「柏(ハク)」と「カシハ」にみる中日文化

長岡美佐

はじめに

 日本人は独自に日本語(やまと言葉)という意志伝達の手段を作り上げはしたが、同時に独自の文字を獲得することはできなかった。そして、中国の文字(漢字)を輸入し、日本の言葉をあて、日本の文化に取り込んでいった。この過程において、もちろん日本人は当時の中国語を理解しようとつとめ、研究し、適当とおもわれる日本語を漢字にあてていったはずである。しかしながら、それらは必ずしも適当ではなかったであろうし、また、適当であってもそれが正確に、変わらずに大衆に受け入れられたかどうかとなると、そうは言いきれない。たとえば、早くは一二八四年頃の惟宗具俊『医談抄』においてすでに、椿は和名をツバキといい、鮎はアユというが、この二例の和名のつけかたについて疑問を提している[1]。

 ここで取り上げる「柏」と「カシハ」にも、そういった中日間の相異がある。中国でいう「柏」と、日本でいう「柏(カシハ)」とは、指している植物が全く異なるのである。簡単に言えば、中国の「柏」は常緑樹であるのに対し、日本の「柏(カシハ)」は落葉樹である。しかしながら現在、日本で「柏」と言えば落葉樹の「カシハ」のことであるとして広く認識されている。では、この違いはなぜ、どうして起こってしまったのか。全く別の樹木を指すはずの「柏」字が、日本語の「カシハ」とどうして結びついてしまったのか。本稿はこれらの疑問に、中国・日本両国における「柏」および「カシハ」の用途とその持つイメージを明らかにすることで、一つの答えを提示してみようと試みるものである。

 しかし本稿の構想がおおよそまとまった段階で、問題意識も研究法もほとんど同じ先行論文を見つけてしまった[2]。結論や論旨がほぼ同じになってしまうかともおもわれるが、本稿によって何か一点でもこの「柏」と「カシハ」に関する問題を解決するための糸口がつかめれば、とおもい、研究を続けることとした。

 なお本稿での漢字は論旨上で不可欠な場合を除き、固有名詞も含め一律に常用漢字・人名用漢字のJISコード文字を用い、それらにない文字は正字に改めた。

第一章 中国における「柏」

第一節 中国古典における「柏」

 まず、「柏」とはそもそも如何なるもので、どのような意味をもっていたのかを知らねばならない。古代中国人は「柏」という言葉・文字とその示す樹木とをどのように認識し、どのようなイメージを持っていたのか。以下に中国古典よりその用例を挙げ、考察を試みる。

 1 厥貢、羽毛歯革、惟金三品、{木+屯}幹{木+舌}柏(『書経』禹貢 第六節 荊州)[3]

 2 夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗(『論語』八{ニンベン+八+月}第三)[4]

 3 受命於地、惟柏独也正、冬夏青青(『荘子』内篇 徳充符第五)[5]

 4 子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也(『論語』子罕第九)[6]

 5 青青陵上松 亭亭高山柏 光色冬夏茂 根柢無凋落(「遊仙詩」何敬宗『文選』)[7]

 6 部婁無松柏(『春秋左氏伝』襄公二十四年)[8]

 7 松柏隆冬悴 然後知歳寒(「臨終詩」欧陽堅石『文選』)[9]

 8 飲石泉兮 蔭松柏(「九歌」山鬼『楚辞』)[10]

 9 方学松柏隠 羞逐市井名(「従冠軍建平王登廬山香炉峰」江文通『文選』)[11]

 10如松栢茂 無不爾或承(「天保」『詩経』小雅)[12]

 11皇恩雪憤懣 松柏含栄慈(「竄夜郎於烏江留別宋十六?」李白)[13]

 12古墓犂為田 松柏摧為薪(「古詩十九首」十四『文選』)[14]

 13独傷千載後 空余松柏林(「謁老君廟」李白)[15]

 14孔明廟前有老柏 柯如青銅根如石(「古柏行」杜甫『唐詩三百首詳解』)[16]

 15栢椁以端長六尺(『礼記』檀弓第三上)[17]

 16范献子去其柏椁(『春秋左氏伝』定公元年)[18]

 17陟彼景山 松栢丸丸 是断是遷 方{[留-田]+亞+斤}是虔 松桷有梃 旅楹有閑(「殷武」『詩経』商頌)[19]

 18凡彼栢舟 亦凡其流(「栢舟」『詩経』{北+オオザト}風)[20]

 19長幼悉正衣冠以次拝賀、進椒柏酒、飲桃湯、進屠蘇酒(『荊楚歳時記』正月一日)[21]

 20麝食柏而香({禾+尤+山}叔夜「養生論」『文選』)[22]

 21赤松子好食柏実、歯落更生(『列仙伝』)[23]

 22時珍曰、柏性後凋而耐久、稟堅勁之質、乃多寿之木、所以可入服食、道家以之点湯常飲、元旦以之浸酒辟邪、皆有取於此(『本草綱目』柏 発明)[24]

 23采当年新生柏葉長二三寸者、陰乾為末、白蜜丸如小豆大、常以日未出時焼香東向、手持八十一丸、以酒下、服一年、延十年命、服二年、延二十年命(『本草綱目』柏 服松柏法)[24]

 1からは「柏」が貢物として納められたことがわかる。また2では周人が社(社稷)に「柏」を植えていたことがうかがえる。以上1と2の用例は、共に何の樹でも良いという類のものではない。こういった用途に用いられる「柏」樹は、古代中国人にとって何か特別な意味合いを持つ樹木だったのではないかと想像される。

 3では「冬夏青青」といい、4では「後彫」、5は3の『荘子』の例をふまえた表現であり、「光色冬夏茂、根底無凋落」といっていることから、「柏」樹は冬にも枯れ落ちず青青としている常緑樹であることがわかる。この3から5は「柏」樹のそうした常緑樹であるという性質を強調した用例であるといえよう。

 5からはまた、冬にも青々とした葉をつけている「松柏」を、周囲の状況が変わっても態度を変えないという、節度の堅さや世俗を超越した清い心の象徴としてもとらえていることがわかる。6は言葉どおりに受け取れば「小さな岡には松柏の大木は無いものだ」となるが、これを前後の文脈に沿って訳すと、「小国には松柏のような大人物はいないものだ(だから気を緩めるな)」という戒めの言葉になる。また7は「松柏隆冬悴」と、「松柏」の常緑の性質と矛盾しているようにおもわれるが、これを文意に沿って訳せば「松柏のような忠良の臣も害されてしまった」という悲嘆の言葉となる。「松柏」は常緑樹の代表であるというイメージから、節度の堅さや立派な人物のたとえとしても通用するようにとその持つイメージの幅を広げているのである。

 8は、世俗を超越した清い心というイメージからさらに発展させて「松柏」を神仙と関連させている。9の例も、8をふまえた同種の例とみることができる。

 10には「如松栢之枝葉常茂盛青青相承無衰落也」という『鄭箋』があり[12]、松柏が常緑でよく茂るため、子孫繁栄の象徴としてとらえられていたことがわかる。11も「松柏含栄慈」といい、松柏を家の繁栄の象徴として用いている。

 12から14の用例は墓地や廟前に植えられた「松柏」・「柏」の描写である。ここでは墓地・廟前の「松柏」という全体について触れておきたい。墓地・廟前に植えられた「松柏」「柏」は、古典における「柏」字の用例の中で一つの特徴に数えられるほど多い。たとえば『文選』では、全巻とおして三五例ある「柏」字の用例中、墓地・廟前の樹として描かれているとはっきりわかるものだけでも一一例にのぼる。ということはつまり、当時の中国において「松柏」や「柏」を墓地・廟前に植えるという習慣が広く一般に行われていたということである。ではなぜ、そういった習慣が行われるようになったのだろうか。ここにこの問題について触れている論文がある。以下にその該当部分を要約してみる。

 (上略)…社は土地の主であり、すなわち社は礼地が神になる象徴である。(中略)先秦時代、社稷には樹木が必要であり、宗廟も木主(位牌のこと)がある。(中略)『白虎通』には「先祖之神無所凭依、孝子以表示尊宗之心」(中略)朱熹の『四書集注』では「哀公問社」の注釈に「古者立社、各樹其土之所宜木以為主也」(中略)とある。ここからも明らかなように、社稷と宗廟は皆木を以て主としていた。『淮南子・斉俗訓』には「周人葬樹柏」とあり、(中略)『漢書・東方朔伝』には「柏者、鬼之廷」(中略)とあり、顔師古は「言鬼神尚幽暗、故以松柏之樹為廷府」(中略)と注釈している。(中略)したがって、墓地に松柏を植えることはこれを鬼神の廷府と見なすことであり、松柏を以て宗廟の木主とし、しかも祖先神のよりどころと視することと同じ主旨を受け継いでいるのである。(中略)即ち墓地に松柏を植えるのは、ただ墓の標識とするだけはなく、そこに古代人の信仰が含まれていると考えられるのである。(以下略)…

                   「類似のなかの相違:日中文化比較研究―(1)日中両国の松信仰―」より[25]
 これによれば 古代中国において社稷や宗廟には樹木が必要であり、その樹木には「松柏」などが多用され、また墓地に「松柏」を植えることはこれを鬼神の廷府とみなし、祖先神のよりどころとすることであった。では何故、その重要な樹に「松柏」が選ばれたのだろうか。それはやはり、これまでみてきたように、常緑で冬にも枯れないという永遠性・不変性、繁栄の象徴としての面や神秘性などが尊ばれたからではないだろうか。12は古墓が耕され、墓辺に植えられた「松柏」の樹が伐り倒されて薪となってしまったことを嘆いているのであるが、その「松柏」が永遠性や繁栄を表すものであるが故にその悲しみは増幅されるのである。
                             
 ところで、ここまで見てきて気になるのは「柏」単独の用例よりも「松柏」と連称したり、対にして用いる例が多数を占めている点である。初めは「松」と「柏」というそれぞれの樹木の具体的なイメージがあって「松柏」と連称したのかもしれないが、「松柏」として多用されるようになると、典故の踏襲を文学の正統とする中国では「松柏」と連称することが当然となっていったのだろう。とともに「松」「柏」それぞれの個性と具体性は薄れ、「松柏」として定着した語も、いくつかの決まったイメージを長期に渡り踏襲され続けることで形骸化し、観念的な存在になっていかざるを得ない。この点は日本人が中国文化を受容していく過程にも影響を与えているとおもわれるが、それは後ほど述べることにする。

 15は「柏」の材が椁(棺の外側を覆う枠)に用いられたことを表している。その『疏』には「栢椁者謂為椁用柏也、天子栢、諸侯松、大夫栢、士雑木也」とあり[17]、天子や大夫の椁が「柏」でつくられたことがわかる。16は「柏」製の椁を用いて良い身分の者が責められるべき失態を犯して死亡したため、「柏」製の椁を用いさせなかったというものである。 17について『毛伝』は「丸丸易直也」と言い『鄭箋』では「取松栢易直者断而遷之」と言う[19]。つまり「松柏」のまっすぐなものを選んでこれを製材し、宮殿建築に用いようというのである。これは後の漢の武帝の有名な柏梁台へと受け継がれていく。18についても『毛伝』には「栢木所以宜為舟也」とあり[20]、「柏」材は造船にも用いられたことがわかる。こうして見てくると、「柏」の材は宮殿の建築材や造船、椁に用いられていることから、その材質はおそらく、丈夫で狂いが出にくく細工がしやすい、また材に良い香りがあり、かつ腐敗しにくいという特徴を持っていたのではないかとおもわれる。

 そして、忘れてはならないのが「柏」の薬としての用途である。『本草綱目』には薬として「柏」の実や葉などを用いたことが記されている。なかでも「柏実」と「柏葉」はそれぞれ『神農本草経』と『名医別録』から記載されており、現代までずっと薬用され続けている。19を見れば、中国南方では『荊楚歳時記』の成立した六世紀頃すでに「柏」を酒に浸して飲む習慣があったことがわかる。こうして邪気をはらい長寿をねがう習慣として民間で取り入れられ、続けられているということは、本能的に「柏」葉の香気や性質を好ましいもの、神秘的なものとして感じた、ということであろう。そしてこの習慣は22の例へと受け継がれていく。20や21の例は、事実であったかどうかはともかく、人々に広く読まれ親しまれたものであり、神仙に憧れを抱く人々に「柏」の薬効を強く信じさせるには充分であったとおもわれる。23からはそうした「柏」の薬効を信じ、神仙や不老長寿に憧れた人々が、さらに複雑な調合法で「柏」を薬用したことがわかる。

 以上、これまでに見てきたさまざまなイメージが互いに関係しあってそのイメージを増幅してきたといえるだろう。そうして「柏」は『史記』において「百木之長」と言われ[26]、『本草綱目』においても「木之一」として扱われるようになるのである。

第二節 「柏」樹の具体的な樹木像

 第一節では中国古典における「柏」のイメージをみてきたが、それでは具体的に「柏」とはどのような樹木を指すのだろうか。先ほどのイメージの中から植物学的な特徴として挙げられるものを整理してみると、樹木としての「柏」は以下のような樹として浮かび上がってくる。

 「柏」は常緑であり、葉には良い香りがあって、実がなる。材は建築材に適し、狂いが出にくく細工がしやすいとおもわれ、さらに、腐りにくく、材にも良い香りがあるとおもわれる。

 しかし、これだけでは具体的な樹木像には結びつかない。そこで、もう少し植物的な特徴を知るために本草系統の資料をみてみると、以下のような記述がある。

 24檜、柏葉松身則葉与身皆曲、樅、松葉柏身則葉与身皆直、樅以直而従之、檜以曲而会之、世云柏之指西猶磁之指南也(陸佃『{土+卑}雅』柏)[27]

 25柏一名椈、樹聳直、皮薄肌膩、三月開細瑣花、結実成毬状如小鈴多弁、九月熟、霜後弁裂中有子大如麦、芬香可愛(王象晋『群芳譜』柏)[28]

 24の例によれば「檜」という樹は「柏」のような葉に「松」のような幹で、葉も幹も「曲」であり、「樅」という樹は「松」のような葉に「柏」のような幹で、葉も幹も「直」であるという。また「柏」の樹は方位磁石のように西を指すという。とすれば「柏」の葉は「曲」で幹は「直」である。曲がっている葉、というのはピンとこないが、松葉のようにまっすぐでない葉、という意味にとっておく。木が西を指す、というのも、どのように西を指すのか不明であるが、この点については後で触れることにする。25にも「樹聳直」とあり、24と合わせて「柏」樹はまっすぐにのびる樹のようである。また「皮は薄く、木肌には膩があり、三月には細かな花が咲き、毬状の小鈴のような実をたくさん結ぶ。九月に実は熟し、霜が降りた後分裂する。中には麦粒大の子があり、良い香りがする」という。

 「柏」樹について以上のような植物学的特徴を示す記述があったわけであるが、それでは植物学者や中国古典の研究者たちは、どのような樹木をこの「柏」という樹であるとしているのだろうか。

 26汎彼栢舟
(上略)栢和名カヱ(中略)側栢アリ扁栢アリ側栢コノテカシハト云共ニ栢ナリ(『陸氏草木鳥獣虫魚疏図解』)[29]

 27栢
(上略)側栢和名コノテカシハト云庭除ニ多ク植ルモノナリ(中略)扁栢ヒノキナリ世ニ檜ノ字ヲ用ユルハ非ナリ(以下略)(『詩経名物弁解』)[30]

 28柏(栢も同じ)
   椈、側柏(和名は加閉)
   俗に白檀という。また唐檜葉・児手柏ともいう。
  {木+舌}
   円柏(俗に柏杉という)(『和漢三才図会』巻第八二 香木類)[31]

 29柏
(上略)凡ソ単ニ柏ト称スルハ側柏、扁柏ヲ通ジテ言フ(中略)側柏ハ、コノテガシハナリ(中略)扁柏ハ、ヒノキナリ(以下略)(『本草綱目啓蒙』巻之三十 木之一)[32]

 30ひのき科
   コノテガシハ属(BiotaまたはThuja
    コノテガシハ(中国名;側柏、崖柏、剛柏など),いとひば(瓔珞柏),わびゃくだん(叢柏、香柏など),せんじゅ(千    指柏、仏掌柏、千頭柏など)
   あすなろ属(Thujopsis
    あすなろ(羅漢柏、雁歯柏など)
   イトスギ属(Cupressus)*中国で瓔珞柏属という
    シダレイトスギ(瓔珞柏、柳柏など)
   びゃくしん属(Juniperus)*中国では一般に円柏属、檜柏属、盤香柏属などという
    びゃくしん(円柏、刺柏、檜柏など),かいづかいぶき(竜柏など),みやまびゃくしん(宝柏、真柏など)
 *柏は一般にヒノキ、コノテガシハ、ビャクシン、イトスギの諸属名である(上原敬二  『樹木大図説』) [33]

 31ヒノキ科
   ビャクシン属[ネズミサシ属](Juniperus)*中国名は刺柏または円柏
    ビャクシン(円柏、檜)(俗に白檀と称して香材に使う。中国では棺材に用いる),カイヅカイブキ(竜柏),シカクビャ    クシン(方枝柏),タイワンネズ(タイワンビャクシン)(刺柏)
   ネズコ属(Thuja)*切削そのほかの加工はきわめて容易である。中国名は側柏または崖柏である。             コノテガシワ(側柏),シセンネズコ(崖柏)(平井信二『木の大百科』)[34]

図1 コノテガシハ(上原啓二著『樹木大図説』より)

 以上のように見てくると、本草書や古典研究者たちは「柏」の和名は「加閉〈かへ〉」であるとし、「側柏」はコノテカシハ、「扁柏」はヒノキとする説がほとんどである。また、現在の植物学者の説によれば、Juniperu(ビャクシン属)とThuja(コノテガシハ属・ネズコ属)が「柏」の主なものとして挙げられそうである。(図1、2)
 
 
 
 
 
 

図2 ビャクシン(上原啓二著『樹木大図説』より)
 この二属の他にも、上記したように「○柏」という中国名のついているものがある。それらも含めて植物図鑑を見てみると、ある特徴に気づく。それは葉の形状である。よく見ればもちろん違うのだが、基本形が似ているのである。考えてみれば、古代人たちが植物を現在のように細かく分類したわけではない。むしろ大雑把に、わかりやすい外見で区別し名前を付けた、と考えるのが妥当だろう。そうした時、「柏」としてはこの図1、2のような葉の形が外見的特徴として強く認識されていたのではないだろうか。この葉の形が中国人の「柏」のイメージではないかとおもわれるのである。
 

第三節 「柏」樹はなぜ「柏」と書くのか

 ところで「柏」樹はなぜ「柏」(木偏に白)と書くのだろうか。まず『説文解字』と『爾雅』の記述を見てみよう。

 32柏 鞠也 従木白声(『説文解字注』)[35]

 33柏 椈(『爾雅義疏』)[36]

 33の「柏」の別名「椈」は32の「鞠」と同一のものとおもわれるが、『説文解字』『爾雅』ともにその『注』『義疏』まで見ても、この問いに関しては32の『説文解字』以上のことは書かれていない。今までにとなえられてきた説は以下の二つである。

 34王荊公字説云、松栢為群木之長、故松従公猶公也、柏従白猶伯也、此説雖近有理然実穿鑿、松柏之字直諧声耳、五等之封始於三代而、松柏之字製於倉頡、寧預知後世有公伯之爵耶、且松字古作{容+木}、従公者後世省文也、即且至微而従公、{ケモノヘン+彌}狙至劣而従侯、豈亦以虫之長乎(『五雜組』巻之十 物部二)[37]

 35李時珍曰、按魏子才六書精蘊云、万木皆向陽而柏独西指、蓋陰木而有貞徳者、故字従白、白者西方也(『本草綱目』柏 釈名)[38]

 34の例は王荊公が『字説』でとなえた説で「松柏は群木の長であるから公伯の字を用いて松柏に作るのだ」としている。しかしこの説は上に挙げたように『五雜組』の中ですでに否定されている。もう一つの35の説は魏子才が『六書精蘊』で述べたものである。この説では「柏が西を指す」ことに注目し、五行説では西方の色が白であるから柏字に作るのだ、としている。「柏が西を指す」という記述はこの他にも前出の24の陸佃『{土+卑}雅』や寇宗{大+百+百}の記述が『本草綱目』に引用されている。

 36寇宗{大+百+百}曰、予官陝西、登高望柏千万株、皆一一西指、蓋此木最堅、不畏霜雪、得木之正気、他木不及、所以受金之正気所制、一一西指也(『本草綱目』柏 釈名)[38]

 この記述によれば「柏」樹は高いところから一望しても西を指すのがわかるという。また『本草綱目啓蒙』で小野蘭山も、「側柏ハ西ニ向フテ枝ヲ出ス。故ニ樵夫山ニ入テモシ方角ヲ失スレバ、コノ枝ノ向フ方ヲ見テ、東西ヲ知。因テ土州ニテ、ハリギト呼」と書いている[32]。植物学者の平井氏も前出の『木の大百科』中でビャクシンの概要として「枝が多く密生して斜上しふつう先端が鋭く尖った円錐形の樹冠を作る」と述べている[34]。おそらくこの円錐形の樹冠が西方を指す、ということだろう。

 話を元に戻そう。この36の例は「柏」字と西方を結びつけてはいないが、西方を指すことから「金の正気」を連想している。つまり五行説と「柏」樹とはこの時点で結びつけていたと推定される。魏子才はこの説をさらに一歩進めた、と見るべきである。李時珍はこの説を正しいと思ったのであろう、『本草綱目』に引用している。この魏子才の西方説は『和漢三才図会』にも引用されているが、否定はされていない[31]。が、やはりこの説もこじつけの感がある。「柏」字が「柏」樹にあてられるのが五行説が起こった後のことでなければこの説は成り立たないからである。しかし、それでは一体なぜ「柏」と書くのか。もういちど「柏」字をしっかり見直してみると、以下の記述が注目される。

 37柏 [解字]白の原字はどんぐり状の小さい実を描いた象形文字。柏は「木+(音符)白」の会意兼形声文字。まるく          小さい実のなる木。
  白 [解字]どんぐり状の実を描いた象形文字で、下の部分は実の台座、上半は、その実。柏科の木の実のしろい中         みを示す。柏(このてがしわ)の原字(藤堂明保編『学研漢和大字典』)[39]

 37中の「どんぐり状の実」という表現は先ほどの図1、2を見ると適当でないような気もするが、この説は『説文解字』の説明にも忠実であり、音韻論的にも納得のいく説である。音韻論的に言うと、まず言葉(音)があってそれから文字へと移行するのである。「柏」樹は古代中国人たちに「pak」[39]という言葉(音)で呼ばれていた。それが文字となる際に、その音を表す文字「白(bak)」[39]または「百(pak)」[40]に意味を示す文字「木」を合わせたので「柏」となった(この場合「白」や「百」には音を表す以上の意味はない)。.と、こんな風に説明できるのである。であれば、「柏」字の説明としては『説文解字』が最も簡単明瞭に言い尽くしているといえる。にもかかわらず、この説明では不十分であると感じた人間が「柏」字について様々な説を論じたのであろう。中国人でさえそう感じたのであるから、古代日本人が音韻論を理解し、『説文解字』の裏にある意味まで理解することは多分なかったであろう。この問題が日本における「柏」字と「栢」字の関係に影響を及ぼしていると考えるのは飛躍のしすぎであろうか。「柏」字と「栢」字の問題については、後で触れることにする。

第二章 日本における「柏」と「カシハ」

第一節 古辞書中の「柏」と「カシハ」

 それでは日本で「柏」は何と訓まれたのだろうか。まず古辞書・本草書における訓みを見てみよう。

 38栢 補格反 椈
  椈 居陸反 栢也
  柏 補格反(『天治本新撰字鏡』)[41]

 39栢  兼名苑、栢〈音百〉一名椈〈音菊、加閉〉
  榧子 本草云、栢実〈上音百〉一名榧子〈上音匪、加閉〉
  槲  本草云、槲〈音斛、可之波〉唐韻云、柏〈音帛、和名同上〉木名也(『箋注倭名類聚抄』)[42]

 40柏〈カシハキ〉{木+解}〈同〉
  栢〈ハク〉〈カヘノキ〉椈〈同〉
  榧子〈カヘ〉栢実〈同〉(『前田家本・黒川家本色葉字類抄』)[43]

 41柏〈上帛、カシハ、ナツ、ウツ〉
  栢〈百上、カヘ、一名椈、ウツ〉
  栢子〈一名榧子〉(『類聚名義抄』)[44]

 42栢実子人〈出蘇敬注〉一名堅剛一名椈〈音菊巳上二名出兼名苑〉和名比乃美一名加倍乃美(『本草和名』)[45]

 上記38の『新撰字鏡』ではその記述は『説文解字』や『爾雅』に忠実である。ところが、39の『倭名類聚抄』になると、「栢」の記述は中国での「柏」と同じであるが、「槲」の条に「唐韻云、柏」と言い、その「槲」字は「可之波」と訓じている。さらに中国の本草書では「栢実」は木部の上品に、「榧子」は下品にあり、この二物が同じ物でないのは明らかなのだが、『倭名類聚抄』では「榧子」の条に「本草云、栢実一名榧子」とあり、これを混同している。『前田家本・黒川家本色葉字類抄』や『類聚名義抄』でも同じ傾向がみられる。この点に関しては『箋注倭名類聚抄』で狩谷{木+夜}斎がその注に以下のように述べている。

 43按五経文字云、柏経典相承作柏、知栢柏同字(中略)則源君誤分栢柏為二字無疑也、此作柏非源君之旧、下総本有和名二字、栢重見木類(『箋注倭名類聚抄』榧子)[42]
                                        
 44下総本有和名二字、本草和名云、槲和名加之波岐、一名久奴岐、源君以釣樟及挙樹為久奴岐、故此不取是名(中略)按栢実新修本草上品載之、不与槲之載在下品同(中略)則槲柏非同物明矣、皇国古書訓柏為加之波、蓋其説不同也、源君混槲柏為一条、非是(中略)蓋源君誤以柏栢為別字也、今俗承其誤、以為二字不同非是(『箋注倭名類聚抄』槲)[42]

 『倭名類聚抄』の著者源順が「柏」字と「栢」字とを別字としてしまった、との説は先に寺島良安も『和漢三才図会』中で「また俗に栢に榧の訓をつける。恐らくこれは柏と栢とが同字であることを知らず、(加閉と加夜と)和訓が似ているので誤用したのであろう。」と述べており、賛同できる。しかし、ここに問題点が残る。「槲」字と「柏」字が結びついた理由がわからないのである。

 「槲」は「カシハ」と訓む樹木であるとしよう。しかし一方で「栢」字は「カヘ」と訓んでいる。この二物が全く別物であることは源順にもわかっていたであろう。それでも「槲」と「柏」は「カシハ」であると言ったのには何か理由があるはずである。

 この疑問の鍵を解くのは「{木+解}」という文字である。源順は『唐韻』を引いて「槲は柏である」と述べているのであるが、「槲」字は

 45槲、木似櫟、亦有斗、小不適用、俗呼為大葉櫟(『正字通』)[46]

とあり、その説明から言って中国の「柏」とは全く結びつかない。反対に「{木+解}」字は

 46{木+解}、松{木+[滿-サンズイ]}(『広韻』)[47]

とあり、「柏」字の別名らしいことがわかる。この全く別字である「槲」字と「{木+解}」字が、その字形の相似たるによって混同され、その結果として「柏」字を「カシハ」と訓んでしまった、と考えられるのである。

 この字形の混同を表すよい例が『新撰字鏡』にある。

 47槲 胡木反、入櫟(?)也(『天治本新撰字鏡』)[48]

 48 ア・イ・ウ 三形作{木+灰}灑反、松{木+[滿-サンズイ]}、也万加志波(『天治本新撰字鏡』)[49]

 47「槲」の韻は胡木反、48の三字の韻は{木+灰}灑反であり、やはり別字であることは明らかである。48の三文字はその説明で「松{木+[滿-サンズイ]}」と言っていることからして「{木+解}」字であるとおもわれるが、字形があまりに似ている。その字形が似ているがゆえに、『新撰字鏡』成立時はそれでも正しい説明をしているが、48で「松{木+[滿-サンズイ]}」という説明をしているのを気に留めなかった後人が「也万加志波」という和名を加筆した可能性もあるだろう。なぜなら、『新撰字鏡』では「栢」「椈」「柏」「槲」の条に和名はつけておらず、その説明も中国における説明に忠実である。48も「松{木+[滿-サンズイ]}」までは正しいとおもわれる。『天治本新撰字鏡』は『新撰字鏡』が九〇〇年頃に成立してから二百年以上後の筆写本であり、『天治本』筆写時には九三〇年頃成立の『倭名類聚抄』も当然世に広まっていたであろう。『天治本』筆写人の頭の中には「{木+解}」=「槲」=「カシハ」という図ができあがっていたとおもわれるのである。

 「槲」と「{木+解}」の字形の混同は『本草和名』にもいえる。

 49 エ 若葉 和名加之波岐一名久奴岐(『本草和名』)[50]

 49は「和名加之波岐一名久奴岐」であるから「槲」字のはずであるが、その字形はむしろ「{木+解}」であるとおもわれる48の字形によく似ている。「槲」「{木+解}」の区別はすでに重く見られなかったのであろう。

 以上、「槲」字と「{木+解}」字の字形の類似による誤同定の可能性について論じたが、これで全ての問題が片づくわけではない。43の{木+夜}斎の注では「此作柏非源君之旧」と述べているが『倭名類聚抄』より成立が早い『古事記』にも「柏」字を「カシハ」と訓むべきとおもわれる箇所がある。また「槲」字と「{木+解}」字の字形の類似によって「槲」=「柏」となってしまったとしても、第一章で見てきたように、中国における「柏」はあくまでも常緑樹である。さらには、「槲」「{木+解}」字は複雑な字形をしており、あまり使用頻度も高くなかったとおもわれる。「柏」を落葉樹の「カシハ」とするこれだけ大規模な誤同定が、この二字の混同だけで説明できるとは思えない。他にも何らかの要素があったと見るべきである。以下、日本古典における「柏」と「カシハ」を見ていく過程でそのヒントが見つけられるのではないだろうか。
 

第二節 日本の漢詩文における「柏」

 日本漢詩というのは、中国文化を受容した日本人が、その表現法を借りて情景・心情をを詠ったものであり、中国古典の典故をふまえていることが多い。その中で「柏」は中国の常緑樹の「柏」として認識されたのか、落葉樹の「カシハ」として認識されたのか。この点に注意しながら日本の漢詩文を見ていこうとおもう。

 50爰降豊宮宴 広垂栢梁仁(刀利康嗣「侍(ママ)宴」『懐風藻』)[51]
                                       
 51椒花帯風散 柏葉含月新(守部連大隅「侍(ママ)宴」『懐風藻』)[52]
                                        
 52為期不怕風霜触 似巌心松栢堅(藤原朝臣宇合「在常陸贈倭判官留在京」『懐風藻』)[53]
                                       
 53芝{クサカンムリ+惠}蘭{クサカンムリ+孫}沢 松栢桂椿岑(藤原朝臣宇合「遊吉野川」『懐風藻』)[54]
                                        
 54煙雲万古色 松栢九冬専(麻田連陽春「和藤江守詠裨叡山先考之旧禅処柳樹之作」『懐風藻』)[55]

 以上五例は『懐風藻』に出てくる「柏」の全用例である。50の例の「栢梁」は漢武帝の築いた柏梁台のことであり、そこで開かれたという詩会を思わせるような眼前の盛大な宴を、帝の仁のおかげであると賛美しているのである。51の例も「椒花」と対比していることから、常緑樹の「柏」のことであろう。第一章の『荊楚歳時記』の例19によれば、中国では元旦に「椒柏酒」を飲んで邪気をはらう、とあり、この宴も新春に行われたものであるから、こうした例をふまえての表現と考えられるのである。52や54の例も『論語』の例4をふまえての表現とおもわれるし、「松栢」と連ね称していることからも、常緑樹の「柏」であろう。53についても、前後に並べられた草木はいずれも香草・香木の類であり、常緑の香木としてとらえられていると見るべきである。

 このように見てくると、日本漢詩という世界の中では「柏」は中国古典におけるイメージに忠実にとらえられているようにおもわれる。そこで、もう少し視野を広げて他の例も見てみよう。

 55舎屋之〈享本之ナシ〉北、〈寛本之地〉池沼之南、裁松杉竹栢(『明衡往来』第七三条)[56]

 56栢葉橘葉等、有好香。暫若花代。(中略)是則秘法中説也。若夏冬等無時花時、且用木葉供仏、起於斯也(『東山往来』一八)[57]

 57齡争栢松 楽等山海(『菅丞相往来』六月状)[58]

 以上三例は往来物と呼ばれる消息(手紙)文例集からの引用である。55の例の「栢」は列挙されている樹木からして常緑樹であろう。56の例の「栢葉」も、「橘葉」と並べて良い香りがあると言っている点や夏冬の花のない時に代用したという記述から、常緑樹の「柏」であろう。57の「栢松」も多寿の木や神仙とのつながりといったイメージでとらえられており、これも中国古典のイメージに忠実な用いられ方である。

 しかし、それでは当時の日本人たちは、少なくとも漢詩文を作るときに限っては「柏」を「カヘ」や「ヒノキ」であると感じていたのだろうか。

 ここで注目しなければならないのは「柏」を「カヘ」と訓むのは「松柏」、他に「カヘ」とおもわれる樹木を指すのは「柏葉」「柏実」「柏梁台」など、いくつかの決まった表現だという点である。そして、なぜ決まった表現になるのかといえば、それはやはり中国古典の典故をふまえて漢詩文をつくるからであろう。第一章で述べた語意の形骸化・観念化が日本でも受け継がれ、さらに進んでいったと見るべきである。
 

第三節 日本古典における「柏」・「カシハ」

 まず、『万葉集』中の「柏」及び「カシハ」の例を拾ってみよう。         

58 [原文]霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須<家>奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 [御面謂之美於毛和]
[訓読]霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言 朝夕に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取るといふ 白玉の見 が欲し御面 直向ひ 見む時までは 松柏の 栄えいまさね 貴き我が君 [御面謂之美於毛和](『万葉集』巻一九)[59]

 59[原文]秋柏 潤和川辺 細竹目 人不顏面 <公无>勝
  [訓読]秋柏潤和川辺の小竹の芽の人には忍び君に堪へなくに(『万葉集』巻一一)[59]

 60[原文]朝柏 閏八河辺之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見来
  [訓読]朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり(『万葉集』巻一一)[59]

 61[原文]奈良山乃 児手柏之 両面尓 左毛右毛 <侫>人之友
  [訓読]奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴(『万葉集』巻一六)[59]

 62[原文]伊奈美野乃 安可良我之波々 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之
  [訓読]印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし(『万葉集』巻二〇)[59]

 63[原文]知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保々麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴
  [訓読]千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ(『万葉集』巻二〇)[59]

 64[原文]能野川 石跡柏等 時歯成 吾者通 万世左右二
  [訓読]吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代までに(『万葉集』巻七)[59]

 65[原文]吾勢故我 捧而持流 保宝我之婆 安多可毛似加 青盖
  [訓読]我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(『万葉集』巻一九)[59]

 66[原文]皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保宝我之波
  [訓読]皇祖の遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこのほほがしは(『万葉集』 巻一九)[59]

 58は「松柏」としての「柏」であり、「松」と並べられていることや歌のリズムからも「まつかしは」ではなく「まつかへ」と読んだ方が適当である。この場合、これは常緑樹を指しており、前述したように「松柏」は「松」と「柏」を指すのではなく、ほとんど「松の類」といったくらいの語感であるとおもわれる。

 しかし、『万葉集』で「柏」が「かへ」と訓まれたり、はっきりと常緑樹であるとおもわれるものはこの一例のみである。
 61の「児手柏」は、かつて「柏」が常緑樹である例としていくつかの本に引用されてきた歌であるが[60]、これはやはり「このてがしは」と訓み、63の「古乃弖加之波」と同じであり、落葉樹であると考えるべきである。63の「古乃弖加之波」は歌の中で「ほほまれど」という表現が使われている。この「ほほまる」というのは、葉の新芽が芽ぐむ時にしおしおとしている形容のことであり、常緑であればこのような現象はみられないはずであるから、落葉樹とみるべきであろう[61]。また、次のような歌もある。

 67ちらすなよこのて柏の薄紅葉はもりの神もめでざらめやは(後徳大寺左大臣『夫木和歌抄』巻第二九 柏)[62]

 この歌によれば「このて柏」も紅葉するわけであるから「児手柏」も「古乃弖加之波」も当然、現在のコノテガシワではなく、落葉樹であったことは明らかである。この「児手柏」なる樹木が一体何であるのかについては諸説あるが[63]、ここでは深く言及せずに、落葉樹で名前の如く子供の手のような葉をしたもの、としておく。

 59、60の「秋柏」と「朝柏」は一般にブナ科のカシワのことであるといわれており、歌のリズムからも「あきがしは」「あさがしは」と訓み、「秋のかしは」「朝のかしは」の意であろう。秋の霜や朝の露から「潤和川辺」「閏八河辺」と続くと考えれば自然であるし、霜や露といった現象を美しく感じさせるのも、やはり常緑樹ではなく、葉の広い落葉樹の「カシハ」であろう。62の「安可良我之波」は「赤ら柏」つまり「秋になって黄色く紅葉したかしは」の意とされており、これも落葉樹の「カシハ」である。ただし、59、60、62の植物が全てブナ科のカシワである、とは言い切れない。ブナ科のカシワは山地性の植物で、59、60のような川辺には自生せず、また、62の印南野のような丘陵地にも自生しないのである。それでは一体何の樹かというと、この「安可良我之波」にはトウダイグサ科のアカメガシワを比定することが多い。このアカメガシワは本州・四国・九州の丘陵地に最も普通に自生している落葉喬木であり、新葉の時は帯紅色で非常に目立つが、後に灰白色を帯びた緑色となる。この62の歌には適当であるとおもわれる[64]。が、それでも古代における「安可良我之波」の類が全てこのアカラガシワであると言い切ることはできないし、ここではそういった植物の同定作業をするつもりもない。ここで注目しておきたいのは、「カシハ」がブナ科のカシワ一種のみを指すものではない、ということである。65、66の「保宝我之婆」はモクレン科のホオノキを指すというのが通説であるし[65]、先ほどの「児手柏」もナラの若芽説が有力である。

 7の「石跡柏」は「ときはなす」と言っていることから常緑であるとおもわれるが、樹木ではなく、石上に生える苔類であるという説もあり、定かでない。また用例もこの一例だけであり、樹木の「柏」「カシハ」の考察からは除外しておく。

 ともあれ、『万葉集』における「柏」は「松柏」の場合を除けば「かへ」でなく「かしは」と訓み、落葉樹を指すことが確認できた。

 それでは『日本書紀』や『古事記』では「柏」はどうとらえられているのだろうか。

 68天皇初将討賊、次于柏峡大野、其野有石、長六尺、広三尺、厚一尺五寸、天皇祈之曰、朕得滅土蜘蛛者、将蹶{玄+玄}石、如柏葉而挙焉、因蹶之則、如柏葉上於大虚  (『日本書紀』巻第七 景行天皇)[66]

 68は景行天皇が土蜘蛛を討とうとして事の成否を占ったところ、石が「柏」葉のように舞い上がったというものである。石が舞い上がったというのは誇張された表現であるとおもわれるが、舞い上がる葉なのであるから中国における「柏」ではなく、落葉樹の「カシハ」であろう。『日本書紀』中には「柏」の用例が全部で八例あるが、そのうち五例は地名や人名、神名であり、いずれも「かしは」と訓むことが推定される。残り三例が樹木名であり、うち二例は上記68中の「柏」である。これが「カシハ」であることは先ほど述べたとおりである。ただ、最後の一例は次のとおりである。

 69至期果有大蛇、頭尾各有八岐、眼如赤酸漿、松柏生於背上而(『日本書紀』巻第一 神代上)[67]

 この大蛇の背に生じている「松柏」は『万葉集』の例58のようにやはり「まつかへ」と訓むべきで、ここでも二種の樹木というよりは「松の類」といった語感であろう。おそらく大蛇の大きさやその背が鱗でごつごつとしているのを誇張した表現ではないだろうか。

 以上のように『日本書紀』においても『万葉集』と同様、基本的に「柏」は落葉樹の「カシハ」であり、「松柏」と連称したような場合にのみ常緑樹を指す、といえるようである。 『古事記』ではどうだろうか。

 70天皇聞看豊明之日、於髪長比売令握大御酒柏、賜其太子(『古事記』中巻 応神天皇)[68]

 71太后為将豊楽而、於採御綱柏幸行木国(『古事記』下巻 仁徳天皇)[69]

 『古事記』中には「柏」の用例は六例あり、70のように「御酒柏」というものと、71のように「御綱柏」というものとが三例ずつある。70からは「御酒柏」が酒器として用いられたことがわかる。71もまた、「豊楽」の酒宴の準備であろうから、「柏」は酒器として使用されたとおもわれる。とすれば、これらの「柏」は落葉広葉樹の「カシハ」であろう。酒器として葉を使用するためには、広葉樹、それもできるだけ大きな葉でなければならないからである。『古事記』においてもやはり「柏」は「カシハ」であった。

 ところで、古く日本では70、71のように木の葉を酒器・食器として用いていたようである。

 72即作葉磐八枚、盛食饗之〈葉磐、此云毘羅耐〉(『日本書紀』巻第三 神武天皇)[70]

 73皇后、遊行紀国、到熊野岬、即取其処之御綱葉〈葉、此云箇始婆〉而還(『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇)[71]

 72からは「葉磐」を「ヒラデ」と訓み、木の葉を食器として用いたことがわかる。73は71の「御綱柏」と同じものであるとおもわれるが、「葉」字を「カシハ」と訓んでいる点に注目すべきである。

 この「カシハ」という語について、狩谷?斎は『箋注倭名類聚抄』で次のように述べている。

 74(上略)本居氏曰、加之波、本盛飲食樹葉之総称、非一木之名(中略)凡上世飲食具多用葉、其炊飯甑或敷葉、或以葉蔽、故名炊葉、省呼加之波也(以下略)(『箋注倭名類聚抄』槲)[42]

 {木+夜}斎は「カシハは飲食に用いる葉の総称である」という本居宣長の言を引き、「上世においては葉を飲食の用具とすることが多かった、だから炊葉〈カシギハ〉と名付けた。これを省略してカシハと呼ぶのである」という。

 この説によれば「葉」を「カシハ」と訓むのも納得がいく。さらに、以下のような例もある。

 75かた野なるならの葉がしは吹く風に霰ふりそう音の烈しさ(民部卿為家『夫木和歌抄』巻第二十九 柏)[72]

 76片山のならのはがしは葉を茂み梢ひまなき蝉の声かな(民部卿為家『夫木和歌抄』巻第二十九 柏)[73]

 77枇杷殿より、としこが家に、柏木のありけるを折りに給はりけり。折らで書きつけてたてまつりける。
    我宿をいつかは君がならの葉のならし顔には折りにをこする
  御返事、
    かしは木に葉守の神のましけるを知らでぞおりしたたりなさるな(『大和物語』六十八段)[74]

 78枇杷左大臣よう侍てならのはをもとめ侍けれは、ちかぬかあひしりて侍りける家にとりにつかはしけれは、俊子
    わかやとを いつならしてか ならのはを ならしかほには おりにおこする 
  かへし、枇杷左大臣 
    ならのはの はもりの神の ましけるを しらてそおりし たゝりなさるな(『後撰和歌集』)[75]

 75、76の「ならのはがしは」も「カシハ」の定義を「飲食の器に用いる大きな葉」とする説に沿ったものである。また、そう考えれば77、78の「柏木(かしはぎ)」と「ならの葉」の混同にも説明がつく。上代において「カシハ」というのはある特定の一種類の樹木の名ではなく、「飲食の器にできるほど広く大きな葉」の総称である、と言って間違いなさそうである。これはホオノキやナラの葉にも「カシハ」の名がつけられていることから確認できる。

 「カシハ」の外見的特徴は以上のとおりである。それでは「カシハ」とはどのようなイメージで描かれているのだろうか。

 79女がたより、その海松を高坏にもりて、柏をおほひて出したる、柏にかけり(『伊勢物語』八十七段)[76]

 80雨のうち降りたるなごりの、いともしめやかなる夕つ方、御前の若かえで、かしわぎなどの、青やかに茂りあひたるが、何となく心ちよげなる空を見出し給ひて(『源氏物語』胡蝶)[77]

 81柏木とかえでとの、ものよりけに若やかなる色して枝さしかはしたるを(『源氏物語』柏木)[78]

 82玉柏 庭もはひろに 成りにけり こやゆふしてて 神まつる此(大納言経信『金葉和歌集』夏)[79]

 83玉柏 茂りにけりな 五月雨に 葉守の神の しめはふるまで(藤原基俊『新古今和歌集』)[80]

 79は「カシハ」を食器として使用した後、その「カシハ」に和歌を書き付けている。それだけ広く大きく、筆で書きやすい表面をしている葉であるとおもわれる。また、大切な食物の器として用いるのであるから、「カシハ」は美しく清浄でなければならない。80、81は「カシハ」の若葉が茂った清々しさを表している。こうした美しい葉であるからこそ70の「御酒柏」や71の「御綱柏」のように祭祀で用いられたりするのである。82、83の「玉柏」の「玉」も、神を意識してつけた美称であろう。

 77や83には「葉守の神」という語が見え、前述の67でも「カシハ」と「葉守の神」が関連して登場する。「カシハ」は枯れて黄色くなってしまってもすぐに落葉せず、かなりの葉が枝に残ったまま春を迎えるという性質を持っていることが、次の例からわかる。

 84おひくだり山の裾野の柏原もとつ葉まじりしげるころかな(参議為相卿『夫木和歌抄』巻第二十二 原)[81]

 この「もとつ葉」は枯れ残った葉のことであると推測できる。葉が大きく美しく、さらに黄色く枯れてしまっても枝についたまま冬を越す、という性質をもつ「カシハ」は神聖視され、「葉守の神」が葉を守っていると信じられたのであろう。この「もとつ葉」が神聖視された例をもう一つ挙げておこう。

 85最姫取本柏、盛酒奉天皇〈内裏式奉柏於天皇奉酒盛之天皇受即灑神食上而近代所行姫取柏自盛〉天皇受之、灑神食上、以其柏、便置神食上(『江家次第』)[82]

 この「本柏」も「もとかしは」と訓み、「もとつは」と同義である。また、次のような例からは、「葉守の神」が葉だけでなく広くさまざまなものを守ってくれると考えられていたことがわかる。

 86柏木、いとをかし。葉守の神のいますらむもかしこし。兵衛の督、佐、尉など言ふもをかし(『枕草子』三十八段)[83]

 以上これまでの用例を見てくると、「カシハ」は、葉が大きく美しいという点と枯れてもすぐに落葉しないという点から特別な樹木として認識された、と考えられる。少なくとも平安時代には、「カシハ」の葉には「葉守の神」が宿っている、とする考えが貴族階級に広く普及していた、といえるようである。そのため、上世においては酒食器として用い、土器などが普及した後も神事の用具としては「カシハ」を用いたのである。

 ここで、平安時代の宮中で行われた儀式について書かれた『延喜式』の記述に目を向けてみよう。

 87〈酒立女一人持柏、毎舞了人令飲柏酒〉(『延喜式』巻第四 神祇四)[84]

 88菓子、雑肴、盛以干柏(『延喜式』巻第三十二 大膳上)[85]

 89青柏六俵、鮮物菓子、干柏二俵(『延喜式』巻第三十二 大膳上)[86]

 90大歌、立歌、国栖、笛工並葉椀〈五月五日青柏、七月廿五日荷葉、余節干柏〉(『延喜式』巻第三十五 大炊寮)[87]

 91酒六斗、三津野柏廿四把、長女柏 ?八把(『延喜式』巻第四十 造酒司)[88]

 87は酒器、88は食器として「柏」が用いられており、やはり「カシハ」であることは間違いない。88の「干柏」は89、90で「青柏」と対比されており、「干柏」は乾燥させた「カシハ」の葉、「青柏」は青々とした「カシハ」の葉であるとおもわれる。90では「葉椀」という葉の食器に、五月五日は「青柏」、七月二十五日は「荷葉」、その他は「干柏」を使う、というように季節によって使い分けている。「柏」が常緑樹を指すのであれば使い分ける必要はなく、その用途からいっても、これも「カシハ」である。

 91からは、酒食器に用いる「カシハ」の中に「三津野柏」や「長女柏」と特に呼ばれたものがあったことがわかる。「三津野柏」は「みつのがしは」と訓み、71の「御綱柏」と同じものとおもわれる。「長女柏」については、「ながめがしは」と詠んだ歌のあることからそのように訓むとする説のほか、「おさめがしは」と訓むべきであるとする説もある。また、「三津野柏」「長女柏」ともにその指す植物も未だはっきりしない。が、いずれにせよ「三津野柏」も「長女柏」も酒食器に用いられる「カシハ」であることには間違いなさそうである。

 『延喜式』のここまでの例では「柏」はすべて「カシハ」と訓むことが確認できた。ところが、「典薬寮」においては「柏」=「カシハ」という図式は成り立たないようである。

 92参河国廿一種 甘遂十斤、独活(中略)蜀椒一斗、栢子仁一斗九合(以下略)(『延喜式』巻第三十七 典薬寮)[89]

 「青柏」や「干柏」といった酒食器としての「柏」は一例も見出せず、92の「栢子仁」というものが全部で五カ所に記載されている。「栢子仁」という言葉で思い出すのは、この章の第一節で触れた古辞書・本草書の記述である。39の『倭名類聚抄』、40の『色葉字類抄』、41の『類聚名義抄』、42の『本草和名』、いずれも「栢子」「栢実」は「カヘノミ」や「ヒノミ」と訓み、常緑樹の「柏」からとれる実を指している。江戸時代に書かれた『本草綱目啓蒙』や『和漢三才図会』においても「柏」を側柏(コノテガシワ)や扁柏の類であるとし、「柏葉」「柏実」「柏子仁」はすべて常緑のコノテガシワの葉や実であるとしている。そのほかの本草系統の書においても同じことが言え、「柏子」の類の薬に用いる品を落葉樹の「カシハ」の実や葉であるとする説は一例も見出せない。であれば、「栢子仁」も当然、常緑樹の「柏」からとれるものであろう。

 つまり、『延喜式』中における「柏」は、「典薬寮」においてのみ常緑樹として扱われている、ということである。なぜこのような奇妙な現象が起こったのだろうか。

 その答えは、「典薬寮」における「柏」が、すべて「栢子仁」という形で記載されていることに求められるとおもわれる。

 ここで思い出さなければならないのは、日本古典において「柏」を常緑樹として認識した場合、その言葉は「松柏」「柏葉」「柏実」「柏梁台」などに限定されている、という事実である。『源氏物語』にも以下のような例がある。

 93御しつらひは、柏殿の西面に、御几帳よりはじめて(『源氏物語』若菜上)[90]

この「柏殿」については

94「かへ殿」は「柏殿」とも書く。柏殿は、朱雀院の東北にあった建物で、皇后や大后の御在所。賀陽親王の旧跡で、「かや」が「かへ」になり、「かへ殿」になったという。漢の武帝の柏梁殿に擬し、柏梁殿とか、柏殿とか書かれた。柏が植えてあった為の名ではない様である(『源氏物語の植物』古閑素子著)[91]

という記述もあり、やはり中国の故事に基づいた表現である。

 これらの例を見てくれば、中国からかなり大量の書物が日本に伝来し、そうした書物をふまえての「松柏」や「柏実」という表現であることはまちがいない。日本において「柏」が「カシハ」に誤同定されたあとも、中国古典をふまえたこれら「松柏」や「柏実」といった言葉は一種の外来語として認識され、文学上での語意の形骸化は進んでいたとおもわれるが、本来の常緑樹の「柏」として生きていくことができたのではないだろうか。『延喜式』での奇妙な現象はこの顕著な例であるとおもわれる。

 日本において、本来の「柏」の性質を残している用例と、「カシハ」と訓むべき「柏」字の用例とが混在する理由は以上で明らかになったといえるであろう。しかしそれは、それだけ多くの中国書を日本人が目にしている、ということでもある。であるのに、なぜ日本人は「柏」を「カシハ」と結びつけてしまったのだろうか。

 その鍵となるのは、中国における「柏」の用途とその持つイメージ、および日本における「カシハ」の用途とその持つイメージであるとおもわれる。

 中国において「柏」は4のように「後彫」であり、12から14のように廟前や墓前に植える神聖な樹であった。『史記』亀策伝には「松柏為百木之長、守門閭」ともいう[26]。さらには邪気をはらう習慣として椒柏酒を飲むこともあった。

 対して、日本の「カシハ」は葉が大きく美しいことから酒食器として用いられ、土器が普及した後も祭祀の時などには酒食器として使用された。また、枯れてもすぐに落葉しないという点から、葉守の神に守られた樹であると考えられた。この葉守の神は、葉以外のものも守ってくれると信じられていたようでもある。

 このように見てみると、「柏」と「カシハ」には外見の相異からは予想もつかないほどの類似点がみつかるのである。「後彫(しぼむにおくる)」と「枯れ葉が枝についたまま春を迎える」という点、「廟前や墓前に植える神聖な樹」と「葉守の神に守られた、祭祀で酒食器に使用する神聖な葉」、「椒柏酒」と「酒器として用いるカシハ(御酒柏など)」、さらに「門閭を守る柏」と「葉や人々を守ってくれるカシハ」である。

 これだけの類似点があった場合、誤同定が起こってもなんら不思議はないといえるのではないだろうか。多くの日本人はその実体を目にすることはできないのであり、中国の書に記載されている用例を見てその樹木のイメージを膨らませ、自分が見たことのある樹木をあてはめるしかないからである。ただ、医学・本草学を志す者たちだけはこの例にあたらない。なぜなら、彼らは薬として実際に「柏実」や「柏葉」を用いる立場にある。これらの薬を使用するためにはかなり詳しく研究をし、「柏実」などの薬が実際にどのようなものであるのかも正しく認識する必要があったからである。
 

まとめ

 以上述べてきた本稿の論旨は、やはり寺井氏の先行論文とほぼ同じであるが、もういちどまとめをしてみよう。

 まず、中国における「柏」は
・常緑樹である
・葉および材によい香りがある
というこの二点が大きな特徴となって中国人に神聖視されたとおもわれる。また、日本における「カシハ」は
・葉が大きく美しい
・枯れてしまってもすぐに落葉しない
という点から、やはり古来神聖視されてきた。しかし、この二物はまったく別のものである。

 この「柏」と「カシハ」が結びついてしまった要因として、中国伝来の辞書・韻書を書き写す際の誤筆写という点が考えられる。「柏」字と「栢」字があたかも別字であるかのように用いられることがあるという点も、この説を補強するかもしれない。しかし、その介在をしたとおもわれる「槲」「{木+解}」の二文字は使用頻度もあまり高くなく、この誤筆写だけで日本人全体が「柏」を「カシハ」に誤同定したと考えるには少々無理があるとおもわれる。

 この大規模な誤同定を引き起こしてしまった原因として、本稿では次のような結論に達した。

 中国古典文学上における「柏」のもつイメージと日本古典文学上における「カシハ」のもつイメージには、以下のように外見の相異からは予想もつかない類似点があった。

・「後彫(凋)」と「枯れてもすぐに落葉せず、枝についたまま冬を越す」という点
・神聖視された樹であるという点
・「椒柏酒」と「御酒柏」など、酒とのつながりがあるという点
・「門閭を守る」と「葉守の神」など、なにかを守ってくれると考えられていたという点

 このような類似点をもつことから、実物を見ることのできない大半の日本人が「柏」と「カシハ」を結びつけてしまったのではないだろうか。「柏」樹という文字情報を理解する過程において、それが日本人にとってまったく見知らぬ、想像もつかない樹であったなら、注意深くその実際を確かめたかもしれない。しかし、こうしたイメージをもつ「柏」という樹は、日本人にとって覚えのある樹であった。それが「カシハ」だったのではないだろうか。

 古代の日本において、「柏」樹を正しく認識するだけの中国書がなかったとはおもわれない。これは日本の医学・本草学者たちが「柏実」などの薬を正しく認識していたことからもわかることである。寺井氏はその論文の中で中国本草学の強い影響力をあげ、本草書に接した日本人が「柏」と「カシハ」を結びつけてしまったのではないか、という主旨を述べておられるが、本草書に接するような人々は注意深く「柏」のなんたるかを研究し、正しく理解していたというべきであろう。しかし、一般の多くの日本人は「柏」樹を自分たちの身近な「カシハ」であるとまず感じてしまったとおもわれる。そのことが本草学者たちのような注意深さをうしなわせ、この大きな誤同定をまねいたのではないだろうか。このような素地があったからこそ、「柏」を「カシハ」と訓むことが日本の知識人たちに受け入れられたとおもわれるのである。

 また、そこには中国においてすでに「柏」の用例が限られ、語意が形骸化していたことも拍車をかけたであろう。日本古典の「柏」字の用例の中で、中国における「柏」と同意で用いられたとおもわれるものは、中国古典の典故をふまえた限られた表現ばかりであることがこの点を証明しているようにおもえるのである。

 これで本稿を書き終えるわけであるが、途中、あまりの研究範囲の広さとその難しさ、さらには同趣旨の先行論文が存在する、ということに何度か挫折しそうになった。非才の身であるので資料が消化しきれず、また、言わんとすることがうまく伝わらないのではないかと不安でもある。

 こうして一つの論文を書くために研究してみて、あらためてこの問題の関わる分野の広さ、難しさがわかったようにおもう。まだまだ、この「柏」と「カシハ」に関する問題は存在している。各分野の研究者が連携してこのような問題にあたることが大事ではないだろうか。

引用文献と注

[1] 惟宗具俊撰『医談抄』、『杏林叢書』上巻 二一四〜二一五頁、京都・思文閣(一九七一)

[2] 寺井泰明「「柏」と「かしは」」『千葉工業大学研究報告 人文編』 二七号四一〜五七頁(一九九〇)

[3] 加藤常賢『(新釈漢文大系第二五巻)書経 上』七七〜七八頁、東京・明治書院(一九八三)

[4] 吉田賢抗『(新釈漢文大系第一巻)論語』七七頁、東京・明治書院(一九六〇)

[5] 阿部吉雄・山本敏夫・市川安司・遠藤哲夫『(新釈漢文大系第七巻)老子 荘子(上)』二二八頁、東京・明治書院(一九六六)

[6] 吉田賢抗『(新釈漢文大系第一巻)論語』二一〇頁、東京・明治書院(一九六〇)

[7] 内田泉之助・網祐次『(新釈漢文大系第一四巻)文選(詩篇)上』一四四頁、東京・明治書院(一九六三)

[8] 鎌田正『(新釈漢文大系第三二巻)春秋左氏伝(三)』一〇三九頁、東京・明治書院(一九七七)

[9] 前掲文献[7]二一九〜二二〇頁。

[10]藤堂明保監修・黒須重彦訳『楚辞(中国の古典二〇)』別冊原文一七〜一八頁、東京・学習研究社(一九八二)

[11]前掲文献[7]一八九〜一九〇頁。

[12]『毛詩正義』、阮元校刻『一三経注疏』上巻四一二頁、北京・中華書局出版(一九八二)

[13]大野実之助『李太白詩歌全解』九六二頁、東京・早稲田大学出版部(一九八〇)

[14]内田泉之助・網祐次『(新釈漢文大系第一五巻)文選(詩篇)下』五六七頁、東京・明治書院(一九六四)

[15]前掲文献[13]一三八九頁。

[16]田部井文雄『唐詩三百首詳解』上巻三一三〜三一四頁、東京・大修館書店(一九九八)

[17]『礼記正義』、阮元校刻『一三経注疏』下巻一二九三頁、北京・中華書局出版(一九八二)

[18]鎌田正『(新釈漢文大系第三三巻)春秋左氏伝(四)』一六三七頁、東京・明治書院(一九八一)

[19]前掲文献[12]六二八頁。

[20]前掲文献[12]二九六頁。

[21]『荊楚歳時記』、長沢規矩也解題『和刻本漢籍随筆集 第一一集』三頁、東京・汲古書院(一九七六)

[22]小尾郊一『(全釈漢文大系第三十二巻)文選(文章編)七』一六頁、東京・集英社(一九七六)

[23]欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』下巻、一五一五頁、上海・上海古籍出版社(一九八二)

[24]李時珍『本草綱目』下巻、一〇九五頁、台北・文光図書有限公司(一九八二)

[25]金本節子・李心純・林和生「類似の中の相違:日中文化比較研究―(1)日中両国の松信仰―」『コミュニケーション学科論集 茨城大学人文学部紀要』四号五五〜六三頁(一九九八)

[26]司馬遷撰・滝川資言考証『史記会注考証』二九頁、北京・文学古籍刊行社(一九五五)

[27]陸佃『{土+卑}雅』、『古今図書集成』第五四七冊三七葉オモテ・ウラ、台北・鼎文書局(一九八五)

[28]王象晋『群芳譜』、『古今図書集成』第五四七冊三七葉ウラ、台北・鼎文書局(一九八五)

[29]陸佃撰・淵在寛述『陸氏草木鳥獣魚疏図解』、『詩経動植物図鑑叢書』上冊 三三六頁、台北・大化書局(一九七七)

[30]江村如圭纂述『詩経名物弁解』、『詩経動植物図鑑叢書』下冊 五五八頁、台北・大化書局(一九七七)

[31]寺島良安著、島田勇雄・竹島敦夫・樋口元巳訳『和漢三才図会一五(東洋文庫五一六)』四〜六頁、一一頁、東京・平凡社(一九九〇)

[32]小野蘭山『本草綱目啓蒙二(東洋文庫五三六)』三一〇三一一頁、東京・平凡社(一九九一)

[33]上原敬二『樹木大図説』第一巻、四三八〜四八六頁、東京・有明書房(一九七七)

[34]平井信二『木の大百科』五六〜六二頁、東京・朝倉書店(一九九六)

[35]許愼・鈕樹玉著・断玉裁注『断句套印本説文解字注(許学叢書本断氏説文注訂)』二五〇頁、台北・漢京文化事業有限公司(一九八〇)

[36]{赤+オオザト}懿行撰『爾雅義疏』一〇六一頁、上海・上海古籍出版社(一九八三)

[37]『五雑組』、長沢規矩也解題『和刻本漢籍随筆集 第一集』一九九頁、東京・汲古書院(一九七四)

[38]前掲文献[24]一〇九四頁。

[39]藤堂明保編『学研漢和大字典』六四二頁、八七六頁、東京・学習研究社(一九八二)

[40]前掲文献[39]八七九頁。

[41]京都大学文学部国語学国文学研究室編纂『天治本新撰字鏡(増訂版)』四〇三頁、京都・臨川書店(一九七九)

[42]狩谷{木+夜}斉『箋注倭名類聚抄』、京都大学文学部国語学国文学研究室編纂『諸本集成倭名類聚抄』四五一頁、五〇九頁、五二一頁、京都・臨川書店(一九八一)

[43]中田祝夫・峯岸明編『色葉字類抄研究並びに索引(本文・索引編)』一〇一頁、東京・風間書房

[44]正宗敦夫校訂『類聚名義抄』第一巻三七二頁、東京・風間書房(一九六四)

[45]深根甫仁『(影鈔)本草和名』一巻四七葉ウラ、台北故宮博物院蔵本(森立之・楊守敬旧蔵)のマイクロフィルム焼きつけによる。

[46]諸橋轍次『大漢和辭典』六巻五八〇頁、東京・大修館書店(一九七一)

[47]『宋本広韻』二五一頁、北京・北京市中国書店(一九八二)

[48]前掲文献[40]三八七頁。

[49]前掲文献[40]四〇七頁。

[50]前掲文献[44]二巻四葉ウラ。

[51]『懐風藻』、『群書類従』第六輯四五五頁、東京・経済雑誌社(一九二一)

[52]前掲文献[51]四六二頁。

[53]前掲文献[51]四六四頁。

[54]前掲文献[51]四六五頁。

[55]前掲文献[51]四六七頁。

[56]『明衡往来』、石川謙編纂『日本教科書大系往来編第一巻古往来(一)』三三一頁、東京・講談社(一九六八)

[57]『東山往来』、石川謙編纂『日本教科書大系往来編第一巻古往来(一)』三八四〜三八五頁、東京・講談社(一九六八)

[58]『菅丞相往来』、石川謙編纂『日本教科書大系往来編第一巻古往来(一)』六一一頁、東京・講談社(一九六八)

[59]吉村誠「万葉集総検索」(http://gnu.ics.meio-u.ac.jp/manyo.html)により検索した。

[60]たとえば前出[32]の『本草綱目啓蒙』や貝原益軒著・矢野宗幹校註『大倭本草』上巻四四五頁、東京・有明書房(一九八三)など。

[61]白井光太郎『植物渡来考』二〇二〜二〇四頁、東京・岡書院(一九二九)ではコノテガシワの渡来は元文二年頃ではないか、としている。

[62]国民図書株式会社編輯『(校註国歌大系第二二巻)夫木和歌抄下』三七九頁、東京・国民図書株式会社(一九三〇)

[63]松田修『増訂万葉植物新考』三二四〜三二六頁、東京・社会思想社(一九七〇)にはオミナエシの異名とする説、開きかけの柏(かしは)とする説、今のコノテガシワとする説、ナラの若葉とする説があるとしている。

[64]山田卓三・中嶋信太郎『万葉植物事典「万葉植物を読む」』四〇〜四二頁、東京・北隆館(一九九六)

[65]前掲文献[64]四八三頁。

[66]丸山林平『定本日本書紀』上巻一五三頁、東京・講談社(一九六一)

[67]前掲文献[66]上巻三五頁。

[68]小野田光雄校注『(神道大系古典編一)古事記』四四八頁、東京・神道大系編纂会(一九七七)

[69]前掲文献[68]四八九頁。

[70]前掲文献[66]上巻九三頁。

[71]前掲文献[66]中巻二三三頁。

[72]前掲文献[62]三七九頁。

[73]前掲文献[62]三八〇頁。

[74]南波浩校註『大和物語(日本古典全書第九十九回配本)』一五八頁、東京・朝日新聞社(一九六一)

[75]国文学研究資料館「二十一代集検索 後撰和歌集」(http: //www.nijl.ac.jp/21daisyu/21daisyu.html)により検索した。

[76]堀内秀晃校注『(新日本古典文学大系一七)竹取物語伊勢物語』一六七頁、東京・岩波書店(一九九七)

[77]柳井滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『(新日本古典文学大系二〇)源氏物語二』四一四?四一五頁、東京・岩波書店(一九九四)

[78]柳井滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『(新日本古典文学大系二二)源氏物語四』四〇頁、東京・岩波書店(一九九六)

[79]前掲注[75]所引URLの「金葉和歌集」により検索した。

[80]久松潜一・山崎敏夫・後藤重郎校注『(日本古典文学大系二八)新古今和歌集』七八頁、東京・岩波書店(一九五八)

[81]前掲文献[62]六八頁。

[82]渡辺直彦校注『(神道大系朝儀祭祀編四)江家次第』六七二頁、東京・神道大系編纂会(一九九一)

[83]松村博司監修『枕草子総索引』四七頁、東京・右文書院(一九六七)

[84]虎尾俊哉校注『(神道大系古典編一一)延喜式上』一一八頁、東京・神道大系編纂会(一九九一)

[85]虎尾俊哉校注『(神道大系古典編一二)延喜式下』三六一頁、東京・神道大系編纂会(一九九三)

[86]前掲文献[85]三六六頁。

[87]前掲文献[85]四二七頁。

[88]前掲文献[85]五七七頁。

[89]前掲文献[85]四七五頁。

[90]柳井滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『源氏物語三(新日本古典文学大系二一)』二二四頁、東京・岩波書店(一九九五)

[91]古閑素子『源氏物語の植物』七七頁、東京・桜楓社(一九七一)