本稿は同仁会の活動前期を主な対象とし、とりわけ日本の大陸拡張過程に果たした以下の役割について扱った。
第一は日本の中国侵略への協力で、これは増大する一方だった。
第二は欧米ライバルの医療文化事業への対抗で、顕著ではないが一定の成果を収めた。
第三は日本の近代医学と医療の普及で、かなりの成果を上げつつあったが、第一に挙げた要因のため失敗に帰した。
すなわち同仁会の活動前期は、時間的にも程度的にも中国侵略への協力がもっとも特徴であったといえる。
同仁会の活動期間は、ちょうど日本が日清戦争後から中国への侵略姿勢を強め、さら日中全面戦争が行なわれた時期に相当する。日本の大陸進出にともない、日本人医師が中国で開業し、満洲や台湾などの日本植民地で病院を建てたりするなど、中国への医療進出も盛んになった。その中で唯一、同仁会は日本による近代医学・医療の普及をかかげ、中国全土で活動した団体だった。蘆溝橋事件以前は直轄病院の運営が中心、以後は診療と防疫班の派遣を主としたので、活動はこの時期を境に前期と後期に大別することができる。本稿ではこの前期を扱う。
近年、近代日本の中国進出に関する研究が各分野で進められている。しかし、医学領域での研究はまだ十分とはいえず、近代文化交流史や植民地史で簡単に触れられるにとどまる。まして同仁会に焦点をあてた研究は少ない。
たとえば黄福慶『近代日本在華文化及社会事業的研究』は一章を設けて同仁会に言及し[2]、結論部では日本政府と民間人の強力な支持と援助のもと、同仁会が「時勢と軍隊」に順応したと評する。すなわち日本の中国侵略政策に協力しつつ、中国での医療活動を展開したと否定的にみる。その一方、同仁会の医療防疫事業と出版物は中国人の医薬衛生知識の進歩を裨益した、とプラス面の影響を認める。先行研究中で同仁会の全貌を唯一詳しく紹介したものであり、活動概況を知るためには有用な資料といえよう。
同仁会が東京で開設した「同仁医薬学校」については、細野浩二「所謂『支那保全』論と清国留日学生教育の様態―同仁会・東京同仁医薬学校を例にして」[3]がある。同校の経緯を紹介し、「支那保全」論的行動を反面教師として培われた中国留日学生の批判意識が、同校を閉鎖に追い込んだと分析。さらに同仁会は日本政府の帝国主義的な東アジア侵略政策を積極的に肯定し、それを自己の存立のいわば保証要件としていたと指摘する。
中山茂「日中科学技術史における国際関係」[4]は、同仁会が欧米の文化事業に対する日本の対抗策だったとし、欧米宣教師と拮抗する見るべき仕事があったという。また一九二〇年代以降、侵略的性格を強めたと判断する。
研究論文ではないが、同仁会の後期の活動を記録し、またその時期の細菌戦への協力を告発した書もある。たとえば同仁会の元幹部・青木義男による『同仁会診療防疫班』は蘆溝橋事件後、同仁会診療防疫班の活動、および漢口治療防疫班防疫部長として同地における活動を記録する[5]。彼は軍への協力を否定できないという一方、中国人に対する診療と近代医学普及上の貢献を強調する。他方、高杉晋吾『七三一部隊ー細菌戦の医師を追え』[6]と七三一研究会『細菌戦部隊』[7]は、ともに同仁会が細菌作戦に裏面協力したことを元幹部の証言や資料から推定し、侵略の手先と見ている。
たとえば最初に掲げた黄福慶の研究は、侵略協力と医学普及の二面性を指摘するが、侵略協力の色彩が増加する過程、および医学・医療普及活動が及ぼした影響のいずれにも論及しない。中国における欧米文化事業への対応にも触れていない。ほかの先行研究も同仁会の一面を示すが、活動全体の内容考察がなされていなかったので、日中関係における同仁会の役割の解明は、いまだ不十分と言わざるを得ない。
よって本稿では同仁会前期の活動内容を整理し、それが日本の大陸進出過程において担った役割を具体的に分析・考察することを研究目的とする。この試みが同仁会研究の空白を埋め、その客観的認識に寄与できるなら幸甚である。なお同仁会後期の活動については今後の課題としたい。
本稿は序論・総括を含め全六章からなる。第一章では設立背景、活動の目的と指針、および人事と運営の状況より、同仁会の性格を分析する。第二章から第四章まではその性格と歴史背景から推量される同仁会の各役割を検証する。すなわち第二章では日本政府の中国侵略との関係を論じ、その役割を分析する。第三章では欧米文化事業への対抗を分析する。第四章では日本の近代医療・医学を普及させた役割を分析する。まとめでは以上四方面の役割の軽重より、総括的な結論を導く。
なお本稿では同仁会の出版物を多く資料に利用した。同仁会は活動と同時に、みずからの歴史を『同仁会二十年誌』『同仁会三十年史』『同仁会四十年史』に編纂している。また機関誌・漢訳近代医書等の出版物も多い。それら自編物の史料性には偏向などの問題が十分予見されるので、可能なかぎり当時の日本・中国の別文献から同仁会関連の記録も捜索し、利用した。これらの抜粋引用において、句読点・仮名遣いは原文のままとしたが、漢字については固有名詞も含めて常用漢字・人名用漢字を用い、それ以外は正字にしたがった。また筆者の文章では人名に敬称を使用せず、国名・地名は誤解の生じない範囲で現在の通称を用い、日本・中国の年号は一律に西暦で表記した。当時の各国通貨単位は文献により表記がまちまちなので、あきらかな日本圓は円、中国圓は中国元、アメリカドルは米ドルに統一して表記したが、いずれか判断不能な場合は文献が記す圓・元のまま引用した。
一九世紀の中頃より欧米各国の宣教師は、中国進入勢力の先駆として布教活動や西洋医学の普及に力を注いできた。日清戦争後こうした対中文化活動が盛んになり、しかもしばしば欧米政府の援助を受けていた。先進国の仲間入りをはたした日本は当然これを看過できず、とくに近代化の牽引役を担った医学界が敏感に反応した。一九〇〇年に八国連合軍が北京に攻め込んだとき、日本赤十字社は欧米諸国に劣らない診療や予防技術を示すため、各国に先駆けて病院船を用意し、戦病傷者の輸送に当たっている[8]。しかしながら欧米宣教師のように、中国各地で診療所や病院を建設しての医療活動をまだ始めていない。それゆえアジアへの医学進出の遅れを批判し、これを呼びかける声が高まった。新聞『医海時報』の同年九月二九日付は、「文明の誘導者」と題する社説でこういう[9](カッコ内は筆者の補足)。
凡そ一国の文明を開拓するに当りて、日進医学の之れが誘発者となるは独り我邦の歴史にのみ見ることにあらず、世界到る所此例甚だ多し、(中略)…我国が東洋平和の為め清韓両国啓発を云ふは、彼れ文明的野心国の類にあらず、実に人道の正しきに出つるを今更論ずる迄もなし、(中略)…然るに我医学社会は今日に至も尚ほ彼れ無限広大の開拓地域あるを知らざるが如くして敢て自から進むの心なく、国家及び一般の社会も亦此医学者なる適当の先導者あるを忘れて毫も之れを応用するを見ず(中略)…目下の国民同盟会を助けて清国保全を唱道するが如き、独り国民として努むべきのみならず日本の医学者として後来医学注入の為めにも少なからざる影響を作るものなるべし、(以下略)。
「清国保全論」とは、欧米勢力の東アジア進出に対抗するための政治論である。ロシアが遼東半島へ、イギリスが山東半島へ進出する当時の形勢下で、日清戦争に戦勝した日本は三国干渉を経て、東アジアの緊張状態に対峙していた。そして小村寿太郎・近衛篤麿などが、文化施設により同文同種の中国と近隣各国の改革を助け、国民の親善をうながし、日本と協力して列強に対抗するよう唱えていた。代表は「東亜同文会」の初代会長・近衛篤麿の主張である。一八九八年の東亜同文会設立に際し、彼は自派の雑誌『中外時論』にこう書く[10]。
東洋は東洋の東洋なり。東洋問題を処理するもの固と東洋人の責務に属す。清国国勢衰えたりと雖も、幣は政治にありて民族に非ず。偕に与に手を携えて東洋保全の事に従うこと敢て難しと為さず。
同仁会の設立を促したもう一つの要因は、中国における日本学習ブームだった。かつて文明先進国だった中国は、敗戦で日本との距離をようやく実感させられている。そこで国家を振興するには、いち早く西洋文明を導入して近代化を達成した日本の経験に学ぶべきだ、との意見が出てきた。
このため一八九六年、清政府は初めて日本に十三名の官費留学生を派遣する。一八九八年には湖広総督の張之洞が『勧学篇』を発表し、日本留学の必要性と利便性を力説し、これを大いに宣伝した。日本留学がブームとなったとき、少なからぬ近代式学校が日本人教師を雇用し始め、近代知識の教育も始まった[11]。
日本学習ブームでも医学は重要な部門だった。原因はやはり日本と中国の近代医学レベルの差である。
明治維新以来、西洋の近代医学は日本で著しく受容と発展を遂げ、近代化の先駆でもあった。一九〇〇年の統計によれば、病院数は八百六十六、医師数は四万九百二十四名であった[12]。初期は主にドイツ医学を範とし、ドイツ人教師を雇い、また留学生をドイツに派遣した。一八七九年、初めて東京大学医学部の卒業生が出てからは次第に優等生を選んで教授に任じ、一九〇二年から一切の教授はみな日本人が担当するようになった[13]。
一方、中国における西洋近代医学の導入は、ほとんどが欧米のキリスト教会によって進められた。一八九八年の統計によれば、教会の医療施設には六十一の病院と四十四の診療所しかない[14]。しかも伝統医学勢力はまだ強く、清政府も近代医学の支持や推進をほとんどしなかったため、導入がかなり遅れていた。そして日清戦争後には他の近代科学部門と同様、近代医学でも両国の差が明瞭となり、中国は日本の西洋医学導入の経験を学ぶようになる。
日本への医学留学生の最初は一九〇〇年だった。魯迅も一九〇二年に来日し、仙台医学専門学校で学んだ初期の医学留学生の一人である[15]。同年に中国で設立された北洋軍医学堂は日本式を模倣して作られ、日本の二等軍医・平賀精次郎を総教習(教務長)に任用したのだった[16]。
中国の日本学習ブームを目のあたりにして、中国への医学進出を急ごうとする声がさらに高まったのに違いない。一九〇一年六月一五日付の『医海時報』社説は「医学の輸出」と題し[17]、こうした影響を如実に現している(カッコ内は筆者の補足)。
(前略)…頃者清国より帰来するもの、北清に在りしと南清にありしを問はす、皆此(日本を頼りにする)傾向の進渉著しきに驚かざる無く、殊に北京に於ける皇族并に大官等が、今回の変動(義和団運動)と共に翻然として勢を変じ、悉く日本熱に罹れる所、終に其の子弟をして俄に日本語を学ばしむるが如きは、寧ろ吾人の予想外とする迄の現象として驚かざるは無し、(中略)…吾人が夙に唱道し来れる、支那開発の先導者たるべき我医学の輸出は於是か益々其の急務を見ると共に、此際先づ第一着手の事業として、朝野の共に盡瘁せんことを祈ざる可らず。
以上のように同仁会の誕生は偶然ではなかった。時勢と深く連係していたのである。この設立背景はおおむね二点に集約できよう。日清戦争後、欧米勢力の拡張に対抗するため日本で唱えられた「清国保全論」、そして中国における「日本ブーム」の発生である。ならば清国保全論と日本ブームに応えて発足した同仁会は、何を活動の目的としていたのか。それは本当に「清国の保全」なのか。あるいは「日本医学の普及」なのか。同会の性格を知るためにも、これらを検討してみたい。
一九〇一年の夏、東亜同文会の前身である東亜同文公司の近衛篤麿・長岡護美・岸田吟香を中心に、医界から片山国嘉・北里柴三郎などが加わり東亜同文医会が組織され、有志に檄を飛ばした[20]。この東亜同文医会が同仁会の前身である。設立に加わった東大医学部教授の入沢達吉はこう述懐している[21](カッコ内は筆者の補足)。
回顧すれば、明治三十四年中のことである。予等知友の間に清韓其他東洋諸邦の生民をして泰西医学の恵徳に浴せしむることを目的とした会合が時々催ほされ、遂に同文医会(東亜同文医会)と云ふものが生まれ出で、其年末に檄文が発表さるるに至つた(以下略)。
同仁会は役員選挙の際、片山・岡田和一郎などが会長に近衛を推薦し、就任を懇請した。しかし近衛はすでに東亜同文公司の会長をつとめているなどの理由で辞退し、同公司の副会長だった長岡護美を会長に推薦、当会を内部から援助することを約束した[24]。
同仁会の発起人中、岸田吟香が東亜同文会の役員であること、またその副会長だった長岡が同仁会の会長に就任したことも、東亜同文会が同仁会の後ろ楯であった可能性を十分に推測させよう。
そこで、さらに同仁会と東亜同文会の主旨と綱領を比較してみたい。同仁会の設立に東亜同文会が深く関与しているらしいので、比較・検討により同仁会の活動目的と指針を一層理解できるかもしれないからである。
一九〇四年一〇月一〇日、以下の同仁会の主旨書と綱領が発表された[25](カッコ内は筆者の補足)。
主旨書:(前略)…斯(医)学発達の趨勢之を西より東に致せしめに因る。唯幸にして此間独り我国の存するあり、夙に斯学を吸収消化し今や東洋唯一の代表者として雄を世界の学壇に競ふに至れり。則ち我国の先づ茲に得たる所を取つて、彼友邦の欠けたるを救ふは当に東洋啓発を以て天職とする我国の責任にして、又医学本来の目的に添ふべき神聖なる斯学者の義務と云ふべし(以下略)。
綱領:清韓及び其他東洋諸国に我日進医学を注入し、其の人衆をして均しく斯学の恩沢に浴せしむ。右等諸国における医事衛生上一般の改善を助成す。
右に関し必要なる一切の方法を討究し且つ実行を期す。
主旨書:日清韓三国の交や久し、文化相通じ、風教相同じ、情を以てすれば脣歯の形あり、(中略)…なんぞ図らん、前年旻天弔せず、兄弟牆に鬩ぎ、而して列国隙に乗じ、時局日に艱なり。(中略)…此時に当りて上は即ち三国政府、公を執り礼を尚び益々邦交を固くすべく、下は即ち三国商民須らく信を守り、和を共にし、弥々隣宜を善くすべく、三国士大夫即ち中流の砥柱となり須らく相交はるに誠を以てし、大道を講明し以て上を扶け下を律し同じく盛強を底す可きなり(以下略)。
綱領:一 支那を保全す。二 支那及び朝鮮の改善を助成す。三 支那及び朝鮮の時事を討究し実行を期す。四 国論を喚起す。
ところで東亜同文会が活動を始めてまもなく近衛が死去し、会は中国で主に文化教育事業を中心に運営された。その一方で日本政府への情報蒐集と提供機関の側面もあったため、文化侵略の先兵だったとの見方がある[27]。ならば東アジアの情勢がいよいよ緊張を深める中、同仁会も掲げたスローガンの背後に他の目的が隠されていたのではなかろうか。その真の活動目的と指針を探ってみたい。
さて同仁会の主旨・綱領の設定に先立つ一九〇四年八月、長岡は都合により会長を辞任している。これにともない、役員の懇請で当時政界を離れ文化活動に尽力していた大隈重信が会長を引き受けた[28]。一九〇六年六月の『同仁』誌創刊号で、大隈の「清国開発の第一義」はこう記している[29](カッコ内は筆者の補足)。
(前略)…此(日中の医師)共同の働きは直接に同仁会の利益にして間接には日清両国の友誼の上に大なる力を添へて両国の利益を助長することが多いのである、而して間接に於ては列国平和の事業上に対しても大なる効力がある(以下略)。
(前略)…要は支那に対け(ママ)る国民外交の発達を希図し施ひて支那との国際親善を厚くし、人道主義を発揚すると同時に、我が国家の支那に対する政治上外交上経済上等の稗益を謀らんとするにあるのである。(中略)…若し夫れ平和が克復し、欧州各国が其常態に復するの暁は、(中略)…彼等の勢は澎湃として巨浪の天を打つが如く支那に殺到し来らん豈に恐れて懼れざるべけんやである。斯る形勢の上に於て、(中略)…医術医学を以て彼の人民の病苦を救済し以て彼等を懐柔し、彼我人民の関係を親密ならしむる同仁事業のごときは、実に百年の長計にして又た焦眉の急務であらねばならぬ(以下略)。
当演説より少し前の一九一五年一月、大隈内閣は欧米列強がヨーロッパで戦争している間隙をつき、中国での不安定な日本の権益を強めようと企て、露骨な侵略的「二十一か条の要求」を中国につきつけている。しかも第一次世界大戦が終結するなら、列強の視線がヨーロッパからふたたびアジアに向かうだろう、と大隈演説は予測している。こうした背景があって、欧米勢力を牽制して「我が国家の支那に対する政治上外交上経済上などの稗益を図る」を活動目的、「医学医術を以て彼の人民の病苦を救済し以て彼等を懐柔し、彼我人民の関係を親密ならしむる」を活動指針とした、と読み取れよう。
一方、彼がいう「支那との国際親善」は、直接は日本の国益に結びつかないように見える。しかし、この年三月一八日の上海での反日大会で日貨不買が決議されるや、その動きは中国全土に拡大していた[31]。むろん大隈がこれを知らないはずはない。こうした中国での反日運動や日本商品のボイコットに対し、同仁会が医療活動で好感と信頼を与えれば、反日感情を和らげ、欧米の影響も払拭できる。それが日本に「政治上外交上経済上などの」利益をもたらすと想定したのであろう。同仁会活動の意図に、中国国民の懐柔、欧米勢力への効果的牽制が追加されたのである。
なお大隈の演説は韓国に言及していない。しかし韓国は当時すでに日本の植民地であると同時に、同仁会も同地で活動していたので、中国のケースは参考になるであろう。
以上のように、同仁会の活動目的は「アジアにおける日本の政治上外交上経済上などの稗益を図る」、活動指針は「それらの国の国民の病苦を救済し以て彼等を懐柔し、彼我人民の関係を親密ならしむる」ことに変質していた。ならば同仁会は単に医学・医療の普及を図る平和団体といえなくなる。日本政府の対アジア侵略政策との関連からその性格を再検討すべきだろう。同仁会の人事と運営の面からこれを考えてみたい。
初代(一九〇二年六月〜一九〇四年八月)
会長:長岡護美(東亜同文会副会長)
副会長:片山国嘉(東大医教授)
常務理事:岡田和一郎(東大医教授) 吉田迂一(退職陸軍医) 足立忠八郎(東京高商教授) 園田孝吉(十五銀行頭取、正金・日銀・帝国倉庫取締役)
理事:佐藤進(順天堂病院長) 丹波敬三(東大薬教授) 清水彦五郎(東大書記官) 石川清忠(不明) 山根正次(衆議院議員・日本生命取締役・日本医学校長) 青山胤通(東大医教授) 嘉納治五郎(東京高師校長) 森田茂吉(農商務省商工局長) 山座円次郎(*外務省政務局長)
監事:永井久一郎(日本郵船横浜支店長) 北里柴三郎(伝研所長)
第二代(一九〇四年八月〜一九二二年一月)
会長:大隈重信(早稲田大学総長、一九一四年四月〜一九一六年一〇月は首相)
副会長:佐藤進
常務理事:岡田和一郎 ○栗本庸勝(内務省衛生局警察医長四等) 園田孝吉
理事:○窪田静太郎(内務省衛生局長) 山田烈盛(不明) 山口秀高(医学博士) 丹波敬三 清水彦五郎 山根正次 嘉納治五郎 森田茂吉 山座円次郎
監事:永井久一郎 箕浦勝人(*大隈内閣逓信大臣)
第三代(一九二五年二月〜一九三五年五月)以上の役員の正職からすると、会長は各時期の外交に影響力のある人物、副会長は医学界の重鎮、常務理事を含む理事の多くは医学界と経済界の有力者が就任、というパターンが一定している。また第二代からは政府の衛生部門の官吏、二十年代の第三代からは大臣級の官吏・経済実力者が多数加わる傾向がでてきた。さらに本稿が論述する同仁会の活動時期を超えるが、一九三九年一〇月に近衛文麿が会長に就任してからは役員に軍医関係者が増加する。
会長:内田康哉(外交官、西園寺公望内閣・原内閣敬などの外務大臣)
副会長:入沢達吉(東大医教授) 江口定条(満鉄副総裁)
専務理事:小野徳一郎(弁護士)
理事:五百木良三(『日本及日本人』主幹) 稲田竜吉(東大・九大名誉教授) 秦豊助(*犬養内閣拓務大臣) 秦佐八郎(慶大医教授・北研副所長) 岡田和一郎 金杉英五郎(貴族院議員・慈恵医大学長) 長与又郎(東大総長) 倉知鉄吉(貴族院議員、錦華紡績・中日実業取締役) 町田忠治(*若槻内閣農林大臣) 藤山雷太(貴族院議員・藤山同族社長) 児玉謙次(正金頭取) 有賀長文(三井報恩会評議員) 鈴木梅四郎(共同火災取締役)
監事:大橋新太郎(貴族院議員・満鉄監事・京城電気社長)
このような役員構成から見ると、同仁会は政府の対外政策に協力する姿勢を最初から備え、かつ時代とともに事業家の財力を求める一方、政府に近づいていくのが分かる。
一九〇四年八月に大隈重信が会長に就任すると、同年一一月から一九〇九年一一月まで四回にわたり早稲田大学の自宅で同仁会大会を開催し、事業宣伝に努めている[34]。また同会は「財団法人同仁会規則」を制定し、「本会の目的事業を賛成し本会に金員を寄付したるものを会員とす」ることにした。さらに寄付者を金額により、「有功会員」「特別会員」「正会員」に分けている[35]。一九〇七年九月には宮内省より、昭和天皇の賞金五千円も受けた[36]。
以上のように、同仁会の発足した当時は主に会員の寄付によって運営されている。設立から一九二二年までに受けた寄付金は百二十八万円に達し、二三年また三十二万円を募集している[37]。一方、事業の発展につれ、中国本土に大規模な病院を建設する十年計画が一九一八年に立てられ、その実施には国庫補助を申請するようになった[38]。それで一九一八年から正式に国庫補助を受け始め、年間十万円から漸次増額され、一九二三年には合計百万円に達していた(表1)。
その後、国庫補助金は寄付金を大きく上回り、一九三六年まで毎年約三十〜四十万円を受けている(表2)。それと同時に、寄付金の金額は下落した。一説には、第一次世界大戦後の経済恐慌の頃から、募金は困難になったという[39]。要するに、「明治・大正時代、主として会員の寄付金によって動いた同仁会は、昭和年代、特に日中戦争期に入った後、ほとんど国費によって運営されていたということができる」[42]、という状態だった。ちなみに表1と表2の「その他」は、預金利子・前年度繰り越し金・事業収入などを含む。
さて同仁会が中国で病院を運営するようになると、その診療収入も同仁会の「その他の収入」の一部に計上されてくる。額は各病院ごとにまちまちだが、一九二五年に運営開始の青島病院が比較的多い(表3)。もちろん表1と2に示されるごとく、「その他の収入」はいずれも国庫補助金と比べものにならない。同仁会の病院は自給自足の面があるものの、基本的には国庫補助、すなわち日本政府の援助で運営されていたことになる。こうした資金調達のため、同仁会は政府にますます依存する性格を強めたといえよう。
同仁会は「清国保全論」の提唱と中国の日本ブームの背景で生まれ、実際はアジアにおける日本の国家利益を確保するための団体として発展していく。この「利益」とは、大隈のいう「政治上・外交上・経済上の稗益」におよそ相違なかろう。
一方、設立当初こそ民間団体の色彩を帯びてはいたが、次第に政府の資金援助に依存するようになった。二〇年代後半からの日中関係悪化につれ政府の関与が顕著になり、ほとんど政府直轄団体ともいえる状態まで変質した過程も、人事・資金の両面から明らかできた。こうした同仁会の性格を結論づけるなら、アジアにおける日本の権益拡大を達成するための「対アジア利益医療団体」、といっていいかも知れない。
国家間の利益獲得手段はきわめて多方面にわたり、強国が弱国に武力進入するのはその一つに過ぎない。ただし武力進入の過程でも相手国民の感情を懐柔し、あるいは自国軍の活動を背後から「民間」の形態で支援する作業は、いうまでもなく軍事的に必要不可欠なのである。
同仁会の性格からすると、あるいはそうした役割を担った可能性すら想定しなければならないだろう。そこで以下の章では、同仁会が日本の蘆溝橋事件までの中国進出期にいかなる活動をしたのか整理し、その役割を具体的に分析してみることにしたい。
引用文献と注
[1]丁蕾「同仁会の機関誌『同仁』について」『日本医史学雑誌』第四十四巻二号、六四〜六五頁、一九九八年。
[2]黄福慶『近代日本在華文化及社会事業之研究』六九〜一一二頁、三〇二〜三〇四頁、台北・中央研究院近代史研究所、一九八二年。
[3]細野浩二「所謂『支那保全』論と清国留日学生教育の様態―同仁会・東京同仁医薬学校を例にして―」『早稲田大学史紀要』八、八四〜八五頁、一九七四年。
[4]中山茂「日中科学技術史における国際関係」吉田忠・李廷挙編『日中文化交流史叢書(8)科学技術巻』四七六〜四七七頁、東京・大修館書店、一九九八年。
[5]青木義男『同仁会診療防疫班』、長崎・長崎大学細菌学教室、一九七五年。
[6]高杉晋吾『七三一部隊−細菌戦の医師を追え』第二章「細菌戦を支えた民間同仁会」五四〜六三頁、東京・徳間書店、一九八二年。
[7]七三一研究会編『細菌戦部隊』二九四〜二九七頁、東京・晩声社、一九九六年。
[8]前掲文献[4]、一頁、一九七五年。
[9]「医海時報」三三〇号、一頁、東京・医海時報社、一九〇〇年。
[10]竹内好『日本とアジア』四二三頁、東京・筑摩書房、一九九三年。
[11]実藤恵秀『中国人日本留学史』一五頁・四一〜四二頁・八八頁、東京・くろしお出版、一九六〇年。
[12]厚生省医務局編『医制百年史』五六五・五七三頁、東京・ぎょうせい、一九七六年。
[13]富士川游『日本医学史』七三二〜七三三頁、東京・日新書院、一九四一年。
[14]王吉民・伍連徳『中国医史』付録「大事記」、上海、一九三六年。
[15]馬伯英ら『中外医学文化交流史』四四七頁、上海・文匯出版社、一九九三年。
[16]前掲文献[15]、四五五頁。
[17]「医海時報」三六七号一頁、東京・医海時報社、一九〇〇年。
[18]李廷挙「近代日本科学技術対中国的影響」李廷挙・吉田忠主編『中日文化交流史大系 科学巻』二九二頁、杭州・浙江人民出版社、一九九六年。
[19]『同仁会四十年史』二頁、東京・同仁会、一九四三年。
[20]前掲文献[19]、六頁。
[21]『同仁会三十年史』序三頁、東京・同仁会、一九三二年。
[22]前掲文献[21]、二頁。
[23]前掲文献[21]、四頁。
[24]前掲文献[21]、三頁。
[25]前掲文献[21]、五〜六頁。同文は注[32]所引文献『同仁会二十年誌』二二〜二四頁にも引用されている。
[26]前掲文献[10]、四二一〜四二二頁。
[27]前掲文献[2]、三〇二頁。
[28]前掲文献[21]、三五五頁。
[29]『同仁』一号六頁、東京・同仁会、一九〇六年。
[30]『同仁会事業概要』二〇〜二二頁、東京・同仁会。当文献は同仁会が各界に募金を要請する際、パンフレットとして配布したものらしい。またここに引用した大隈の演説文は後半で具体的目標額をあげて募金を要請しているが、当文は他の同仁会が編刊した文献にはみえない。大隈が活動意義を赤裸々に語っているためかも知れない。
[31]夏林根ら『中日関係辞典』五三二頁、大連・大連出版社、一九九一年。
[32]名簿の第一代、第二代は『同仁会二十年誌』(東京・同仁会、一九二五年)一七・七三頁、第三代は前掲文献[21]の五二〜五三頁による。肩書きは前掲文献[5]、四〜五頁による。*印を付けたのは『新版日本外交史辞典』(東京・外務省外交史料館、一九九二年)による。○印を付けたのは『衛生局年報』二頁(内務省衛生局、一九〇九年)による。
[33]前掲文献[19]、四三頁。
[34]前掲文献[21]、四四〜四九頁。
[35]注[32]所引文献、『同仁会二十年誌』一九四〜一九五頁。
[36]前掲文献[19]、グラビア一頁「光栄之一」による。
[37]前掲文献[2]、七三頁。
[38]前掲文献[21]、二三〜二四頁。
[39]前掲文献[19]、六七頁。
[40]注[32]所引文献、『同仁会二十年誌』二二八頁の「年度別決算一覧表」による。
[41]前掲文献[19]の付録「収支決算累年比較表」による。
[42]前掲文献[4]、七頁。
[43]前掲文献[21]、三四二頁の付録「同仁会医院年度別診療収入表」による。