平成11年度年次報告 1頁
平成11年度総会ならびに神奈川地方会 第14回学術大会 3頁
都筑の医史を掘る 中西 淳朗 3頁
ペスト残影(9) ケルンに「ペスト残影」を求めて 滝上 正 4頁
横浜市大医学部医学情報センター所蔵の古医書の紹介 大島 智夫 5頁
神奈川県の医史跡(横浜を除く) 大滝 紀雄 6頁
日本医史学会9月例会・神奈川地方会第15回学術大会 合同会 9頁
梅毒の薫薬療法について 中西 淳朗 9頁
佐藤方定の発見した『大同類聚方(延喜本・寮本)』の上表文について 後藤 志朗 10頁
記憶のメカニズムの歴史的考察 鈴木 衛 10頁
ペスト残影シリーズ(10)ケルンに「ペスト残影」を求めて-その2 滝上 正 11頁
女性の病の社会史 野末 悦子 12頁
平成11年度一般会計決算書 16頁
平成12年度一般会計予算 17頁
参考事項(役員並びに会則) 18頁
1.平成11年度総会ならびに第14回学術大会
2.日本医史学会9月例会・第15回学術大会 合同会
3.創立7周年記念行事
1)公開講座(平成11年2月20日 神奈川県保険医協会)
神奈川県の医史跡(横浜を除く)
大滝 紀雄
2)神奈川県北東の医史跡めぐりのツアー(平成11年4月18日実施)
4.幹事会 6月11日、11月12日に開き、学術大会等につき協議した。
5.その他
1)パンフ「神奈川県北東の医史跡めぐり」を編集し2月1日に発刊した(本書はインターネットhttp://www.hum.ibaraki.ac.jp/hum/chubun/mayanagi/kjsmh/shiseki.htmlでも全文公開中)。関連して、日医ニュース第918号(11年12月5日)の“医界風土記”欄に「都筑の丘の医師たち、横浜郊外で講習所開く」を載せた。
2)「神奈川地方会だより・第8号」を作成し7月に会員に配布した。
3)第41回神奈川医学会総会・学術大会のプレナリーセクションに協力し、杉田暉道氏が「看病用心鈔とターミナルケア」と題して講演した。(11月23日)
4)神奈川県医師会報の583号(11年9月10日)と584号(11年10月10日)に、杉田暉道氏が「神奈川県北東の医史跡めぐりツアーを終えて」と題する報告文を投稿した。また、同文を学会誌の第45巻第3号にも掲載した。
5)11月12日の幹事会から
a.第105回日本医師学会総会(平成16年)の開催を当地方会が引き受け、会長に荒井保男氏を推薦することを決定した。
b.医史跡めぐりパンフ第3号「神奈川北西、湘南地方」を作製することを決めた。
6)横浜市大新センター病院内に「シモンズ博士記念碑」ができ、11月12日の除幕式に杉田暉道氏他が出席した。
7)平成11年度の神奈川県医師会学術功労者に、会員の衣笠昭氏が選ばれ表彰された。
8)会期末会員数 114名
《一般演題》
横浜の旧市内以外の、所謂郊外といわれた地域の歴史を掘りおこして来た成果を、横浜に転居して60年となった1993年より、少しづつまとめて来た。
今回,当地方会がパンフ「県東北の歴史跡めぐり」を作製するに際し、旧都筑郡の地域から、久志本内蔵家、都筑の丘の医師たち、川和の医学講習所、種痘処門札の4項目を担当したので、ここに小報告とした。
a.久志本内蔵家;クシモトクラケと読む。江戸久志三家のうちの第1分家で代々内蔵允を名のる。都筑の勝田と牛久保に300石の采地を有し幕末に至っている。勝田の最乗寺本堂のうらに墓地があり、常範、常衡の墓がある。常孝先生ご存命のとき常雄の墓を作り本貫地の伊勢から墓の一部を移動させた。常孝先生自身の墓はここにある。墓地そのものの広さから云うと、鶴見駒岡の常倫寺にある第2分家の在京亮家の墓地の方が広い。この両家共に、采地内に墓地を作ったが、江戸住いのため次第に縁はうすくなった。21世紀では横浜と縁切りになるおそれがある。
b.都筑の丘の医師たち;長津田、三保、久保、川和等現在の緑区の地域に、江戸末期に複数の医師が出現した。この都筑郡には、大山街道、中原街道、神奈川道、鎌倉道中の道が通り、俳旬・和歌のグループが生れ、医師がこれに参加し交流した。川和の前田道兄、久保の佐藤養元、同村苅谷玄春の3名が、土生玄憤著の「獺祭録」を安政5年6月に輪読したらしい記録がある。このような交流が基礎となったのであろう、明治になって川和に医学講習所を作っている。この地域には他に河原玄済、佐藤文成、吉村道伯(石川村)、横山三省(荏田村)らの医師が生れ、みな江戸へ出て勉学している。
c.川和の医学講習所;緑区川和の瑞雲寺の北隣に、子院の東照寺があった。明治12年3月7日より医学講習所が同寺内に開かれ、毎週1回の学習会がもたれ、2年以上続いたが、横浜医学講習所が解散、懇親会作りヘと移行したことに押されて、学習会は中止となってしまった。この様な医史をもつ地域は緑区以外にはなく、惜しい限りである。
d.種痘処門札;昭和58年5月に横浜で、第84回日本医史学会総会(会長 大滝紀雄)が開かれた時に、小展示会も開かれ緑区三保町の苅谷家の種痘処門札も展示された。 幕末に苅谷世英が神奈川湊のヘボン先生の下に種痘の勉強に通ったと伝えられ、明治5〜9年の間、この門札をかつげたもので、この地域の種痘医のはじまりであった。(非公開)この苅谷家は現在第7代目の英郎氏が活躍中である。 地域の中でいろいろと問題もあるらしく、不十分な点に終っている点がパンフの中に認められるが、今後さらに研究を深め追加、訂正していく所存である。
2.ペスト残影シリーズ (9) ケルンに「ペスト残影」を求めて
1)化粧水の代表として名高いオーデコロンとペストとのかかわりを紹介する。このものは本来いわゆる万病に効く内服用の治療水であった。そしてペストの予防薬としても重宝されたのである。18世紀中葉ケルンを一時的に占領していたナポレオン一世のフランス軍が、ケルンの街の悪臭に堪りかねて、これをハンカチにしませて鼻にあてがい、外用に転じたのが化粧水としての始まりである。ヨーロッパの中世の町々はケルンに限らずきわめて不潔であったのである。
2)ケルンにはペストで死んで埋葬までされてしまったRichmodis von Aducht夫人が生き返り、3人の子供までもうけたという伝説が伝わっている。それは1400年のことであった。
3)黒死病流行の原因はユダヤ人が井戸に毒物を投げ込んでいるためであるという噂が広まり、各地でユダャ人が虐殺された。ケルンでは1349年8月23日から24日にかけての夜(この夜はカトリック教では「バルトロメオの夜」と呼ばれている)にユダヤ人が焼き殺しにされた。そのときの様子を表わした木版画を紹介した。
4)ユダャ人にはミクベMikweという特有の浴場を利用する入浴習慣があった。このことがユダヤ人にはペスト罹患は少なかったという事実と結びつき、ベスト流行の原因として彼らに一層の疑いがかけられ、ユダヤ人が虐殺される原因にもつながったと思われる。ケルンの「旧広場」に保存されているユダヤ人特有のミクベを紹介した。
今回5年越しの作業の結果、694点、冊数にして2,194冊の古医書の目録が完成したので内容を紹介する。
○高田文庫:栃木県の醸造家高田安平氏より昭和23年寄贈を受けたもの。258点、1,095冊、稀覯本多数、明治初期の医学生ノートなどを含む。
○鈴木文庫:横浜市の鈴木秋之助氏より寄贈された155点、394冊。蘭学関係の貴重な書籍が多い。
○平野文庫:富山県高岡市の市大医学部一期生平野秀一氏の寄贈、113点、298冊。江戸時代より6代に渡り医業を継がれた平野家に伝わったもの。
○喜多島文庫:鎌倉市大町の医師喜多島保氏御遺族が平成9年寄贈69点、102冊。6代に渡り山梨県甲府で医業を営み、華岡青州関係の貴重な記録を含む。
○宍戸文庫:市大名誉教授宍戸昌夫氏寄贈。15点、82冊。愛知県刈谷市で代々御典医となられていた宍戸家に伝わるもの。
○その他:故石原明氏蔵書16点58冊、林定氏蔵書13点19冊、鮎沢信太郎氏蔵書3点5冊、高木逸磨氏寄贈朝鮮医学書12点5冊。全体を「和漢の部」、「蘭方の部」、「明治初期医書」、「その他関連書」に分け、蘭方の部には漢蘭折哀派を含め、明治初期医書には漢洋を区別せずに収録した。
次に注目すべき古医書を挙げる。
○杉田玄白関係:杉田玄白自筆の書簡として文化13年に弟子にあてた長文の医業の心得を書いた「玄白いましめの文」と称されるもの。
○中村本解体新書:刻明な註が書きこまれたもので、漢字術語にオランダ語名称が仮名で書かれ、余程熱心に勉学した跡があり、書き込みを丹念に解読すれば、当時の蘭学の貴重な資料となりえるもの。 ○重定解体新書銅版全図:南小柿寧一による原図の銅版エッチングを中伊三郎がしたもの。解体新書附図より遙かに精密である。
○華岡青州関係:門人の集録した多数の写本があり、有名な我国最初の麻酔下の乳癌手術の記録もある。
○本間玄調関係:瘍科秘録、続瘍科秘録、内科秘録の3大著作が揃っている。
○ホブソン関係医書:内科新説、全体新論、婦嬰新説、西医略論、博物新編を揃える。
○本草関係:経史証類大観本草31巻29冊、本草綱目52巻41冊をはじめ、大方の本草を含む。
○喜多村直寛関係:黄帝内経素問講義28冊、医方類聚262巻等貴重なものがある。
1 葉山海岸のべルツ碑
葉山森戸海岸を訪ね、森戸神社に入ると海を背にしたところにべルツの碑が建っている。べルツ(Erwin Baelz 1849-1913)は明治9年来日、26年間、東京大学医学部内科教師として勤めた医学会の恩人である。内科学一般のほか、衛生学、栄養学、人類学など極めて幅広い研究をした。また温泉医学には特に関心が深く、伊香保、草津、熱海、箱根などを訪ね調査研究をし著書をのこした。
葉山のべルツ碑は、葉山が避暑にも避寒にも好適な健康地であることを提唱したものである。明浩20年イタリー・マルティーノ公使が葉山に別荘を建てた。べルツ先生もこの土地を推奨した。明治22年鉄道が敷設されて便利になり、多数の著名人が訪れるようになった。明治27年には葉山に御用邸が置かれるようになった。
碑文の内容は2人の外人の着眼点に敬服するという東大名誉教授入沢達吉の撰文である。この碑の除幕式は、葉山開始50周年に当たる昭和11年に盛大に行われた。
2 稲村ヶ崎公園、コッホ記念碑
結核菌とコレラ菌の発見者ロベルトコッホ(Robert Koch 1843-1910)は、北里柴三郎の招待によって明治41年夏、2か月あまり日本に滞在した。彼はその間、宮中に参内したり、講演会、歌舞伎観劇、見学、招待晩餐会など多忙なスケジュールの合間を縫って、霊仙山に上りそこから見る富士の姿を楽しんだ。コッホは帰国2年後バーデンバーデンで死去した。更にその2年後の大正元年、霊仙山山上にコッホをしのぶ記念碑が建てられた。碑には明治42年と書いてあるが41年の誤りである。この山へは登山が困難なため、結核菌発見100年を記念して昭和58年、現在地稲村ケ崎公園に碑はヘリコプターで移動され、誰でも簡単に記念碑を見ることができ、天気の良い日には富士を望むことができる。
3 極楽寺
江の電極楽寺駅を下りるとすぐそばに極楽寺がある。極楽寺の裏手が稲村ヶ崎小学校に続き、校庭の裏山には高さ3.5メートルにも及ぶ二基の重文五輪塔が建っている。一基は忍性塔に間違いないが、他の一基は2代忍公塔とされている。そのほかいくつかの宝筺院塔が見られる。比較的最近まで寺僧に鍵を借りて簡単に中に入れたが、現在では4月10日頃だけしか入場できなくなった。いまでこそ小さな極楽寺だが、最盛期には七堂伽藍と四十九の塔頭が存在した大寺院というよりも大規模な医療センターであった。孤児院、養老院、無料診療所、癩病院のほか、馬病舎までが付属していた。
真言律宗極楽寺開設の時期については1767年説他種々あるが、いずれにしても13世紀中期であったことには間違いない。
その開設者は叡尊の高弟良観房忍性(1217-1303)であった。彼は鎌倉へ来る前、奈良の北方に北山十八間戸と言う現存している日本最古の癩療養所を作った。昭和55年稲村ヶ崎小学校校庭を発掘調査したところ、ここに華厳院跡の礎石が証明され、この地が極楽寺の中心であったことが知れた。現在では昔を偲ぶものは殆ど残っていないが、本堂前に大きな「千服茶臼」と「製薬鉢」が、無言で存在を誇っている。
もっとも本堂の右手は宝物殿(資料庫)があり、十大弟子、釈迦如来像その他の出土品が展示されている。
4 桑ケ谷療養所跡
この療養所は今から700年前の永仁年間、鎌倉幕府執権北条時宗が忍性に命じて設けた療養所である。極楽寺の分院と考えればよい。
江の電長谷駅下車、大仏へ向かって進み、光則寺入り口を過ぎ、能楽堂入り口を左折したすぐ左手に「桑ケ谷療養所跡」の碑がある。忍性が飢饉に際して難民に粥の炊き出しを行ったところである。また、疫病流行に際しては、この桑ケ谷に大病院を建て、地域医療活動を実施したことがこの碑文に書かれている。最後の行に昭和37年3月、長谷上町文化会と記されている。
5 長与専斎と鎌倉
長谷大仏(高徳院・浄土宗)の境内へ入ってしばらく進むと、大仏の手前左側に、高さ4メートルもあろうかと思われる「松香長与先生紀功之碑」が建っている。篆書の読みにくい字で書いてあるが、初代衛生局長・長与専斎の業績が理解される。撰文は東大皮膚科教授土肥慶蔵、文字は一高教授菅虎雄となっている。碑文を読んでいくと、長与が鎌倉の健康地を愛し、由比ケ浜が海水浴の最適地であるとしたこと。またここに我が国最初の結核療養所「海浜院」を創設したことが記されている。日付はこの碑文には書かれていないが、明治20年発行の「大日本私立衛生会雑誌」50、51、52号などを読むと、明治20年に間違いない。数年でこの療養所はホテルに変身した。一般の医史学書を読むと、日本最初の結核療養所は神戸須磨浦療養所、明治22年となっているが、これは誤りで、更に2年前の「海浜院サナトリウム」が最初である。ぜひ訂正したい。碑文を書いた土肥自身も鎌倉に別荘を持ち、学生を毎年一度は自宅に招待し、海浜ホテルを利用したらしい。
6 松本順と大磯
松本順は順天堂の祖、佐藤泰然の次男として生まれたが、松本良甫の養子となった。彼は長崎でポンペに西洋医学を学んだのち、初代陸軍軍医総監に任命された。男爵となり大磯を海水浴の適地として選び、彼自ら晩年の15年を大磯に住んだ。こうした関係で、妙大寺、鴫立庵および照ケ崎海岸の三か所に順の墓石と碑が建っている。
鴫立庵はJR大磯駅下車、海岸側へ徒歩7〜8分で第一国道に出る。国道沿いに大磯町役場がある。その隣が有名な鴫立庵で、京都の落柿舍、滋賀の無名庵と並んで、日本三大俳句道場として知られ、芭蕉や西行法師の句碑で有名だ。松本の碑は観音堂のそばにあり、直径1メートルもある墓石に彼の筆になる「守」一字だけが刻まれている。妙大寺は駅裏にある。「松本順先生の墓所」と記された門柱を入ると「勲一等男爵松本順の墓」正三位勲一等子爵林薫書の立派な墓がある。薫は順の実弟で駐英大使、外務大臣を務めた人である。右手に灯篭、左手に「守」の字を刻んだ墓は鴫立庵のと同じだが、こちらは粉骨のため、規模がひとまわり小さい。
照ヶ崎海岸には1885年松本によって開発された大磯海水浴場を記念する6メートルに及ぶオベリスク型の謝恩碑が建っていて、すぐそばを西湘バイパスが通っている。
7 伊勢原市の桂川墓地
伊勢原市上粕谷、太田道潅の墓のそばに上行寺がある。この寺には江戸時代後期、初代から七代まで150年間代々将軍の侍医であった桂川一家の墓がある。桂川―家は蘭学界の名門中の名門であり、代々外科医として最高の法眼の地位にあり、蘭学圧迫時代にも例外として蘭書を読むことが許可されていた。七代の中でも、四代桂川甫周・国瑞は月地と号し『解体新書』の翻訳に参加、チュンベリーについて外科を学んだ。六代桂川保賢・国寧はすぐれた蘭学者であり、蘭館長ズーフからボタニクスと名づけられ、シーボルトとも親しく交わった。七代桂川甫周・国興に蘭館長ズーフはいわゆる「ズーフ・ハルマ」を編纂させ『和蘭字彙』を作り後世に伝えた。
上行寺の入り口には「東京都指定史跡桂川甫周の墓」の石柱が建っている。この寺に入ると右手が本堂、正面には将棋の駒を象った大橋家の墓があり、左手に宝井其角と桂川家の墓がある。これらの墓は昭和37年まで東京三田の二本榎にあったが、都会の喧騒を避けて当地に移転した。
1998年に金沢区の松本龍二氏は、区医師会発刊の『金沢の開業医師』の中で、大正前期金沢八景の田中病院で薫薬療法が行なわれていたこと、金沢瀬戸の金竜禅院所蔵の「医方巻石秘録」という処方集に、薫薬療法を見出だされたことを発表された。これに刺激をうけ、一連の研究をしたので不十分であるが追加報告する。
松本氏の発表によると、田中病院では艾葉に薬品をつつみ葉巻状となし、両鼻にこれをつっこんで火をつけ、煙を吸わせると涎がダラダラと出てきたとの証言から、水銀剤の嗅ぎ療法と判断したという。また松本氏の見出だした処方は紫雲條というもので、炭末と朱砂(硫化水銀)末を紙筒に入れ、その一方を鼻孔につっこんで火をつける。他の処方も炭末と水銀剤が骨格となっており大差はない。
アメリカ先住民が16世紀前は、葉巻タバコを吸うときは鼻孔につっこんだ方式(Sunuffing)であった。薫薬療法においても同じ手段がとられたようだ。 京都の蘭方医・広川?は、その著『蘭療法』において、薫薬方の欄外にフルローケン(Verrooken)としたためている(1804年、享和4)。この語はオランダ語でタバコで時間をつぶす、タバコで金銭をついやすことを意味する。 米大陸から帰欧したポルトガル人らは、すでにSunuffingをした経験を有しており、当時の万能薬水銀をこのような方法で行い、これが中国を通じて渡来したものと考えたい。
この様なSunuffingは鼻腔粘膜に直接強い刺激を与えるので、次第にパイプ方式に変化し200年後には、マドロスパイプ型で吸入する方法となった(古写本「長崎吉雄先生秘伝文政7年、1824・写本」による)。
意外や、明治以降もこの水銀剤の薫薬療法が行われており、昭和14年頃まで行なわれていたことが文献調査で判明した。これは、第一次大戦(1914年)によるドイツからの薬品輸入の途絶や、昭和初期の経済パニック等が尾をひいて、安価にして簡便な薫薬療法が全国各地に残存したものと考えられる。
2.佐藤方定の発見した『大同類聚方(延喜本・寮本)』の上表文について
富士川游が『日本医学史』(明治37年刊)をまとめる際に、佐藤の『奇魂』を重視し、その説を全面的に採用したことで、偽書説が不動のものとなった。しかし、佐藤自身が真本と認める『大同類聚方(延喜本・寮本)』を晩年に発見しており、それを『勅撰真本大同類聚方』と命名して出版している。この事を富士川やその後の人達は認識していない。それ故、佐藤の発見した『大同類聚方』の検討なしには、真偽の判定は出来ない。
筆者は、その検討作業の一環として『日本医史学雑誌』に「『勅撰真本大同類聚方』について」(43巻1号)及び「新発見「大同類聚方」に関する大同三年五月三日の詔文」 (45巻2号)を発表した。
佐藤の発見した『大同類聚方』には、撰集を完うした時に平城天皇に進った上表文が存在する。そして、上表文のある『大同類聚方』は佐藤が発見したものだけである。
『大同類聚方』の撰集は、典薬寮に臨時の編纂所が新設されて行われたと考えられる。なぜなら、上表文の年月日の後に記されている5名は、全て典薬寮の人達である。そして、典薬寮は医療行政を総理し、官人の診療を担当し、医学・薬学を教え、医師らを養成する大学であったからである。
この上表文は、古事記の序(実は上表文)・令義解の上表文と比較しても遜色のないものである。つまり、「臣等聞」で始まり、「臣等誠惶誠恐頓首頓首謹言」で終り、末尾に年月日と名が記載されている。そして、編集の由来・記述の範囲・編者名・巻数などが記されており、上表文としての形式を踏まえたものである。
神経細胞とシナップスによって形成される神経回路網は一定不変のものでなく、神経回路網の伝達効率は神経活動により変化する。これをシナップスの可塑性という。代表的なものを年代順に並べ、解説した。
1.1973年に海馬で見いだされた「長期増殖型シナップス」は、外から信号が頻回くると通りがよくなり、「見た、聴いた」とかいう情報をとどめるのに働くものと考えられる。
2.1980年に小脳においてその機序が確定されたもので、小脳の「長期抑圧型シナップス」と云われるもので、プルキニエ細胞に平行線維と登上線維から同時に刺激が入ると平行線維の信号がストップしてしまうものである。小脳のなかではたらいた間違った配線を切って、よい配線をのこしているものと想像される。
3.1985年、塚原が、脊髄に入ってくる神経線維を一部切って変性させると、近くの無傷の線維が芽を出してシナップスを作ることが中脳の赤核細胞で起きることを発見した。ネコの前肢の屈曲筋と伸展筋を支配する神経をつなぎ替えると、最初ネコはとまどうが、一週間後には大脳皮質から赤核細胞へのシナップス入力に発芽が起こり、ネコは普通に歩けるようになる。
最近ホルモンと記憶、とくにエストロゲンの作用が注目されている。
他方、物理学者によって「場の量子論による記憶の解釈」がなされている。記憶とは外界からの刺激や、それに対する意識の印象も含めた内的刺激も、最終的に、細胞骨格や細胞膜の中に作られる大きな電気双極子の形に変形された後、その近くの水の電気双極子の凝集体として安定的に維持される。これが記憶の形成過程に他ならない。
脳神経学者と量子脳理論学者の共同研究により、 記憶のメカニズムの解明が待たれる。
4.ペスト残影シリーズ 10 ケルンに「ペスト残影」を求めて その2
ペストの第一波パンデミー(ユスチアヌスのペスト)のときは、ケルンはペストを免れた。第二波は14世紀から17世紀まで300年以上統いた。それは14世紀中葉の1349年の黒死病をもって始まり、今年はそれから数えて650年を経過したことになる。14世紀にはケルンは黒死病を含めて7波、
15世紀には10波、 16世紀には10波、17世紀には8波以上にわたりペストに襲われた。この中
1665−67年のペストは、ケルンでも黒死病と並んで、凄惨を極めた。この間ケルンで発刊されたペスト書が若干あり、それらを紹介した。
中世のケルンの街は他のヨーロッパの諸都市と同様、大変不潔であった。その最大原因は豚であって、豚対策に当局は頭を痛めた。さらにペスト対策として当局は市民衛生、検問、ペストハウスなどをとりあげたので、それらを紹介したい。
1668年12月27日に漸くケルンは公式にペスト終息宣言をしたのである。
(1)はじめに
今日は日本医学史学会にお招きを頂き、講演をさせて頂くことを心から感謝申し上げたいと思います。会長の杉田先生から、お話がございました時、歴史の知識の乏しい私にはとても無理ですと申し上げたのですが、杉田先生のお言葉に背くわけにもいかず、お引き受けしてしまいました。
その後、杉田先生からは立派な、ご本をお貸し下され、それが、この富士川游著「日本医学史」(1)です。この他に文献としましては、夫の父(矢数道明)の所蔵する本(2)(4)と、私の家にあった本(3)(5)(6)などを参考にしまして、にわか勉強をさせて頂くことになりました。
その結果、どうも、どの本を読んでも、出典はほとんど同じものらしく、同じようなことが書かれていることに気がつきました。また、太古より、朝廷や大臣のような高貴な方々の歴史は残っているものの、その当時の庶民がどんなだったのだろうかというのは、大分後世にならないとわからないということがわかりました。でも、せっかくの機会を頂き、滅多に読むことのない本を読むという貴重な体験をさせて頂いたのですから、少し、これらの本に書かれてあったことを中心にお話をさせて頂きます。
(2)神代
文字のなかった時代のことは、当然のことながら記録がないので、不明となっているのは止むを得ないのですが、「古事記」や「日本書紀」によれば、イザナギ、イザナミの命のまぐわいから日本の国が誕生し、これは生殖を意味するので、最古の医療は産婦人科ということになるのでしょうか。コノハナサクヤ姫が諸々の神を作られた後、最後に火の神を生んで火に焼かれて死んだとあるが、これは産褥熱ではなかったかという説もあるそうです。また、このお産の時には産室を作ったとされ、最後の彦火々出見命(ヒホホデミノミコト)が後に皇位を継承しているので、後に誕生したものを長とするという考え方(双生児の場合)と通ずるのではないかという説もあるとのこと、また、豊玉姫の産室を海浜に作った故事にならっている地方もあり、産室で産後の褥婦を暖めるために火をたく風習も琉球や徳の島に残っている由。
臍帯切断には竹刀を用いた。これは今も宮中や宮家に儀式として残っているとのこと。豊玉姫の時代に、すでに乳母の風習があり、乳母(チオモ)湯母(ユオモ)飯嚼(イイカミ)湯坐(ユエヒト)がいたそうです。
(3)奈良朝前(BC97〜AD710)
701年文武天皇の時代:大宝律令の医疾令第16条で女医養成が記され、これで、産婆、看護婦を養成したらしいが、後にこれは廃止された模様。お産と白粉の製法を行った。神宮皇后の鎮懐石が後の岩田帯の始まりとする説もあった。
お産の姿勢には坐産と臥産があるが、豊玉姫は臥産、景行天皇の皇后と神宮皇后は坐産のようだ。臼によりかかってお産をした、樹木に手をかけてお産をしたとある。アイヌに臼によりかかってお産をする風習が残っているという。このころ、多産が奨励されている。賜りものとして、綿、布、稲、乳母、などの記録が天武天皇の673年にある。
卜、占が盛んで、お産の際に産綱に干物の鮎をつけた。これも玉島村に残る風習。祇園祭りの出山のくじ番で出産の難易を占うこともこの頃の名残とか。
(4)奈良朝(710〜784)
722年に女医博士が制定されているが、その内容については不明。仏教伝来以降、女人の一切を罪悪視するようになって、婦人の出産、月のものを不浄視するようになった。別室にする、神仏参拝はだめで、また竈や井戸に近寄らせない。これは江戸まで伝えられている。とあるが、昭和の時代にもあった。
(5)平安朝(784〜1186)
仏教の支配した時代で、加持・祈祷・僧医。最古の医書「医心方」30巻が984年に出されているが、これは、唐の「産経」「千金方」よりの摘録である。妊娠中の過ごし方の中で、六ヶ月には野外に出て、走犬や走馬を見たり、鳥や獣の肉を食すべしと肉食を進めている。しかし、塩分の取りすぎはいましめており、妊娠中毒症の予防と通ずるものがある。産所の建設とその向きについての記載もある。安産のまじないに「夫外より水を口に含んで婦の口中に口移しすること27度に及べばたちどころに児生まる」とあり、ラマーズのようだ。
胎盤を埋める吉日吉方を陰陽師に聞く。臍帯の切断は銅刀を用い、長く(67寸〜56寸)沐浴は当日は清拭のみ、2日3日に行った。子供が弱い時には臍帯切断を行わず、浴湯に入れ、後に切断、薬液湯を用いた。
腹帯、昔は衣の外、今は内、(1264)時期は五ヶ月、その後鎌倉では6〜7月。 産所。陰陽師により選定、里方または別の家一村共同の産屋(福井、香川)母子保健センターのはしり。
分娩を介助する助産婦の始祖は1077年皇后の出産の記録によれば、腰抱(側仕えの老女または格式のある経験豊かな女房)支那からの伝来語。後に江戸時代には取上翁が出現し職業化。腰抱→取上婆→産婆。 臍帯切断は、継ぐとされ、小刀、咬断、焼断。
沐浴は翌日または翌々日に産湯の儀。 血忌触穢は上古にはなし、奈良、平安朝で仏教の力が強くなるにつれて月経中や妊娠中の女性は別扱い、家族と火を分かつ。
(5)鎌倉時代(1186〜1334)
医学書では1303年に「頓医抄」、1315年に「覆載万安方」が出された。「万安方」の62巻の中、31〜38が婦人門、婦人の諸病、妊娠の生理、妊娠と陰陽道、妊娠中の疾病、その治方、産室の準備、臨月予備の薬品、催生の霊符、異常妊娠、産後の疾病、治方。39巻は小児編で、断臍、臍帯の保護、剃髪、乳母の選定。宋の「婦人大全良方」(1237年)が僧により持ち帰られたのにならったと思われる。
沐浴には薬品、香木、珠玉を入れた。妊娠した児を男児にする「変性男子の法」が祈祷により試みられた。 産後の摂食。古来産後7日間は安眠させず、座らせていたが、性全はこれを大害と。禁食には多くの果物や魚類が、また好物にも果物、野菜、魚、鳥や獣の肉が上げられている。身体を冷やすものが禁食の方に多いようだ。 胎教として、禁食がいろいろ紹介されている。兎の肉を食すと、欠唇、羊の肝を食べると子に厄が多い、ろばの肉を食べると延月難産になるなど。
「産所は移転」「腹帯の儀」は五ヶ月には限らない。また、「戌」の日にも定めず、「酉」「子」の日が多かった。1230年、北条泰時の頃から「戌」の日とされた。臨産時には「鳴弦・蟇目」弓を用意(武家)
(6)室町時代(1334〜1568)
中国(明)に留学したもの多く、竹田昌慶、坂浄運、田代三喜、和気明親、吉田宗桂、金弘重弘ら。医書としては「福田方」(1362)有隣(僧)による 12巻があるが、新しい内容はない。初の産婦人科医:安芸守定、1358年に足利義光の誕生の際の侍医として仕え、後、宮中にも。医書「撰聚婦人方」3巻:南条宗鑑による処方録。上巻、月経、妊娠婦人諸病編。中巻、妊娠中傷碍、45編。下巻、臨産及産後諸症66編。本書が最古とされているが、金沢文庫所蔵の鎌倉末期「産生類聚抄」2巻の方がこれより以前のものかもしれない。
(7)織田・豊臣時代(1568〜1615)
室町末期に田代三喜が明より李朱医学をもたらし、曲瀬道三がこの説に従い、1571年に「啓迪集」8巻を著す。この第7巻が婦人門で、胎前、産後の2編、助産についてふれているが、特色はない。産科専門医書としては「中条流産科全書」1668年村山林益出版。膣内に薬品挿入、膣座薬、タンポンの始まり。堕胎と間違われたもよう。
(8)徳川時代(1615〜1868)
前期:香月牛山「婦人寿草」(儒医)上中下6巻、取上婆のはじまり、職業化。
中期:古医方が再び力を取り戻す。
賀川子玄「産論」鉄鉤の発明。胎位についての正論。腹帯無効有害説。産後7日間の跪坐に反対。娩出術の発明、回生術、穿顱術。これらは一子相伝で、秘伝とされた。
職業産婆が認められたのは、徳川前期であるが、産婆の語源は支那。1765年賀川玄悦の「産論」に記載あり。 腹帯論:有害・無害両説あり。折衷論、改良論あり。
当時の産科書も多く、「無難産安生論」や「産論」「産論翼」「産育編」など。
後期:古医方が盛んになり、後世派は不振。オランダ医学の輸入。1825年シーボルトが長崎に来住。産科は賀川家及びその弟子たちによっていよいよ盛ん。
賀川満定に女医博士の辞令。鉄鉤を改良。
賀川蘭斎、人工流産の記載。「産科秘要奥術弁」(産科免許秘録)「堕胎の術」(牛膝(ゴシツ)イノコヅチの根)を用いる(ラミナリアあるいはブジーと似る)。
片倉元周「産科発蒙」オランダ医学導入。黴毒、ライも治療。
奥劣斎、多くの著書あり。名文「母子両全の術」「発啼術」 蛭田克明、名医なるも著書なく、口伝のみ。
立野竜貞、産科機械考案し、子宮口切開「割宮術」「産科新論」3巻、1819。
水原三折、探頷器1835年考案。オランダ、ウィンケル産科全書に紹介される。「産育全書」11巻、破膜器、カテーテルなど発明。
難波本立、「胎産新書」1844年。 平野重誠、「坐婆必研」「とりあげ婆心得草」2冊1830年。始めての助産婦の本。
賀川南竜、「南陽館一家言」解剖図。
伊古田純道、帝王切開元祖、1852年。
足立無涯、オランダ流産科開業の祖。
高井伴寛、「淫事養生戒」1815年。妊娠中。
羽佐間宗玄、「老婆心書」腹帯強くは禁。
松本義篤、「養生訓付録」貝原益軒に追加。
華岡青洲「産科銷言」。
美馬順三、賀川子玄「産論」をオランダ訳し、ドイツ産科雑誌に紹介(シーボルト)。
神田実甫、「蘭学実験」1846年、外妊の記載。
稲葉蚕水、「復古明試録」1803年、妊娠と脚気。
(9)むすび
以上、駆け足で、神代から徳川時代までの主として産科の記述について触れてきたが、「女性の病の社会史」という頂いたテーマからは大分離れたものになってしまったのではないかと思う。女性は生む性に違いないが、女性の病は産科だけにはとどまらないはずであるから、もっと広い視野に立ったアプローチがあるはずなのだが、今回得られた資料からは残念ながら、それは叶えられなかった。近代になって、女性が社会に進出してからの病には、結核があり、また、それ以前から梅毒その他の性感染症など、女性史の立場からも研究されてよいテーマであろう。
参考文献
1.富士川游:日本医学史 真理社 1952
2.梶完次・藤井尚久:明治前日本産婦人科史、明治前日本医学史第4巻 1-210 1964
3.富士川游・小川鼎三:日本医学史要綱 1-2 平凡社 1974
4.小川鼎三:医学の歴史 中央公論社 1964
5.大塚恭男:医学史こぼれ話 臨床情報センター 1995
6.まや万沙子:隠された女の時代 松香堂 1999
日本医史学会神奈川地方会役員 会 長 杉田
暉道
幹事長 中西 淳朗
幹 事 荒井 保男 大村 敏郎 衣笠
昭(会計) 河野 清 坂本
玄子 滝上 正 佐分利 保雄 深瀬
泰旦 真柳 誠 山本 徳子 吉川
幸子
監 事 家本 誠一 大島 智夫 [50音順]
名誉会長 大滝 紀雄
日本医史学会神奈川地方会会則
第1条(名称) 本会は日本医史学会神奈川地方会という。
第2条(目的) 本会は医学の歴史を研究してその普及をはかるを目的とする。
第3条(事業) 本会は第2条の目的を達成するために次の事業を行う。 1)総会
2)学術集会
3)その他前条の目的を達成するために必要な事業
第4条(入会) 本会の趣旨に賛同し、その目的達成に協力しようとする人は、会員の紹介を得て会員となることができる。
第5条(会費) 正会員は年会費2000円を前納する。
第6条(役員) 本会は運営のためつぎの役員をおく。 会長1名、幹事長1名、幹事若干名(うち会計1名)、監事2名。任期は2年とし、重任は妨げない。
第7条(名誉会長、顧問)本会は名誉会長、顧問をおくことができる。任期は会長の任期に準ずる。
第8条(会計年度) 1月1日より12月31日をもって会計年度とする。