←戻る 真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』 25-26頁、京都・龍谷大学発行、1997年7月30日

医学綱目 四十巻・目録一巻、二十冊(690.9-471-20)写字台本

明・楼英(公爽、全善)撰 明嘉靖四十四年序刊 毎半葉匡郭約1.8+17.2×14.1p

  当本には無記年の楼英自序、嘉靖四十四年(一五六五)春に邵偉元が記した「運気占候補遺序」と同人の無記年跋、同年秋に曹灼が記した刊行の序がある。本文は毎半葉十三行二十二字で、匡郭の寸法ともに王重民『中国善本書目提要』著録の北京図書館本と米国国会図書館本の嘉靖版と合致するので、当本は嘉靖四十四年序刊の初版と認められる。写字台本には別に邵偉元序跋・曹灼序を欠く本文四十一巻・目録四巻の本文毎半葉十二行二十六字本(690.9-532-20) があり、これは明・万暦前期刊の第二版と考えられる。

 曹灼の序によると、一五五九年以後に友人の邵偉元より本書を借りて価値を知った。し かし未刊の伝写本のため誤字等が多く、これまで刊行できなかったという。そこで邵氏と劉化卿の両氏が二年を費して校正したので、同官の趙宗正とともに本書を刊行することにしたと記す。また邵偉元の跋は校正の非力をいい、彼の「運気占候補遺序」は本書巻末の運気論部を補足する目的で、『内経』から抜粋して 「運気占候補遺」十五篇を加えたという。

 楼英(一三二〇〜一三八九)は一名を公爽、字を全善といい、浙江省蕭山県の出身。学を志したが元明間の乱で仕進の意を捨て、医に進んだ。のち朱丹渓(一二八二〜一三五八)の高弟で明・太祖の侍医も任じた戴元礼(一三二四〜一四〇五)と医理を切磋した。洪武年間(一三六八〜九八)には臨准丞の孟恪の推薦で太祖に召されたが、高齢のため辞して帰郷し、七十歳で没した。

 本書は大部な医学全書のため、明代に二回、民国代に一回、新中国後に一回の刊本しかない。日本には寛永十六年(一六三九)に幕府の紅葉山文庫に収められた初記録があり、のち万治二年(一六五九)と寛文二年(一六六二)に和刻本が出ている。

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