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日本医史学会 神奈地方会だより

第6号

平成9年4月吉日発行



目  次

目次                                                                          1頁

平成8年度年次報告                                                            2頁

神奈川地方会平成8年度総会並びに第8回学術大会                   3頁

ルイ・パストゥールの画像と言葉                             大村  敏郎         3頁

ペスト残影(その5)                                       滝上  正           4頁

病院船氷川丸回顧                                           鈴木  衛           6頁

疾病史の中のペスト                                         和気  朗           7頁

日本医史学会9月例会・神奈川地方会第9回学術大会合同会                      10頁

横浜軍陣病院の介抱女                                       中西  淳朗       10頁

明治28年に看護婦の著した伝染病看護の本について           平尾  真智子     11頁

ペスト残影(その6)                                       滝上  正         12頁

P.F.シーボルトと日本の医学                             石山  禎一       13頁

平成8年度決算書                                                            17頁

平成9年度一般会計予算                                                      18頁

参考事項(役員並びに会則)                                                  19頁

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平成8年度年次報告(平成8年1月1日より12月31日まで)

1、幹事会
・5月24日と11月15日の2回開催し、学術大会の運営について協議し、ご案内等の年号は「平成」に統一すること、一般口演の座長は輪番制にすることに決めた。
2、学術大会
・第8回(平成8年2月17日)  於県医師会館  第3頁以下に収載
・第9回(平成8年9月28日)  於県医師会館  第10頁以下に収載
3、総会
・平成8年2月17日、平成8年度総会を開催し、前号17頁に「参考事項」として収載した如く、役員の改選を行い新会長に杉田暉道先生を選出し、前会長の大滝紀雄先生は名誉会長に就任された。これにより当会会則の一部を改定した。
4、出版物
・「日本医史学会神奈川地方会だより」第5号を平成8年5月に作り、「会員名簿」の改定版を6月に作り、7月に配布した。
5、外部団体への協力
・横浜市総合医学振興財団の事業に協力し、当会幹事が“横浜市大一般教育のひろば”シリーズ12「横浜と医学の歴史」の執筆をすることにした。(この本は平成9年夏までに横浜市が発刊する予定)

・横浜市中央図書館公開連続講演会、会員の井出  研先生がモデュレーターとなって、10月5日に中西淳朗先生が「野毛山軍陣病院の秘話」、同月12日に大滝紀雄先生が「横浜で働いた外国人医師たち」について講演され、延べ120人の市民が参加した。なお前記財団が平成7年12月に作成したパンフレット「横浜医学史跡めぐり」 をもとに、同館がパネル化して平成8年9月3日から10月16日まで館内ホールで展示した。

・第38回神奈川医学会総会学術大会(平成8年11月23日)のプレナリーセッションで、杉田暉道先生が「けがれの思想の歴史的考察−臓器移植との関係」について講演された。

・神奈川医学会雑誌22巻1号に中西淳朗先生が原著、「横浜軍陣病院」の歴史地理学的再検討を、23巻2号に杉田暉道先生が総説、患者の心理と権利についての歴史的考察、を発表された。←目次に戻る


神奈川地方会平成8年度総会並びに第8回学術大会

[一般口演]
1.ルイ・パストゥールの画像と言葉   慶應義塾大学  医史学客員教授
                                                  川崎市衛生研究所所長             大村  敏郎

  昨年 9月28日、ルイ・パストゥール(1822〜1895)は没後 100年を迎えた。彼の研究領域があまりに広く、また人物が偉大でありすぎたためか、大規模な記念祭はわが国では企画されずに過ぎてしまった。レントゲンのX線発見 100年とは好対照であった。

  筆者自身が関与したのは日仏医学会のコロキアム「私のパストゥールを語る」の演者と座長(6月)、京都のパストゥール研究所の記念講演(9月)等であるが、自分でも印象に残ることを中心に振り返ってみたい。

  パストゥールは生涯通してずっと髪を左で分けていた。右で分けた写真は学生時代の終りと教員になりたての頃の 2枚があり、これは当時の写真が左右逆に写るダゲレオタイプのものだったことを考慮に入れれば、常に左分けだったことがわかる。

  46歳で脳卒中発作を起こし、以後左半身に不自由を残しながら研究活動を続け、物理化学の出身でいながら、微生物学から生物学・医学へ大きな貢献を積み重ねていく。特に微生物は自然発生しないこと、低温殺菌法の開発、弱毒生菌を用いたワクチン法など、細菌学・免疫学の父と呼ばれるのに相応しい活躍をした。立派な医学者であるが医学部の出身ではないから医師の資格は持っていない。

  「国境や宗教を越えて苦しんでいる人々に手を差し伸べたい」という深い愛情の表現や「科学に国境はない」という名言、これには続きがあって、「しかし、科学者には祖国がある。世界の人々にいかに貢献したかを報告する祖国が」となる。愛国者パストゥールの面目躍如たるものがある。

  治療した狂犬病の第1号患者の少年はアルザスから連れてこられた。アルザスは普仏戦争でプロシャに奪われた土地である。だからこそ元フランス人の少年をなんとかして救けたいという愛国心が支えになったのではないだろうか。                                                      ←目次に戻る                                               


2.ペスト残影(その5)−伝説「鼠捕り男」を感染症学から検討すると−

亀田病院・横浜船員保険病院   滝上  正
  ドイツ、メルヘン街道の中央部にあるハメルンは伝説「鼠捕り男」で有名であるが、その伝説の解釈には実に25にも及ぶ説がある。その中には、医学的根拠にたつものもあり、就中ペストと関連の学説もいくつか見られる。それらには、鞭打ち行列、死の舞踏、ユダヤ人虐待などの諸説をあげることができる。またC. Greggは、その著書“Plague! ”1978において、 130人の子供の一時大量死はペストによるものであったとの推論を発表している。

  しかし、いずれにせよ、伝説の子供の大量死事件は1284年に起こったものである。ペストの流行史を見れば明らかなごとく、ヨーロッパのペストの第 2次パンデミーは1347年にシチリア島から始まっているのであって、件の1284年には、ハメルンはもちろんヨーロッパにはペストの流行はなかった。したがって、この伝説がペスト流行と関連ありとする諸説には総て同意しかねる。

  1994年 6月C.Lemmen女史は Westdeutscher Rundfunk kolnにおいて、この伝説にかんする新説を発表した。これはハンセン病と関連する興味深い意見であるので、ここに、その概念を紹介したい。

  ライ病は古代のヘブライやギリシア、ローマ時代にも既にみられたが、 7世紀から 8世紀にかけてヨーロッパに拡大し、13世紀には頂点に達して、人々を不安と恐怖に陥れた。ただし、ライ病といわれたものが、厳密にライ病だけをさしていたのではなく、難治の皮膚疾患や奇形のある種のものまでを含んでいたことは注意しなければならない。

 ライ病が疑わしいものは、まず観察施設において病否の判定をうけねばならなかった。そこでライ病と診断されることは、当人が「不治の病」におかされているという悲劇のほかに、彼が正常の社会生活からも完全に葬られることを意味した人生の大問題であった。ライ病患者にたいする偏見、虐待は旧約聖書の時代から変ることなく続いていたのである。彼らは故郷の町へ送り返されることになるのだが、中世の町が持っていた城門の前で先ず足止めを食らった。

 13世紀頃には、全ヨーロッパでレプラ病院(収容施設)Leprosorium(Lazarett)は19,000施設もあり、今日のドイツの領域内だけでも少なくとも 750はあった。例えばライン地方ではケルンに、北ドイツ地方ではプラウンシュバイクにあった。因みに、当時、ライ病はフランスで最も激しく、約 2,200の収容施設があったという。故郷の町がその施設を持っていれば、問題なくそこに収容された。

 しかし、ハーメルンに1280年前後には、それがなかった。患者は行路病者または「行き倒れ」のように物乞いをするしかなかった。彼らはそれを人通りの多い道筋に求めた。その方が貰いが多いからである。しかし、患者数が多くなるにつれ、町は対策に困りはて、近隣の町村に応接を頼んで、患者の追い出しにかかった。1277年のことである。患者は集団で、1年に1回、ブラウンシュバイクの施設に送り込まれた。そのときの引率者の役を、伝説上の「笛吹き男」が引き受けていてもおかしくはないとLemmen女史はいう。オランダの画家ブリューゲルはこの物語りを画いた絵で、引率者をバッグパイパーとして画いているくらいである。

 また、この伝説の古い絵では「笛吹き男」といっしょに群衆が絞首台や車のある処刑場のそばに立っているし、背景の当地方に多く見られる丘には、黒い穴がパックリ、口をあけているのが描かれている。いったい、これは何を意味しているのであろうか?  フランスやスペインではライ病患者を生きたまま、焼いたり、埋めたりして対処したこともあったらしい。ハーメルンでも城外に連れ出された患者には、残酷にも同じような対策がとられていたのかもしれない。

 ライ患者は“Arme Kinder Gottes”(神の憐れな子)とか“Siechc Kinder ”(病める子供たち)と呼ばれていた。なぜなら、彼らは現世では既に「罪」にたいしては贖いをすませ、死後は直ちに天国に帰ることが約束されていたからだという。また、ミュンスターの昔のレプラ病院(今は博物館)は“Kinderhaus”(子供の家)と呼ばれていた。連出されたハーメルンの子供たちは「神の子供たち」のライ患者であったのだろうか。       

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3.病院船氷川丸回顧   鈴木  衛

  戦争は徒労であるが、病院船の使命は崇高である。私は昭和18年 4月より19年 8月まで氷川丸に乗り組み、勤務していたので、その回顧談を試みた。

  順序として
  1.  緒言および病院船の安全性について。
  2.  氷川丸に関する著書6冊の展示。
  3.  病室の設置、設備。
  4.  私の乗船期間中の航海記録と経験談、目撃談を行った。

  私の航海は 1次から 9次にわたった。それらの航海中におきた主な事柄を述べた。すなわち、トラック島夏島航空基地での赤痢撲減、船内集談会の様子、海軍軍医学校同期の戦友との別れ、および入院、いわゆる“西南廻り”における出来事として、アンボンでの事件、重巡最上への臨時派遣、久邇宮殿下の入院、メレヨン島での触雷、船内風景など。

  医療面として、患者の収容手続き、治療の実態について話した。外科でもっとも多かったのは火傷で、ついで骨折、爆傷、下腿潰瘍(熱帯潰瘍)などで、これらにたいする処置も述べた。内科ではマラリア、アメーバ赤痢、栄養失調症が多く、当時の冶療法を振り返ってみた。マラリアには、型の如く、キニーネ、アテブリン、プラスモヒンの錠剤を使用し、バグノン注射、ヨード鉄シロップも試みた。アメーバ赤荊の肝膿瘍併発例には、穿刺をおこない経過を観察した。そのほか稀な症例数例についても説明した。

  処方では水剤、散薬、錠剤、注射剤にわたり、その名称を列記し、適応も解説した。約束処方は13種あった。

  患者食は一般食と特別食に二大別され、前者は粥食と常食に分けられた。後者は糖尿病食、腎臓庇護食A、Bに分け、その上に厳、中、軽とに分類した。なお、外科的結核無塩食餌、貧血患者用食餌もあった。

  さらに、昭和11年海軍処方集のコピーも展示した。 ←目次に戻る



[特別講演]
疾病史の中のペスト   日本大学農獣医学部教授        和気  朗

  本日、滝上正先生の御紹介によりまして、表題のお話をさせていただくことになりまして、まことに光栄に思っております。実は一昨年 9月、私達日本エルシニア学会の会員達が、世界エルシニアシンポジウムに参加するためローマに到着した際、それは折しもエルサン、北里の両細菌学者が同じ香港でペスト患者死体から病原体ペスト菌、それは1944年にやっと Yersinia pestisの学名が与えられましたが、それを1894年 6月に発見してから100週年にあたるのでありますが、インド・ケララ州・スラードに肺ペストが発生し、何方という大衆がボンベイをはじめ他都市に先をあらそって避難し、パニック状態に陥ったという新聞、テレビの報道が世界をかけめぐりました。その時、日本の報道機関は日本のペスト専門家を求めて奔走したのでありますが、本隊はローマに居たわけです。それというのも日本本土では香港でペスト菌を発見した後帰国した北里柴三郎が、ペスト診断、防疫の基礎体系を確立し、ネズミ、ノミの駆除を根本とする検疫、防疫体制を確立し、1899年から1911年、1913年から1926年、1928年と発生が見られただけで、外国の疫学者達からは日本はペスト菌の洗礼を受けていない処女地と見なされていたからです。

  世界的視野で疫病史を辿ってみますと、人類はまず農作物の病虫害、花、果実を荒廃、枯死させ、病変を肉眼でも見ることができる真菌(かび)や昆虫等による被害に気づき、その次に部落社会の複数の構成員が短期間に発熱、腫脹、死亡する災害に見まわれる事件を経験します。すなわち流行病の蔓延であります。元来ペスト(英語でいうプレーグ)という言葉はこのような災害に與えられたもので、各種の外国語辞典を開いても期待したような病名は後の方に出てくるだけで、穀物の全滅とか、森林の大量枯死とかが出て来ることが多いのです。科学知識が芽生えるにつれてこれら疾病の原因は神の怒りでも、泥沼から発生するミアズマでもなく、外部から感染する病原体であると認識され、次いで疾患の急性度、慢性度、致死率、症状等により、結核、麻疹、狸紅熱、コレラ、かぜ等と細分化され、そのうち高熱を発し、鼠蹊部や腋窩などのリンパ節が腫脹し、肺炎をおこし接触者に感染し、そのほとんどを死にいたらしめた病気をペストと呼ぶことになったのです。

  私は昨年 9月30日にニューヨークの国立自然科学史博物館を訪れる機会があり、その一室に自然の遺跡として古代アフリカ人の家族が白骨化して、その一つ一つが位置関係を変えず、自然に配列されている展示を撮影することができました。掲示された説明を要約しますと、「この遺物のうち父、母、子供達の頭蓋骨が一家族であることを物語っている。しかも外傷の跡もなく、衣服の残滓さえ身につけられているところを見れば、ある疫病(EPIDEMY) がこの一家を全滅させたと考えることができる」という説明でした。時間の関係で詳しい議論は省きますが、私はこの EPIDEMYは敗血症ペストと思います。

  ペストは紀元前 281-341年には中国の成書に記載されましたが、 6世紀以後20世紀末までには大流行パンデミーとして三波が認められています。 6世紀以後、東ローマ帝国が繁栄していた 520年頃からの50―60年の間、中近東から地中海沿岸地方を中心に流行し、首都ビザンチン(今のコンスタンナノーブル)では 3カ月間に毎日 5,000人から 1万人が死んだ大流行は特徴的な症状からペスチレンス、鼠蹊腺腫とよばれましたがこれが第一波パンデミーで中世ヨーロッパの暗黒時代を迎える端緒となりました。かくして人口過疎となった自然や部落に棲息する哺乳類(特に齧歯類)やヒト家族の間では、いまだ人間には未解決であったものの、ノミを介して伝染するペスト菌が保存維持されていました。貿易港ベネチアにはこのようにしてペストが60回以上も持ちこまれたそうです。

  これら流行間期のペストの状況は、ペストに罹患しやすいヒトや哺乳類が死に絶えてしまい、あるいは第一波ペストに軽度に罹患して生き残り、免疫を産生していることからもたらされるのですが、14世紀に入ると第二波パンデミーとして1346年以後クリミア半島のカッファからコンスタンチノーブル、ベネチアを経て全ヨーロッパの港や内陸部に運ばれて、300年もの間大小の流行をおこしました。

 16世紀になると流行の激しさはイタリアとイギリスで人口の 1/2位が死亡し、当時のヨーロッパの人口約 1億の 1/3ないし 1/4が犠性になったと推定されています。16世紀頃からペストは“black death,黒死病”の別名でも呼ばれていますが、私はその理由はいくつかの説がある中で、ペストの直接死因が播種性血管内凝固症候群 DICによる皮内充出血が外皮を黒変させて見えることによると考えています。ヨーロッパのペストは18世紀末頃一応終息しましたが、トルコ、ペルシヤおよびカスピ海沿岸地方には19世紀になっても存続し、1878-9年にはカスピ海沿岸のアストラカンで激しい流行がおこりました。

 これらペスト第二波パンデミーに対し、第三波パンデミーは人類、民族社会における変動、蒸気船の実用化と発達によって人きく姿を変ええました。綿や食料の世界貿易の波に乗って世界各地に運ばれ、そこを中経地として伝播され、世界的規模の流行になりました。1855年当時にはペストは流行間期のペストという形で、中国雲南省の一部に限局されていましたが、現地の回教徒が反乱をおこし、鎮圧に出動した政府軍と物資が移動するにともない、軍の輸送基地であった雷州半島の北海に1867年、ペストが発生しました。また雲南省内、広西省、広東省と徐々に拡大、1894年は広東、香港、厦門に侵入、沿海諸港や内陸各地にも大小の流行をくりかえしました。エルサンと北里らがこの講演の初頭に述べたようなペスト菌発見の偉業をなしとげるのはこの第二波パンデミー、香港においてであります。

 このパンデミーはその後、北米、中南米、オーストラリア、マダガスカル等、全世界へと拡散しつつ世界各地の土着哺乳類と、それらと共生するノミと深い関係を保って数多くの“病巣地”別の呼び方で巣窟、英語でFOCUS,FOCIを確立して行ったのです。もっともこの15世紀の間、インド亜大陸の高地に分布したグリセロール分解性中央アジア変種と、1894年に香港に到着し、第三波として世界に拡って行ったグリセロール非分解性海洋型とに分化しておりましたが、このように第三波によって哺乳動物とそれに寄生したノミによって全世界にひろがったペスト菌の流行は、そのピークを越えた後、感受性宿主動物(これはヒトも含みます)の死滅と生き残った動物の免疫によって大部分の地域では終息にいたります。

 しかし他の地域では宿主動物数と食糧増減との関係が、ペスト菌の維持存続に都合よくなって共生関係か成立し、いわゆる病巣地が大流行間期まで残されます。この大なり小なりの地球上の哺乳動物―ペスト菌という特殊な生態環が、ヒト社会−イエネズミ−ドブネズミ−ペスト菌という特殊な生態環と重なって、急速な交通、運輸網や戦争、天災という変動に見舞われた確率的には少ない場合にのみ、第四次ペストパンデミーの可能性が考えられます。北里柴三郎はその時代、世界のペスト 5大病巣地としてアフリカのウガンダ周辺、アラビアからカスピ海西北部、ヒマラヤ山脈周辺、中国の雲南地方をあげ、後に中国東北、蒙古地方を追加しました。

 中国では1990年から1993年にいたる 3年間に 172人が発病し、24人が死亡しています。1990年代には北米ロッキー山脈地域、南米のアンデス山脈地域、マダガスカル島に病巣地となっており、アメリカのButlerは1970年から1979年にいたる10年間にアフリカではアンゴラ、ギネア、ケニア、レソト、リビア、マダガスカル、モザンピーク、ナムビア、南アフリカ、ローデシア、スーダン、タンザニア、ザイール、アメリカ大陸ではボリヴイア、ブラジル、エクアドル、ペルー、北米合衆国、アジアではビルマ、中国、インドネシア、カンボジア、ベトナムにペスト発生があり、また WHOに報告されたベトナム戦争の10年間のベトナムにおけるペスト発生例は1986年を頂点に 4,194症例と 216の死者数をあげてペストの再燃があったことを認めています。1996年には 6月には北米合衆国で 6例、マダガスカル島でもペスト発生が終息しておりません。

  最後にペスト菌の細菌学的側面に関する新知見として、ベトナム戦争の最中、山岳民族の咽喉頭うがい液中より、無症候性のペスト菌が分離され、咽喉頭ペスト“保菌者”という新しい概念が提出されています。ペスト菌のウイルレンスが世界に散在する各病巣地からの分離株間に差があることは、 Almeidaらの報告によるブラジル株 EXUを例として早くから知られており、イギリスのTom, Burrowsは血清中のアルギニン分解酵素と関連づけていますが、ペスト菌には染色体にあるウイルレンス遺伝子 PuRの他に、プラスミドにあるFra、プラスミノーゲン・アクチベーター、(Pla) LcrV,Yopsなどのウイルレンス遺伝子すべてが備わっており、 Pgmと表現される染色体遺伝子とプラスミド遺伝子との共同作業によるシデロフォフをふくむ鉄元素利用装置も機能すれば実験動物としてのマウス、モルモットに対する皮内、皮下攻撃半数致死量LD5010個以下であることは解明されています。

  世界中に距離を隔てて散在する各病巣地から分離されるペスト菌がどのように異なるウイルレンス遺伝子を所有し、感染宿主にいかなる症状を示すかは今後に残されています。←目次に戻る


日本医史学会9月例会・神奈川地方会第9回学術大会  合同会

[一般口演]
1.横浜軍陣病院の介抱女   中西  淳朗

  いわゆる横浜軍陣病院の日記(日本医史学雑誌・復刻版第17巻付録・昭和19年、思文閣出版)から介抱女の記事を抽出し、その実態について研究し次の結果をえた。

1.  開院当初に薩摩、伊州両藩の負傷入院兵 8人に対し、雇入れた介抱女は50歳以上の老女であった。従って昼夜つづけての勤務はきついと云って増員を要求した。その結果、8人雇入れの予定が11人となってしまった。介抱女の雇入れについては、この閏 4月20日の記事以外は全く記入されていない。

2.  介抱女の給与は、他の職員より高く、肉体労働が一応認められた形であったが、 9週間もたつと病院運営費に困り、賃金の引下げが行なわれた。それでも 1日、銀15匁(2朱 =500文   7,500円)が支払われた。小役人は 1日、銀 6匁であった。

3.  介抱女への金の支払いは、賄方で行ったようで、 8月26日の記事に、“看病女、水夫とも賄方に準じ同方より木札渡し裏に会計判据ル”とある。賄方で発行する木札のうらに賃金支払い済の焼印がおされた。この方法は水夫や料理人と同じで、彼女達の院内での身分ランクが明らかになった。

4.   7月20日以後に横浜軍陣病院の本営となった東京府大病院では「規則」を作った。それによると、看病人は投薬、起臥、飲食、着がえ等の手伝いが仕事の主内容であり、看病女は加えて洗濯の作業があった。横浜でも同様の扱いであったと考えられる。

5.  横浜軍陣病院では諸賄に当たっている伊勢屋伝次郎、伊勢屋藤兵衛(ロ入屋か)の手で雇入れられたと考えられる介抱女の外、各藩が自前で直接つれて来た介抱女がいた。この女達の就労に年齢制限があったかは不明である。

6.  開院 7週にして病院御使番は「決して猥りがましき儀これなきよう心得らるべく候」という達を出している。また10月には遂に「不埒の次第これあり。退院取計」と命ぜられた兵士まで出た。即ち、セックスがからんだ事件があった点から考えると、各藩が自前で連れて来た介抱女の中には、若い女性もいたのではないか。W・ウイリスの報告によると、越後戦線では介抱女は若い女性で、妊娠事件まで出ている。

7.  このような経験をふまえて、横浜軍陣病院閉鎖後、東京病院が11月に規則改正をした際、看病婦( 9月頃より呼び名変る)は40歳以上として労働能力をたかめ、一方、40歳以下の婦人の出入りを禁止した。

8.  横浜の介抱女の中には良く努めて、褒美金をいただいた者が 3人いる。そのうちの1人・浜という老女が介抱した岡本兵衛という土佐の足軽(22歳で死没)は、野毛の大聖院に葬られたらしいが、久保山の官修墓地第 3区に彼の墓はない。

9.  仙台の聖和学園短大・柳谷慶子講師が研究されている“武士杜会の中の看病断(かんびょうことわり)という制度”について紹介し、病院日記に記されている「家来をつれた藩公用の介抱之者」という武士がもった役割について考察を加えた。(介抱指揮者?)←目次に戻る


2.明治28年に看護婦の著した伝染病看護の本について   平尾真智子

  わが国で看護婦が最初に著した看護書は東京慈恵医院看護婦教育所卒業の平野藤が明治29年に著した「看病の心得」とされている(杉田暉道ら、「看護史」医学書院1996)。しかし、このたびそれより 1年早い明治28年に看護婦が著した本が見つかった。その本は京都看病婦学校 7回生の田中定が著した「赤痢虎列刺病看護法」という本で明治28年に著されている。この本は滋賀県の伝染病対策の一環として行われた、「滋賀県甲賀郡看護婦講習会」の発行になっている。

  内務省衛生局では伝染病の流行に対し明治31年になって各府県に「看護婦養成の内議」を通告した。その内容は各府県に看護婦養成の準則をつくらせ、その則により各郡は養成方法を設定すること、経費は郡費・町内費となし、管内町村は義務的に 1名以上の看護婦講習生を出すこと、というものであった。松本臨時検疫局事務官が調査したところでは、滋賀県下の看護婦養成の方法はまず完全なものなので各地も模範とするように望むと言ったという記事が残されている。滋賀県では明治28年より、郡費・町村費をもって看護婦講習所を起こし卒業生は必ず義務として看護婦に従事することとしたもので、看護婦の養成は病毒の予防、消毒に著しい好績を与えていた。

  この本の目次は看護婦に肝要なる規則から看護についての注意まで31の大項目で構成されている。頁数は75ぺ一ジである。印刷は明治28年 9月14日、発行は同 9月23日となっている。非売品である。本書の内容は大きく 4つに区分される。それらは看護婦の心得、伝染病の看護、病人に共通する看護、患者の観察となっている。京都看病婦学校関係者からは看護について佐伯理一郎が明治28年に「普通看病学」を、フレザーの著書を成瀬四寿が訳した「実用看護法」が明治29年に出版されている。今回の田中定の「赤痢売列刺病看護法」を加え 3部作が世に出されるなどレべルの高い教育が行われた。伝染病の流行という杜会情勢に対し各府県で伝染病対策のための看護婦養成が行われたが、看護婦はこの養成に講師として関与し、講習会のためのテキストまで書いていた。看護婦が書いたテキストとしてはこれが最初である。この本は非売品ではあるが伝染病の流行とその看護という必然性から生まれたものといえる。←目次に戻る


3.ヨハン.ウインテルJohann  Winterについて(その一)―ペスト残影シリーズその6―   滝上  正

  ヨハン  ウインテルはルネッサンスの波にのって、16世紀を生きた人文主義的医学者の一人であるが、日本ではほとんど紹介されていない。ここで、私はまず彼の一生の概略、とくにPestspecialistとしての彼を紹介し、次回には、彼の著書、思想などについて紹介することとしたい。

  ウインテルは、1505年ライン河中流の小都市アンデルナッハに生まれた。ユトレヒト、ルーバン、リェージュなどで、ギリシャ語、ラテン語などを学んで人文主義的医学者としての基礎を築いた。1527年から1538年まで、彼はパリーに在住し、人体解剖学を通してパリー大学の解剖学の発展に貢献した。大解剖学者ベザリウスは一時、ウインテルに師事したことがある。また彼はパリー在住中に30種以上のベザリウスの著書をはじめ、ビザンツ医学、アラビヤ医学の紹介、翻訳に努力した。その後メッツに 5年留まり、1544年から1574年、彼が死に至までの30年間をストラスブルグで過ごした。メッツ、ストラスブルグでは解剖学より転じて、医師、医学者として活躍した。この間、彼がそれまでに幾度か経験したペスト流行を基礎にして数冊のペスト関連の著書をドイツ語、フランス語、ラテン語で刊行し、ペスト対策に大きな足跡を残した。また彼の畢生の大作、De Medicina vateriet novaをはじめ、解剖学、温泉療法、産婦人科領域でもいくつかの自著がある。

  彼は当時の宗教改革にも深い関心を寄せ、パリー、メッツを去ったのも、彼が信仰を貫いたためであり、ストラスブルグに定住してからも、彼のプロテスタントとしての信仰は揺るがなかった。←目次に戻る



[特別講演]
P.F.シーボルトと日本の医学   県立厚木南高校校長        石山  禎一

A.シーボルト略年譜                                  *(日付)は太陽暦を示す

  [1]  青春時代(ヨーロッパ)

 1795年   2月17日、フィリップ・フランツ・バルタザール・シーボルト、バイエルンのヴュルツブルグで生まれる。

 1815年  ヴュルツブルグ大学入学、医学専攻。自然科学(化学・植物学ほか)・地理学・民族学・探検旅行に感心をもつ。

 1820年  ヴュルツブルグ大学卒業、ハイディングフェルトで開業医。

 1822年   6月、オラングへ行き、蘭領東インド陸軍外科医少佐(軍医大尉)に任命。9月、ロッテルダム発、ジャワ島へ。

  [2]  第1回来日時の活動

 1823年(文政 6) 4月、バタヴィア着、長崎出島のオランダ商館医に任命、日本の総合的学際的研究を委任される。 6月28日(5・20)バタヴィア発、 8月11日( 7・6)長崎着、出島商館に居住。秋に其扇(楠本滝)と結婚。出島で日本人に博物学・医学を講義する。

 1824年(文政 7)  長崎近郊鳴滝に診療と学術研究の塾(鳴滝塾)を開設。

 1825年(文政 8)  日本茶の種をジャワ島へ無事送り、同島の茶栽培に成功。

 1826年(文政 9)  江戸参府、 2月15日( 1・9)商館長に従い長崎発、 4月10日( 3・4)江戸着。 5月18日(4・12)江戸発、 7月 7日(6・3)長崎着。この年シーボルト述、高良斉訳「薬品応手録」出版。日本植物研究のため出島の薬園を整備し、園内にケンペルとツュンベリー顕彰の記念碑を建設。

 1827年(文政10)   5月31日( 5・6)娘イネ生まれる。

 1828年(文政11)  シーボルト事件発生。シーボルトは長崎代官所で尋問される。

 1829年(文政12)  10月22日(9・25)シーボルトに国外追放の判決が下る。12月30日(12・5)ジャワ号で出島を出帆、31日(12・6 )風待ちで小瀬戸に碇泊中、妻其扇・娘イネ、門人二宮敬作、高良斉、石井宗謙たちに会う。 1月 1日(12・7)シーボルト小瀬戸浦に来て妻子、門人たちに別れを告げる。文学的、民族学的コレクション5,000点以上のほか、 200の哺乳動物の標本、900の鳥類、750の魚類、170の爬虫類の標本、5,000以上の無脊椎動物の標本、2,000種の植物、12,000の植物標本を持ち帰る。

  [3]  ヨーロッパでの日本研究と活動

 1830年(天保元)   1月3 日( 12・8)日本を離れバタヴィアヘ向う。 1月28日(1・4) バタヴィァ着。 3月15日バタヴィア発。 7月 7日オランダのフリッシンクン着。ライデンのラーペンブルフに居住。10月べルギー所在の原稿、図書、物品、標本類を自らオランダヘ運び込む。

 1831年   4月、国王ウィレム 1世より勲章を授与。蘭領インド軍管理衛生部付将校(軍医少佐)に昇進、植民省日本問題担当の顧問に任命。この頃自宅に収集品を整理陳列 して、研究に使用し、公開した。

 1832年  「日本」、シーボルト著  第1分冊出版[〜1858/59 年]。

 1833年  「日本動物誌」、シーボルト、テンミング、シュレーゲル、ハーン共編著  第 1分冊出版[〜1850年]。「日本叢書」全 6冊、シーボルト、ホフマン、郭成章共編著  第 1回「千字文」出版[〜1841年]。

 1834年〜35年  ヨーロッパ各地(サンクト・ペテルスブルク、モスクワ、ベルリン、ドレスデン、プラハ、ウィーン、ミュンヘン、ワイマール)を旅行し、「日本」の購入、研究・資金の援助を要請。

 1835年   4月、バイエルン国王ルートヴィヒ一世に民族学博物物館設立を提案。「日本植物誌」、シーボルト、ツッカリーニ、ミクェル共編著  第 1分冊出版[〜1870年]。

 1837年   7月、オランダ国王に民族学博物館設立を提案。オランダ政府、シーボルトのコレクションを買い上げ、彼の自宅で管理を委託。この頃、ライデン民族学博物館の核なる。

 1842年  オランダ国王ウィレム 2世よりヨンクヘール(准男爵)の爵位を授与。オランダのライデルドルプに王立園芸奨励協会を設立。

 1843年  パリ国立図書館部長のジョマールに民族学博物館構想を提案。バイエルン自然科学アカデミーの正式な在外会員となる。

 1844年(弘化元)  日本へ開国勧告のオランダ国王親書の草案を作成。

 1845年   7月、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。オランダ、ライデン市の窮民救済のため、「日本品展覧会」をシーボルトの居宅ラ一ペンブルフ19番地で開催[10月20日〜11月 5日]。

 1846年   6月30日、パリ国立図書館部長のジョマール、シーボルトへ「民族学コレクション」に関する回答書簡を送る。 8月16日、長男アレキサンダー、ライデンで生まれる。

 1847年  雑誌「蘭領東西インド諸島報知」、シーボルト、カルンペー共編発行。

 1848年  ドイツライン河畔ボッパルトに転居。プロシャ国籍を取得。オーストリアのヨハン大公の海軍関係顧問となる。蘭領インド陸軍参謀部付大佐に任命。

 1852年   7月21日、次男ハインリッヒ、ボッパルトで生まれる。

 1857年(安政 4)  秋のシーボルト追放令解除を、12月オランダ領事が本国へ連絡。

  [4]  第2回来日と晩年(ヨーロッパ)の活動

 1859年(安政 6) 4月、アレクサンダーを連れボン発。マルセイユ・ジャワ経由で8月4日(7・6)長崎着。8日、オランダ貿易会社顧問として出島に入り、再来日する。滝、イネ、二宮敬作らと再会。三瀬周三門人となる。シーボルト、本蓮寺に居住(翌年鳴滝に移転)。

 1861年(文久元) 4月、会杜の契約終了。幕府に招かれ、周三を連れて横浜に向い、6月、江戸の赤羽根接遇所着。幕府の顧問となり学術教授と外交への助言を行ない著述のための研究資料を収集。 7月、東禅寺事件負傷者を治療。10月、幕府より解任。アレクサンダー英国公使館の通訳となる。シーボルトは横浜へ退去。露艦対馬停泊事件に付きロシアのリハチョフ提督に書簡を送る。

 1862年(文久 2) 1月、横浜より長崎ヘ。 3月、二宮敬作長崎で死去。 5月、長崎発、バタヴィア経由でオランダ到着。

 1863年(文久 3) 2月、蘭領インド陸軍参謀部付名誉少将に昇進。 5月、日本で集めたおよそ 2,500点の収集品をアムステルダムの産業振興協会の1室に陳列展示。アレクサンダー、英国公使館通訳として鹿児島で交渉(薩英戦争)。

 1864年(元治元)  オランダの官職を辞し、オランダを去り、ヴュルツブルグに帰る。アムステルダムで陳列した収集品をヴュルツブルグに移す。 5月、パリに来て池田筑後遣仏使飾の対仏交渉に周旋並に助言をする。11月、ヴュルツブルグの王立マックス・シューレ大講堂で「日本博物館」を開設。

 1866年(慶応 2) 3月、「日本博物館」をヴュルツブルグからミュンヘンヘ移転。 5月、王宮庭園(ホーフ・ガルテン)に隣接する旧絵画館の部屋で収集品を陳列展示。10月18日、シーボルト、ミュンヘンにて死去(70歳)。墓地はミュンヘン旧南墓地33地区13列 5号にある。

B.シーボルト関係書籍

 1) 「江戸参府紀行」シーボルト著、斉藤信訳、東洋文庫87、平凡社、昭和42年。

 2) 「シーボルト日本」(全 9巻)本巻 6図録 3、雄松堂書店、昭和52〜54年。

 3) 「シーボルトの娘たち」羽仁説子著、新日本出版社、1992年 1月。

 4) 「ふぉん・しいほるとの娘」(上・下)吉村昭著、毎日新聞社、昭和53年。講談社文庫本では(上)、(中)、(下)の 3冊となっている。

 5) 「シーボルト父子伝」ハンス・ケルナー著、竹内精一訳、創造社、昭和49年。

 6) 植物図鑑ライブラリー 6「日本植物誌」、シーボルト[フローラ・ヤポニカ]解説、木村陽二郎・大場秀章、八坂書房、1992年 8月。

 7) 「長崎のオランダ医たち」中西啓著、〈特装版〉岩波新書の江戸時代、岩波書店1993年 7月。

 8) 「シーボルト先生その生涯及び功業」(1.・2.・3.)呉秀三著、岩生成一解説、東洋文庫 103、 115、 117、平凡社、昭和42〜43年。

 9) 「シーボルト最後の日本旅行」A.シーボルト著、斉藤信訳、東洋文庫398、平凡社、1981年 6月。

10)人物叢書「シーボルト」板沢武雄著、日本歴史学会編集、吉川弘文館、昭和63年。

11)「文政11年のスパイ合戦」検証・謎のシーボルト事件、泰新二著、文芸春秋、1992年

12)「評伝シーボルト」―日出る国に魅せられて一ヴォルフガング・ゲンショレク著、真岩啓子訳、講談社、1993年 5月。

13)「シーボルトの絵師」-埋もれていた 3人の画業-、金子厚男著、青潮社、昭和57年。

14)長崎市シーボルト記念館「鳴滝紀要」創刊号〜第 5号 (1991〜95年)。

15)「風雲児たち」18.シーボルト来ル、19.シーボルト事件簿、みなもと太郎著、潮出版社、平成 4年。

16)「シーボルトの日本探検」―この人間と歴史の風景―、布施昌一著、木耳社、昭和52年。

17)「近代日本の光源」―鳴滝塾の悲劇と展開―、久米康生著、木耳社、昭和49年。

18)「シーボルト事件と富山」水間直二著、桂書房、平成 2年10月。

19)「連座」―シーボルト事件と馬場為八郎―、吉田昭治著、無明舎出版、1984年。

20)教養講座シリーズ58.シーボルト/ヘボン。片桐一男著、国立教育会館編集、ぎょうせい出版、平成 3年12月。

21)「箱根と外国人」児島豊著、箱根叢書18、かなしんブックス34、神奈川新聞社、1991年10月。
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参考事項(役員並びに会則)

日本医史学会神奈川地方会役員

会長       杉田  暉道
幹事長      中西  淳朗
幹事        荒井  保男     大村  敏郎    衣笠  昭(会計)   河野  清     滝上  正
            佐分利保雄     深瀬  泰旦    真柳  誠           山本  徳子
監事        家本  誠一     大島  智夫                                             [50音順]



名誉会長    大滝  紀雄
                   [第3期:平成8年2月〜平成10年1月]



                        日本医史学会神奈川地方会会則

第1条(名称)     本会は日本医史学会神奈川地方会という。

第2条(目的)     本会は医学の歴史を研究してその普及をはかるを目的とする。

第3条(事業)     本会は第2条の目的を達成するために次の事業を行う。
                          1)総会
                          2)学術集会
                          3)その他前条の目的を達成するために必要な事業
第4条(入会)   本会の趣旨に賛同し、その目的達成に協力しようとする人は、会員の紹介を得て会員となることが          できる。

第5条(会費)     正会員は年会費2000円を前納する。

第6条(役員)    本会は運営のためつぎの役員をおく。
                  会長1名、幹事長1名、幹事若干名(うち会計1名)、監事2名。任期は2年とし、重任は妨げない。

第7条(名誉会長、顧問) 本会は名誉会長、顧問をおくことができる。任期は会長の任期に準ずる。

第8条(会計年度)    1月1日より12月31日をもって会計年度とする。

                            [平成4年5月16日議定、平成8年2月17日改定]
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