明・無名氏本は、刊本が北京・中国科学院図書館に、刊本にもとづく影写本が台北・故宮博物院に現存することが真柳・小曽戸により既に確認・ 報告 さ れている(1)。したがってここではその所蔵状況・版式・伝承経緯の詳細について言及しない。
中国科学院所蔵刊本(以下「刊本」)と故宮博物院所蔵影写本(以下「写本」)について詳細な比較を行ったところ、文字の違いが少なからず見 られ た。これらのほとんどは刊本の文字が解釈上妥当と判断されるが(2)、一部は写本に妥当性が認められる(3)。 しかし真柳・小曽戸が指摘するごとく、その 版式の一致から、写本の底本と刊本は全くの同版であるとみなされる。刊本と写本の異同はおそらく、写本作成の際に生じたものであろう。したがって、無名氏 本を校勘に用いる際は刊本を使用し、刊本の欠部を写本で補うようにしなければならない。
一九二九年に上海の涵芬楼が当版を『四部叢刊(初編)』に影印収録し(4)、日本でもそれの再影印本がかつて 出版された(5)。この 涵芬楼 旧蔵の 明刊本はその後、所在不明となり、現在に至るまで明刊兪橋本の原本は発見されていない(6)。
『経籍訪古志』には「兪子木本、唯有皇国旧刊」(7)と、和刻本の存在のみ記されており、明刊本は江戸時代後期の日本に伝 存しなかったと 思われ る。したがって考証学派の諸医家が『金匱要略』の校勘や底本に使用したのは、和刻本ということになり、彼らの諸著作はこの点で注意しなければならない(8)。
兪橋本は、宋臣序、無名氏小序に続けて、兪橋の識語が四行にわたり付刻されている。ただし刊行経緯は「嗟予小子、幸獲伏読、敢不宝惜。山 南真逸兪 橋識」と記されるのみで、他に兪橋の序跋や刊記もなく、具体的な刊年やその底本を示す記述はない。
兪橋については『海寧県志』に記述がある(9)。これによると、彼は儒と医に通じ、嘉靖年間(一五二二~六六)に太医院判 を累官し、著書 に『医学 大原』(10)がある。
『医学大原』の成立年・刊行年は未詳であるが、同じく兪橋撰とされる『広嗣要語』の原刊は、嘉靖年間である(11)。また 明・郭鑒著『医方 集略』 (内閣文庫蔵、朝鮮刊本)は兪橋の医説や治療法を多く載せる(12)が、『医方集略』は嘉靖乙巳(一五四五)跋刊である(13)。 したがって兪橋の活躍し た年代は嘉靖年間と推定される。
よって、兪橋本の刊年はおよそ明・嘉靖年間と推定される。真柳・小曽戸は無名氏本をその版式から明の正徳・嘉靖年間(一五〇六~六六)頃の 所刊と鑑 定しており(14)、無名氏本と兪橋本の刊行年代は近接していることがわかる。
真柳・小曽戸は無名氏本と兪橋本に共通する特筆すべき特徴を指摘している(15)。それは、主治条文の末尾に て個々の処方名を「後 方」と略 称し、 「用後方主之」「用後方」などに作る部位が一致すること。本来あるべき文字が版木中で彫られず、黒く印刷される墨格の部位などが一致すること。前後からみ て明らかに鄧珍本に妥当性が認められる文字を、意味が不通となる類似した字形の文字に作る部位が両者で一致すること。無名氏本と兪橋本はいずれも、ちょう ど鄧珍本の第二五葉全文に相当する文章を欠落していることである。
さらに真柳・小曽戸は無名氏本が兪橋本の底本である可能性、兪橋本が無名氏本の底本である可能性があり得ないことを証明し、「両者の底本は同系統 であり、それらは刊本ないし写本の共通祖版から派生している」とした。真柳・小曽戸はこの共通祖版をX本と呼ぶ(16)。本研究で もこの呼称を用いること にする。
X本はいかなる版本であったのだろうか。一見して無名氏本・兪橋本は宋版風の字体と体式を備えているように見える。しかし北宋版は現伝せず、どの ような体式をもっていたのか明らかではない。そこでまず北宋版の体式・旧態を推測してみたい。
真柳・小曽戸は『金匱』の北宋祖版に、以下五点の特徴があったであろうことを推測している。それは、①書名に「新編」の二字を冠するこ と。②宋臣 序に続け、低書で撰者無記の小文を付刻すること。③宋臣序の書式は、文中でもっとも敬畏すべき「主上(天子)」を改行して行頭に置く平擡で記し、これに次 ぐ「国家」「太子(皇子)」についてはその上の一字分に文字を記さない空格とすること。④本文各巻頭で書名の次に記される撰編者名を、林億・王叔和・張仲 景の順に配列し、通行諸版の順次と正反対であること。⑤本文全体の書式に、行頭から書くものと一字下げて書くものの相違が見られること(17)、 である。
これら五点についてさらに仔細に検証してみよう。
鄧珍本は書名を「新編金匱方論」とする。無名氏本・兪橋本は「新編金匱要略方論」とする。徐鎔本は宋臣序頭・目録頭・巻中冒頭と末尾・巻 下冒頭に おいては「金匱玉函要略方論」とし、巻上冒頭は「新編金匱要略方論」とする。趙開美本は「金匱要略方論」とする。
以上より、書名についてはそれぞれ「要略」、「新編」、「玉函」の三点の有無が問題であることがわかる。それでは北宋版の書名はどのようで あっただ ろうか。
まず「要略」の有無について検討してみたい。宋臣序に「依旧名曰金匱方論」とあり、「要略」の二字を記さない。よって北宋祖刊本に「要 略」の二字 はなかったように思われる。
しかし真柳・小曽戸は、祖刻版~金初間通行本において書名に「要略」の二字を欠いていなかったであろうという。その根拠として、『千金方』 (一〇六 六年刊)、『脈経』宋臣注(一〇六八年校訂)、『素問』宋臣注(一〇六八年頃刊)、『脈経』国子監牒文(一〇九四年)、北宋・朱肱『(重校証)活人書』 (一一一八年序)の本文と細字注文、金・成無己の『傷寒明理論』(一一四二年序)と『注解傷寒論』(一一四四年序)に「金匱要略」「要略」などの字句が見 られることを挙げる(18)。また筆者の知見によると、南宋・劉昉『幼幼新書』(一一五〇年刊)は「金匱要略」を引用し(19)、 『宋史』(一三四五年) 芸文志も「金匱要略方三巻」(20)と著録する。
「要略」の二字を欠き「金匱方論」とする記載には、『玉機微義』(21)(一三九六年序)がある。さらに真柳・小曽戸は、 『永楽大典』 (一四〇八 年成)、『文淵閣書目』(一四四一年成)、『医方類聚』(一四七七年刊)を挙げる(22)。ただし、これらはみな鄧珍本の刊年(一 三四〇年刊)より後に成 立しており、鄧珍本の書名による可能性もある。したがって真柳・小曽戸説のとおり、鄧珍本が「要略」を欠く点は北宋祖版の旧態ではなく、鄧珍もしくはそれ に至る間の改変と考えることができる。
しかし、「金匱方論」が北宋祖版の書名であった可能性も完全には否定できない。皇帝の命をうけて刊行された医書の書名として「要略」が含ま れること はふさわしくなく、宋臣達が「要略」二字をあえて書名に用いなかった可能性もある。北宋八代皇帝徽宗の命による勅撰の医学全書『聖済総録』(一一一一~一 八成)(23)には「金匱方云」として『金匱』を引く箇所がある(24)。『金匱』宋臣序や『聖済総録』は ともに国家・皇帝に国家に上奏する目的がある。 あるいは同様の目的を持つ『金匱』大字本では「要略」二字を欠き「金匱方論」と刻されていたのかもしれない。だがいずれにせよ、祖刊本以降、本書が広く 「金匱要略」と通称されていたことは疑いない。
次に「新編」二字の有無について検討してみよう。書名に「新編」を冠する理由について森立之は次のように考証している(25)。
其冠新編二字者、必是宋版之面目、兪橋本全同。凡宋臣校書之例、拠旧本加校正者、 曰重広 (素問)、曰重修(広韻)、曰重定(開宝本草)。如金匱、則就鈔本校成一書、又採散在諸家之方、附於逐篇之末、所以題曰新編也。
宋臣の校訂により出版された書物は「重広」「重修」「重定」などが書名に付される。『金匱要略』は校正だけにとどまらず、諸医書中の雑病 の処方を 附方として各篇の末に付け加えたので「新編」の二字を付したのである。よって、「新編」を書名に冠することは北宋祖刊本の旧態と認められよう。
ただし「新編」の有無は、書名で他書と判別する場合に大きな意味はなく、省略しても不都合は生じない。前述した引用や目録の記載に「新 編」二字を 欠くのは、この理由によるためであろう。
最後に③の「玉函」二字の有無についてであるが、「玉函」を付すものは現存古版本中では徐鎔本のみである。徐鎔はその序に以下のように述 べ、「玉 函」二字を付すことを主張する(26)。
つまり徐鎔には北宋祖版の書名を踏襲しようという意識はなく、宋以前の旧に遡る目的で「玉函」を加えているのである。森立之が指摘してい るごとく(27)、宋臣序の「金匱方論」という記述から考えて、「玉函」の二字は北宋祖版の書名になかったはずである。
『金匱要略』には宋臣序に続け撰者無記の小文があるが、この小文の有無は版本によって違う。現存古版本のうち、徐鎔本以外の版本にはすべ てこの小 文が付刻されている。
多紀元簡が指摘するように(28)、当小文は『肘後方』の序と一部類似する。元簡によれば、唐末に節略書を作成した者の所 撰とする。また 葛洪の所 撰とする見解もある(29)。いずれにせよ当小文は北宋祖版の底本である節略写本に付記されていた文章であり、北宋祖版に付刻され たものであることも間違 いない。
真柳・小曽戸は、「宋臣序は『金匱要略』の由来・校訂経緯・内容等をただ単に紹介するためだけでなく、当書を天下に頒行することを含めて 国家に上 奏する目的で記されている。したがって君主・国家等に関する字句については、本来それらへの敬畏を書式上に明示していなければならない」(30)と いう。 宋臣序では「国家」「主上」「太子」の三字句に注意が払われている。具体的には改行して行頭に置く、これらの字句の前に文字を置かず空格とするなどの措置 がなされている。趙開美本以外の現存古版本にこの例が見られる。またこれらの書式は、『外台秘要』『千金方』の宋臣序にも見られる。
各巻頭で書名の次に記される撰述者名には、林億・王叔和・張仲景と後代の人物から配列する版本と、これとは逆に前代の人物から配列する版 本があ る。鄧珍本・無名氏本・兪橋本は前者であり、徐鎔本・趙開美本は後者である。
より後代の人物から配列する書式は、書物の増訂・改訂・再版に際し後から加えた序などを前置するのと同様、古い体式である。多紀元簡は 「此古人修 書経進之体式」(31)といい、これを宋版の旧態とみなしている。
鄧珍本には、論や脈証の記述を行頭から書くものと一字下げて書くものの相違、一文が二行以上にわたる場合、第二行目以降を行頭から書くも のと一字 下げて書くものの相違が見られる。
本文全体を通じてこの特徴が顕著に見られるのは、鄧珍本と徐鎔本のみである。この書式は本文の内容に直接関連するものではないため、伝承 過程で失 われる運命にあったのだろう。にもかかわらず、現存最古版本である鄧珍本にこの書式が見られるから、北宋祖版にもやはりこの特徴があったと筆者は考える。
以上より、書名、無名氏小序、宋臣序の書式、撰編者名の記載順次、本文の書式の五つにおける宋版の特徴が推知されたことと思う。これらの
特徴は、
本文の内容・解釈に影響しないためか、現存古版本に残されるほか、ほとんどの通行本で失われてしまっている。
無名氏本・兪橋本の共通祖版たるX本は現伝せず、ただその存在が推定されるのみである。しかし無名氏本と兪橋本の書式における共通特徴は X本に由 来すると見て間違いなく、ある程度X本の様子を知ることができる。本節ではX本の書式特徴を無名氏本・兪橋本から推測し、現存最古版である鄧珍本と比較し てゆく。
無名氏本・兪橋本とも「新編金匱要略方論」であり、X本も同様であったはずである。先述したとおり、「新編」二字を冠する点は北宋版の旧 態とみな しうる。鄧珍本の書名は「新編金匱方論」と「要略」の二字を欠いているが、先述したとおり、本書は祖刊本以降、広く「金匱要略」と通称されていた。X本の 書名には「要略」の二字があるため、鄧珍本以前の版本を参照していた可能性もありうる。
無名氏本・兪橋本とも宋臣序の後に付刻されている。したがってX本にも当小序が付されていたことは間違いない。現存最古版の鄧珍本にも当 小序が付 刻されている。
無名氏本・兪橋本とも宋臣序の「主上」「国家」「太子」の字句に対し、書式上で敬畏されている。無名氏本は最も敬畏すべき「主上」を改行 により行 頭に置き、「国家」「太子」についてはその上の一字分を空格とする。
それに対し兪橋本は、「主上」は改行により行頭に置くだけでなく、「太子」も改行して低書としている。「国家」は偶然にも行頭あるため、書 式上、特 別な措置はなされていない。つまり、兪橋本では「国家」「主上」「太子」全てに対して、これらの字句の上に文字を置かない。したがって一見これらの字句に 最も敬畏を払っているように見受けられるが、鄧珍本や無名氏本のそれとは異なっており、兪橋独自の見解によった書式とみられる。
よってX本においては宋臣序の書式は無名氏本のごとくであったと推測される。そしてこの書式は鄧珍本と一致している。
無名氏本・兪橋本とも、林億・王叔和・張仲景と後代の人物から配列しており、X本もこの体式であったはずである。当書式も鄧珍本と一致し ている。
本文における鄧珍本のごとき字下げは、無名氏本・兪橋本とも「臓腑経絡先後病脈証第一」において見られるものの、それ以後の篇においては ほとんど 見られない。したがって共通祖版であるX本において、本文の書式はすでにその大部分を失われてしまっていると考えられる。
X本のこれらの体式・書式は、現存最古版である鄧珍本とおおむね一致している。本文の書式はほとんど失われてしまったものの、書名につい てはある いは鄧珍本を遡る旧を保存していると考えることもできる。よって、次節では鄧珍本とX本の関係を字句の比較を中心に考察したい。
X本と鄧珍本の関係についてはすでに真柳・小曽戸の研究があり、X本の主たる底本が鄧珍本の後印本であることが推定されている。その根拠に無名氏本・兪橋 本が、現伝する鄧珍本(後印本)の不鮮明な文字を一致して空格とする例、その字を脱字とする例、その字を明らかな誤字に作る例を挙げる。さらに鄧珍本と両 版が共通して一致した部位で薬量の記載や方後の文章を明らかに欠落する例、目録の一ヵ所でのみ「丸」を「圓」に作り「八味圓」と表記する例、「生薑」「乾 薑」を全書にわたり「生姜」「乾姜」に作る例も指摘している(32)。
ただし、真柳・小曽戸は「X本の一部に、鄧珍本と別の版本が参照されていた可能性を必ずしも否定できない」(33)ともい う。それは鄧珍 本に見え る明らかな誤字や嫌疑の持たれる字句を、両版は稀に一致して妥当性の認められる字句に作る例があること、両版が鄧珍本の書名を踏襲せずに「新編金匱要略方 論」とすることによる。
以上のように、真柳・小曽戸はX本が鄧珍本を遡る別の版本を校訂に使用していたか否かについては、未だ明確な答えを出し得ていない。そこ でこの問 題についてさらに考察してみよう。
前述したように、X本が鄧珍本を底本とすると考えられる主たる根拠に、両版が鄧珍本の不鮮明な文字を一致して空格とする例(34)、 その 字を脱字 とする例(35)、その字を明らかな誤字に作る例がある(36)。これらのケースは上中下三巻にわたって見 られた。
一方、X本が別の版本を参照していた可能性を示唆するのは、鄧珍本に見える明らかな誤字や嫌疑の持たれる字句を、無名氏本・兪橋本が稀に 一致して 妥当性の認められる字句に作る例があることである。このケースもまた上中下巻にわたって見られる(37)。したがって、もしX本の 作成者が別の版本に基づ いて鄧珍本の明らかな誤字等を訂正したならば、それは『金匱』全文に及んでいるはずである。
しかし一方で、X本は全書にわたり鄧珍本の不鮮明な文字を空格・脱字としたり、誤字に作る。もしX本の作成者が別の版本を参照していたなら ば、この ようなことは起こり得ない。したがってX本の作成者は別の版本ではなく、自己の見解に基づいて校訂した可能性が高い。X本の作成者に医学と文字の知識があ れば(38)、明らかな誤字や嫌疑の持たれる字句を改めることは十分可能である。
(ⅰ)無名氏本と兪橋本は共通祖版(X本)から派生していると考えられる。
(ⅱ)鄧珍本とX本の書式はおおむね一致している。
(ⅲ)X本には、鄧珍本が版木摩耗により印刷不鮮明である箇所の字句を、空格・脱字・誤字とする例が見られ、鄧珍本の後印本が底本であると 判断でき る。
(ⅳ)X本には、鄧珍本の明らかな誤字や嫌疑の持たれる字句を、妥当性の認められる字句に作る例が見られる。これらは別の版本ではなく、自 己の見解 に基づいて校訂したと見られる。
(1) 真柳誠・小曽戸洋「『金匱要略』の文献学的研究・第二報―明・無名氏刊『新編金匱要略方論』とその版本系統」『日本医史学雑誌』三五巻四号、 四〇八~四二九頁、一九八九。
(2) 写本は、目録九a一で刊本「治食鬱肉漏脯中毒方」を「治食鬱肉滿脯中毒方」に、上一五b九で刊本「附膠」を「削膠」に、上一五b九で刊本「赤 消」を「赤苗」に、中七b四で刊本「支飲胸満者」を「攴飲胸満者」に、中一〇b二の刊本「冒者必嘔」を「肩者必嘔」に、中一五a二の刊本「趺陽脈当伏」を 「趹陽脈当伏」に、中二一a二の刊本「寸口脈浮而緩」を「十口脈浮而緩」に作るが、いずれも刊本の文字が妥当である。
(3) 写本に妥当性の認められる文字に以下の二例がある。中三b八で刊本「脈在右積在右」を写本は「脈出右積在右」に作る。中一六a四で刊本「少陽 脈卑」を写本は「少陽脈革」に作る。
(4) 『四部叢刊(初編)』子部、第三六九~三七〇、涵芬楼、上海、一九二九。
(5) 『〔明刊影印〕金匱要略』、燎原書店、東京、一九七三。
(6) 小曽戸洋『中国医学古典と日本―書誌と伝承』三〇八頁、塙書房、東京、一九九六。
(7) 森立之ほか『経籍訪古志』、『近世漢方医学書集成』五三所収、三九四頁、名著出版、東京、一九八一。
(8) 和刻兪橋本を校勘・底本に利用する書に、多紀元簡『金匱要略輯義』、豊田省吾校訂『〔新校〕新編金匱要略方論』、山田業広『金匱要略札記』、 森立之『金匱要略攷注』などがある。
(9) 清・陳夢雷ほか『〔新校本〕図書集成医部全録』(巻五一三・医術名流列伝所引、人民衛生出版社、北京、一九六二)に「按海寧県志、兪橋少業 儒、究心理学、兼精岐黄術。嘉靖中、以名医被徴、累官太医院判。橋於方書無所不晰、更博詢諸名家、得河間・潔古・東垣未刻諸稿、及古今秘方、斟酌損益之以 治病、無不奇験。居京師、恥事権貴、而貧家延之、必尽心療治、以故名愈藉藉、而家日窘、士大夫雅重之。著『医学大原』一書、蒐輯枢素以下諸家有関証脈者、 次以賦括、令業医之士、診脈製方、有所考証焉」とある。
(10) 『全国中医図書聯合目録』(中医古籍出版社、北京、一九九一)には著録されていないが、清・黄虞稷『千頃堂書目』(三七六頁、上海古籍出版 社、上海、一九九〇)に、「兪橋医学大原 海寧人。南京太医院判」とあり、清代まで伝承されていたことが分かる。
(11) 楊家駱ほか『中国学術類編(四部総録医薬編)』付録三「中国医学大辞典著録医学書目」、第三二葉オモテ、台北鼎文書局、一九七九。
(12) 鄭金生の指摘による。
(13) 『全国中医図書聯合目録』(二一九頁、中医古籍出版社、北京、一九九一)によれば、中国医学科学院図書館に海州楊氏刻本『医方集略』の残巻が 所蔵されている。
(14) 前掲文献(1)。
(15) 前掲文献(1)。
(16) 前掲文献(1)。
(17) 前掲文献(1)。
(18) 真柳誠・小曽戸洋「『金匱要略』の文献学的研究・第一報―元・鄧珍刊本『新編金匱方論』」、『日本医史学雑誌』三四巻三号、四一四~四三〇 頁、一九八八。
(19) 南宋・劉昉『幼幼新書』、人民衛生出版社、北京、一九八七。「金匱要略」あるいは「金匱要略云」と記した引用が七回ある。
(20) 元・脱脱等『宋史』、五三〇六頁、中華書局、北京、一九八五。
(21) 『玉機微義』、『和刻漢籍医書集成』五輯所収、エンタプライズ、東京、一九八九。同書所収の小曽戸洋「『玉機微義』解題」によれば、『金匱要 略』の引用は「金匱」が四四回、「金匱方」が一回、「金匱方論」が二回、「要略」が一〇回である。
(22) 前掲文献(18)。
(23) 小曽戸は本書の成立年を政和年間と推測している(小曽戸洋「北宋代の医薬書(その二)」、『現代東洋医学』、八巻四号、一九八七)。
(24) 『〔宋刻大徳本〕聖済総録』(三)、『東洋医学善本叢書』三七、七九‐三〇b(一四七頁)、オリエント出版社、大阪、一九九四。
(25) 森立之『傷寒論攷注(附金匱要略攷注残巻)』、下冊四四六頁、学苑出版社、北京、二〇〇一。
(26) 徐鎔本、序二a。
(27) 前掲文献(25)、下冊四四六頁に「序中又云、勒成上中下三巻、依旧名曰金匱方論。然則補玉函二字、刪新編二字者、為徐氏妄改可知也」とあ る。
(28) 多紀元簡『金匱玉函要略方論輯義』(影印本)、『近世漢方医学書集成』四三所収、一五頁、名著出版、東京、一九八〇。
(29) 文政年間に活躍した松浦道輔の説がある。以下の文献に詳しい。遠藤次郎・島木英彦・中村輝子「『金匱玉函経』および『金匱玉函要略方』におけ る葛洪の役割り」、『漢方の臨床』四九巻一号、一一三~一二三頁、二〇〇二。
(30) 前掲文献(18)。
(31) 前掲文献(7)、三九四頁。
(32) 前掲文献(1)。
(33) 前掲文献(1)。
(34) 鄧珍本が印刷不鮮明な上一一a一「名曰癉瘧」の「癉」、中六a二「吐涎沫而癲眩」の「癲眩」、中一三b一二「即当散也」の「散也」を、無名氏 本と兪橋本は一致して空格とする。また鄧珍本が印刷不鮮明な上二一a四「外更」の「更」を、無名氏本は空格とし、兪橋本は「臺」に作る。
(35) 鄧珍本上二七b一三「令得一升後」の「令」、上二八b九「脈数而滑者実也」の「也」、上二八b一〇「當下之」の「當」、中一二a八「水發其汗 即已」の「發」、中一三a一「久久必身瞤瞤即胸中痛」の「瞤」、下一〇a一「再合滓為一服」の「滓」を両版は一致して脱字とする。
(36) 以下の例が挙げられる。鄧珍本中八a二「心中疼熱飢而不欲食」の「飢」を両版とも「熱」に作る。鄧珍本中八a三「寸口脈浮而遅浮即為虚遅即為 労」は二つの「遅」が印刷不鮮明であるが、無名氏本はそれぞれ「連」「運」に、兪橋本はいずれも「運」に作る。鄧珍本中二四a一「身无熱」の「无」を両版 とも「而」に作る。また鄧珍本は下一〇b四で「防風」を「防丰」に作るが、無名氏本・兪橋本はこれを一致して「防羊」に誤刻している。
(37) 無名氏本・兪橋本は鄧珍本上二b二「少陰之時陽始生」を「少陽之時陽始生」に、上二五a九「実者為実」を「痛者為実」に、上二七a五「半夏 (四両洗一方用佳)」を「半夏(四両洗一方用桂)」に、中一b一「臣億等校諸本旋復花湯方皆問」を「臣億等校諸本旋復花湯方皆同」、中一四b八「而黄肚 熱」を「面黄肚熱」に、中一六a二「自汁出」を「自汗出」に、中二〇a二「取升半」を「取二升半」に、下六a九「咽中怗怗」を「咽中帖帖」にそれぞれ作 る。
(38) 無名氏本・兪橋本に共通する誤字が多いことから、X本にも誤字が多かったはずである。そのほとんどは字形の類似によるものであるが、意味を考 えたために生じたとみられる訛誤もある。たとえば、鄧珍本中一八b一「趺陽脈浮而濇、浮則為虚、濇則傷脾、脾傷則不磨」を、無名氏本・兪橋本は「趺陽脈浮 而濇、浮則為虚、虚則傷脾、脾傷則不磨」に作る。山田業広が指摘するごとく(山田業広『金匱要略札記』、山田業広選集一所収、四三一頁、名著出版、東京、 一九八四)、鄧珍本が正しいが、両者とも文意は通じる。当文は「A則B、B則C」の形式で記載されており、句点がない当時の版本では判読する際に上下の字 に引きずられやすい。このためにX本に右のごとき訛誤が生じたのかもしれない。だとすればX本の作成者に医学と文字の知識があったと思われる。