、文体や内容に違いがある。また『嘉祐補注本草』では土馬騣項に記された文であるが、『炮炙撮
要』では陟釐の項にこの文がある。一方、李時珍『本草綱目』(1593)も、陟釐項にこうした分類を記載する。『本草綱目』は1593年に成り、日本に伝
わった最も早い記録が1604年になるというから(10)(11)、曲直瀬道三(1507-1594)が『本草綱目』をみることができたとは考えにくい。
もし『本草綱目』からの引用であれば、『炮炙撮要』の編者が曲直瀬道三とされる点に矛盾が生じる。そこで各原文を挙げて比較してみよう。
『嘉祐補注本草』土馬騣項
在屋則謂之屋遊、瓦苔。在垣墻則謂之垣衣、土馬騣。在地則謂之地衣。在井則謂之井苔。在水中石土則謂之陟釐(12)。
『炮炙撮要』陟釐項
屋瓦苔曰屋遊、在垣墻曰垣衣、在地曰地衣、在井曰井苔(13)。
『本草綱目』陟釐項
蓋苔之類有五、在水曰陟釐、在石曰石濡、在瓦曰屋游、在墻曰垣衣、在地曰地衣(14)。
『炮炙撮要』と『本草綱目』では、「在~曰~」という語法の一致もみられる。しかし挙げられた薬物名を比較すると、『炮炙撮要』の4種(「屋遊」「垣
衣」「地衣」「井苔」)を、『嘉祐補注本草』はすべて挙げているのに対し、『本草綱目』では2種(「垣衣」「地衣」)しか一致しない。ならば『炮炙撮要』
陟釐項の文は、『證類本草』所引の『嘉祐補注本草』土馬騣項をもとに、編者が文体を変えて記したものと考えてよかろう。つまり『炮炙撮要』は、『本草綱
目』より以前の文献を使用しているといえる。また『炮炙撮要』には土馬騣の項がなく、そのため陟釐の項に移したと考えられる。とすれば、曲直瀬道三が編者
だった可能性は高いといえよう。
『嘉祐補注本草』の上掲文は、『万安方』『炮炙撮要』に加え、李氏朝鮮の『東医宝鑑』(1597)
地衣項にもみられる(15)。こうした引用は、この分類・命名法が朝鮮や日本で広く受け入れられていたことの証左であろう。またアイヌ語においても、下等
な陸上生物を付着する対象物で区別している(16)。これらは、植物解剖学に基づいた近代植物分類学が東アジアにもたらされる以前、人々が生物に対してど
のような植物の分類観念をもっていたのかを知る一つの手がかりともいえよう。
2.『本草綱目』渡来以降の「地衣草」「地衣」
前章で述べたが、歴代の正統本草書に区別して記されていた「地衣草」と「地衣」を、李時珍は同一物とみなし、『本草綱目』にまとめて記した。そのため
『本草綱目』の影響下にあった江戸時代の本草・博物学者も、「地衣草」と「地衣」を区別なく用いている。
この『本草綱目』にいち早く注目した林羅山は、『多織編』(1630)において、地衣草に「こけ」の和名をあてた(17)。次に『大和本草』
(1706)と『和漢三才図会』(1713刊)をあげる。
『大和本草』第9巻 地衣草項
地衣草(コケ)陰湿ノ地ニ生ス苔蘚ナリ詩歌ニ多ク詠ス本草載ス(18)
『和漢三才図会』第97巻 地衣項
地衣 こけ…(19)
ともに『多識編』同様、「こけ」という和名をあてているが、地衣草・地衣がどのような植物か明示していない。「陰湿ノ地ニ生ス苔蘚ナリ」という『大和本
草』の記載は、『本草綱目』の文を読み下したものにすぎない(20)。
そして地衣・地衣草を具体的に記述する文献は、以下の『本草綱目啓蒙』(1803-1806年刊)まで待たねばならない。
『本草綱目啓蒙』第17巻 地衣草項
ヒカリグサ 古歌 ヂゴケ アヲゴケ ビロウドゴケ 一名 青膚
事物紺珠 陰地ニ一面ニ生ズル緑苔ナリ。形鵞毛絨ノ如シ。数品アリ(21)。
ここにいう和名のヂゴケは地面に生えること、アヲゴケは緑色であることに由来する名であろう。ビロウドゴケは「鵞毛絨のようだ」とも述べられており、独
特の手触りをいうと考えられる。こうした記述から、地衣草がセン綱植物 (Musci)
全般をさすことはほぼ間違いなかろう。第1章に挙げた三好らの「地衣」に対する見解の根拠を、ここに見出すことができる。一方、地衣草がセン綱であるな
ら、ヒカリグサはセン綱ヒカリゴケ(Schistostega pennata)に相当すると考えられよう。
『本草綱目啓蒙』では、さらに「白竜鬚」と「玉柏」の項に以下の文がある。なお「地衣」を含む部分に下線を引いた。
『本草綱目啓蒙』第16巻 白竜鬚項に付記された「万纒草」の文
万纒草ハイトゴケナリ、山中樹根ニ着キ垂ル、形地衣ニ同シテ、
長サ二三尺、又枝ニ懸テ下垂ス縁色其茎甚タ細クシテ糸ノ如シ…(22)
『本草綱目啓蒙』第17巻 玉柏項に付記された「高野ノマンネングサ」の文
又、別ニ一種高野ノマンネングサト呼者アリ苔ノ類ナリ根ハ蔓ニシテ地上ニ延処処ニ茎立テ地衣〔ヂゴケ〕ノ如キ細葉簇生ス深緑色ナリ採貯ヘ久クシテ乾
キタル者ハ浸セハ便チ反リ生ノ如シ是レ物理小識ノ千年松ナリ(23)。
ここに記される「万纒草」は、『古名録』(1843)に掲載された万纒草の図(図6-1)があり、これはセン綱イトゴケ属(Barbella)であろ
う。同じく「高野ノマンネングサ」には、ヒカゲノカズラ科(Lycopodiaceae)植物と思われる図が描かれている。また「地衣ノ如キ細葉簇生ス」
とは、小葉がセン綱植物の葉と同じように細小であることをいったのであろう。これら「万纒草」「高野ノマンネングサ」の説明文から、小野蘭山が「地衣草」
をセン類綱植物と判断していたことが分かる。
小野蘭山以降の他の文献をみると、例えば、岩崎常正(灌園)『本草図譜』(1828)
の地衣草項でもセン綱らしき植物が描かれている(図6-2)。ここに『本草図譜』の地衣草項は、「一種、じやばらごけ」としてタイ綱
(Hepaticae)も描かれているが、これは付録である。したがって地衣草の主体が、セン綱植物であることに違いはない。上述の如く、江戸時代におけ
る地衣草・地衣は、漠然とした「こけ」の意味から、1800年頃を境としてセン綱植物を指す名称になったことが理解される。
3.小結
(ⅰ)「地衣」および「地衣草」は、平安時代に引用された中国医薬書に記されており、古くから日本人の目に触れることがあった。
(ⅱ)日本おける地衣という語句の初出文献は『医心方』(984) であり、地衣は車前(オオバコ)の別名として記述されていた。
(ⅲ)『本草色葉抄』(1284)には、『證類本草』から地衣・地衣草の生態・形態について引用されていた。これは前章で扱った「地衣」と同じ意味であ
る。
(ⅳ)中国の『嘉祐補注本草』(1060) 土馬騣項に記述された隠花植物の分類・命名法は、『万安方』(1315)と『炮炙撮要』(1581)
に引用されていた。
(ⅴ)日本における地衣草および地衣の認識は、19世紀初頭を境にセン綱植物 (Musci) を指す名称になった。
引用文献と注
(1)台湾故宮博物館蔵 森立之仿写 紅葉山文庫旧蔵 深江(根)輔仁『本草和名』第1巻 17葉。
(2)源順撰・狩谷棭斎注『箋注倭名類聚鈔』朝陽会、1921年。
(3)真柳誠「『本草和名』引用書名索引」『日本医史学雑誌』第33巻 第3号(1987年)381-395頁。
(4)惟宗具俊『本草色葉抄』内閣文庫、1968年、111頁。
(5)惟宗具俊『本草色葉抄』内閣文庫、1968年、116頁。
(6)「内閣文庫検索サブシステム」http://www2.archives.go.jp/。『本草色葉抄』の関連事項に、「漢音で音読された薬名の下
に二行の割注で本名に●、異名に○が加えられ、本草学上、国語学上貴重な資料といえる」とある(2003年11月現在)。
(7)梶原性全『万安方(全)』科学書院、1986年、598頁。「垣衣大苔之類也。在屋則謂之屋遊、瓦苔。在垣墻則謂之垣衣、土騣。在地則謂之地衣。在
井則謂之井苔。在水中石土則謂之陟釐」。
(8)国立国会図書館(白井文庫)所蔵『炮炙撮要』。当書の奥書によれば、白井光太郎が1902年とその翌年に、古書肆でこの『炮炙撮要』を発見したとい
う。したがって、『(初版)日本博物学年表』には載せられなかったが、『増訂日本博物学年表』には記載されている。しかし、上野益三『日本博物学史』およ
び磯野直秀『日本博物誌年表』には著録されていない。成書年は曲直瀬道三の跋記に天正9(1581)年とあることによる。
(9)『炮炙撮要』国立国会図書館(白井文庫)所蔵(配架番号
特1-499)。「今按河海交之石髪也。屋瓦苔曰屋遊、在垣墻曰垣衣、在地曰地衣、在井曰井苔」。
(10)真柳誠「『本草綱目』の日本初渡来記録と金陵本の所在」『漢方の臨床』第45巻 第11号(1998年)1431-39頁。
(11)真柳誠「『本草彙言』と烟草」『たばこ史研究』36号(1991年)1480-1488頁。
(12)『重修政和経史證類備用本草』南天書局、1976年、236-237頁。『経史證類大観本草』正言出版社、1977年、267-268頁。
(13)国立国会図書館(白井文庫)所蔵『炮炙撮要』。
(14)李時珍『本草綱目』科学技術出版社、1993年、第6冊 第21巻
3葉。「陟釐…集解…時珍曰…蓋苔之類有五、在水曰陟釐、在石曰石濡、在瓦曰屋游、在墻曰垣衣、在地曰地衣」。
(15)許俊等『東医宝鑑』台聯国風出版社、1977年、732頁。「地衣 {ᄯᅡ}해{ᄭᅵ}인잇기
性冷、微毒。主卒心痛、中悪○此陰湿地被日晒起苔蘚是也。大抵苔之類也。生屋則謂之屋遊、瓦苔。在垣墻則謂之垣衣、土騣。在地則謂之地衣。在井則謂之井
苔。在水中石上則謂之陟釐。本草」。
(16)K. Yokoyama, "Ainu name and uses for fungi, lichens and mosses"
Transactions of the Mycological Society of Japan, 16(1975): 183-189.
"They used different names for these groups according to substrate."
(17)中田祝生『多識編自筆稿本刊本三種研究並びに総合索引』勉誠社、1977年、108頁。「地衣草、古計」。『(新刊)多識編』(1631)も同じ
く、和名を「古計」とする。
(18)貝原益軒著・白井光太郎考註『大和本草』第1冊,春陽堂 364頁
(19)寺島良安『和漢三才図会』吉川弘文館、1906年、1394頁。
(20)『本草綱目』第6冊、科学技術出版社、1993年、第21巻
第5葉。「大明曰。陰湿地被日晒、起苔蘚也」。「大明曰」は、『證類本草』第1巻に「日華子諸家本草。国初開宝中、四明人撰。不著姓氏。但云、日華子大明
序…」とあることから『日華子本草』をさす。
(21)小野蘭山口授・小野職孝筆記『本草綱目啓蒙』東洋文庫、平凡社、1991年、第2巻131頁。
(22)小野蘭山口授・小野職孝筆記『本草綱目啓蒙』東洋文庫、平凡社、1991年、第2巻128頁。
(23)小野蘭山口授・小野職孝筆記『本草綱目啓蒙』東洋文庫、平凡社、1991年、第2巻134頁。
図の出典
図6-1 左図 畔田翠山著・正宗敦夫編纂『古名録』日本古典全集、日本古典全集刊行会、1935年、第3冊947頁(第26巻)。右図 同書
第3冊949頁
図6-2 『本草図譜』第37巻、同朋舎出版、1981年、第18-19葉。神宮文庫所蔵本の影印。