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日 本 医 史 学 会 神 奈 川 地 方 会 だ よ り

第 5号

平成8年5月吉日発行

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平成7年度年次報告                                                                1頁

平成7年度総会並びに第6回学術大会                                                2頁

患者の心性の歴史学的考察                          杉田  暉道               2頁

ペスト残影(その4)                              滝上    正               3頁

明治初期にみる医学教科書                          衣笠    昭               4頁

横浜開港と近代歯科学の夜明け           県歯会長   加藤  増夫               5頁

日本医史学会9月例会・神奈川地方会第7回学術大会合同会                            8頁

熱海 [口+翕] 汽館について                            尺    次郎              8頁

前近代の受胎調節をめぐって                        新村    拓              9頁

『鎮将府日誌』について                            中西  淳朗            10頁

田邊一雄と複十字会                      ワセダ診療所所長  田邊  正忠            11頁

平成7年度一般会計収入支出決算報告                                              15頁

平成8年度一般会計予算                                                          16頁

参考事項(役員並びに会則)                                                      17頁

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平成7年度年次報告  (平成7年1月1日より12月31日まで)

A)活動報告
  1、幹事会
  ・5月9日と10月20日の2回開催し、学術大会の運営について協議した。
  ・平成7年度は横浜市大医学部同窓会が中心となって推進している「横浜医学資料館」の設立に向けての活動に、学会の幹事会が積極的に援助を行った。その結果、パンフ「横浜医学史跡めぐり」が12月上旬にでき上がり、12月10日にこのパンフを手にして日帰り見学会も行われた。

2、学術大会

  ・第6回(平成7年2月4日)  於県医師会館
    [一般口演]                        座長        深瀬  泰旦
      (1) 患者の心性の歴史学的考察                  杉田  暉道
      (2) ペスト残影(その4)                      滝上    正
      (3) 明治初期にみる医学教科書                  衣笠    昭
    [特別講演]                        座長      大滝  紀雄
      横浜開港と近代歯科学の夜明け      県歯会長    加藤  増夫

  ・第7回(平成7年9月30日)  於県医師会館
    [一般口演]                       座長         佐分利  保雄
      (1) 熱海[口+翕]汽館について                  尺    次郎
      (2) 前近代の受胎調節をめぐって                新村    拓
      (3) 『鎮将府日誌』について(その1)          中西  淳朗
    [特別講演]                       座長         杉田  暉道
      田邊一雄と複十字会        ワセダ診療所所長    田邊  正忠

  3、会誌
  ・「神奈川地方会だより」の発行。
    第4号を平成7年3月に発行した。

B)会計報告
  ・別掲、平成7年度日本医史学会神奈川地方会一般会計収入支出決算報告参照。

C)参考事項
  ・別掲のごとく役員改選及び会則改訂が行われた。

D)会員
    ・この1年間に2名増えた。
    ・名簿は平成8年度前半に改訂予定。                                    以上               ←目次に戻る


神奈川地方会平成7年度総会・第6回学術大会

[一般口演]
1.患者の心性の歴史学的考察   杉田  暉道

  現代の医療は多くの問題をかかえているが、最近患者に正確に病状を知らせ同意を得て治療を行う「インフォームド、コンセント」の問題がクローズアップされるようになってきた。これは正に患者の権利を主張したものであって「患者学」を指向しているといえる。そこで演者は先ず患者のメンタリティ(心性)について歴史的考察をおこなった。

  古代においては病気を治療するには、もっぱら呪術が行われた。さらに病気はなだめ、鎮めるものであり、病気を癒してくれるものは神や仏であると考えた。そこで古代から疾病の流行のたびに疫神を鎮める祭事をおこなった。しかし特定の疫病に特定の疫神や守護神を考えていたわけではなかった。しかし江戸中期以後になると重症の痘瘡については特定の痘瘡の神を考えるようになり、疱瘡神を祀る「疱瘡祭」が盛んに行われた。また個人的な病気の治療には薬師信仰があった。さらに竜形に化身して苦痛を救うという地蔵信仰や一切の苦難を救う観音信仰などが病気治癒の信仰にむすびつけられた。

  ついで芭蕉、一茶および良寛の生涯を深く洞察した立川は次のように述べている。「彼らは病に苦しみ、怒り、怖れたが、痛苦と畏怖がなかったら、はたして彼らはより深い宇宙を垣間見ることができたであろうか。病気は生命への脅威であるとともに、非日常的な世界を発見し、より深い宇宙と対話するかけがえのないきっかけであった」と述べ、「病気はなだめ、すかし、そしてまつりあげていくものであった。そこには病気も人間の全的存在のかけがえのない体験のひとつとする考えがあり、病気と交感し合い、病気をものにする主体的な心身の生理感覚が存在していたと言える。」と結んでいる。この考えは夏目漱石の創作活動において修繕寺の大患が一つの中仕切り的な意味を持っている事実からみて明らかである。←目次に戻る


2.ペスト残影(その4)−ペストのメダルについて−   滝上    正

  私は第 1回ではウィーン市内、第 2回ではドイツ、ボンとその周辺に見られるペスト関連の記念物について、風物詩的に紹介をした。また第 3回では「ペストの塔」全般にいて分類、解説を行った。

  今回は「ペストの記念メダル」についてドイツを中心に、次の諸項目について紹介をしたい。

  これらは、主として第2次パンデミーにあたりペストの予防、平癒のためのお守りとして、またペストの消退を記念して、ヨーロッパ各地で鋳造されたメダルである。

  Pestm nzenとかPesttaler とか呼ばれているものもあるが、これらに貨幣価値は全くなかった。

1:歴史的事項
2:ペストタラー Pesttaler(P-thaler)

  ターラーそのものはドイツで16世紀から18世紀にかけて通用した銀貨であった。ペストターラーは16世紀にドイツで流布したもので、ペストメダルのなかではもっとも古いものに属する。デザインの基本形は表面は蛇杖Schlangenpfahl、裏面は十字架のキリストであるが、年とともに複雑、絵画的となってきた。L.Pfeifferらはデザインのうえから、A〜Eの 5形にわけている。

3:ペストペニッヒ Pestpfennig、
    ペネヂクトペニッヒ Benedicts-pfennig

4:ハンブルグの歴史博物館のペストメダルなど
  当博物館はM nzenkabinettがあって、そのなかにはペストメダルをはじめ約70種の各種メダルが保存、陳列されている。

5:ハンブルグの市史料館のペストおよびコレラメダル
  ここには 2枚のペストメダルと 1枚のコレラメダルが保存されている。それらについて詳細に説明したい。

6:ドイツ以外のペストメダル
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3.明治初期にみる医学教科書   衣笠    昭

  明治初期に使用されたものと思われる3冊の医学教科書について、その内容を検討した。 3冊ともA5判で 1冊の平均は約 300ページ、背表紙は革製である。「外科通論」は現在の外科総論に相当し、炎症編・腫瘍編・皮膚病編・脈管系統諸病編・骨諸病編に別れている。各編に疾患の原因が記されているが、考え方はウイルヒョウの細胞病理理論に一致している。「外科各論」では炎症の項目では原因のひとつに下等機生物として脾脱疽菌(炭疽菌)と回帰熱スピロヘータのみを挙げている。したがってコッホの結核菌発見以前の書物であろう。この機生物(微生物)に対してリスターの防腐法を採用している。また輸血(植血)が行われているが、血液型発見前のものであるため脱繊維素を施した血液を注入し、成功するときは精神爽快となるが不成功の場合は卒然死亡するとしてある。

  「内科通論」に記載されてある当時多かったとおもわれる疾患の治療について見ると、肋膜炎には既に肋膜穿刺が行われ、肺炎の解熱には当時新薬であったサリチル酸が用いられている。喘息・肺結核には保存療法のみであった。

  この書物の著者・刊行年を推定してみたが、同名の書物が明治13年に刊行されている。また記述の内容も当時の医学水準と一致しているが、詳細は不明である。←目次に戻る



[特別講演]
横浜開港と近代歯科学の夜明け   加藤  増夫

  1853年 6月 3日、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが黒船 4隻で第13代アメリカ大統領フィルモアの親書をもって浦賀に来船。

  幕府は 6月 9日久里浜海岸において会見所を設けてペリーより大統領親書を受ける。ペリーは来春、親書の回答を受けとりに来ることを約束して日本を去った。

  アメリカは大西洋の鯨を捕りつくし、ために太平洋の鯨を追って日本近海に捕鯨船がくるため補給基地の必要から更に日本に寄港地ができれば中国への距離も短縮し、日本・中国との貿易を盛んにする意図もあった。

  その翌年 1月にペリーは旗艦ポーハッタン号ほか 7隻、あとから 2隻が加わり、前回測量などした海路を江戸湾深く進入し小柴沖に碇泊。遂に幕府は 2月13日武蔵国久良岐郡横浜村の北端駒形に応接地を設け、日米和親条約を 3月 3日締結した。

  条約では通商は認めないが12カ条からなり1639年から始まった徳川幕府の鎖国を解き、わが国が新しい時代へと文明開化の扉を開いた。そして岩瀬忠震らの進言もあって1858年7月29日、日米修好通商条約を締結、更に 8月に日蘭修好通商条約を結んで長崎・函館・神奈川を開港場とした。しかし幕府は攘夷派の襲撃を恐れ、横浜も神奈川の一部だとして、米公使ハリス・英総領事オールコットらの反対を押し切って横浜に開港場を作った。

  幕府は96,000両を投じ神奈川奉行所・運上所・波止場や東海道から横浜道、太田屋新田の一部を埋めたて港崎町に歓楽街を作った。

  港崎遊廓で有名なのは米国人イルスミンが遊女「喜遊」の身請で、彼女はそれを嫌って自害した。“露をだに、いとう大和の女郎花ふるアメリカに袖はぬらさじ”の辞世であり、その岩亀樓も1886年の豚屋火事で全焼したが石燈籠だけが横浜公園の日本庭園内にある。また、米国国旗で1854年 1月ペリー来船時の旗艦ポーハッタン号に掲げられていた星条旗が奇しくも1945年 9月 2日東京湾上のミズリー号で日本の降伏調印の際にマッカーサー元帥が取り寄せて艦上を飾っており、26年後の1981年横浜開港資料館で催されたペリー展にも特別出品され 1世紀の間に、この星条旗は 3回横浜に来ている。

  西洋医学は1549年ザビエルが鹿児島に来船し、豊後の国主大友宗麟は聖ザビエル・フランスコの布教を許しポルトガル人アルメイダにより1559年に内・外科が輸入されたが本格的には1823年ドイツ人医師フォン・シーボルトが長崎に来てからで西洋医学発祥の地は長崎である。この西洋医学の中の一部として歯科部門もあったが本格的歯学としては横浜開港翌年たる1860年来日のアメリカ人歯科医師W・C・イーストレーキを嚆矢としヘンリー・ウィン、セント・ジョージ・エリオット、ハラック・マーソン・パーキンス、アレキサンドル、1879年横浜に来船、のち神戸で開業したT・W・ギュリッキに多くの日本人が師事し、更にこれら外国人歯科医に指導を受けた方々に入門し師事された歯科医により近代歯学が発展したところで、近代歯学発祥の地は横浜であります。

  ウィリアム・クラーク・イーストレーキは1860年横浜に来日したが開港翌年のことで居留地の外国人の数も少く、自分の研究する貝類昆虫類採集を兼ねて香港に行き上海や北京にも出張診療を行い慶應年代は夏期だけ横浜に出張診療をやっていたが1868年に単身横浜で満 1カ年開業、その時、日本人助手として長谷川保兵衛を入門させ1869年末、官許を得て長谷川を伴って再び中国に渡り香港・上海を経て1873年ドイツに行きベルリンで開業。

  この在独中にドイツ政界の重鎮  鉄血宰相ビスマルクとも交わりドイツ学会でも活躍しておった。ドイツ駐在の代理公使  品川彌次郎がイーストレーキに治療を求めて長谷川保兵衛を知り自分が帰国に際し師の許しを得て長谷川と同道して帰国し、長谷川は東京本所で開業盛業を極めた。

  イーストレーキは最終の生活地を日本と定めて1881年横浜居留地 160番館において開業し助手の安藤二蔵が弁天通りに開業でやめたので長谷川の紹介で佐藤重が入門した。

  イーストレーキの長男が語学博士として英語教育を主として明治17年頃来日し福沢諭吉の保証で麹町一番町に住居を構えたので週末は長男フランクと一家団欒を続けたが1887年2月26日53歳で病歿し青山墓地に眠る。
  ヘンリー・ウィンはイーストレーキより 7年おくれて1886年横浜居留地 108番で開業。彼は伯父サミュール・R・ブラウンのすすめで来日している。伯父は横浜開港後来日したプロテスタント宣教師である。

  ウィンは横浜と香港を往復して開業し専ら夏の一部を日本で送っており1870年St・G・エリオットが横浜に来たので、その勢力範囲をエリオットに譲った。開業期間は 4年ほどであった。

  セント・ジョージ・エリオットは横浜に1870年に来日し居留地57番に開業。彼はアメリカ南北戦争で負傷し除隊したが再び軍医として陸軍に入り終戦後は独立医師として開業した。彼がフィラデルフィア歯科医学校を卒業して歯科を志したのは先輩のブラウンやヘボンの勧めであった。

  エリオットには木戸孝允・新島襄・西郷従道など明治政府の要人が治療を受けており1877年まで開業、その間小幡英之助・佐治職が入門しており明治 7年に日本を去り上海・香港・シンガポールを経て1882年英国ロンドンで黒田虎太朗を入門させ 5カ年にわたってロンドン歯科医学校の歯科手術学を担当したが故郷に帰り1911年 4月長子にニューヨークの医院を譲って悠々自適し1915年ニュージャージー州サウスオレンジ市で他界す。

  ハラック・マーソン・パーキンスは横浜へ1874年エリオットの診療所のあとを譲りうけ開業した。パーキンスはペンシルバニヤ州で生まれ、ボストン歯科医学校を卒業し横浜に来た時は年令37歳でエリオットに随従していた技工士の松岡万蔵を引き続き雇用しており、西村輔三、関川重吾、太田吉三郎、渡辺晉三、山田利充、林譲次、黒田虎太朗らが入門している。

  西村は明治11年ごろ入門しているが西村は英語に長じており東京京橋竹川町19番地に分院を開いて、その主任をつとめてもいる。

  パーキンスは全箔充填および抜歯に長じており指導は殊のほか熱心であったと言われており1881年日本を去った。

  アレキサンドルは1870年頃、松江藩の医学教師として来日し、一時期横浜で開業したが後に東京において明治8年頃築地入舟町に住し、銀座で開業、医師の資格もあったが歯科を専業として義歯に長じていた。池野谷貞司、免養九一、神翁金松が入門指導を受け、また、竹沢国三郎は 1カ年の契約で東京府知事の認可を得てアレキサンドルを自己独占の教師として招聘している。

  アレキサンドルの義歯については当時新聞に記載されているが即ち、「明治 9年築地に於てアレキサンドルが中村中蔵という俳優に上の義歯を45円で調整したことがあって、世間ではその高価に驚愕した」。

  ギュリッキは1879年横浜に来船、のち神戸で開業した。横浜で佐治職は入門し神戸へも同道して歯科医術の指導を受けており、明治12年 9月19日の「七一雑報」(第 4巻第38号)の広告には、執業時間のほか歯の療法並びに入歯として開業場所、神戸居留地16番、米国歯科医師、ギュリキと掲載されている。

  1885年にアメリカに帰国したが其の節、佐治も同道したがサンフランシスコで分かれ佐治は 2カ年他師について勉学し明治20年帰国している。

  わが国は明治新政府となってからは明治 6年に医事法制たる医制が制定され、太政官は翌 7年 3月12日付をもって、三府に実施することの指令が出され、明治 8年に医術開業試験制度が実施されたので、小幡英之助は東京医学校(校長  長與専斉)に医師試験(歯科)を出願し、小幡の経歴と歯科知識は極めて優秀で、試験官(三宅秀)を感動させ合格した。明治 8年10月 2日わが国最初の歯科専門の免状が下附された。この免状は医籍の第4号である。

  そして、明治12年の医師試業規則、16年の医師免許規則で歯科免許が確立し39年の医師法・歯科医師法の公布となった。←目次に戻る


日本医史学会9月例会・神奈川地方会第7回学術大会  合同会

[一般口演]
1.熱海[口+翕]汽館について   尺  次郎

  明治16年熱海に療養中の右大臣岩倉具視は熱海が気に入り、離宮と肺病患者の為の療養所の建設を計画した。当時熱海に湯治に来る肺病患者が多く、風光明媚な地に害毒を及ぼす事を心配し、患者を一か所に集め指導し治療する療養所が、宮内省と内務省の合同事業として始められた。間欠泉として噴出する大湯の良質、豊富な湯量を利用して、その蒸気を患者に吸入させる方法を考えた。岩倉は腹心の宮内省御用係肥田浜五郎、内務省衛生局長長与専斉に建設を命じた。肥田は今井半太夫から大湯の隣の地所を宮内省に献納してもらい取締役とした。長与は衛生局員に内部の施設を整えさせ、保管は静岡県が当たることとした。明治17年 6月建物は完成し、18年 2月業務を開始した。初代浴医長は神内由己で静岡県が月俸 120円で招聘した。後に温泉療法に熱心な中浜東一郎も浴医長となった。明治19年 1月には改良を加え、器械装置の増設、吸気室の整備を行った。主眼は温泉蒸気の吸入で、大湯が噴出する度に蒸気を吸気室に導き鋼鉄製の鳥籠のようなものの中に蒸気を密閉し、それに孔をあけてパイプを付け、口をつけて蒸気を吸入した。別に浴室を設けてそれぞれの疾患、状態に応じて入浴させた。ドイツから取り寄せたスピロメーターなど最新の器械器具を備え、測候所も付設していた。各温泉宿に逗留している患者の希望に応じて吸気や浴療の方法を指示した。温泉場取締所が館内にあり衛生に関する業務を取り扱った。付属の大湯遊泳場の設備もあった。これらの施設を利用する病人や浴客から診療費や料金を徴収して経費を賄った。明治24年 4月宮内省に移管して御料局長から温泉業者一同に払い下げられたが、大正 9年火災で消失した。小生の曽祖父尺振八がここで療養したのではないかと思われるが、該当した文献は発見されていない。
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2.前近代の受胎調節をめぐって   新村  拓

  どの季節に子どもを生むのがよいのか。かつてはいろいろな社会的要因に加えて陰陽道宿曜道などにもとづく禁忌もあり、今日以上に出産月に関しては頭を悩ませていた。

  出産を望む季節に合わせるためには、受胎調節についての意識とそれを可能にさせる手段とが必要であるが、それについては古代以来、さまざまな方法が試みられている。まず性交にかかわる禁忌や禁欲にもとづく性交回避にはじまって、道教の養生法に由来する性交中断、避妊効果があるとされる長期の授乳行為、避妊薬あるいは堕胎薬(通経薬)の使用、性欲減退薬(不発薬)の服用、避妊具の使用など、前近代社会においても計画出産を可能にさせる手段が予想以上に多く見られる。

  では結果として、どの季節に多く出産がみられたのかといえば、近代およびそれ以前の社会では冬場に出生の山がきており、夏場は低出産の傾向にあった。それが現代に入ると、夏にも出生の低い山が生まれ、やがて冬の山が消えて行く。そして、総体として出生の季節的な変動は縮小している。これは何を意味するのかと言えば、かつては農閑期に出生を合わせるという、農事暦を念頭においた受胎調節が実行されていたのであり、現代のそれは無季節性の会社暦に変わったということである。

  いずれの時代においても自分たちの生活や村の存続のために適正な人口規模に押し止めるための努力がなされており、それも「間引き」に至る以前の段階において受胎調節や出産回避のための工夫が試みられていた。
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3.『鎮将府日誌』について(その1.序説)   中西  淳朗

  昨年の「横浜軍陣病院の再検討」に引きつづき、『東京大病院の日記』等を読むうちに、鎮将府という機関が東京大病院とかかわっているらしいことを知った。最近、『鎮将府日誌・二十四巻』『明治官令医範』を入手し得たので、これを中心に研究を進めた。

  慶應 4年 7月17日、江戸を東京と改稱する詔勅が出、これに伴って有栖川大総督府宮が鎮台を免ぜられ、三条実美右大臣を鎮将となした。政務総裁たる鎮将を新設した東京府に在勤せしめ、駿河以東13ケ国(駿河、甲州、伊豆、相模、武蔵、房総、上総、下総、常磐、上野、下野、陸奥、羽州)を支配せしめた。

  東京大病院は 7月20日に医学所に併合され、鎮台から東京府へ所属が変わり、 9月13日より鎮将府に所属が変更された。『鎮将府日誌』には細部に及ぶ人事記録はない。

  『鎮将府日誌』は、14×21センチ。 1巻が15枚程度で、 2巻を 1冊とした和綴本。全24巻12冊で、慶應 4年 7月27日から10月 8日までのことを記している。

  第 1巻は重要通達事項のみで、第2巻以降は維新戦争第 2期の東北地方の戦闘の記録が主体である。注目すべきは、誰が、何時、何処で負傷し、浅手か深手かを記入してあり、この負傷兵が、横浜軍陣病院にどれだけたどりつけたかは今後の課題のひとつである。

  興味を引く点としては、京都の太政官代に戦傷者報告をした藩、東京の鎮将府に報告した藩、両方へ時期を分けて報告している藩に大別される。このような混乱を生じた原因や、東京大病院の所属の変遷が、維新政権内部での政治的綱引きや天皇東遷がからみ合うものと考え今後の課題とした。←目次に戻る



[特別講演]
田邊一雄と複十字会活動   田邊  正忠

(1.)患者は正しい知識を持たなければ結核と立ち向かうことは出来ない

  田邊一雄は明治24年(1891年)12月28日、横浜市中区花咲町に生まれた。父富次郎は岡山県浅口郡里庄町の出身である。自力で私立の自牧学校を創り、自ら校長として教鞭をとっていた。田邊一雄は 7人兄弟の 2番目に生まれた長男である。明治38年 4月,一雄は神奈川県立第一中学校に入学する。中学 3年の時に左胸が強く痛み肋膜炎と言われた。官庁の仕事を夜間に手伝い早稲田大学理工学科に進学した。小田原電気鉄道株式会社に入社する。早速箱根三枚橋発電所の建設を命ぜられた。箱根須雲川から水をひき、日本では珍しい水塔をつくるため苦労した。

 やがて発電所が建設されると間もなく、箱根登山鉄道の工事が開始された。鉄路の複雑な設計と計算に引き続き従事することになる。大正8年正月インフルエンザにかかり、欠勤し自宅で休んでいる時だった。「コンクリートの一部が大雪のため決壊したから、直ぐに現場を見に来てくれ」と工夫が迎えに来た。雪まじりの横殴りの雨で、漸く目的地に辿り着く。破損は大きく、冷えきってしまった体は身動き出来ないほどに疲れていた。

 それからは高熱が続き咳、痰、盗汗が始まる。近所の医師は往診してくれたが、肺結核とは言わずに、一カ月も薬を飲んだが熱は下がらなかった。小田原で信望が高い医師がいるというので、診てもらうことにした。江良元三郎医師は診察した後で「肺結核と肋膜炎で、長期の安静が必要である」と説明したが、正しい療養が出来たかというと、そうではなかった。色々な雑誌、薬の宣伝で誤りを繰り返した。

 7月19日には大喀血をして瀕死の状態に追い込まれた。朝から出始めた血液は止まらず、医師も家族も諦めているのが分かった。友人に教えられて、医学博士原栄の[肺結核予防療養教則]を手に入れ、読み始めた。原医師は、初めて系統的に[大気安静療法]を日本に紹介した人である。この書物を読んで早速藤椅子を買い、静臥を進め快適な毎日を送れるようになった。大正11年 4月、宮沢九万象司祭により洗礼を受け、精神的にも安定し次第に、結核療養者のための人生を歩みたいと思うようになる。

  大正11年11月新潮社から茂野吉之介著の[肺病に直面して]が発行された。これにはサナトリウム療法についての明快な紹介と確固とした洞察が述べられていた。茂野は石炭統制会の理事となり、ロンドンに渡り結核に罹患し、帰国した人である。田邊はますます結核を治す啓蒙の仕事を発足させたいと思うようになる。またその頃吉木三郎を知るようになる。

 大正13年 1月 3日、吉木は小田原の田邊を訪ね出版について語り合った。同年 3月 1日に[療養生活]第 1号 500部が発行された。田邊は「結核を理解させる方針と同病相憐れむの気持ちを持って進もう」という創刊の言葉を記している。当初は療養生活社の社名であったが、 8月に自然療養社と改め茂野の[安静と運動について]の原稿も誌上に発表している。田邊は[最新自然療法指導書]を書き上げ、肺病黎明運動の第一歩を踏み出した。

(2.)結核患者自身が自覚して創った自然療養社の活動

  大正12年 9月 1日午前11時58分、関東大震災が起こり自然療養社も大きな被害を受ける。輸送途中で出版物やパンフが焼かれ、療養生活の出版業務は大きな打撃を受けたが、2カ月後には仕事を再開することができた。自然療養社は通信指導に力を入れ、会員になった者には指導書 6巻と療養生活誌を送り、結核に対する啓蒙運動を発展させた。熱心な同志が集まり事業に参加した。

 大正13年 2月には代理部が大阪市難波に誕生した。療養に必要な品々を多数購入して会員に販売した。乳酸菌飲料水、療養日記帳、静臥椅子などは、大変に喜ばれた。代理部は順調に売り上げを伸ばした。[われわれ療養者は医者まかせの他力本願では決して治らない。患者自身が肺病を理解して、自ら治す気持ちにならなくてはいけない…]と田邊は書いている。けれど社会の肺病に対する偏見は強かった。

 当時の多くの苦労話の中から、小西長英の事例を紹介する。小西は宮大工をしておったが、日赤病院で肺結核と診断され、山田の親元へ帰る。高熱が続くようになる。お金も使い果たしたので、家族の世話にならない自然療法で病気を治す決心をする。無言で安静療法を開始した。食物は握り飯に薬缶いっぱいの水と新聞紙でくるんでもらうおかずである。痰は痰壷に取り煮沸して便所に捨てた。血痰と高熱は何カ月も下がらなかったが半年を過ぎ下火になる。家族の迷惑にならぬように箱車を作り、川の土手に行かせてもらう。箱の中に人が捨ててあると騒ぎになり、別居中の妻は恥さらしだと去ってしまった。

 四年目から熱や血痰も取れ体調が回復してきたので、そろそろ歩行練習を始める。暑くなると場所を松林の中に移してみた。次に考えたことは自分で食べていくことだ。自活ということである。下駄の歯入れを 2〜3 時間やって食べていけるようになる。富田浜の知人を頼って仕事しながら、無銭で転地をすることを思い立った。箱車を手押し車にし、歯入れの注文をもらっては、先へ進んだ。川の堤や墓地は寝心地が良かった。お客があれば何日でも泊まり津の町へ出た。途中巡査にとがめられ事情を話すと、「なにっ肺が悪い、死なんようにせい」と励まされた。食事がすめば痰壷を煮沸し肥溜めに空ける。作業が終われば安静をし疲れを取った。彼は体力ができるに従い、肺病患者に奉仕する人生を送った。

(3.)療養ホームの使命と、社会の誤りを批判した回復者たち

  その頃僚友が集まって自然療養ができたらという、希望が実って実現したのが療養ホームであった。本社の近くの家を借り、近くの主婦が賄いをしてくれた。療養下宿の草分けと言って良かろう。入所者は両者で15名になった。一カ月55円の安さの上に、毎週一回江良元三郎医師が来診し、僚友たちは愉快に規律的な生活を送った。そうした時に結核患者が小田原に来ると、避暑客が嫌がるので止めさせて欲しいと、近所の人が苦情を言い新聞も嫌がらせを書き立てたので、ついに大正14年 7月で二つのホームを閉鎖することになった。

 自然医療者のやったことは医師たちからはインチキ扱を受けたこともある。昭和 2年4月から 5月にかけて、民間療法の情報を読者から募集したところ 214件が集まり立派な研究となった。戦後丸山博教授により高く評価されて、[日本科学技術史大系、医学 2の145ページ]に収められている。また昭和 2年 8月15日から20日までに、田邊は自然医療の講習会を開いた。講師として額田豊医師と茂野吉之助をお願いし、会員は静臥椅子で演壇に足を向けて集まった。昭和 2年10月には結核に関する新聞広告を衣笠樵夫がまとめて[療養生活]に発表した。

 誇大に広告掲載することは新聞の道義に反すると、申し入れたが、経営に目のくれる新聞社には通じなかった。東京朝日、東京日々、大阪朝日、大阪毎日などの大新聞社の名前が上げられている。紹介された民間療法としては人骨、かわうその肝、石油、硫酸、蚤取り粉、犬の糞、いぼたむし、蛆虫、金魚の目玉、なめくじ等多数のいかがわしい品名と売薬百余種、不当な信仰などさまざまである。溺れる者は藁をも掴む病人の心理は何処の国にもある。けれどこれに付け入る悪徳商人やえせ宗教家の行為は、決して許せるものではない。

 やがて結核予防デーが毎年 4月27日に行われるようになる。その時のスローガンを見れば、当時の結核予防協会でさえ結核に対する理解の浅さが良く分かる。[結核患者は間接的殺人者][肺病の痰は火のなき爆裂弾]などで、世間に恐怖心を与えるだけの内容であった。これと比べ自然療養社はクリスマスシールを発売し、療養歌留多を会員からの応募で作り結核の正しい啓蒙運動を続けていった。

 その幾つかを紹介する。[急がば回れ日々の安静][よく働く者はよく休め][鯛より鰯、安価な栄養]など充実した内容で、味のあるものばかりであった。また自然療養社の十周年を記念して大正十三年から、遠藤柳太郎が僚友訪問を行い非常に歓迎された。田邊一雄より 5歳年上であった茂野吉之助は、ロンドンに出張中、喀血をし帰国し小田原で療養していた。[たった一人の黎明運動]を思い立ち、著書に[肺病に直面して]などがある。多士済々の自然療養社にさらに西須諸次の味方がおったことは、大きな喜びであった。本名は和達清夫で地震学専門の理学博士で、多忙な研究生活を続けていた。そのかたわら同病愛の気持ちからサイスモロジ[地震学]のペンネームで主婦の友や療養生活誌に執筆を重ねている。

 次に[あく迄希望あれ]の一部を記してみる。「或る者はにんにくを食べて全快し、或る者は何も療養しないで全快し、みんな事実(ファクト)だ。吾々は事実に幻惑されるのはやめよう。自分たちで科学的に判断して、療養方針を樹立しようではないか。事実は我々に貴い教訓を教える。…」複十字のマークは結核撲滅運動を意味する万国共通の旗印であって、自然療養社が結核回復者の団体を[複十字会]と命名したのは創立当初であったが、正式の総会は昭和 7年 9月25日、東洋軒で開催されている。参加者は 2府 5県にわたり28名であった。

 [結核回復者は結核体験者として、自分の健康保持に努めるとともに、僚友を慰め援けること、自己の経験にもとづいて社会に貢献すること]を目的とした。その後複十字会総会は毎年十月東京で開催された。

(4.)療養者の生きる姿勢から、患者学を考える

  結核療養者には医療関係者や衛生行政者が考える医療や患者の概念とは、可なりかけ離れた立派な問題意識があるように思えてならない。しかし両者に介在する生きる姿勢と使命感の大きな違いは、これからの高齢化社会を考えるうえで、無視してはいけない大切な鍵が潜んでいるように思われる。言ってみれば社会に対する強い責任感が感じられることである。私は幸いに軽症であったが、重症の結核で瀕死の状態に追い込まれた体験を持つ。先輩たちの優しいしかも辛抱強い生き方に学ぶことが多い。今日では老後の生き方についての大切な教訓を学び取りたい気持ちに駆られている。

 最後に患者学と呼ぶにふさわしい視点に触れて終わりにしたい。私が高齢者の人間学的な別の面に目が開けた動機には次の三つがある。一つは父田邊一雄が肺病を患い、新しく結核を撲滅する社会活動を回復者同士でやりとうしたことである。二つには高齢化社会のなかで、老人自身の持つ能力と生きる姿勢が忘れられている対応の誤りである。第三はアユルヴェーダ医学で語られる、人生とは何かという疑問と、体質、気候、年齢により微妙に加減する養生法と、患者自身が医療や健康の主体者であるとする捕らえ方の知恵を学んだことであった。

参考文献
    療養生活( 1号〜 495号)自然療養社
    田邊一雄著「最新自然療法指導書」自然療養社
    原英著「肺病患者は如何に養生すべきか」主婦の友社
    茂野吉之助著「結核征服」新潮出版
    茂野吉之助著「肺病に直面して」新潮出版
    西須諸次著「あくまで希望あれ」自然療養社
    和達清夫編著「療養者のつづる日本の肺病」結核予防会  複十字会
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参考事項(役員並びに会則)

日本医史学会神奈川地方会役員 [第3期:平成8年2月〜平成10年1月]

会長        杉田  暉道

幹事長       中西  淳朗

幹事         荒井  保男      大村  敏郎    衣笠  昭(会計)  河野  清    滝上  正
             佐分利保雄      深瀬  泰旦    真柳  誠          山本  徳子

監  事       家本  誠一      大島  智夫                                         [50音順]



名誉会長     大滝  紀雄
 



日本医史学会神奈川地方会会則

第1条(名称)          本会は日本医史学会神奈川地方会という。

第2条(目的)          本会は医学の歴史を研究してその普及をはかるを目的とする。

第3条(事業)          本会は第2条の目的を達成するために次の事業を行う。
                          1)総会
                          2)学術集会
                          3)その他前条の目的を達成するために必要な事業

第4条(入会)          本会の趣旨に賛同し、その目的達成に協力しようとする人は、会員の紹介を得て会員となるこ                          とができる。

第5条(会費)          正会員は年会費2000円を前納する。

第6条(役員)          本会は運営のためつぎの役員をおく。
                          会長1名、幹事長1名、幹事若干名(うち会計1名)、
                          監事2名。任期は2年とし、重任は妨げない。

第7条(名誉会長、顧問)本会は名誉会長、顧問をおくことができる。
                        任期は会長の任期に準ずる。

第8条(会計年度)      1月1日より12月31日をもって会計年度とする。

                            [平成4年5月16日議定、平成8年2月17日改定]
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