第3章 中国に
おける地衣の初出文献の検討 (2)
前章では、欧陽詢『芸文類聚』(624)
所引『列仙伝』に記載の「地衣」について考察した。一方で道蔵本『列仙伝』には「地衣」の記載がなく、しかも「地衣」の語句は現存する隋代以前の書に見い
だせなかった。ならば「地衣」は隋以前に存在しない語句で、成立当初の『列仙伝』にも記載されていなかったのであろうか。本章では諸書に引用される『金匱
録』『神仙服食経』という書の佚文について検討し、隋以前の文献における「地衣」記載の信頼性と、その意味する「物」について考察したい。
1.『金匱録』『神仙服食経』の記載
まず『本草綱目』(1593) に引かれる以下の『神仙服食経』佚文に注目したい。
『本草綱目』第16巻 車前項
発明…『神仙服食経』に、「車前は一名を地衣といい、雷の精である。服用すれば、肉体が変化し仙人となる。八月に取る」とあるが、今(明代)、車前は五月
に種子が成熟する。にもかかわらず、七、八月に採るとは、気候に違いがあるだけのことであろう(1)。
以上の如く、『神仙服食経』という書は車前 (オオバコ; Plantago spp.)
の異名として「地衣」を記すという。『本草綱目』における『神仙服食経』の引用は当文のみであり(2)、間接引用の可能性もあろう。そして『太平御覧』
(983) に以下の引用文がみい出された。
『太平御覧』第998巻 芣苢項
『神仙服食経』に、「車前の実は、雷の精である。服用すれば肉体が変化して仙人となる。八月に地衣を採取する。地衣とは車前の実のことである」とある
(3)。
この『神仙服食経』という書は現在に伝わらず、成立時期も不明である(4)。一方、『太平御覧』とほぼ同時期に日本で著された『医心方』(984)
にも、車前の別名に「地衣」を記す以下の引用文があった。なお当文中の割注は括弧内に記し、「地衣」を含む文には下線を引いた。
『医心方』第26巻 延年部
『金匱録』にこうある。「黄帝が授けられた真人中黄直の七禽食方(いま丹波康頼が按ずるに『大清経方』では七禽散と書かれている)…中黄直は、…こう言っ
た。「…毎年、7月7日に沢瀉を採る。沢瀉を与えた白鹿は八百歳まで生きる。8月1日に柏実を採る。柏実を与えた猨猴は八百歳まで生きる。7月7日に蒺藜
を採る。蒺藜を与えた騰蛇は二千歳まで生きる。8月に庵蘆を採る。庵蘆を与えた駏驉は二千歳まで生きる。8月に地衣を採る。地衣は車前の種子のことで、こ
れを与えた子陵は千歳まで生きる。9月に蔓荊実を採る。蔓荊実を与えた白鵠は二千歳まで生きる。11月に彭勃を採る。彭勃は白蒿のことで、これを与えた白
兎は八百歳まで生きる(5)」、と。
すなわち『金匱録』に記されていた「七禽食方」は『大清経方』なる書にも記述があり、毎年7種類の植物をそれぞれ所定の日時に採取し、服用すると長寿を
得るという方法である。地衣はこの7植物の一つで、車前の種子をさしている。しかし『金匱録』は『神仙服食経』同様、伝本がなく成書時期も不明につき、両
書の書誌についても検討すべきだろう。
2.『金匱録』『神仙服食経』の成立時期
歴代の芸文志・経籍志における『金匱録』『神仙服食経』の著録状況は次のようである。
『金匱録』の書名は、『隋志』(656) に「『金匱録』二十三巻 目一巻 京里先生」(6)、『宋志』(1345)
に「『金匱録』五巻」(7)として著録される。『旧唐志』(945頃)・『新唐志』(1044-1060頃)は、ともに「『金匱仙薬録』三巻
京里先生撰」を著録するが(8)、『金匱録』は著録されない。一方、『神仙服食経』の書名は『隋志』に十巻本が二つ(9)、『旧唐志』に「『神仙服食経』
十二巻 京里先生撰」(10)、『新唐志』に十二巻本(11)、『宋志』に一巻本(12)が、それぞれ著録される。
以上の如く、史書には『金匱録』『神仙服食経』ともに撰者を京里先生とする記載がある(13)。京里先生がいかなる人物かは分からないが、両書がその内
容の類似性とともに撰者も同じ人物であるという点は注目される。
一方、『金匱録』の佚文は『医心方』以外になかった(14)。『神仙服食経』の佚文は『太平御覧』『本草綱目』のほか、『斉民要術』(530年頃)
と『顔氏家訓』盧文弨注(15)(16世紀)にある。このうち『斉民要術』が最古で、次に古い『太平御覧』とは400年以上の差がある。さらに『斉民要
術』と『太平御覧』の『神仙服食経』佚文には、内容の直接的な一致がみられない。すると両書が引く『神仙服食経』は同一系統の書なのであろうか。
そこで、斉民要術』と『太平御覧』がそれぞれ引く『神仙服食経』佚文の関連性を検証したい。『斉民要術』蒿項に引かれる『神仙服食経』佚文と、前掲の
『金匱録』「七禽食方」を原文で以下に挙げ、比較してみよう。
『斉
民要術』第10巻 白蒿項
神仙服食経曰。七禽方。十一月采旁勃。旁勃、白蒿也。白兔食之、寿八百年
(16)。
『医心方』第26巻 延年方
金匱録云。…七禽食方…以十一月採彭勃、彭勃者、白蒿也。
白菟之加也、寿
八百歳(17)。
このように文体の違いはあるものの内容は大略一致し、ともに「地衣」を車前の別名として記載する。以上をまとめると、『太平御覧』が引く『神仙服食経』
は『金匱録』「七禽食方」と、車前の別名に「地衣」を記載する点で一致し、『斉民要術』が引く『神仙服食経』「七禽方」は、『金匱録』「七禽食方」とほぼ
一致する。ならば両書に引かれる『神仙服食経』は記載された内容も近く、同一の書と判断してよかろう。ならば「地衣」は、『斉民要術』に引用される『神仙
服食経』にも記載されていたといえよう。また以上の検討より、『神仙服食経』の成立は隋代よりさらに古く、『斉民要術』(530年頃)以前の時代まで遡る
といえよう。よって前章において、現存する隋以前の文献に「地衣」の記載をみい出せないと記したが、隋以前の佚文に「地衣」の記録があったことを明らかに
できた。
3.葛洪と『金匱録』『神仙服食経』
さらに『金匱録』『神仙服食経』は葛洪 (281-341)
との関連も疑われる。『医心方』所引の『金匱録』には「服菊方」と題して、いわゆる菊華水の話が記される。また当佚文と類似した記述が、『抱朴子』仙薬
篇、および『芸文類聚』菊項に引かれる『風俗通義』(後漢)佚文にもある。よってこれらの原文を比較してみよう。なお語句の対応関係を明瞭にするため、欠
字部位をハイフンで示した。
a.
『金匱録』 :南陽酈県山中有甘--谷水甘美所以爾者谷上左右皆生-菊菊華堕
b.『抱朴子』
:南陽酈縣山中有甘谷水谷水--所以甘者谷上左右皆生甘菊菊花墮
c.『風俗通義』:南陽酈県--有甘谷-谷水甘美--云其山上---大有
菊---
a.其中歴世弥久故水味為変其臨此---谷居民-皆不穿井悉食-谷水食谷
水者無
b.其中歴世弥久故水味為変其臨此---谷中居民皆不穿井悉食甘谷水食-
--者
c.-------水従山上流下得其滋液谷中-有三十余家不復穿井悉飲此
水上-
a.不寿考高者百四五十歳下者不失八九十無夭年者正是得此菊力---也漢
司空王
b.無不老寿高者百四五十歳下者不失八九十無夭年人-得此菊力---也故
司空王
c.--寿---百二三十中百余下七八十者名之大夭-菊華軽身益気故也-
司空王
a.暢太尉劉寛太尉袁隗皆曽為南陽太守毎到官常使酈県月送甘水三十斛以為
飲食此
b.暢太尉劉寬太傅袁隗皆-為南陽太守毎到官常使酈縣月送甘谷水四十斛以
為飲食
c.暢太尉劉寛太尉袁隗--為南陽太守聞有此事令酈県月送--水二十斛用
之飲食
a.-諸公多患風痺及眩冒皆得愈(18)。
b.此諸公多患風痺及眩冒皆得愈但不能大得大益如甘谷居民生小便飲食此水
者耳(19)
c.-諸公多患風--眩-皆得瘳(20)。
上述の如く『金匱録』と『抱朴子』は相当に一致する一方、両者は『風俗通義』佚文と大きく異なる。すると『金匱録』と『抱朴子』は同じ系統の書から引用
したか、どちらかがもう一方を引用した関係にあろう。他方、『抱朴子』に記された「菊華水」の逸話は、『金匱録』に載る話が終えた後も文が続くことから、
一見すると『金匱録』が『抱朴子』を引用したかのように思える。しかし『金匱録』の当文は『医心方』に引用された佚文であるから、『金匱録』の全体を伝え
ているわけでもない。『金匱録』と『抱朴子』の成立はどちらが早いのか、さらに精査する必要があろう。
ところで『抱朴子』『肘後備急方』には葛洪が自ら見たという書目が記されので、これを以下に挙げる。なお括弧内は援用した本田済の訳文にある注をそのま
ま転記したが、下線は筆者が引いた。
『抱朴子』雑応篇
私が見たものに戴覇・華他(華陀と同じ)の集めた『金匱緑嚢』、
崔中書(中書は官名)の『黄素方』、および百家のさまざまな処方五百巻ばかり、…がある。
世間の人はこれらの書物を、この上なく精密詳細だと思っているが、私が調べたところ、不備な点が多々ある。…私が著した百巻の書物、名づけて『玉函方』と
いう。すべて病名を分類して、同種のものは続けて記し、錯雑しないようにしてある。ほかに『救卒』三巻…(21)
『肘後備急方』葛洪自序
私は、仲景・元化・劉戴の『秘要』『金匱緑秩』『黄
素方』という書を千巻近く見た。…(22)
両書に挙げられた『金匱緑嚢』『金匱緑秩』は、ともに歴代の芸文志・経籍志に著録されない。しかも書名中の「緑」は「録」と字形が似ており、音も通じる
ことから(23)、『金匱録』との関連が疑われる。また前述の「菊華水」で明らかにした『抱朴子』と『金匱録』の関係を互考するなら、『抱朴子』に記され
た「菊華水」の逸話は『金匱録』から引用された可能性が最も高い。
ここで、あらためて史志の書目を見てみたい。『旧唐志』に「『太清神仙服食経』5巻。又1巻
抱朴子撰」(24)、『新唐志』に「『太清神仙服食経』5巻」と「『抱朴子太清神仙服食経』5巻」がそれぞれ著録される(25)。これらの書もやはり散佚
しており、その内容を知ることはできない。むろん各書に冠された抱朴子(葛洪)は仮託の可能性も否定できないが、少なくとも史書は、葛洪を撰者とする『太
清神仙服食経』なる書の存在を伝えている(26)。すると葛洪は『金匱録』に記された服食関連の内容を編録し、こうした書を著したと考えることもできる。
それゆえ、京里先生と抱朴子の名を冠した二種類の『神仙服食経』が存在するのかもしれない。以上の諸点から、『金匱録』は『抱朴子』以前に成立していた可
能性がき
わめて高いといえよう。
一方、上述の「服菊方」に登場する王暢(168年に司空を務める)(27)・劉寛 (119-185) (28)・袁隗
(?-190)(29)は、いずれも『後漢書』に記録された人物である。ならば『金匱録』の成立は後漢以降に違いない。
以上の検討から、『金匱録』は後漢以降、晋代以前に成立した可能性が最も高いと考えられ、『斉民要術』(530年頃)よりさらに古い文献に「地衣」の記
載をみい出せたことになる。また前章で挙げた『列仙伝』も、神仙思想を扱った書であった。つまり隋以前の文献において「地衣」は車前の別名として記述さ
れ、仙薬の一つであったといってよかろう。
4.小結
(ⅰ)『医心方』所引の『金匱録』および『太平御覧』所引の『神仙服食経』には、「地衣」を車前(オオバコ; Plantago
spp.)の別名する記載がある。
(ⅱ)『神仙服食経』の成立は『斉民要術』(530年頃)まで遡ることができる。
(ⅲ)『抱朴子』(317) 仙薬篇に記される「菊華水」の逸話は、『金匱録』から引用された可能性がある。
(ⅳ)『金匱録』は後漢以降、葛洪 (281-341) 以前の成立である可能性がきわめて高い。
(ⅴ) 前章の結論と (ⅳ) から、原来(葛洪以前)の『列仙伝』呂尚項に「地衣」の記載があった可能性を推定できる。
(ⅵ) 隋以前の文献において、「地衣」は神仙思想に関わる書に記されており、仙薬の一つであった。
引用文献と注
(1)李時珍『本草綱目』科学技術出版社、1993年、第5冊 第16巻
第37葉裏。「発明…按神仙服食経云。車前一名地衣、雷之精也。服之形化。八月採之。今車前五月子已老、而七八月者地気有不同爾」。
(2)鄭金生・王咪咪・楊梅香・張同君編『本草綱目索引』人民衛生出版社、1999年、605頁。
(3)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、4547頁。「神仙服食経曰。車前実、雷之精也。服之形化。八月採地衣、地衣者車前実也」。
(4)張志哲主編『道教文化辞典』江蘇古籍出版社、1994年、739頁。
(5)丹波康頼『半井家本医心方 (6)
』オリエント出版社、2341-2344頁。傍記・割注は括弧内に記した。「(巻26)延年方第一 金匱録云。黄帝所受真人中黄直七禽食方。(今案、大清
経号七禽散)黄帝齋(モノイミ)於懸圃、以造(イタル)中黄直。中黄直曰。子何為者(ナニスルモノソ)也。黄帝(ノ)曰。今案天下之主、願聞長生之道。中
黄直曰。子為(ヲサムル)天下久矣、而復求長生之道、不貪乎(ムサホラ)。黄帝曰。有(タモツ)天下実久(シ)矣、今欲躬(ミツカラ)耕(タガヘシ)而食
(クライ)、深居(ヰ)靖(シツカナル)処、禽獣為(シ)伍、無煩(ワツラハス)万民、恐不得其道、敢問治身之要、養生之宝。中黄乃仰而嘆曰。至(レルカ
ナ)哉、子之問也、吾将造七禽之食、可以長生、与天相保。子其秘(ヒセヨ)之、非賢勿(レ)与(アタフル)之。常以七月七日採沢写(ナマヰ)。沢写者、白
鹿之加也、寿八百歳。以八月朔日採柏実、柏実者、猨猴之加也、寿八百歳。以七月七日蒺藜、蒺藜者、騰蛇之加也、寿二千歳。以八月採庵蘆、庵蘆者、駏驉之加
也、寿二千歳。以八月採地衣、地衣者、車前実也、子陵之加也、寿千歳。以九月採蔓荊実、蔓荊実者、白鵠之加也、寿二千歳。以十一月採彭勃、彭勃者、白蒿
也、白菟之加也、寿八百歳。皆陰乾、盛瓦器中、封塗無令泄也。正月上辰日冶合下篩、令分等、美棗三倍諸草、美桂一分、置葦嚢中無令泄、以三指撮、至食后為
飲、服之百日、耳目聡明、夜視有光、気力自倍堅強、常服之、寿獘(ツヒヤス)天地」。なお原文中の「○○之加」の解釈については、本文に挙げた『斉民要
術』白蒿項に引く『神仙服食経』に、「白兔、之(白蒿)を食らわば神仙す」とあること、『名医別録』(『證類本草』第6巻)に「庵{艸+閭}子…駏驉之を
食らわば神仙す」とあることから、「○○之加」は「○○に与える」と解釈するのが妥当と思われる。また『晏子春秋』に、「吾君仁愛曽禽獣之加焉。而況于人
乎」と類似した用例があり、これを『漢文大系』は「吾君の仁愛すなわち禽獣の加はる。而るを況や人に于てをや」と訓じている(『漢文大系』第21巻、冨山
房、1916年、『晏子春秋』8頁)。類例は『埤雅』蒿項にもみえ、「仙経曰。白蒿、白兎食之仙」とある。
(6)『隋書』中華書局、1973年、1048頁。
(7)『宋史』中華書局、1985年、5307頁。
(8)『旧唐書』中華書局、1975年、2048頁。『新唐書』中華書局、1975年、1569頁。
(9)『隋書』中華書局、1973年、1043、1049頁。
(10)『旧唐書』中華書局、1975年、2048頁。
(11)『新唐書』中華書局、1975年、1569頁。
(12)『宋史』中華書局、1985年、5201頁。
(13)京里先生がいつ頃のどのような人物かについては、史書にも記載がなく未詳である。『(正統)道蔵』には撰者を京里先生とする『神仙服餌丹石行薬
法』(『正統道蔵』文物出版社・上海書店・天津古籍出版社、1988年、第6冊596-606頁)が収録され、その「神仙服食餌石」項は、『斉民要術』地
楡項に引かれる『神仙服食経』と内容が似ている。これは、京里先生と『神仙服食経』を結びつける傍証ともなる。『(正統)道蔵』には、さらに撰者を「京黒
先生」とする『神仙服食気金櫃妙録(神仙服食炁金櫃妙録)』も収載されている(『(正統)道蔵』文物出版社・上海書店・天津古籍出版社、1988年、第
18冊
459-465頁)。
(14)『金匱録』の佚文は『遐年要抄』(1260)(『続群書類従』第31輯上
所収、137下)にもある。しかし当佚文は『医心方』所引の『金匱録』とほぼ一致することから、間接引用と判断して除外した。
(15)顔之推撰・趙曦明注『顔子家訓・子略』台湾中華書局、1979年、『顔子家訓』第5巻
第10葉表。宋版『太平御覧』では「服之形化」に作るところを、当書は「服之行化」に作る。万暦刊本『太平御覧』(内閣文庫
364-128)も「服之行化」に作る。すなわち盧文弨が『神仙服食経』そのものではなく、後印本の『太平御覧』から引用したことが示唆される。
(16)後魏賈思勰原著、繆啓愉著『斉民要術校釈』農業出版社、1982年、645-646頁。
(17)丹波康頼『半井家本医心方 (6) 』オリエント出版社、1991年、2344頁。
(18)丹波康頼『半井家本医心方 (6) 』オリエント出版社、1991年、2353-2354頁。
(19)王明『抱朴子校釈』北京中華書局、1985年、205-206頁。
(20)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1390-1391頁。
(21)本田済訳注『抱朴子』東洋文庫、平凡社、1990年、313-314頁。「余見戴覇華、他所集金匱緑嚢、崔中書、黄素方、及百家雑方五百許巻…各
撰集暴卒備急方…」。
(22)葛洪撰『葛洪肘後備急方』人民衛生出版社、1963年、3頁。「抱朴子丹陽葛稚川曰。…省仲景、元化、劉戴、秘要、金匱緑秩、黄素方、近将千巻」
(王明『抱朴子校釈』北京中華書局、1985年、272頁)。
(23)藤堂明保『漢和大字典』学習研究社、1978年、1008、1384頁。「緑」「録」ともに上古音・中古音は同じ。
(24)『旧唐書』中華書局、1975年、2048頁。
(25)『新唐書』中華書局、1995年、1569頁。
(26)『太清神仙服食経』という書名は、『医心方』に記された『大清経方』(第1節参照)との関連も疑われる。『大清経方』は「七禽食方」を「七禽散」
に作ると丹波康頼が注記するので、『太清神仙服食経』と『大清経方』は近い関係にある書かもしれない。一方、『本草和名』所引の『大清経』に、車前子の別
名として「雷精」が挙げられる(台湾故宮博物館蔵 森立之仿写 紅葉山文庫『本草和名』第1巻
17葉)。『神仙服食経』も車前の別名を「雷精」としていたので、『大清経方』『大清経』と『神仙服食経』には何らかの関連性があろう。しかも『大清経
方』の「七禽散」は、『證類本草』白蒿項の陶弘景注に引用される『服食七禽散』(「服食七禽散云。白兎食之仙」)との関連が示唆される。『證類本草』槐実
項は、陶弘景『太清草木方(太清草木集要)』が引いて「槐木者、虚星之精…」と記す。陶弘景が『太清草木方』に『服食七禽散』を引用して記述したのであろ
うか。さらに『図経本草』地膚子項には『神仙七精散』が引かれ、「地膚子、星之精也」と記される。これは、『太平御覧』所引の『神仙服食経』に車前が「雷
之精」であると記述された点と類似する。これら一連の記載は、『金匱録』『神仙服食経』に起因するものかもしれない。
(27)『後漢書』中華書局、1965年、238-239頁。建寧元 (168) 年四月から八月まで司空を務めた人物。
(28)『後漢書』中華書局、1965年、886-888頁。「中平二 (185) 年卒、時年六十六」。
(29)『後漢書』中華書局、1965年、370頁。「董卓殺太傅袁隗」。