訪問看護のルーツ 2頁
横浜軍陣病院詰所研究 4頁
腹帯の歴史 5頁
1994年度総会、日本医史学会9月例会、第5回学術大会合同会 プログラム 9頁
ペスト残影(その3) 10頁
横浜根岸外人墓地に眠る小児の墓 11頁
浅野総一郎とコレラ 12頁
平成6年度一般会計収入支出決算報告(略) 17頁
平成7年度一般会計予算(略) 18頁
挨拶 大滝 紀雄一般口演 (一題発表20分、質疑応答5分)
座長 衣笠 昭特別講演 (16時〜16時40分)
1、 訪問看護のルーツ 坂本 玄子
2、長崎国際墓地に眠る人々の死因 佐分利 保雄
3、横浜軍陣病院詰所の研究 中西 淳朗
座長 大滝 紀雄懇親会(17時)
腹帯の歴史 蔵方 宏昌
司会 中西 淳朗
開会の辞 中西 淳朗
閉会の辞 家本 誠一
1980年代に入り高齢化社会の到来や国民医療費の高騰が叫ばれる中、医療保健福祉の施策が矢次早に出され、1992年4月より老人保健法の療養給付として訪問看護制度が出発した。
老人の在宅ケア充実のためのこの制度概要をみると、はるか明治中期に日本近代看護の夜明け、養成誕生したばかりのTrained.Ns.(訓練を受けた看 護婦)が患家に派出し、ベッドサイドケアの実践に自分のすべてを注いだ姿が、そしてその派出看護婦の供給組織として設立し自営した初期(1890年始め) 派出看護婦会が、ル−ツとして浮かぶ。私達は今回の訪問看護ステ−ションの自営権を法的に開業が認められたことを考え、それが真に老人病者の為に機能する には何が問題であるのか、ル−ツを探る中から学びたいと考える。派出看護は教育で質の高い看護婦の情熱と理想に支えられて始まる。しかし日清戦争後、四つ の社会的条件の変化で需要が急増、それに対し速成養成や悪徳派出婦会増加により質が低下し弊害が起きた。東京府はM33に会を認可制にして取締り、検定試 験合格者に看護婦資格を与えた。この規則が骨格になってT4やっと全国統一看護規則が制定され職業として確立する。府令後も営利的な会は後を絶たず先進的 リ−ダ達は大日本看護婦協会の中にM42東京組合を結成自主規制の運動に立ち上がった。
派出看護婦の収入は高い方で、自主独立の志強い女
性が病院で学び働き経験を積むと、派出看護婦になって働く事が多く、T4からT末までの最盛期も含め、永く病院看護婦より量質ともに凌駕していたが、賃金
は労働市場の競争にさらされ不安定で、量質ともに経済に左右され次第に低下した。派出看護婦会は営利自営業として監督官庁の警察の管理大正になり(大正中
期)、自主的な看護改革の拠点にならなくなった。こうした推移から今日的課題を考えたい。←目次に戻る
長崎の外国人墓地で、もっとも古い墓碑は、1778年7月27日に死亡したダ−ク−プのものである。これは現存する日本最古の西洋人の墓とされている。ち なみに、横浜の外人墓地は1856年7月27日に殺害された2人のロシア人のもので、長崎のより78年新しいことになる。
長崎の外国人墓 地は5カ所に分かれており、722人(19カ国)が埋葬されている。これらの人々の死因は何であったのか? 墓碑には死因は書かれていないが、ア−ンズと ガフニ−の研究によって163人(23%)の死因が判明している(1)。そこで、これからの死因を1.法定伝染病 2.感染症 3.成人病 4.事故 の 4つに分けて取りまとめた。それは現在の人々の死因とはかなりかけ離れたものである。
1.法定伝染病:腸チフス、天然痘、コレラ、赤痢 で5〜8人が死亡した。ジフテリアで2人の子供が、猩紅熱で19歳の人が1867年に死亡している。これは日本最初の猩紅熱患者であるまいか。
2.感染症:結核が最も多く9人、肺炎が6人、気管支炎が3人で、呼吸器疾患が多い。狂犬病で2人が1870年、1898年に死亡しており、当時、長崎に狂犬病が流行していたことが分かる。
3.成人病:心不全21人、卒中7人となっており、がんは4人、腎臓病4人、尿毒症2人で、がんは現在より少ない。
4.事故:溺死21人、船の事故(マストからの転落死も含まれる)9人で、溺死が多いのは意外である。また他殺(浪人に切り殺された人もある)13人で、長崎はかなり殺伐とした町であった。自殺は3人である。
以上が長崎の西洋人の主な死因で、死亡年は1861〜1945年におよんでいた。
参考文献
(1) EaynsLR.Burke-Gaffney B.Across the gulfof time(時の流れを越えて)、長崎文献社、平成3年←目次に戻る
「横浜軍陣病院」の日記によれば、この病院の開院は慶応4年(1868)閏4月18日で、野毛山上の漢学教授所である修文館を利用したとある。しかし、こ の修文館の収容能力については全く不明であった。演者は、慶応3年1月にこの館を宿泊所とした徳川昭武渡仏団の一行が29名編成であることを松戸市戸定歴 史館で確認した。即ち、修文館の収容能力は32名前後しかないことが判明した。この点をおさえて改めて日記を読みすすめると、意外な史実につきあたった。
平成3年第92回日本医史学会總会(京都市)において、演者は“『横浜軍陣病院の日記』を再読して”と題して、1、御使番詰所(管理部)が洲干弁天社周辺 に存在したこと、2、この詰所が後日、太田陣屋へ引越したこと、3、「横浜軍陣病院」は、修文館、元勘定役所、太田陣屋の三病院から成り立っていたことを 報告した。
今回、修文館の初期収容状況を日記から調査したところ、開院3日で医務部は患者7、医師2、介抱人等5、の計14人が在院して
おり、管理部は御使番頭取、同心各1、足軽6、小使1、の計9人が在院している外、江戸からの検分役とみられる一行8人が来院宿泊していることが分かっ
た。即ち、開院3日目でほぼ満員となった。そして、2〜3日中に多数の患者が来るという通報を得て、管理部は開院第5日早期に修文館から移動せざるを得な
い状況となった。その移動先は洲干弁天社周辺の奉行所役宅であり、閏4月22日から5月17日まで詰所をそこに仮設した。5月17日に太田陣屋へ引越し、
ここを軍陣病院の基幹病院として管理運営したことも判明した。なお、元勘定役所については、野毛坂と太田陣屋の間に存在したという記事(珍事5カ国・横浜
ばなし)も発見した。また軍陣病院の人員編成についても言及した。←目次に戻る
腹帯の呼び名と起源
日本の産育習俗に「帯祝い(おびいわい)」というのがある。妊娠5カ月目に妊婦の腹部に麻や木綿の帯を纏って祝う行事である。この行事は現在民間で行われているが、平安時代には公の儀式だった。
帯祝で妊婦に着ける帯を腹帯(ふくたい、はらおび)と呼んでいるが、古くから、岩田帯(いわたおび)、纈帯(いわたおび)、鎭帯(ちんたい)、産帯(さん たい)、常陸帯(ひたちおび)などいろいろに呼ばれてきた。腹帯がいつから始まったか明らかでないが、江戸時代に神功皇后の故事を腹帯の起源とする説が流 布する。『古事記』『日本書記』には中哀天皇の妃、神功皇后が朝鮮の新羅に遠征する時、子供が生まれそうになり、石を取って帯の間に挟み陣痛を鎮め、帰国 してから筑紫国(九州の北部)で男児(応神天皇)を出産した、と記されている。
神功皇后は『万葉集』で山上憶良(660〜733)が詠 い、その詞書に「この両つの石を用いて、御袖の中に挿み著けて、以ちて鎮懐としたまひき」と記した。この故事から神功皇后が帯に挟んだ石は後に「鎮懐石」 と呼ばれる。鎮懐石は筑前国怡土郡深江村子負原にあったという説と肥前国彼杵郡敷の石であったという説があった。後に肥前国の石があったという地(長崎大 学医学部脇)に鎮懐石を祭った祠が建てられ、そのそばに『日本書記』に書かれた神功皇后の故事を刻んだ碑と山上憶良の鎮懐石の歌碑が作られた。しかし、江 戸時代に広く知られた腹帯起源説を当時の国学者たちは否定したり無視したりしている。
平安時代宮中の箸帯
文献で妊婦の腹 帯がでてくるのは平安時代中頃で、『小右記』の永観3年(985)5月1日の条に「午時、白色の衣を以って児に著けられる。産者の腹に結びし絹を以て之を 用ゆ」と記されている。妊婦が腹帯を巻くことやその儀式を「著帯」のちに「着帯」と呼ばれ、公家社会では平安時代中頃すでに儀式化されていた。妊娠5ヵ月 吉日に行われることが多く、後世のように戌の日を選ぶことは少ない。時刻は午から申の刻、すなわち午後0時から午後4時頃までが多い。夜間には行われな かったらしい。
宮中の儀式を記した『中宮御産部類記』によると、当日は陰陽師を招き吉方吉時を決めた。腹帯は長さ1丈6尺(約4.8m)ほどの練絹で、親しい人の中から特に身内に不幸がない人に腹帯を作らせ献上させた。
この腹帯を衣筥に入れ、宮中の身分の高い重臣に宮中まで持参させ、天皇が御覧になったあと、重臣は衣筥を仁和寺などの格式ある寺に持って行く。僧正は腹帯
をもって持仏堂に入り加持の後、僧正は腹帯の包み紙の上から細帖で小松3本を結び、腹帯を衣筥に戻す。腹帯の包み紙は壇紙2枚で、上下に押折りしたもので
ある。僧正を御所に招いて加持させることもあった。寺で加持を受けるか、御所で加持してもらうか、どちらが正式か両説あるという。
着帯の場所は中宮の御座で天皇は加持を受けた腹帯を自ら中宮の小袖の中に通し腹帯部に巻きつけた。当時は衣の上に腹帯を巻いたという。腹帯の中には諸毒を治すという生薬「仙沼子」をいれた。仙沼子は当日、施薬院や典薬療の長官が献上する。
着帯が終ると、当日から出産まで陰陽師の御祓と僧侶の加持が行われた。加持の内容は「北斗法」、「不動法」、あるいは「薬師法」と「北斗法」というものである。
鎌倉時代の公家と武家の着帯
鎌倉時代は妊娠5ヵ月に限らず、6ヵ月、7ヵ月に着帯する日も多い。着帯する日は吉日が選ばれ、当日は陰陽師ではなく、学識ある重臣が呼ばれて、吉時吉方 を決めた。寛喜2年(1230)11月11日の中宮の著帯では中宮の里方の母から腹帯を献上してもらっている。腹帯は長さ1丈2尺(約3.6m)ほどの平 絹で、これを六重に畳んで、白薄模様の二重の布で包み、さらに蘇芳色(赤紫色)の織物で包む。腹帯は薄絵の衣筥に入れ、使いの重臣に渡され、宮中では女官 を介して天皇が腹帯を御覧になる。
この後、加持が行われ、典薬頭(典薬寮の長官)が献上した仙沼子27丸を壇紙に包み、別の紙にもう1丸 包む。地に薄模様のある布を半枚ほどの大きさに切り、これを畳んで仙沼子27丸入りの包みを入れ、その上に1丸包んだ紙包みを加えて腹帯の中に縫い込め た。腹帯は「昜産陀羅尼」と水書きしたり、松枝を具えたりして衣筥に入れる。
女房は衣筥をもって中宮の御座所に行き、吉時になると中宮は吉方に向い、天皇が中宮の腹部に腹帯を巻く。この後から出産まで毎日御祈と御祓が行われた。
公家の着帯は武家にも広がり、将軍家でも同様な儀式が行われている。『東鑑』によると、北条政子が着帯の時、重臣千葉介常胤の妻が腹帯を献上し、将軍源頼朝が腹帯を妻政子に巻いている。
室町時代武家の着帯
室町時代になると、後世「和礼の三職」といわれた伊勢、小笠原、今川の有職故実を専門とする人たちが出て、着帯は産所礼式の一部として確立する。
この頃には妊娠5ヵ月に着帯することが多い。将軍家では陰陽頭(陰陽寮の長官)を呼んで吉日吉方時を決め、これを記してもらう。この書き物を「勧文」といい、これにもとずいて着帯が行われる。
腹帯は、公家では白綾織の絹を用いているが、将軍家では儀式当日に白絹を用い、平常は白布を着けていた。長さは8尺(約2.4m)で一幅物である。これを 縦に4つに畳み三針刺しをして両端の糸を結ばない。腹帯は子孫繁昌の重臣の妻が作り持参する。そして聖護院や青蓮院の僧正に加持してもらう。腹帯を結ぶの はその家の譜代の臣の妻で、将軍の妻の右袖から帯を通し、うしろに廻してから左の脇下を通して前に廻して巻き、胸元で結んだ。
江戸時代町民の着帯
公家や武家で伝えられた産所礼式は、江戸時代には町家にも広まった。これに大きな役割をしたのが水島元成(1607〜1697)で小笠原流の礼法を世情に 合うように変えて町人に普及させた。彼の礼法は水島流として伝えられる。『水島流産所伝記』に「月経が止まって5ヵ月目に帯をするこれを懐孕著帯または著 帯ともいい、目録などに記す場合は<いわた帯>と書く。帯は郷の母より、また果報伊美敷老女より乞いを受けることもある。生絹で長さ8尺を二筋使わなくて はいけない。縦に五つに畳み、白糸で753、また3針刺しに縫う。7尺5寸又は8尺2寸にした古例もある。他流には、一筋は白、一筋は紅にして、父の名な どを書くことがあるけれども、当流は砦白生絹である。この帯の中に小豆、米八十八粒、細石5、以上3色を紙に包んで容れる家伝もある。」と江戸時代前記の 著帯の様子を伝えている。『水島流懐婦産記』の一部『懐妊帯書伝記』によると、帯の長さは弓の長さ7尺5寸、弓袋の長さ9尺5寸にする例もある。
着帯の日に神棚に祭るのは、小笠原流では御神酒の入った一対の瓶子、鳥子形の餅10個、熨斗、昆布、山椒、勝栗、米である。水島流では、鳥子形の餅が5個
で、この上に末広の熨斗5個と小松、山椒。米の代わりに赤飯、小松、藪柑子を置いている。 犬が安産ということで、江戸時代には戌の日に着帯することが多
くなっていく。着帯で帯結びの介助者は産婆となり、夫は除外された。着帯時の祝いの宴も妊婦と産婆を中心とした女性だけの参加となる。江戸時代後期になる
と、腹帯の端に「紅」で花模様を書くようになった。
江戸時代の腹帯論争
妊婦の祝いと安産への祈りであった腹帯を、胎児が大きく育ち過ぎないように、また妊婦による胎気が胸や頭に上らないようにと、みぞおち(鳩尾)緊くしめつけないようになった。このため江戸時代中頃から腹帯の是非論が医師の間で活発になる。
腹帯を有害とする説を強く主張したのが賀川玄悦(1700〜1777)で著書『参論』の中で「鎮帯論」の一項をもうけ、腹帯は有害無益と批判した。これに 対し、立野龍貞や佐々井茂庵ら無害論者は、腹帯をしている人たちが8〜9割安産していると反論している。腹帯は論争の中から、腹帯をゆるやかに腹部全体を おおう現代のような巻き方が生まれてきた。そのような改良論を重唱した一人が『病家須知』を著した平野重誠(1790〜1867)である。腹帯論争は明治 以降も繰り返されてきているが、論争の焦点は有害無害よりも有用無用に移ってきた。
中国の腹帯
水島流の『懐妊帯書伝 記』に、中国で妊娠5ヵ月目に帛を帯としると書かれ、香山牛山(1656〜1740)が享保11年(1726)に著した『婦人寿草』に中国の古書に見られ ないが、近年明の鎮明諸が著す『奚嚢便方』に絹または帛を腹帯にしている、と記され、いずれも中国では明の頃に腹帯の記事がでているという。
清時代の風俗を聞き書きした中川忠英(?〜1830)の『清俗紀聞』に「肚帯はらおび」と図示され、妊娠四・五ヵ月に腹に結ぶと説明されている。また台湾のヤミ族は夫の褌を腹帯にしているという。
中国の腹帯は日本の風習がとり入れられた珍しい例かも知れない。←目次に戻る
A 総会 14時
司会
中西 淳朗
1、 開会の辞 中西 淳朗座長 大滝 紀雄
2、 挨拶 大滝 紀雄
3、 議事
1) 1993年度活動報告 杉田 暉道B 日本医史学会9月例会・第5回学術大会 合同会
2) 1993年度会計報告 衣笠 昭
3) 1994年度活動方針 杉田 暉道
4) 1994年度予算 衣笠 昭
4、閉会の辞 中西 淳朗
1、ペスト残影(その3) 滝上 正特別講演 16時
2、横浜根岸外国人墓地に眠る小児の墓 佐分利 保雄
3、浅野総一郎とコレラ 荒井 保男
やみの医術 鴆鳥ー実存から伝説へー 真柳 誠C 懇親会 17時
ペスト殘影 その3 「ペストの塔(Pestsaule) ]について 滝上 正
ハプスブルグ家が支配した中部ヨーロッパには「ペストの塔」が多数みられる。これらは主として中世のペストの第2次大流行の後半17、18世紀にペストの 惨禍から解放された喜びをこめ、神に感謝して奉納されたものが、大部分である。しかし建立された時代、場所、設計者、奉納者などのちがいによりそれぞれに 特徴があり、一つとして同じものはない。塔の形は主にカトリックの影響を強くうけているが、形のうえの特徴からなんとか整理できないものかと考えてまとめ たものが今日の発表である。
「ペストの塔」にはきわめて素朴な石の柱から、絢爛豪華なバロック風の巨大な石柱まで様々であるが、次のような観点からまとめてみた。
1、ウィーン、グラーベンの新旧のPestsaule について
2、Pestsaule を形からまとめると
1)立灯籠形(シャベル形)
2)3段構造の「ペスト塔」
a)登頂
三位一体
マリア
併祀
ペスト聖人(ペスト守護神)(Z・B:Der hl.Sedatian,Der hl Rochus)
b)塔柱
入道雲状
模式化されて雲 帯状
紐(鉢巻き)状
座布団状
ずん胴
C)基部
ペスト聖人(ペスト守護神)例えば上記のはか
Die hl Rosalia,Der hl Karl Borromaeus
3) 特殊形
この墓地に埋葬された成人の死亡年は1908〜1992年におよんでいる。ところ
が、小児の死亡年月日は1950〜1964年の15年間に集中していた。この15年間に小児の墓が多いのは、当時出産年齢の西洋人が多数横浜に在住してお
り、また、死亡した小児は、おもにこの根岸外国人墓地に埋葬されたためであろう。生後、間もなく死亡した愛児のために、墓石を建て、氏名を刻み、いとしい
児の追憶とした両親が多いのが、この墓地の特徴である。←目次に戻る
ここでは総一郎がコレラによって志を立て廃物利用とコレラによって財を成し、実業家としての地歩を築いた波瀾に満ちた彼の前半生を、横浜市の公衆衛生との関連から考察し報告するものである。
浅野総一郎は嘉永元年(1848)富山県氷見郡藪田村の医家の長男に生まれた。6才の時叔母の嫁入り先である氷見町の医師家崎南禎の養子となった。文久元 年氷見町を中心に周囲の数か村に残虐なる「コロリ」が流行した。現在のコレラである。自伝によれば「コロリ」(虎列刺)の大流行で恐ろしい目に遭い医者が 嫌いになって夢中で養家を逃げ出した。という。以後実家で種々の事業を起こすがすべて失敗し、明治4年横浜に出て、故郷の知人の営む小倉屋に奉公した。こ こで味噌醤油に使う竹の皮の意外に高値なるを知り、独立して竹の皮の販売の傍ら薪炭を取扱いやがて石炭商となった。さらに廃物のコークスが燃料として役立 つことを知り、これを販売して予想外の利益を得た。また当時横浜の辻々に作られた便所は汚く、所によっては糞尿が道に溢れて非衛生なること「この上なし」 という状態であった。彼はこれらの便所を廃統合し、新たに清潔な公共便所(公衆便所)を63か所作り、これらの便所の清潔にも大いに力を注ぐ一方、この糞 尿を近郊農村に売ることによって多額の富を得た。かくするうちに明治15年横浜市にコレラが流行した。当時消毒に絶大な信頼を得ていたのは石炭酸であっ た。石炭酸の原料がコールタールであることが判明したのもこの頃で彼が買いこんでいた厖大なコールタール量は一変して莫大な黄金と化していった。
石炭、コークス、コールタール、便所清潔で巨満の富を得た総一郎は明治14年渋沢栄一の斡旋で工部省の深川のセメント会社の払い下げを受け、財界への第1歩を踏み出してゆくのである。←目次に戻る
1 毒と薬
「毒にも薬にもならない」という常套句は、毒と薬が裏表一体なのをよく表現している。中国でも古くから両者を同列にみる表現は多い。『周礼』天官は医官の 職務を、「医師は医の政令をつかさどる。“毒薬”をあつめて医事を行う」と定め、『史記』も「苦い“毒薬”ほど病にきく」なる成句を記す。
さらに中国1世紀頃に原型ができた薬物書『神農本草経』は毒性の有無・程度を一基凖に、収載薬を上中下に分類していた。毒性のある薬物でも、治療への巧みな応用が中国本草に古くから課せられていたのである。
しかし例外もあった。薬用が一向に開発されず、毒殺のみに用いられたため、中国本草の正式品から除外され、ついには伝説の毒薬となった鴆鳥がそれである。
2 毒鳥の出現
かつて毒鳥の存在は知られておらず、それで鴆鳥も空想上の産物と考えられていた。ところが『サンエンス』1992年12月30日号に、世界初の毒鳥が報告された。
モリモズ属のズグロモリモズ等で、ニューギニアの密林に棲息する。実験により皮膚・羽毛に毒性が強く、羽毛25mg相当エキスの皮下注射で全マウスは19分以内に死亡。主成分もステロイド系アルカロイドの神経毒、ホモバトラコトキシンと確定された。
この毒鳥の出現で、鴆鳥の古い記録にも再検討の手がかりが得られたのである。
3 鴆鳥による毒殺
鴆鳥による毒殺記録は多い。『春秋左伝』の前662年にあたる記録では、酖を飲ませて毒殺する。酖とは鴆鳥をしこんだ毒酒のこと。『国語』の前656年に あたる策謀では、酒に鴆、肉にトリカブトをしこむ。後漢以降この猛毒トリカブトは烏頭・附子と呼ばれるが、『国語』は最も古い「菫」の呼称で記す。すると 併記される鴆鳥の存在と毒性も前7世紀から知られていたことになる。
一方、『国語』の前632年にあたる話では、晋の文公が捕らえた成公を殺すため、医師に命じ鴆を使わせる。が、成公は死なず、医者もとがめられなかった。 公然の刑ではなかったからである。『春秋左伝』の記録によると医者の名は衍、使用したのは酖、失敗したのは衍が賄賂により酖を薄めたから、とある。すると 『周礼』が「毒薬をあつめて医事を行う」と定めた医官の職務に、毒殺への関与も想定せねばならない。
ともあれ毒殺はふつう暗殺で、公然の 刑ではない。トリカブトは一方で薬用とされて応用知識も広まったが、毒殺専用の鴆鳥は違う。非公然の需要ゆえ毒殺技術が秘密裏に伝えられ、古代の人々に恐 れられた。闇の医術である。ついには毒が何であれ鴆毒・鴆酒(酖)・鴆殺と例えるようになった。日本でも鴆殺の記録は少なくないが、その多くはヒ素の中毒 症状に類以している。
鴆鳥の捕獲記事が『晋書』にある。ひとつは、3世紀末に石崇が揚子江の南に派遣されたとき鴆鳥の雛を入手したが、規 則に触れて街頭で焼かれた記事。ひとつは、358年3月に王饒が穆帝に鴆鳥を献上したが、怒りに触れてむち打たれ、鴆鳥も四っ角で焼かれた記事である。こ れらは鴆鳥と判断された鳥が揚子江以南に棲息していた事実を物語る。
唐代653年の『唐律疏議』は毒薬の使用と販売に関する刑罰を説明し、 毒薬に鴆毒・冶葛・烏頭・附子を挙げる。冶葛・烏頭・附子は今も用いる生薬で、ともに猛毒アルカロイドを含む。それらの筆頭が鴆毒なのは、7世紀も鴆鳥が 実存して毒殺に使用、ないしその可能性があった証拠にほかならない。
『鉄囲山叢談』によると12世紀初め宋政府の毒薬庫に鴆毒があり、各種毒薬は広東・広西・四川から3年ごとに献上され、冶葛ばかりか鴆すら第3等の毒でしかないという。
中国正史の鴆殺記録は北宋直前が最後で、のち一切ない。また『鉄囲山』以降、鴆鳥の実存を示唆した記録もない。環境変化等で消減したのだろうか。ちなみにモリモズ属の毒鳥は現中国に棲息が確認されていない。
以上は、かつて中国南方に鴆鳥なる毒鳥が棲息したことを強く示唆する。ただ奇妙な点もあった。鴆は酒にしこんで飲ませるのみで、肉を食べさせた記録が一切ない。しかも肉を漬けた酒なら味や色や香気が変化し、暗殺の用をなさないだろう。どこを用いたのだろう。
4 本草と鴆鳥
『神農本草経』に鴆鳥の条文はないが、犀角の条文に言及がみえ、鴆羽中毒を犀角が解毒すると記す。ならば鴆鳥は羽毛に毒性があったことになる。もちろん羽 毛は食用にならず、鴆羽の食中毒はありえない。用途は毒用である。また羽毛を漬けた酒なら、味・色・香気の変化も少ない。鴆酒は羽毛をしこんだのたった。
一方、鴆・酖の字は現伝する漢以前の他医書にない。近年までに出土した漢以前の医薬文献にもない。鴆鳥に薬効がまだ開発されておらず、闇で伝授される毒殺の用途しかなかったのだろう。それで医薬書では『神農本草経』のみ羽毛中毒を記載したに相違ない。
365薬の『神農本草経』は500年頃、陶弘景の増補注釈で730薬の『本草集注』に改訂。はじめて鴆鳥が正式品となり、「鴆鳥の毛は大毒があり五臓に入 るとただれさせ、人を殺す。そのくちばしは蝮蛇の毒をけす」、と経文に記された。くちばしに蛇の毒消し効果が認められ、やっと本草の表舞台に姿を現したの である。さらに陶弘景は注釈して、くちばしのみならず羽毛も蛇の毒消しになり、くちばしは蛇よけになるとも記す。
ところでニューギニアの毒鳥は、皮膚・羽毛の毒性のため蛇や鷹に襲われない。すると鴆羽の毒性も外敵防御のためだったろう。それで蛇は中毒を恐れ、毒蛇であろうと鴆鳥を襲わなかった。鴆鳥に中毒したり、つつかれて逃げ去る蛇が目撃されたかもしれない。
とするなら、くちばしによる蛇よけ効果は以上から連想とみるのが自然だろう。連想を重ねれば、くちばしや羽毛による蛇の毒消し効果も案出可能である。けっきょく鴆鳥は毒性だけに現実性があり、『本草集注』の経文や陶弘景のいう薬効は相当にあやしい。
他方、陶弘景は『本草集注』で増補した356薬のうち、173薬を実物不明の「有名無用」に分類し、巻末に一括した。ただし鴆鳥は実存を認め、「有名無 用」に分類していない。ところが唐政府が『本草集注』に増補注釈し、659年に勅選された850薬の『新修本草』は、鴆鳥を「有名無用」に分類しなおした のである。
すると『新修本草』は鴆鳥を存否不詳と判断したのだろうか。その6年前、同じ唐政府編纂の『唐律疏議』が毒薬の筆頭に鴆鳥を挙げるにもかかわらず。だが、そうではない。
『新修本草』は現地の人に取材したらしい注を鴆鳥条に加え、中国南方に沢山棲息するという。また陶弘景の注にも反論する。しかし蛇の毒消し効果、蛇よけ効果には一切コメントしない。さらに「有名無用」に分類した。
意図は明瞭だろう。鴆鳥の存在を否定したのではなく、毒性のみ認め、あやしげな薬効を認めていないのである。換言すると毒になるが薬にならない。それで 「有名無用」とした。一方、『新修』は全国に頒布された公定薬物書。鴆鳥の薬効を認めると、『唐律疏議』に定めた毒薬取り締まりに不都合をきたす。「有名 無用」とした背景には鴆鳥の毒用防止の意図もあったに違いなかろう。
かくして鴆鳥は本草の表舞台から消えた。のち宋政府・明政府の勅選本草も「有名未(無)用」に分類、記述も『新修本草』の文章を転載するだけで注ひとつ追加しない。唐も宋も明も政府なら当然の対応だろう。ふたたび鴆鳥の実像が闇に隠れてしまったのである。
5 実像から虚像へ、そして堙滅
実像が闇にかくれると、虚像のみ独り歩きし始める。舞台は説話の世界だった。『新修本草』より百年ほど後の『朝野僉載』に次の話がある。「鴆の水飲み場は 犀がいる。犀が角をすすぐ前に水中の物を食べると必ず死ぬ。鴆が蛇を食らうからだ」。これは鴆毒を犀角が消すという『神農本草経』の説と、鴆鳥が蛇を食ら うという『漢書』応劭注の結合に違いない。鴆毒が蛇毒に由来することも暗喩している。
鴆毒を蛇由来と明言するのは宋代の文献に多い。さら に宋代12世紀の『爾雅翼』は、毒性にからめ異鳥ぶりを述べた説話を広く集めている。こうして鴆鳥は唐宋代の説話中で虚像が膨らんでいった。にもかかわら ず一連の話には、かつて暗殺にもちいられた陰惨な鴆鳥のイメージが片鱗もみられない。
説話の時代は、鴆殺とされる殺人記録が史書からきえた時期とほぼ前後する。それで鴆鳥への恐怖感が失われたらしい。逆に毒蛇を食らう益鳥のごときイメージが生まれた。鴆毒の対象はもはや人でなく、蛇なのである。
しかし鴆鳥の虚像化も宋代12世紀でほぼ終る。唐時代に薬効を否定され、宋代に毒物として現実性すら失った鴆鳥に与えられた道はただ一つ。過去の全記録が 伝説とみなされ、歴史の片隅に埋められたのである。伝説にしても、いわば忘れられた化石であった。ところがニューギニアの毒鳥から、鴆鳥の虚像と実像を見 分けるてがかりが得られたのである。検討の結果、鴆鳥はほぼ7世紀まで確実に中国に実存していた。のち伝説化が進行し、さらに一転して伝説の伝承までとだ えた事情も知ることができた。
いま筆者はニューギニアの毒鳥とは別に、鴆鳥に該当する鳥がまだ実存する可能性を求め、実験的な解明を考えている。