←戻る 真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』45-46頁 、京都・龍谷大学発行、1997年7月30日

〔類証弁異〕全九集 四巻三冊(022-526-3)写字台本

月湖編釈〔曲直瀬道三頭注〕 明景泰三年陳叔舒序 天正十七年写 毎半葉匡郭約7.5+16.6×16.6p


 本書には月湖の原撰本、曲直瀬道三が注を加えるなどして再編した道三増訂本、また和読したカナ混り本などがある。原撰本・道三増訂本と比較すると、当本の頭注は道三のもので、このように明別された伝本は他に見当らず、道三研究の上でも貴重視されねばならない。

 当本には明の景泰三年(一四五二)に維陽の陳叔舒が記した序文があり、銭塘(浙江省杭州)の月湖は医名が高く、『内経』に上医は十に九を全うすることに因み、著書に『全九集』と名づけて刊行するという。しかし、そうした刊行記録は中国に一切残っておらず、中国刊本の存在はかなり疑わしい。

 月湖は明監寺と称し、また潤徳斎と号し、渡明した日本僧だったという。銭塘で医を業とし、本書ののち景泰六年に『(大徳)済陰方』四巻、別に『産科秘録』二冊を著しているが、ともに日本刊本しかない。それらが日本にのみ伝わったのには、田村三喜と曲直瀬道三の存在がある。

 三喜(一四六五〜一五三七)も僧侶で、長享元年(一四八七)に渡明し、月湖について医を学び、明応七年(一四九八)に医書を携えて帰朝したとされる。のち関東の古河に住し、そこで弟子となった僧侶の曲直瀬道三(一五〇七〜九四)は帰洛して医を業とし、数多くの書を著して門人を育成し、当時の医学を一変させた。したがって月湖の著は、三喜―道三の手を経て伝えられたのだろう。ただし三喜は渡明していないという記録があり、明医学の影響がみえない仏教医書も著しているなど、三喜の伝には疑問が多い。

 当本の末冊には「天正己丑(十七年、一五八九)仲秋吉辰 快」の奥書と「快」にかぶせた印記があり、書式・装訂等からも同年の写本と認められる。道三が本書を増訂したのは永禄十年(一五六七)で、当本は増訂本の旧姿を残す唯一の伝本であろう。内容は中風門に始まり、各門毎に医論と医方を記す方論書である。

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