第2章 中国に おける地衣の初出文献の検討 (1)


 第1章ではLichenの訳語に地衣を用いた最初のテキストが、中国の『植物学』であったことを明らかにした。また『植物学』が、黎明期の日本近代植物 学に与えた影響の一端にも光を当てた。一方で三好学の「ライケン通説」以降、「地衣」がライケンに相当しないとする見解が度々出されていた。
 そもそも「地衣」はいつ頃から文献に現れ、それはどのような意味をもっていたのだろうか。そこで本章では「地衣」の初出文献と疑われる『列仙伝』につい て、道蔵本と『芸文類聚』の佚文を比較し、両書の関連性を検討したい。また道蔵本に記載がない仙人にも着目し、成立当初の『列仙伝』の旧姿も考察し、「地 衣」の初出文献を解明したい。


1.『列仙伝』の伝本と佚文


 「地衣」という語は、いつ頃から中国の文献に初めて現れるのだろうか。筆者はまず『佩文韻府』(1)(1711) や張廷玉ら『駢字類篇』(2)(1729)により、地衣という語句を記載した文献を探した。すると本草書の他に、漢詩や史書にも記載のあることが分かっ た。さらに台湾中央研究院のウェブサイト「漢籍電子文献」(3)などで検索し、地衣を記す文献を集めた。この結果、「地衣」を記した最も古い現存文献は 『芸文類聚』(624) との結論に達した。すなわち『芸文類聚』に以下のように記される。

『芸文類聚』第78巻 仙道項
『列仙伝』に…またこうある。呂尚は冀州の出身である。生まれつき未来を予知する能力を備え、生死の運命を予見した。殷の紂王の乱政を避けて、遼東に三十 年間、隠れ住んだ。西方の周の国に向かい、南山に隠棲した。卞谿で三年間、釣りをしていたが、まるで獲物がなかった。ある者が、「もう止めなされ」と言っ たが、呂尚は「お前さんにわかることではござらぬ」と答えた。やがて果たせるかな、大鯉を釣り上げた。その腹中に兵法の書物があった。沢芝・地衣・石髄を 服用し、二百年後に自分の死を予告して死んだ。葬ろうとしたが、遺体がなくなってしまっていた。棺桶の中には、ただ『玉鈐』という六篇の書物だけが残って いた(4)。

 以上のように『芸文類聚』が引く『列仙伝』には、呂尚が延命のため服用した薬物として「地衣」が挙げられている。
 現在、一般に底本とされる『列仙伝』は『(正統)道蔵』(1445) 所収本であるが(5)、この道蔵本には「地衣」の記述がない。ならば成立当初の『列仙伝』に「地衣」の記載があるのだろうか。『列仙伝』は清代の王照円・ 銭煕祚の校異をはじめ、福井康順(6)・沢田瑞穂(7)・前野直彬(8)・尾崎正治・平木康平・大形徹(9)・王叔珉(10)らによって研究されてきた。 ただし『芸文類聚』所引の『列仙伝』と道蔵本『列仙伝』との関係については、現在まで必ずしも十分に検討されているとはいえない。そこでまず、この関係を 考察したい。


2.『芸文類聚』所引の『列仙伝』と道蔵本『列仙伝』


 『芸文類聚』などの類書に引かれる『列仙伝』と、道蔵本『列仙伝』には一致しない記述が多い。例えば『芸文類聚』仙道に『列仙伝』から引用される淮南王 劉安の伝は、道蔵本にない。さらに劉安伝の他にも、『芸文類聚』の筆(11)・葱(12)・瓜(13)・白鶴(14)・鷰(15)・鴟(16)・鹿 (17)・鼈(18)の各項に引かれる『列仙伝』には、道蔵本にない仙人の伝がある。こうした異同は『太平御覧』(983) にも散見される。その所以を、前野直彬はこう述べる。なお下線は筆者が引いたものである。
類書の中に「列仙伝曰」と引用がありながら、現行の『列仙伝』のどこにも該当する部分が見当たらないのは、恐らく『列仙伝』が複数の著者を持っていたため であろう。劉向撰と題したもののほかは、類書の中に逸文をとどめるのみで、現在はまったく消滅した(19)。
 ここで「『列仙伝』が複数の著者を持つ」とする論拠の一つは、江禄が『列仙伝』を著したとする記録であろう(20)。では『芸文類聚』に引用された『列 仙伝』は、道蔵本と異なる系統なのであろうか。『芸文類聚』には、複数回引用されている仙人の伝がある。当該仙人では、赤松子(21)・王子喬・簫史 (22)・陶安公(23)が3回、甯封子・偓佺・葛由・安期先生・朱仲・赤須子(24)・負局先生が2回引用される。そこで、まず赤松子項の冒頭を比較し てみたい。なお語句の対応が明確になるよう、欠字部分は「-」で表わした。

道蔵 本『列仙伝』 :赤松子者神農時雨師也服水玉以教神農…(25)
『芸文類聚』雨項 :赤松子者神農時雨師也(26)
『芸文類聚』仙道項:赤松子-神農時雨師-服水玉-教神農…(27)
『芸文類聚』玉項 :赤松子-神農時雨師-服水玉(28)

 このように『芸文類聚』雨項に引かれる条文が道蔵本の冒頭と完全に一致するにもかかわらず、仙道と玉項では「者」と「也」の各字を欠くことがわかる。す なわち『芸文類聚』が利用した『列仙伝』の旧姿を正確に理解するには、重複する引用文も比較することが不可欠である。
 次に蕭史伝の全文を同様の方法で比較してみよう。

a. 道蔵本『列仙伝』 :蕭史者秦穆公時之人也善吹簫能致孔雀白鶴於庭穆公女字弄
b. 『芸文類聚』簫項  :簫史者秦穆公時-人-善吹簫能致孔雀白鶴--穆公女-弄
c. 『芸文類聚』仙道項:蕭史-秦繆公時---善吹簫能致白鵠孔雀---公女字弄
d. 『芸文類聚』鳳項 :簫史------------------------

a. 玉好之公遂以妻焉日教弄玉--作鳳鳴居数-年呼似鳳声来止其屋--公為作鳳台
b. 玉好之公--妻焉----------------------------
c. ------妻焉遂教弄玉--作鳳鳴居数十年--鳳皇来止其屋---為作鳳台
d. ---------教弄玉吹簫作鳳声------鳳皇来止其屋秦穆公為作鳳台

a. 夫婦止其上不下数年一日皆髄鳳皇飛去故秦人為鳳女祠於雍宮中時有簫声而巳(29)。
b. ---------一旦-随鳳-飛去故秦樓作鳳女祠-雍宮-世有簫声云-(30)。
c. 夫婦止其上不下数年一旦皆随鳳皇飛去故秦氏作鳳女祠-雍宮-世有簫声--(31)。
d. ---------一旦皆随鳳-飛去-----------------(32)。

 上掲の道蔵本の文字列で、『芸文類聚』所引『列仙伝』のいずれの文にも一致しない文字は、欠落も含めて15字であった。その15字には「者」「之」 「也」「於」「中」など、省略しても意味が変わらない文字が多い。つまり道蔵本『列仙伝』は、『芸文類聚』所引の『列仙伝』をほぼ内包しているのである。 また複数回引用される他の仙人についても、やはり同じ傾向にあった。
 したがって『芸文類聚』に引用された『列仙伝』には本来、道蔵本とほぼ同一の文をもつものであったと推定される。さらに前述した赤松子伝の比較から、 『芸文類聚』では『列仙伝』の同じ文を引用しながら、引用文に相違があった。これは『列仙伝』の条文を引用する際、一部が書き改められた可能性を示唆す る。そしてこれが、『芸文類聚』所引の『列仙伝』文と道蔵本文が相違する一因といえよう。


3.『芸文類聚』のみに見える仙人


 『芸文類聚』所引の『列仙伝』が道蔵本と同一系統の書であったとすれば、『芸文類聚』に記された道蔵本未収の仙人伝はどのように考えればよいであろう か。
 さて道蔵本は仙人を70名挙げるが、実際はもっと多かったと考えられている(33)。王照円は『列仙伝校正』を著す際、道蔵本の仙人70名に加え、『広 韻』羨の注から「羨門」、『芸文類聚』仙道から「劉安」の伝を補い、計72名とした。しかし羨門については、余嘉錫『四庫提要弁証』に「妄というべし」と 批判される(34)。劉安についても、『芸文類聚』が『神仙伝』劉安から引用しているのに、それを誤って『列仙伝』の条文とした、と王叔岷はみなしている (35)。
 一方、道蔵本『列仙伝』にない仙人が類書に引かれることについて、沢田瑞穂はこう述 べる。なお、括弧内は筆者の補足文である。
(『太平御覧』の)巻345・374・387・979の四条にわたって「列仙伝曰」として一条だけならともかく、別々に四条ともに「列仙伝曰」として後漢 の順帝の時の人で丁次卿という仙人の伝を引いている。一条だけならともかく、四条あるからには、一概に誤引であるともいえず、宋初には丁次卿を含んだ本が あったと考えるのが穏当であろう。本書が前漢劉向の撰だという前提からすれば、後漢順帝の時の人物が入っていては困るので、あっさり削ったということも考 えられる(36)。

 ここにある丁次卿という仙人について調査したところ、賈思勰『斉民要術』(530頃) に引用があり(37)、『芸文類聚』巻82葵では「丁次都」として『列仙伝』から引かれることがわかった。これらの佚文を前節と同様の方法で比較してみよ う

a. 『斉民要術』菜茹項:丁次卿------為遼東丁家作人丁氏嘗使買葵冬得生葵問
b. 『芸文類聚』葵項 :丁次都不知何許人-為遼東丁氏作人丁氏常使買葵冬得生葵問
c. 『太平御覧』葵項 :丁次都不知何許人也為遼東丁氏作人丁氏嘗使買葵冬得生葵問
d. 『太平御覧』刀項上:丁次卿不知何許人也漢順帝-売刀遼東市時名之丁氏次卿有宝
e. 『太平御覧』鬚髯項:丁次卿------漢順帝時人至娶婦家未見礼異婦出謁客鬚
f. 『太平御覧』唾項 :丁次卿-欲還峨眉山語主人丁民云当相為作漆以甖十枚盛水覆

a. 冬何得此葵云従日南買来。(38)
b. -何得此葵云従日南買来。(39)
c. 冬何得有葵云従日南買来。(40)
d. 刀。(41)
e. 髯鬱然其家謝之次卿挙手向婦鬚髯即去。(42)
f. 口従唾之一日日乃発皆漆添。(43)

 以上のように『芸文類聚』と『太平御覧』の各「葵項」に引かれる『列仙伝』は、それぞれ仙人の名を共に「丁次都」とし、同様の文が引用される。ならば 『太平御覧』の当文は『芸文類聚』からの間接引用と考えられよう。一方、『太平御覧』における残る三ヶ所の丁次卿伝は、現存する『斉民要術』『芸文類聚』 にみえない。したがって、やはり宋代初期の『列仙伝』に丁次卿伝があったと考えるべきだろう。つまり南北朝から宋代初期にかけて流布した『列仙伝』には、 丁次卿の伝が含まれていたと判断される。しかし、ここに大きな矛盾が生じた。『隋志』に劉向(前79-8)の撰とされる(44)『列仙伝』の文が、丁次卿 を順帝(在位125-144年)時代の人物として記載するという明らかな年代矛盾である。この問題について、尾崎らは以下の見解を示している。なお下線は 筆者が引いたものである。
『太平御覧』等の類書に、「『列仙伝』に曰く」とあるものは多い。なかには後漢の順帝の時の人まで含まれている。これは前漢の劉向撰と考えれば確かに不可 解だが、先にみた鬷の続伝を『列仙伝』を称しているのかもしれない(45)。
 ここにある「鬷の続伝」とは、『隋志』に「『列仙伝讃』三巻、劉向撰、鬷続、孫綽讃」と著録された『列仙伝』の「続編」をいう。ただし鬷がいつの人物か 明らかではない上、鬷が姓なのか名なのかもはっきりしない(46)。もしくは続伝ではなく、「鬷続」という人名かもしれないが、そのような人物は史書に残されていない。しかし「鬷の続伝」は『隋志』に記載があることから、鬷は少なくとも隋以前の人物である。したがって前述した『列仙伝』の異本、すなわち江禄『列仙 伝』(550年頃)には該当しない。
 ところで。、この江禄は南北朝時代 (420-589)の南朝・梁の人物で、兄の江曇が承聖初(552)年に亡ったと記録されている(47)。よって江禄『列仙伝』の成書時期は、『斉民要 術』(530年頃)と前後する。しかし『斉民要術』を著わした賈思勰はは北朝・北魏の人で、時間的、地理的に賈思勰が江禄『列仙伝』を用いた可能性は低い (48)。すると賈思勰が『斉民要術』で用いた『列仙伝』は、葛洪(281-341)がみた『列仙伝』と同系統だった可能性が高まる。では葛洪がみた『列 仙伝』に丁次卿の伝はあったのであろうか。それを知る手がかりとして、『抱朴子』の以下の文を挙げよう。

『抱朴子』論仙篇
劉向は、学問においては、微妙の域を極め、深遠な世界を探り、思索においては、物の真偽を見分け、事の有無を明らかにした人である。劉向が編纂した『列仙 伝』には七十人余りの仙人を載せる。すべて記録によるか、昔からの伝聞によるか、しかない。ここに『列仙伝』というはっきりした記録がある以上、仙人は必 ず有る(49)。…

 上記のごとく、葛洪は『列仙伝』を劉向の撰と信じて疑わない。もし、葛洪のみた『列仙伝』に丁次卿伝の記載があれば、『抱朴子』において何らかの弁解を する必要があったであろう。しかし現伝する『抱朴子』に『列仙伝』丁次卿伝に対する言及はみられない。もし葛洪がみた『列仙伝』に丁次卿伝の記載がなかっ たとすれば、「鬷の続伝」で加えられた仙人と考えることもできよう。
 以上をまとめると、『芸文類聚』所引の『列仙伝』は『(正統)道蔵』『太平御覧』『斉民要術』に各々関連性が認められ、すべて同一系統に帰属するといえ る。ただ後世に仙人が加わったり、伝本にいくつかの系統があったりした可能性はありうる。そして宋代以前の『列仙伝』は丁次卿の伝を含んでいたのである。


4.呂尚伝の検討


 では、呂尚の伝はどうであろうか。前述のごとく『芸文類聚』所引本と道蔵本に呂尚の伝があった。これに加えて、『初学記』(713-741)・『太平御 覧』・『説郛』(1368頃)に引かれる『列仙伝』にも呂尚伝の佚文がある。各書に記された呂尚の文章を前節と同じ形式で比較してみたい。

a. 道蔵本『列仙伝』 :呂尚者冀州人也生而内智予見存亡避紂之乱隠於遼東四十
b. 『芸文類聚』仙道項:呂尚-冀州人-生而内智予知存亡避紂-乱隠-遼東三十
c. 『太平御覧』釣項 :呂尚-冀州人---------避紂-乱------
d. 『太平御覧』鯉魚項:呂尚-----------------------
e. 『説郛』列仙伝  :呂尚者冀州人也--------避紂-乱隠於遼---

a. 年西適周匿於南山釣於磻渓三年不獲魚比閭皆曰可-巳矣尚曰非爾所及也巳而果
b. 年西適-隠於南山釣於卞谿三年不獲魚--問曰可以止矣尚曰非爾所及也--果
c. --------釣于卞渓三年不獲魚比嫗聞曰自可止矣公曰非爾所-也--果
d. --------釣於磻渓三年不獲-比-周曰-可止矣尚曰非爾所及---果
e. -西-周----釣於磻渓(50)。

a. 得---兵鈐於魚腹中文王夢得聖人聞尚遂載而帰至武王伐紂嘗作陰謀百余篇
b. 得大鯉有兵鈐在-腹中------------------------
c. 獲大鯉得兵鈐於魚腹中------------------------
d. 得大鯉有兵鈐在-腹中(51)。

a. 服沢芝地--髄具二百年而告亡有難而不葬後子伋葬無尸唯玉鈐六篇在棺中云(52)。
b. 服沢芝地衣石髄-二百年而告亡--------葬之--兵鈐六篇在棺中(53)。
c. -------------------後--葬無尸唯玉鈐六篇在棺中(54)。

 上述の文字の異同を集計すると、道蔵本にあって『芸文類聚』にない文字が約34%、文字の相違と『芸文類聚』のみにみえる字句の合計が約10%となる (55)。つまり道蔵本と『芸文類聚』それぞれの呂尚項にある文字は、過半数が語順を含めて一致する。道蔵本にあって『芸文類聚』にない34%の文字につ いてみると、神仙思想に直接関わらない内容、例えば「文王夢得聖人~陰謀百余篇」等がとくに欠如している。さらに前述の赤松子項と同様、「者」や「也」な ど省略しても意味が大きく変わらない文字の欠落も多い。すると『芸文類聚』を編纂する際、項目(呂尚なら「神仙」)に則した内容を抜抄し、かつ出来るだけ 文字数を少なくするため文字を削除した可能性が疑われる。他本も道蔵本の文の内に収まることから、道蔵本と近い系統の『列仙伝』を用いたと推定してよいだ ろう。
 また葛洪『抱朴子』釈滞篇において、当時の『列仙伝』に記されていたらしい仙人の名が挙げられていたが、そこには「呂望(呂尚)」の名もある(56)。 ならば葛洪がみた『列仙伝』にも、呂尚が記されていたのではあるまいか。


5.『芸文類聚』にのみ見える文字

 これまで考察したように、道蔵本『列仙伝』は宋以前の『列仙伝』にあった文を完全に伝えていない可能性が高い。一方、『芸文類聚』所引『列仙伝』も引用 時に文を書き改められた痕跡があることから、素直に信用することはできない。では前節で示した『芸文類聚』にのみ見える「衣石」の2字の字句は、どのよう に考えればよいだろうか。文字の相違について、福井康順はこう指摘する。

列仙伝は、宋初にあつてほぼ今本の体裁をなしているらしく、但し全文の上には字句の出 入があることだけは蔽いがたい。…字句の出入は、列仙伝の推移を通じ て、常に見いだされることは、上述し来つたところによつても自ら知られるが、現に南宋の志盤の仏祖統紀は、当時に刊行した列仙伝の老子伝が化胡の二字を入 れていることをば摘出して非難している(57)。詳しくは、統紀巻三十五に譲るが、顧みるに、これに類似している作為は、列仙伝には、古く六朝の当時から して行われていたものであって…(58)。

 すなわち、文字の付加があったとすれば、呂尚の条文において後世に「衣石」の2字が欠落した可能性だけでなく、「衣石」の2字が加えられた可能性も考え られる。ちなみに道蔵本『列仙伝』に記される「列仙伝讃」には、「芝髄で身を練す」(蓮の実と鍾乳石とでからだを鍛える)とある(59)。道蔵本に残る 「列仙伝讃」は孫綽と郭元祖のどちらかの作と考えられているが、現在のところはっきりしていない。少なくとも『隋志』に著録されることから、隋以前には存 在したと考えられる。この道蔵本「列仙伝讃」の「芝髄」を、「沢芝」「地髄」の省略と考えれば問題はない。しかし『芸文類聚』に従って「沢芝」「地衣」 「石髄」を服したと考えると、賛の「芝髄」に「地衣」は含まれておらず、本文と讃に違いが生じる。そのため隋以前の『列仙伝』では「沢芝・地髄」となって いたのではないかという推測もできる。しかし道蔵本『列仙伝』の文賓伝をみると、本文には「菊花・地膚・桑上寄生・松子を服す」とありながら、讃では 「松・菊をこもごも服し…(60)」とある。このように『列仙伝』の伝と賛における薬物名とは、必ずしも一致していない。したがって「列仙伝讃」の「芝 髄」は、呂尚が服用したとされる薬物が「沢芝・地髄」であったとする論拠になりえないだろう。
 一方、『列仙伝』に収載された薬物名で『神農本草経』上薬に共通した記載があるものは5割を超え(61)、「地髄」も『神農本草経』上薬に乾地黄の別名 として記載される(62)。しかし「地衣」「石髄」は、ともに『神農本草経』にみえない。ただし「石髄」は、道蔵本『列仙伝』卭疏に石鐘乳のこととする記 述がある(63)。この石鐘乳は『神農本草経』上薬に記載される薬物名である。
 このように「地衣」という薬物名は『列仙伝』を除くならば、隋以前の文献に直接見いだすことはできない。ならば「地衣」は成立当初の『列仙伝』に記され ていなかったのであろうか。そこで次章では『金匱録』『神仙服食経』という書の佚文を検討し、隋以前の文献における「地衣」記載の可能性を考えたい。


6.小結


(ⅰ)「地衣」は『芸文類聚』所引の『列仙伝』呂尚伝に記載されるが、『(正統)道蔵』所収本に記載されない。
(ⅱ)両者の字句比較からすると、『芸文類聚』所引の『列仙伝』と道蔵本は同一系統の可能性が高い。両者の記載に差が生じた一因に、『芸文類聚』の編纂時 に原文の一部を削除して引用した可能性が推定された。
(ⅲ)「丁次卿」という仙人は後漢の人物で、道蔵本『列仙伝』に記載がない。しかし『斉民要術』(530頃) の頃から『太平御覧』(983) の頃まで流布した『列仙伝』には「丁次卿」の伝があったと推定された。


引用文献と注


(1)『佩文韻府』上海書店、第1冊 206頁(第5巻「衣」部)。王建「宮詞」、薛濤詩、『本草(綱目)』『茶譜』の4出典が挙げる。うち『茶譜』について、『中国古代茶葉全集』(阮浩耕・ 沈冬梅・于良子点校注釈、浙江撮影出版社、1999年)所収の複数の『茶譜』(編者は毛文錫・桑荘・朱権・銭椿年・孫大綬)を調べたが、『佩文韻府』所載 文はなかった。
(2)『駢字類篇』北京市中国書店、1984年、第1冊 第15巻 第12葉。当書は『唐書』曹確伝・『宋史』豊稷伝・「花蕊夫人宮詞」(2句)・張昱「柳花詞」の5出典が挙げる。
(3)台湾中央研究院「漢籍電子文献」http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/ (2003年11月時点、無料ページのみ利用)。
(4)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1327頁。現代語訳は尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞中国の古典 9、角川書店、1988年、186-187頁を参考にし、『芸文類聚』と一致しない語句は筆者が改めた。
(5)『正統道蔵』文物出版社・上海書店・天津古籍出版社、1988年、第5冊 65-76頁。
(6)福井康順「列仙伝考」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第3号(1957年)1-17頁。
(7)本田済・沢田瑞穂・高黒三良『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』中国古典文学大系 第8巻、平凡社、1969年、561-570頁。
(8)前野直彬『山海経・列仙伝』全釈漢文大系33、集英社、1975年、621-633頁。
(9)尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞中国の古典9、角川書店、1988年、147-156頁。
(10)王叔岷『列仙伝校箋』中央研究院中国文哲研究所籌備所(台湾)、1995年。
(11)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1054頁(第58巻)。「列仙伝曰。李仲甫、潁川人。漢桓帝時、売筆遼東市上。一 筆三銭。有銭亦与筆、無銭亦与筆」。
(12)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1418頁(第82巻)。「阮丘。蛆山上種葱。百余年乃去」。
(13)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1503頁(第87巻)。「漢者、南郡偏人。居山門、仙人従買瓜、教之練瓜。与附子 桂実、共蔵春花服之。一年飛登山入水、聞往来海辺諸洞中。仙人博賭瓜、黄瓜数千頃。令暝耳、乃上方丈山」。
(14)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1565頁(第90巻)。「「蘇耽。去後、忽有白鶴十数隻。夜集郡東門楼上、一隻口 画作書字。言曰、是城郭。人民非。三百甲子当復帰。咸謂是躭」。
(15)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1596-1597頁(第92巻)。「簡狄。帝嚳次妃、有娀之女也。姉浴於玄丘之 水。有玄鳥銜卵而墜。五色甚好、相与競取。簡狄得而呑之、而生卨」。
(16)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1601頁(第92巻)。「季仲甫。夜臥床上、或為鴟鳥。後至沓県巨山上。候北風、 当飛度南海。山上有羅鷹者、羅得鴟。視之仲甫也。後留更三年、自云往崑崙山」。
(17)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1648頁(第95巻)。「蘇躭与衆児倶戯獵、常騎鹿。鹿形如常鹿。遇嶮絶之処、皆 能超越。衆児問曰、何得此鹿騎而異常鹿耶。答曰、龍也」。
(18)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1670頁(第96巻)。「費長房、能使社公。汝南有妖、常作太守服。詣府門椎鼓、 合郡患之。及長房来、知是魅、乃呵之。即解衣冠、叩頭乞自改。即老鼈也。大如車輪、長房令復太守服、作一札勑葛陂君、叩頭流涕、持札去。遂視以札立陂辺、 以頸焼之而死」。当文は『神仙伝』壺公伝にも類似文があるので、『神仙伝』からの引用の可能性がある。また『後漢書』方術列伝に費長房の伝があるので、費 氏は後漢の人物である。
(19)前野直彬『山海経・列仙伝』全釈漢文大系33、集英社、1975年。
(20)本田済・沢田瑞穂・高黒三良『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』中国古典文学大系8、1969年、563-564頁。『南史』(中華書局、 1975年、945頁)に、「(江)禄字彦遐…卒撰列仙伝十巻、行於世」とある。
(21)『芸文類聚』所引の『列仙伝』に赤松子の伝は4カ所ある。しかし、このうちの一カ所(上海古籍出版社本『芸文類聚』1515頁、「列仙伝云。赤松 子好食柏実、歯落更生」)は道蔵本の赤松子伝の文とまったく一致しない。一方、道蔵本の赤須子伝に、「赤須子者…好食松実天門冬石脂、歯落更生…」とあ る。この一カ所は赤須子の文であろう。これにより、本稿では赤松子伝の引用回数を3回とした。
(22)『芸文類聚』簫項・鳳項に引かれる『列仙伝』では仙人の名称を「簫史」に作るが、条文は道蔵本『列仙伝』蕭史伝と類似する文なので、仙道項(「蕭 史」に作る)とあわせて三カ所とした。
(23)『芸文類聚』仙道項(第78巻)に引かれる『列仙伝』では仙人の名称を「陶公」に作るが、条文は道蔵本『列仙伝』陶安公項と類似するので、これを 加えて3カ所とした。
(24)『芸文類聚』柏項(第88巻)に引かれる『列仙伝』は仙人の名称を「赤松子」に作るが、赤須子伝からの誤引と考えられるので、「赤須子」として引 用数に加えた。
(25)『正統道蔵』文物出版社・上海書店・天津古籍出版社、1988年、第5冊64頁。
(26)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、27頁(第2巻)。
(27)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1328頁(第78巻)。
(28)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1428頁(第83巻)。
(29)『正統道蔵』文物出版社・上海書店・天津古籍出版社、1988年、第5冊69頁。
(30)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、790-791頁(第44巻)。
(31)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1327頁(第78巻)。
(32)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1558頁(第90巻)。
(33)福井康順「列仙伝考」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第3巻(1957年)7-8頁。
(34)余嘉錫『四庫提要弁証』下冊、香港中華書局、1974年、1203頁(第19巻「列仙伝」)。尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞 中国の古典9、1988年、154頁。
(35)『神仙伝』劉安伝の一部と類似することから、『芸文類聚』が『神仙伝』劉安伝を引いた際、誤って『列仙伝』の文としてしまったと、王叔岷は推測す る(王叔岷『列仙伝校箋』中央研究院中国文哲研究所籌備所、1995年、168頁)。
(36)沢田瑞穂ら『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』中国古典文学大系8、1969年、563頁。
(37)『斉民要術』における『列仙伝』の引用は、種芋項に「酒客為梁。使烝民益種芋。三年当大飢。卒如其言、梁民不死」(『斉民要術校釈』122頁)、 第10巻薤に「務光服蒲薤根」(『斉民要術校釈』625頁)がある。酒客は『太平御覧』所引の『列仙伝』にもみえ、務光は道蔵本および『芸文類聚』所引の 『列仙伝』にもみえる。
(38)賈思勰原著・繆啓愉校釈『斉民要術校釈』農業出版社、1982年、625頁。
(39)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1417頁(第82巻)。
(40)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、4470頁(第979巻)。
(41)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、1718頁(第345巻)。
(42)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、1855頁(第374巻)。
(43)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、1918頁(第387巻)。当書は「丁民」の2字が空白になっている。内閣文庫所蔵の万暦刊『太 平御覧』(配架番号364-128)によって「丁民」を補った。なお、万暦刊本では「唾之一日日乃発皆漆添」を「之百日乃発皆成漆」に作る。
(44)『隋志』(『隋書』中華書局、1973年、979頁)に、「『列仙伝讃』三巻、劉向撰、鬷続、孫綽讃」と「『列仙伝讃』二巻、劉向撰、晋郭元祖 讃」が著録される。
(45)尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞中国の古典9、講談社、1988年、154頁。
(46)尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞中国の古典9、講談社、1988年、153頁。
(47)『南史』中華書局、1975年、945頁。「(江)禄字彦遐…卒撰列仙伝十巻、行於世」。江禄は江夷の曽孫で、兄に江蒨・江曇がいる。『南史』に よれば、その江曇が承聖初 (552) 年に亡った(中華書局、944頁、「蒨弟曇字彦徳、…承聖初卒。曇弟禄。…」)とあるから、江禄は550年前後の人物と考えられる。
(48)『太平御覧』には『列仙伝』以外に『桂陽列仙伝』なる書が引用される。この桂陽は南朝・梁の領内にあった。とすると江禄『列仙伝』は、『太平御 覧』に引かれる『桂陽列仙伝』と同系統の書かもしれない。
(49)本田済訳『抱朴子内篇』東洋文庫、平凡社、1990年、29頁。王明『抱朴子校釈』北京中華書局、1985年、16頁。「劉向博学則究微極妙、経 深渉遠、思理則清澄真偽、研覈有無。其所撰列仙伝、仙人七十有余、誠無其事、妄造何為乎。邃古之事、何可親見、皆頼記籍伝聞於往耳。列仙伝炳然其必有 矣」。
(50)『説郛』内閣文庫所蔵(配架番号370-29) 第60冊、列仙伝 第2葉。『五朝小説』内閣文庫所蔵(配架番号371-11)、「魏晋小説」第4巻所収の『列仙伝』第2葉にも呂尚伝があるが、説郛本と同文。
(51)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、4292頁(第936巻)。
(52)『説郛』内閣文庫(配架番号370-29 )第60冊・列仙伝第3葉。『五朝小説』魏晋小説 第4巻 列仙伝 第3葉も同文。
(53)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1327頁。
(54)李昉ら『太平御覧』台湾商務印書館、1980年、3854頁(第834巻)。
(55)『芸文類聚』呂尚にあって、道蔵本に欠落している6字を道蔵本の呂尚の文字数に加えた数を母数(130字)とし、相違・欠落のある文字数の割合を 計算した。
(56)福井康順「列仙伝考」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第3巻(1957年)9頁。王明『抱朴子校釈』北京中華書局、1985年、135頁。 「抱朴子答曰…昔黄帝荷四海之任、不妨鼎湖之。挙彭祖為大夫、八百年然後西適流沙。伯陽為柱史。甯封為陶正。方回為閭士。呂望為太師。仇生仕於殷、馬丹官 於晋。范公霸越而泛海。琴高執笏於宋。康常生降志於執鞭」。
(57)『仏祖統紀』内閣文庫所蔵(配架番号 子194-19)第35巻「法運通塞第十七之二」第5葉、一字下げで、「案翻訳名義云…呉志以此推之、則内伝真是漢時、非晋人造文操之、妄論敗矣。此与夫 列仙伝加化胡字同一、謬詐是亦文操之所加乎」とある。
(58)福井康順「列仙伝考」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第3集(1957年)14頁。
(59)尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞中国の古典9、角川書店、1988年、188頁。
(60)尾崎正治・平木康平・大形徹『抱朴子・列仙伝』鑑賞中国の古典9、角川書店、1988年、307-309頁。
(61)大形徹「『列仙伝』にみえる仙薬について」『大阪府立大学人文学論集』第6集(1988年)61-79頁。道蔵本(70人)に基づき、『列仙伝』 に収載された薬物を50種挙げ、うち『神農本草経』にも収録されている薬物が33種、その上薬に収められている薬物が33種中26種にのぼるという。
(62)孫星衍・孫馮翼が復元した『神農本草経』(1799) に「乾地黄…一名、地髄」とあり、続けて道蔵本『列仙伝』呂尚項に「地髄」の記述があることを引く(魏呉普等述・清孫星衍等輯『神農本草経』上薬、台湾中 華書局、1975年)。『爾雅』郭璞注にも「芐、地黄。一名、地髄。江東人呼芐」とある。『山海経・列仙伝』(前野直彬、全釈漢文大系33、集英社、 1975年、652頁)に、「地髄という薬は他の文献にみえないので、地衣・石髄としたほうが通じやすい」との注記があるが、これは誤りであると思われ る。
(63)『正統道蔵』文物出版社・上海書店・天津古籍出版社、1988年、第5冊67頁。「卭疏者、周封史也。能行気錬形、煮石髄而服之、謂之石鐘乳、至 数百年。往来入太室山、中有臥石牀枕焉」。