平成10年度年次報告
1頁
養老孟司著「日本人の身体観の歴史」を読んで、竹崎哲学に言及する 鈴木 衛 2頁
鈴木正三と医療 杉田 暉道 4頁
金沢区の医学史−とくに明治初期の二人の村医と死亡診断書について 松本 龍二 5頁
先人たちは性医学をどう学んできたか 斉藤三朗 5頁
日本医史学会9月例会・神奈川地方会第13回学術大会 合同会 9頁
『看病用心秒』とターミナル・ケア 杉田 暉道 9頁
金沢文庫の古医書2点について 真柳 誠 10頁
看取りの文化とその歴史 新村 拓 11頁
ヨコハマに医学資料館を 井出 研 15頁
「医史料の保存についての委員会」の設立 松木 明知 16頁
世界的な「横浜医学資料館」を作つて欲しい 酒井 シヅ 17頁
平成10年度一般会計決算書 18頁
平成11年度一般会計予算 19頁
参考事項(役員並びに会則) 20頁
【一般口演】 座長 杉田 暉道
一、養老 孟司著「日本人の身体観の歴史」を読んで竹崎哲学に言及する
鈴木 衛
二、鈴木正三と医学
杉田 暉道
三、金沢区の医学史
松本 龍二
【特別口演】 座長 荒井 保男
先人たちは性医学をどう学んできたか
斉藤 三朗
2.日本医史学会九月例会 神奈川地方学会第一三回学術大会合同会
平成10年9月26日(土) 神奈川県保険医協会 4階会議室
【一般口演】 座長 荒井 保男
一、『看病用心秒』とターミナル・ケア
杉田 暉道
二、金沢文庫新出の古医書について
真柳 誠
【特別口演】 座長 深瀬 泰旦
看取りの文化とその歴史
新村 拓
【ミニシンポジウム】 日本学術会議医史・医哲学研究委員会 共催
座長
杉田 暉道
「日本における医史科の保存について」
井出
研 (神奈川県予防医学恊会)
松井 明知 (弘前大学医学部)
酒井 シヅ
(順天堂大学医学部)
3.幹事会
5月29日、11月20日に開き、学術学会、7周年記念行事等につき協議した。
4.その他
一、「神奈川地方会だより・第7号」を7月に作成し会員に配布した。
二、郵便番号の変更にともない新名薄を作成し会員に配布した。
三、真柳幹事の努力によりインターネットの下記URLに神奈川地方会のホームページを開いた。
《一般口演》
1 .養老 孟司著「日本人の身体観の歴史」を読んで、竹崎哲学に言及する
養老氏は「日本人の身体観は、鎌倉時代の道元禅師以来、心身一元論に立脚している」という。また、84頁で「心身問題はそもそも医学、生物学に典型的な問題である筈なのに、
この国では、そちらの側からの発言は皆無に等しい」という。
そこで私は医学哲学の会(浦田卓氏主宰)におられた竹崎鼎輔氏の哲学を紹介し、道元の発言の医学哲学的考察を試みると共に、大脳生理学との接点を述べる。且つ坂本高代氏と竹崎氏の哲学の類似性に驚嘆すると同時に、相違点も発見した。
そして、始めに竹崎氏の意識の十宇架形構造を解説することにする。これは、意識についての五個の内官学的認識を綜合したものである。
第一の認識は、意識の対象は実在的存在(Y)と観念的存在(X)と、後者が前者に的中して現出する現実的存布(YX)の三種類である、という認識である。
第二の認識は、意識の作用はYとXとを媒介する働きであり、Yを基準にしてXを構成したり、訂正したりする作用は認識作用であり、逆の作用は創造作用である。
第三の認識は、意識の二重性の認識である。人間は皆、通常の意識のほかに、 もう一つの意識をもっている。
第四の認識は、意識の実在性についての認識である。理由は、二つの意識は知覚し合うものであるからである。
第五の認識はYもXもそれぞれ集合、{Ya}、{Yb}、{Yc}、{Xa}、{Xb}、{Xc}をなすという認識である。
ついで、道元の発言のうち、超越論的立場を見てみると、
「薬山弘道大師に僧ありて問う。兀々地思量什麼(コツコツジシリョウシモ)……座禅のとき、思量するのはなんであるか……」と。この薬山の言葉を注釈して、道元はつぎのように述べている。
師いわく、「思量箇不思量底……不思量底を思量する……と。僧いわく、不思量底如何思量……不思量底をいかにして思量するのか……と。師いわく、非思量。
「兀々地の思量、ひとりにあらずといえども、薬山の道は其一なり、いわゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。……兀々地に思量なからんや……」。と。すなわち、非思量がYcに相当する。
大師いわく、「非思量。いわゆる非思量を使用すること玲瓏なりといえども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちいるなり。非思量にたれあり、たれわれを保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を擧頭するなり。兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかで兀々地を思量せん。しかあればすなはち、兀々地は仏量にあらず、法量にあらず、活量にあらず、会量にあらざるなり」
つぎに、形相的還元については、左の操作が該当する。
「いわゆる執坐相とは、坐相を捨し、坐相を触するなり、この道理はすでに坐仏するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆえに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ。……執坐相というのは歴史的個人的自我である坐相を捨てながら、坐相を媒介として普遍的目我を見いだすことである。こうすることは座禅する以上不可欠な操作であり、これが執坐相ということの意味である。しかし、執坐相ということばはりっぱな表現であるが、自己を捨して触すると云うのだから、非達其理、つまりちょっとみると一種の予盾であろう。このような工夫を脱落身心という」。
既述の知覚、表象に関しての解剖学的、生理学的解説は省略し.大脳生理学との接点のみまとめてみた。
意識の中枢について、マグン説、ゲルホルン説、ベンフィールド説とあるが、視床網様体を考えるのが妥当である。祖床は左右二個存在し、その間は第三脳室によって隔てられ、視床間橋によって連絡されるに過ぎない。これは互いに知覚されてることを想像させる。
したがって、意識の基調は、時実の考えの如く、自動能のある視床下部でおきる党醒と睡眠のリズムが大脳辺縁系をぶ活して造る「素朴で本能的な意識」であり。これと中脳網様体による新皮質ふ活作用に支えられ、視床網様体の「高等な意識活動」が可能になるものと考えられる。
鈴木正三は武士出身の僧侶である。かれは天正7年(1579年)に三河国東加茂郡則定郷(盛岡村)で松平家臣の鈴木氏の長子として生まれた(正三というのは俗名であるが、出家した後もその名を襲用した)。関ケ原の役や大阪冬の陣、夏の陣にも従軍して武功をたてて、旗本のうちでは重要な人であったが、元和6年(1620年)に42才で出家した。かれは出家する前からしばしば寺院に寄寓し、当時の有名な禅僧と親交があった。出家した後、ェ永9年に故郷に石平山恩真寺を開創した。慶安元年(1648年)には69才の老体ではるばる江戸に移り住み、住民を教化した。明暦元年(1655年)6月25日申(PM4:00頃)に江戸の神田で死亡した。
かれの思想の著しい特色は、横溢した批判的精神である。したがってかれは日本仏教諸宗派の宗祖の権威を認めなかった。このような立場から、かれは無宗派的性格の僧侶であった。かれは曹洞宗に属していたが、臨済宗の諸師とも親交があり、一般民衆には念仏をすすめている。この点でかれは全く自由人であった。かれは仏道修行の目的は「自由」を実現することにあると唱えた。かれの説いた「自由」は宗教的・精神的な意味のものであつて、政治的・社会的な意味の自由ではなかった。
かれのもっとも著しい思想の特徴は、世俗的な職業生活に、ひたすら一生けんめいに精を出すことが、そのまま仏道修行である、と喝破したことである。かれの第1の主著である『万民徳用』には、「仏法修行は、諸の業障を滅尽して一切の苦を去る、この心即ち士農工商の上に用いて、身心安楽の宝なり」と述べ、さらに「東覚真如の一仏、百億分身して世界を利益したまうなり。鍛冶、番匠をはじめ、諸職人なくしては、世界の用うる調うべからず。農人なくして世界の食物あるべからず、商人なくして、世界の自由あるべからず。このほかあらゆる事業出で来て、世のためとなる。天地をさたしたる人もあり、五臓を分けて医道を施す人もあり。その品々限りなく出て、世のためとなるといえども、唯だこれ一仏の徳用なり」と記している。
ついで『驢鞍橋』(下)には医者の職業倫理について「一日、ある医者来て修行の用心を問う。師示していわく、別に用心なし。医者の仕様を教え申すべし。先ず、われは世界の病人を救えとの天導の仰せつけなり。この役の人ぞと思い定め、身心を世界になげうって薬代の事をも、何事をも思わず、ただ天道に任せ奉り、一筋に医を施さるべし。然らば、また命をつなぐ分は必らず天道のあてがい有るべし。かくの如く勤められば、機の熱するにしたがいて、必らず徳あるべしとなり」とある。また実際に病人を治した例が2例述べられている。これらのことから鈴木正三は医療についても、かれ独特の医療は即仏道であるという信念を持っていたと思われる。
今年、金沢区が磯子区より分区して50年が経ち、金沢区医師会50周年記念誌を発刊することになった。私はその編集の一員となりました。私の生家が金沢でも古い家でしたので、明治・大正時代に金沢の医療に尽くされた医師を調査する役割をもった。
100年以上も前の話なので、この土地に生まれながら子供の時の主治医の田中先生の家が代々医者の家であった位の記憶しかなく、その他に居たかも知れない医師の話は、祖父や父からも聞いたこともなく、又現在の医師会の先生も全く知らなかった。幸いなことに、昭和62年金沢区図書館発行の「金沢の100年」の本を読み、明治初期の各村の戸長(村長)、旧家、旧金沢藩主等の15家に保存されてあった古文書が横浜開港資料館に保管されてあることが分かった。そして明治6年から明治16年迄に書かれた89通の死亡届と25通の死亡診断書が見付かった。これにより明治初期には田中医師の他に宮川一宗氏が居たことが分かった。また隣接の磯子区杉田の間辺魯山氏が大きな役割をなされていた。その後の調べで田中氏は長崎で、宮川氏は京で蘭学を学んだ医師であり、間辺氏は千葉佐倉系の漢方医であることが判明した。
金沢の様な三方を山で囲まれた陸の孤烏、寒漁村にかかる優秀な医学の先端を行く先輩を持ったことを誇りに思い、早く同僚の先生に知らせたく、昨秋今回発表の一部を金沢区医師会報8号に載せ、又一部を学術懇話会に発表した。今回の発表の中で、明治6年9月の死亡診断書は金沢区で一番古いもので、横浜市でも1〜2番を争うものではないかと思われる。その他、死体検案書、二人の対診医による診断書、詳しく記載されている死亡届等、珍しいと思ったものを紹介した。
しかし「房内部」だけの抄録、和風に書き記した「性のノウハウ」が、巷には出回っていた。やがて18世紀には、貝原益軒が「養生訓」を刊行したことで「性生活ノウハウ」一度に注目されるようになってきた。
しかし、古医学や、儒教医学に批判的だった安藤昌益や、解剖下に実験医学を追及していた大矢尚斎らの熱意などが西欧の性医学の受容を急速におこなわせたと見てよい。
幕府政治が終罵して、明治維新の到来。緒方門下の優秀な弟子緒方准準が大阪医学校に招請したボードウインの泌尿器学講座は、それまで知りえた欧州医学の水準の高さを叙述にみせて性医学の受容におおいに貢献したものであった。「日講記聞 全11巻」の緒言に緒方洪庵の義弟緒方郁蔵が「従来の男女生殖器の内景官能病理治法未だ尽くさざるところありしに、方今とくに未曾有、故に先ずこの発明を講じて、後に他事に及ばんと……」とよせているように、顕微鏡、生化学的分析など、改めて解剖学、生理学や当時解明されてた分析学(生化学)などが詳細に記述されており医学生たち初め多くの読者を引きつけたといえよう。しかも「性衛生や、男子の生殖器の部」にはプルハーフェやフーヘランドなど欧州医学界の重鎮が説いた「性衛生学」であり、実は古いギリシャ医学のヒポクラテスや、ガレノスが説いた「性生理学、衛生学」を忠実に継承していたし、当時なお欧州を支配していた『オナニー』敵視論の源流であったチソーや、それらを道徳面から援護していたゲーテ、かれに心酔していたブルハーフェらや、ルソー等の「禁欲的性医学」が全面的に敷衍されていた。
フーフェランドの出世作ともいえる「Mikroblotik」の翻訳抄録であった「長生法」の一節、房事の部には『嘗て一洋医の話しを聞くと、一度の房事は六オンスの瀉血と同じく、一度の手淫は、六度の房事と同じといえり。手淫の人身に害あること推して知るべし』せんずりこの一節こそブルハーフェが説いた「性の威嚇的警鐘」だとする説が最近アメリカの性社会学者、バーン&ポニー、プローによつて発表された。「売春の社会史」1991*香川ら訳、筑摩書房刊。
その後、石黒忠悳の「長生法」、文部省翻案の「百科全書、養生編」、土岐頼徳の「啓蒙養生訓」など続いて刊行されたが、それらには「手淫害毒観」が姿をけしていった。明治5年に緒方准準の「衛生新論」には「性生理」とともに、性衛生と「手淫害悪論」が登場している。この中身は緒方洪庵の「扶氏経験遺訓」にあっつたもので、本質はヒポクラテス、ガレノスの「性衛生論」そのものであった。
『手淫の害は過度の性交よりなを悪いものである。早晩必ず憂穆病になるのである。一方婦人の男性にくらべれば色欲は弱いので、違ってきよう』など。
明治8年になって、千葉繁(横浜在住の士族という)の「造化機論、乾坤」が刊行された。著作者はアメリカ人のゼームス・ストンとされている。本は最初は学術書の形態で樓薔楼から出版され、扉絵には西洋美人の裸体画が彩色されていた。なかに精密な男女生殖器の石盤刷りの色彩豊かなものであった。しかし文面は医学用語中心であり医学書の形をとったもので、全国の医学書取次店に配送されていたことが書物奥付けで証明できよう。大衆向けにはそぐわなかったためか翌年には「通俗造化論」として言葉も改善したものを発刊、たちまち現在でいうベストセラーになっていった。
こうして性衛生の世間に広まった反映は、「房事養生鑑」なる一枚の絵草子紙にまでなり「食事養生鑑」とも一般家庭に普及したとされる。
「造化機論」を契機に、世間に「造化機論ブーム」の到来となり、明治30年代まで約25年間実に60余冊の類書が巷にあふれている。明治8年といえば、明治維新のながれに乗じた風俗堕落や猥褻見せ物等の流行が起こり、出版条例が公布され多くの出版物が出版禁上にはなっていたが、造化機論類似出版書は発禁処分になったのは、明治13年『造化玉手箱』になってからである。アメリカ、イギリスものの翻訳があいつぐなかで、明治12年には、当時世間の自由民権運動の旗手であった、三宅虎太の翻訳『通俗男女自衛論』が世に出た。原著者はドイツ人レタウであり、全ページの3分の1もが「手淫害毒論」に費やされた本であった。明治12年前後には森鴎外に言わせれば「性欲抑制を巡る世相の見解は、賛否交互というばかりか、混乱の最中にあった」欧州の時代を最も反映したのが『通俗男女自衛論』であるといえよう。
しかしながら、かかる「通俗造化機論」の流行にたいして批判的な出版物もあった。明治10年には早くも京都の名高い産婦人科医の賀川満斎が、『産科新式』を刊行した。当時の出版物の流行の一つだった、浮世絵のしかけ風のものまで挿入したものがあった。
明治13年に出版禁止の一号になった『造化玉手箱』の禁止処分の理由がいまひとつ不明だが、巷の声ではこの本の対象者を女子向けにあったようだ。
女性向けであったように内容はいたって平易な表現で、重きを「性欲禁止と、手淫禁止、抑制」にはおいてなく、妊娠、産後の注意、交合一般論等が記述された。
明治半ばになると富国強兵の世相からすると「性、性欲」は社会の片隅に押しやられる反面、学生への性犯罪、オナニー防止策など“国家的課題”とまでされた。
明治38年になって医学史研究家の富士川游が人性学会を結成して画期的な機関紙「人性」を刊行した。かれはドイソ留学中から性教育に強い関心を寄せていたが帰国後「性こそ学際的な協力下が必要」と説いていた。「人性」にはたちまち、民俗学者、歴史家、考古学者、哲学者、医師たちが結集してきた。
しかし、明治44年には、東京医科学会の名で『生殖作用男女の衛生』という小冊子が発行されて、世の大新聞などこぞって推薦文を掲載し、たちまちベストセラーになった。この中身はといえば東京帝国大学教授の面々が顔を連ねていた上、一斉に「性の陰惨、抑制」を叫んだもので、長与専斉(医務局長)、大沢謙二(公衆衛生)、土肥慶蔵(泌尿器)らが参加していた。
性医学も、批判することなく欧州を渡倦してた「性抑制=自慰病的視」論に依拠したものが中心的な役割を引き継いだもので、明治末までわが国を代表する東京帝国大学の教授さえが、この「威嚇的性衛生」(山本宣治:性教育)の旗ふりを勤めたことがわかろう。
たまたま、性の解放または真の大衆化を訴えてきた人々は(森鴎外、宮武骸骨、小倉清三郎、山本宣治など)は、弾圧される側で、意見の公開すら制限されてきた。
二回の世界大戦中でも、従軍慰安婦の公認(軍人の性欲抑制への対応としての)から優生思想の追及に命をかけた永井潜の「性欲観」の源流もまた「威嚇的性衛生」によったものであろう(永井は、富士川の『人性』誌の最初から筆を奮い優性運動の官民一体化の道筋を歩んだ)。
滋賀県安上の浄巌院に『看病用心秒』という書物がある。これは浄土宗第二祖良忠(1198〜1398年)が編纂した、わが国最初のかな書きの看護書で、とくにターミナル・ケアについて記した書物である。看護史の分野では、この書物が存在することはつとに知られているが、この書物の内容については、今まであまり深い検討はなされていない。演者はいささかの検討を行ったのでその概要を報告する。
本書は、はしがき、19の項目、あとがきからなり、最後にこの書の書写の出来を記している。
はしがきでは、この書物は看病人の教科書として書いたものであるから、知識(宗教行儀面の師匠)や看病人は、これを手本として十分に看病を行い、病人を極楽往生に導くように努力しなければいけないと強調している。
19の項目を読んで先ず感ずることは、各所に(第2、4、18番目)に看護についてのきめの細かい心遣いがなされていて、今日においても参考とすることができるものがあるということである。ついで知識看病人の人数は3人でよいと述べている(第4番目)。これは欧米で行われている、チームによるケアとは著しく異っており注目に値する。また祈祷を禁止し、鎮痛作用のある療治、灸治はよいとしている(第5番目)。すなわち、いたずらに延命のための治療を禁止していることでは、ケアの本質をある程度把握しているのではないかと思われる。今日では臨終は家族が看取ることは当然と考えられているが、本書では妻子は勿論親しい人も近ずけてはいけないとしている(第3番目)。これは極楽往生するためには、信者にこのようなきびしい態度で念仏すべきことを述べているのである。
金沢文庫の称名寺伝来古文書には医書も少なくない。うち第401函に収められる2軸には、かつて斯界にほとんど知られていなかった医学文書がある。ただし同文庫学芸員の西岡芳文氏のご教示により、当文書については関靖『金沢文庫の研究』(1951)313-316頁(以下、『研究』という)に、故・石原明氏の意見を参考にした紹介がなされていたことを知った。そこで『研究』と西岡氏のご教示も参考に、第401函の2軸について報告したい。
文書1:一枚の断簡で、内容から古医書の目次と推定される。ただし、その本文に該当する文書は伝存しない。『研究』では『仮名万安方(頓医抄)』巻50の目次に類似記載があるという石原氏の教示、および金沢文庫古文書に『頓医抄』の貸借に関する記述があることから、当断簡と『頓医抄』との関連を推察する。妥当なところではあろうが、類似した目次の項目は『医心方』『遐年要抄』『長生療養方』『衛生秘要抄』という中世以前の日本医書にもあり、『頓医抄』のみに限定するのは難しいかも知れない。
文書2:1軸の巻子本で、外題に「五臓六腑医書 要字抄出」とあり、「解剖書等」の仮題も与えられている。紙背は寂澄(ジャクチョウ、1228-1301-?)手沢の『菩提心論要文』で、寂澄には安房清澄山での奥書本があり、日蓮との関連が考えられる学僧という。『研究』は石原氏の調査により、具平親王『弘決外典鈔』(991)巻4第9の内容を説明したものとし、次のように記す。
(両者の)項数に二項の相違はあるが、胞以下の順序は極めて類似している。全然その項数を異にしているのは薄皮厚皮筋・肉骨髄・三焦の三項だけで、他は一つを二つに、二つを一つに合別しただけで、更にその釈文を比較することに於いて、所々に二三字の出入があるだけで、先ず殆ど同一である。強いてその相違点を拾って見ると、金沢本には往々『安驥云々』の釈文が添えられていることである…。ほぼこれで当文書の性格は尽くされているが、注目すべきことが二点ある。第一は当文書と現伝の『弘決外典鈔』との文字の相違で、しばしば当文書に妥当なものが認められる点である。その文章は『弘決外典鈔』がすでに散逸した中国医書の『明堂経』等より引用したものなので、『弘決外典鈔』の研究のみならず『明堂経』の復原にも当文書の価値は大きい。第二は中国馬医書の『安驥集』が引用されている点で、その日本における受容を示すかなり早期の史料として注目される。
死が近付いた時の徴候についての知識、死の転帰のプロセスにおけるケアの仕方、死者の全身の清拭にはじまる死後処置、そして葬儀に至る一連の所作は今日、看護職や葬儀社の指導を受けなければ家族だけでは到底、行いえないものとなっている。これらはかつて家族や隣組・講といった人たちが担い、伝えていたものであったが、戦後の高度経済成長期の核家族と病院死が進行するなかで見失われてしまったものである。
医療の場は近代以降、在宅から病院へと移り、最近では医療費抑制のために再び在宅へとシフトしてきている。しかし、在宅医療・在宅死を推し進めようと思っても、家族の間に死に対する不安が高まったり、急変時における対処の仕方がわからないと、救急車を呼んで病院へ戻してしまうことにもなる。かつての看取り文化を死の準備教育として復活させることが、在宅医療・在宅死を推し進める上で重要な要素となっている。また死後処置に家族がかかわることによつて死後の悲嘆は薄らぐことにもなる。
さて、その看取りの文化であるが、わが国には古代以来、仏教をベースにして形づくられたものが連綿と受け継がれていたが、それらは戦後の消失に先立って、明治の初めに大きな変質を遂げている。
その変質を余儀なくされた背景には、第1に、明治初期の廃仏毀釈、それにともなって起こった人々の仏教離れがある。仏教の精神を理念とした看取りは、文明開化の世には合わないとみられたのである。
第2には、明治政府の富国強兵、殖産興業策に関連して、若者が軍隊や工場に集められ、老若の分離、核家族化が進んだこと。これによって看取りの文化についての伝承も途絶えがちとなってしまったのである。第3には、看取りにおける1半の担い手であった女性が1890年代以降、社会的に進出し、都市部の新中間層においては共稼ぎが一般化するようになって、看護者不在という状況が広がってしまったこと。第4には、明治の中期ともなれば多くの病院、言い換えれば、新しい看取りの場が設けられたこと。また一方では、死は法的にも医師によって確認される必要があるとされて、医療の専門家による看取りの場への進出、家族に取って代わる状況が現れたこと。第5には、家庭看護のあり方を説く家政学書においても西洋の医学書および看護書の影響が現れはじめ、専門家主導の看取りへと内容を変えていったこと、などが挙げられる。
それでは、明治の中期ごろまでは存続していた看取りの文化とは、どのようなものであったのかといえば、それは前述したように、仏教における平生尋常の看護と臨終行儀における看護を骨格としたものであった。看護といえば、肉親による看護がすぐに思い浮かぶが、看護というものを概念化し、ひとつのルールを持った行為にまで高めたのは仏教であった。
なぜそれをしたのかといえば、僧は出家者と言われるように、家を構成する家族や財産から出離し、集団生活を送りながら修行に励む者であったため、病気になれば仲間に援助を求めなければならない。肉親による看護ではないため、そこには甘えも許されず、また看護を怠る者がいれば監督者による強制も必要となってくる。このような他人を看護するという状況において、看護に対する心構えや看護の手順、さらには看護を受ける側の心の持ち方といった、言うならば、看護のルールやエチケットといったものが必要とされるようになったのである。釈尊は看護を受けられず放置されている弟子、看護を怠っている弟子を見るたびに訓戒を垂れているが、それらは後に出家集団における生活規範を定めた「十誦律」などにおいて「看病人戒(瞻視の法)」とか、「病人戒」としてまとめられている。前者では看護者の役割や心構えとして、病状に応じた食事を整えること。薬を準備すること、清潔な大小便器を常に用意しておくこと、説法をして病人を喜ばせること、欲心を捨てて慈悲の心をもって看護にあたること、といった内容にまとめられており、後者の病人に対するものとしては、用意された食事や薬をきちんと摂ること、よく苦痛を忍ぶこと、看護者に病状をありのままに伝えること、病を治そうとする気持ちをしっかりと持つこと、 といった内容になっている。
これら出家者の間で行なわれていた看護の作法は、仏教が広まるにつれて在家者の間でも次第に用いられるようになる。特に、平安中期において死を意識させる浄土教信仰は、そうした動きを加速させるものとなった。
それまでの仏教といえば、現世におけるもろもろの願望を叶えてくれる手段としての役割を担うもの、現世利益信仰が中核をなしており、現世を肯定的に捉えるものであった。人々の願望の中心にあるものは、今も変わりのない治病・延命に関するものである。人はいくら財産を持っていても、命がなければ、また健康でなければ意味がないからである。そのため仏教に期待した最大のものは延命、冶病となり、人々の信仰は薬師仏や観音菩薩へと向かったのである。それが末法思想、浄土教信仰の高まりの中で、延命ではなく早く死ぬこと、極楽世界に往ってそこで生まれ変わること、すなわち往生を希求することへと変化したのである。
ここにおいて注目すべきことは、死は往生という言葉に置き換えられることによってプラスに評価され、また同時に、病も往生を導くものという位置づけが与えられたことによって、同様な評価が下されたことである。それまでは死や病といえばケガレとみなされ、あるいは仏罰・神罰の結果とみなされていて、マイナス・イメージの非常に強いものであった。このマイナスからプラスへの大きな転換は看護にも及んでいる。すなわち、看護といいえば、これまでは病や死が発するケガレの恐れから、 とかく忌避されがちなものであったのが、積極的にかかわるべきものへと変えられたのである。
往生思想のひとつの到達点とも言うべきものに、源信が著した『往生要集』がある。そこでは往生という救いをともなった死を迎えるためにはどうすればよいのか、病から死へと移行する臨終のプロセスにおいて看取る者は何をすればよいのか、 といったいわゆる臨終行儀に関する論が展開されている。当時、在家の者の間には、この作法にもとづく死の看取りを実践するグループができており、鎌倉期になると、それまでに蓄積されたノウハウといったものも含めて、看取りについてのマニュアル本が生まれている。その代表とも言うべきものが浄土宗第三祖の良忠が著した『看病用心鈔』である。
その内容は無常院・延寿堂・重病閣と呼ばれたホスピス施設で行なわれる臨終看護の方法やあり方を説いたもので、およそ5つの事柄から成っている。第1は病人が他念なく念仏に努められる環境を作り出すこと、すなわち、病人がこの世に未練を感じるような愛着の品物、あるいは妻子を含む見舞いの客を病人の視界から排除するとともに、病人の目には仏像を、耳には念仏の声のみを入れ、酒肉五辛といった飲食物を遠ざけ、清閑で正常な空間を作り出すこと。
第2は、病人の衣食にかかわる生活援助と清拭や排池の世話といった身体的なケアをすること。第3は、死を恐れる気持ちや不安を取り除き、念仏を勧め、浄上の世界を思い描かせるといった精神的なケアをすること。第4は、除痛が必要な状態であって、病人がそれを求めるならば医薬の準備をすること。ただし、延命のための医療は厳禁とする。そして、最後は死後の処置に関するものである。
同書の眼目は、看取ることが病人の心や身体の痛みを癒すだけでなく、その癒しが結果として往生という救いをともなった死を病人にもたらしていること、 さらには看取るという相手に対する癒しの行為を介して、看取る者と仏との回路も結ばれ、結果として看取る者も救いにあずかれるということ、を説くことにあつたと思われる。看取りが自他の救いに至る宗教的な行為と位置づけられている点に、同書がたんなる看取りのマニュアル本でないことを表している。ここに言うところの自他の救いという論理は、ちょうど人を慰め癒しているつもりでいながら、 自分の方が相手から元気づけられ癒されているという、 日常の中で経験しているそれに似たところがある。
これらは往生を希求する人々の間で行なわれた臨終看護という特別なケースともいえるが、医療が低水準にあった当時においては、看病は常に病人の死を意識したターミナル・ケアの要件を満たさざるをえないものであった。したがって、看病一般にも適用される普遍性を有するものとも考えられる。
ところで、『看病用心鈔』に見られる死の看取りは、今日のホスピス・ケアと比べていろいろな違いがみられる。たとえば、前者では肉親による看取りが否定されており、家庭的な雰囲気を持ち込ませることに努めている後者とは大きく異なっている。前者における肉親への対応は臨終正念といって、死を迎える瞬間には明瞭な意識の下で信仰の告白をすること、すなわち臨終時において念仏が、住生をするための、阿弥陀仏の来迎を期するための必須の要件とされていたところから来ている。この世に執着する心を捨て去ってはじめて念仏に専心できると考えられていたため、妻子は「愛執を引き起こす端」とみなされ、看取りの場では最も忌避されるものとなっていたのである。
ところが、その一方で、親鸞から一遍に至る臨終観においては、臨終という人生の最期における念仏だけを特別視するような考え方をとらず、平生における念仏こそが大事であるという主張がみられる。いうならば、一生のうちのどこかで念仏を1回でもすれば、それだけで往生にとっての有効なパスポートになるというのである。したがって、平生の念仏ということが強調されるならば、臨終の場がたとえどのような状態にあってもよいことになり、妻子による看取りもかまわないということになる。妻子と別れを惜しみながら臨終を迎えること、それは人間としてごく自然な行き方であったと思われる。
人間の弱さ、言い換えるならば、煩悩の強さを熟知している親鸞は、臨終正念を得ようとする自力の心を捨て、信心の心の起こった時点で発した平生の念仏の中に、救いの完結をみようとしたのである。この親鸞らの考え方を受け入れるとき、家族は「善知識」、すなわち信仰の導き手となり、また安らかな死を導く癒し人ともなり、家での看取りを可能なものにすることができたのである。
しかし、その後の社会においても肉親による看取りを忌避した『看病用心鈔』と同趣な著作が、またそれらを取り入れた家事指南書や教訓書が近世末に至るまでいろいろと出版されている。そのような本の中で言われている看病人の要件というものを整理してみると、およそ3つになる。すなわち、第1は善知識となりうる念仏者であり、慈悲の心が厚いこと。第2は妻子を避けること。近世中期の慈空も『臨終節度』において、女人は信心があっても看病に用いてはならない。それはこの世に執着を病人に起こさせるからであると述べている。第3は第2のことに関連して、平生のときにあっても、異性による看病は好ましくないとされていること。これは風紀の乱れを心配するからで、古代の「僧尼令」以来、諸寺の制規類でも原則禁止となっている。この考え方は幕末から明治初期にかけて建てられた病院でも生きており、男性患者には「看病夫」が、女性患者には「女看病人」が配されている。
これまでみてきたように、我が国における看取りの文化というものは仏教を基層とするものであったが、これらは初めにも述べたように、明治を迎えて大きく変容させられている。そこでは、看取りは医師・看護婦らの専門家によってリードされるものとなり、家族は後方へと退かされている。治療も身体の癒しのみに目が行き、救いとか、死後の世界といったものは視野の外に追い出されている。その結果、死は大きな不安となって病人を襲い、看取りの場は孤独感と疎外感とによって占領されるものとなったのである。
ヨコハマにはこの20年間に各種の博物館、資料館が建設された。県においても然りであるが、こと医学・医療に関するものはない。近代医学と呼ばれる医術以前のものについては日常生活のなかにともすば埋没しがちであったために敢て取り上げられることがなかったのかも知れないし、また幕末から我国に入ってきたいわゆる近代医術については当時の新開地ヨコハマにあっては保存されることはなかったであろうし、また大正大震災や一日にして市の中心部が壊滅焼失した第二次大戦の横浜大空襲のために「資料」としては殆んどなかったといえるであろう。
しかし、それでもタイトルにしたような目的で、何かはわれわれにもできるであろうという意図から横浜市立大学医学部同窓会が音頭をとり、日本医史学会に属し横浜に在住しておられる先生方や県・市医師会、地域住民の代表をメンバーとして設立の準備会を発足させた。平成7年である。
広報活動の一つとして横浜総合医学振興財団の助成で「横浜医史跡めぐり」を編纂し、広く市民に新聞・講演などを利用して配布した。同時にかかる施設は市民レベルでと考えて横浜市長にあて陳情書を出し、また社会の議員方に働きかけた。いうまでもなく1859年のヘボンの来航以来を目にみえる歴史としようとするもので、往時から現在の横浜市立大学医学部に至る沿革をあらゆる手技を用いて再現しこれを常設展示とし、他は特設展示の手法と、市民への医学教育に資するための教育展示の三本柱を考えている。
昨年から市大事務局のアドバイスもあり、医学部後援会からも前記委員の参加を戴いた。
ここに懸念していた問題が生じた。即ち、市民レベル的な発想が大学レベル、或いはそれ以下にレベルダウンをする可能性である。本日の例会よりあと4日、この9月一杯に準備委員会はある決断を迫られている現状である。
現在、日本において医学の歴史に関係ある資料を保存することは焦眉の急を要することであって、私が本年北海道の函館において第99回日本医史学会総会を行ったときも、「日本における医史料の蒐集と保存について−−その現状と提言−−」のシンポジウムを行った。
医史料の保存については、外国の資料館は充実しており、一般の人の理解も深い。したがって資料館への寄付もかなりある。これに比較すると日本は非常におくれている。たとえば弘大の図書館は過去3年間に古い雑誌を200種購入するのをやめ、 代わりに新しい雑誌を購入している。必要でなくなった古い雑誌は廃棄処分となる。ここで古い雑誌とは1940年以前に発行されたものを指す。1950年以降に発行されたものは、コンピュータに入っているので消失しない。なぜ古い雑誌が捨てられるのかというと、教授の価値は新しい研究成果を行った人ほど高くなるからである。
また古い資料というと、鎌倉、室町、江戸時代などの資料を考えがちであるが、そうでなく、第2次世界大戦をはさんで7〜8年間のものをさす。そしてこの時代の資料は、現在の医学、医療にも大きな影響を及ぼすものが多いのに数は少い。
今後は日本医史学会で早急に「医史科の保存についての委員会」を設立し、全国の医料系大学、病院または開業医などにおいて古い医史料が出た場合は、これらを医史学の立場から選別し、医史学に必要な資料はこれを保存する機能を持つ機関を是非作って欲しい。
わが国における医学に関する博物館の数は80種あるが、この中で評価できるものは数少ない。そしてこれらすべてのものは、建物の中に目的とする標本が並んでいて、ここに訪れた者はそれを見て勉強するしくみになっているいわゆる参加型の博物館である。
ところがオランダのある博物館では、一つの機械について、この機械の機能を理解するのに自分で体得して理解できるように、うまく作られている。したがって、そこに書かれている説明文を読まなくても、機械を自分で動かせば、自然にその機械の機能が体得できるのである。こうして、この機械の機能の移り変わりも自分で体得できるようになっている。
これからの医学資料館はこのような形の資料館にする必要があるのではないか。その資料館には一度行ったらもう二度と行く必要はない、というようなものでなく、何回も何回も行きたくなるような資料館を作る必要がある。
さいごに横浜医学資料館についていえば、横浜は世界の港であるから、横浜の医学資料という狭い考えでなく、世界の医学資料を集めるという大きな構想を持った法人組織の資料館を作って欲しい。
会 長 杉田 暉道
幹事長 中西 淳朗
幹 事 荒井 保男
大村 敏郎 衣笠 昭(会計) 河野
清 滝上 正
佐分利保雄 深瀬 泰旦 真柳
誠 山本 徳子
監 事 家本 誠一
大島 智夫
[50音順]
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名誉会長 大滝 紀雄
[第4期:平成10年2月〜平成12年1月]
第1条(名称)
本会は日本医史学会神奈川地方会という。
第2条(目的) 本会は医学の歴史を研究してその普及をはかるを目的とする。
第3条(事業)
本会は第2条の目的を達成するために次の事業を行う。
1)総会
2)学術集会
3)その他前条の目的を達成するために必要な事業
第4条(入会)
本会の趣旨に賛同し、その目的達成に協力しようとする人は、
会員の紹介を得て会員となることができる。
第5条(会費) 正会員は年会費2000円を前納する。
第6条(役員)
本会は運営のためつぎの役員をおく。
会長1名、幹事長1名、幹事若干名(うち会計1名)、
監事2名。任期は2年とし、重任は妨げない。
第7条(名誉会長、顧問)本会は名誉会長、顧問をおくことができる。
任期は会長の任期に準ずる。
第8条(会計年度) 1月1日より12月31日をもって会計年度とする。
[平成4年5月16日議定、平成8年2月17日改定]