民間医療信仰の小さな旅 11頁
第4回学術大会プログラム 14頁
第95回日本医史学会総会(予告)
15頁
日本医史学会神奈川地方会も平成4年5月発足以来着実に、
第1回学術大会 平成4年5月16日(特別講演 大島智夫氏)が開催され、今年2月19日には第4回学術大会(特別講演 蔵方宏昌氏)を実施することになりました。これと関連して機関紙「地方会だより」も第3回が発刊されます。このように発足後まもない本会が、極めて順調な経過をたどっていることは、杉田先生始め役員の方々の熱意の反映と思われます。一方これまで日本医史学会とは全くの関係のないと思われていた人々の発表が相次ぎ、しかもその内容が興味深く充実していることは、医学史の進歩と普及に一投石を演じたことと思われます。
第2回学術大会 平成5年1月16日(特別講演 大村敏郎氏)
第3回学術大会 平成5年9月11日(特別講演 立川昭二氏)
たまたま今年平成6年5月には第95回日本医史学会総会が当横浜市で開催されることになりました。思えば今から約30年前の昭和41年、第67回日本医史学会が故石原明先生を会長として行われました。そして11年前の昭和58年には不肖私が会長として、第84回の学会が行われました。当時は小川 三先生、緒方富雄先生、大鳥蘭三郎先生もお元気でしたのをいまさらのように懐かしく思い出されます。
今年の医史学会総会は杉田暉道先生を会長に、深瀬泰旦先生を実行委員長にお願いし、神奈川地方会を実行母体として、着々準備がすすめられています。横浜の特徴も遺憾なく発揮されると思いますので、会長講演、特別講演も大いに期待されます。
今回の総会を機に本会がますます発展されることを念願とします。 ←目次に戻る
ケガレと臓器移植 杉田 暉道
日本における臓器移植問題は1968年のいわゆる「和田移植事件」をきっかけとして起こったが、「脳死」判定の基準問題とからめて論じられるようになってから、複雑な様相を呈するにいたった。
現在の臓器移植は外国では交通事故などによる脳死者の出現を待って行われているが、アメリカでは十分な医療保険に加入していない低所得の若者が、脳死後の臓器提供を条件に、代償としての高額な終末医療を受ける場合が少なからずあるという。
また臓器の供給源である若者の死が交通安全対策の推進によって減少した場合、東南アジアですでにみられるように、臓器の売買が行われる可能性が高い。
臓器提供が需要をはるかに下回る今日の現状では、とくにわが国においては死生観、遺体観が他の国と極めて異なるので、臓器移植は十分に国民のコンセンサスを得た後に実施すべきであると考えられる。
そこで先ず臓器移植の問題点はどこにあるかを検討しよう。
1、臓器移植の問題点
波平(波平恵美子著『病と死の文化』230ー231頁、朝日新聞社、1991)によれば
1)遺族や家族や血縁者の遺体を臓器移植のために傷つけたくないという意志を強く持っている。
この根底には遺族は亡くなった人の確認がその霊魂だけでなく、身体そのものにあると考えているからである。火葬は死体を「焼却」するのではなく、土葬と同じように「自然に帰る」プロセスを短縮化したものにすぎない。「骨を拾う」儀式が重視されるのは、故人の確認を身体に求める思考の表現であるからである。
2)全く見知らぬ人、誰かわからない不特定の人の命を救うことについて、積極的な価値を見出だせない人が存在する。
3)日本人の多くの人は今なお、死者の価値は生存者の価値に勝とも劣らないと強く考えている。
世界各地で祖先崇拝が今なお盛んであるのは「自我」というものがなくなった祖先との関係で成立するような構造を持つ文化が多いことを示している。日本でもそれほど信仰があると思われないのに亡くなった肉親の年忌供養を行うのは、死者と共に自分を尊んでいる行為ということができる。と述べている。
新村(新村拓著『ホスピスと老人介護の歴史』、162ー164頁、法政大学出版局、1992)によれば、現代の医療は死を単に生物的な現象の枠にとどめ、社会的な意味を持った事実であることの認識に欠けていたこと、近代医学が魂の問題を抜きにした身体偏重の医学であること、近代医学と伝統的な身体・医学観との間に大きな乖離が存在じていることなど、臓器移植を行うにはいくつもの課題があると述べ、具体的には次の3っをあげている。
1)わが国に伝えられた中国の伝統的な医学観が存在する。
この医学観は、病気を統一的有機体である人体全体の病気として把握するのである。したがって治療の方法として人の臓器をもし使うことがあれば、悪化した臓器の代替のためでなく、体全体を養うためのものとして、あるいは臓器に象徴される若い生命体の取り込みによる賦活に期待して用いられる。
さらに臓器をその人の人格の一部と考えるならば、移植は他者を体の中に取り込む行為となる。それは自己の人格の完結性の喪失を意味し、不安な気持ちと気味の悪さという感覚を、あるいは死者の霊の憑依を恐れる感情などを、移植を受ける側にもたらすことになる。
2)遺体を傷付けることをタブー視する感情が存在する。
遺体は霊の宿るものとみなされている。したがって遺体を傷付けることは儒教の立場からも仏教の立場からも強く忌避された。
3)以上の遺体観はケガレの観念に包まれている。
平安時代においては、死のケガレに触れた者は30日の忌に服すべきものとされた。今日でも死のケガレを忌む意識は、葬式の帰りに塩をまく行為において、あるいは服忌行為において広くみられる。またケガレは伝染すると考えられたから、神事における扱いと服忌の規定は詳細にきめられている。今日でも後に述べる種々な場面においてケガレを寄せつけまいとする意識と行為がいたるところでみられる。筆者は臓器移植の問題点について波平と新村の説を紹介したが、今回はこの中のケガレについて種々な検討を行ったので、その結果を報告する。
2、ケガレの現代観
大貫(大貫恵美子著『日本人の病気観』、29ー49頁、岩波書店、1985)によれば、現代日本のケガレの実態は日常の衛生習慣を検討することによって把握できる。それは日常の衛生習慣は、「何が清浄で何がケガレているか」という概念に根ざしているからであるという。そして日常の衛生習慣を、(1)日常の衛生習慣と空間分類、(2)日常の衛生習慣と時間区分、(3)日常の衛生習慣と身体に分けてケガレの関係を検討している。その結果(1)については日常の衛生習慣は空間分類と密接な関係にあると述べている。すなわち「外」ーもっとも具体的には自分の家の外を示し、かっ文化領域内ーや、「下」ー履物、足、床、地面などで代表されるーは汚いと考えるのである。「外かつ下」はばいきんや人のちりで汚染された場所、ケガレた場所ということになる。(2)については例えば、女性は生理期間中の入浴および洗髪は慎まねばならないとされる。生理が終わると「清浄」になるので入浴および洗髪がゆるされる。(3)については例えば日本人はお金を汚ないものであると考えている。また食事の際はお取箸が使用される。「手」に対する関心は他の場合にもみられ、バス、タクシーの運転手、ホテルのドア・マンなどが白い手袋をはめているが、この真白な清潔な手袋はその場の清潔さを象徴しているのである。身体の中で手は汚されるが洗えばきれいになると考えられ、下半身は洗われても体質的に「汚い」ところとされているので完全にきれいにならない。したがって看護婦が日本で高い社会的地位が与えられないのは、患者のあかを取りさらに下半身の世話をするという職業上の性格が影響しているのではないかと述べている。
以上を要約すると、日本の衛生習慣は、内、外=上、下=清潔、不潔=浄、不浄(ケガレ)を表している。
3、古代からの浄、不浄(ケガレ)の観念
『古事記』(山本健吉『古事記・万葉集』22頁、河出書房新社、1970)に伊弉諾尊は亡くなった伊弉冉尊のうじのわいた死体をみることにより汚れた身になるが、清めの儀式を行うことにより日本の主要神が生まれた。とある。天照大神は伊弉諾尊が左の目を洗ったときに生まれ、月読命は右の目を洗ったときに生まれた。須佐之男命伊弉諾命が鼻を洗ったときに生まれた。というのである。これからわかるように、日本の主なる神々は生と死の二つの対立する原理の弁証法的過程から生み出されるのである。したがって古事記の世界は3つの対立軸ー浄、不浄(ケガレ)=生、死=上下ーの形で繰り広げられている。『祝詞』では神意をおかす行為や、神が忌み嫌う行為を罪とした。この罪は国津罪と天津罪に分けられる。前者は人間の共同生活にとって忌むべき行為をさし、これがケガレである。しかして罪によってひき起こされた神の怒りをなだめる行為として祓と禊が行われたのである。(宗田一著『図説日本医療文化史』76頁、思文閣出版、1989)。これが儀礼化して天皇が主宰する祭式とし法制化したのが律令体制である。
一方、新しい思想を持った仏教が538年に日本に伝えられ、鎮護国家を唱えた貴族仏教がしだいに大衆レベルにおりてくる。そして殺生戒を中心とした仏教戒律思想が急速に広がっていった。とくに中国仏教で重視された殺生戒を重くみる経典『梵網経』が日本に入ってくると、最澄なども小乗戒をすてて『梵網経』のみによる大乗戒を唱えた。そして『梵網経』の十重禁を根底にした各派に共通する出家層の守るべき代表的な戒が作られた。それは不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒、不香油戒、不歌舞観聴戒、不高広大床戒、不非時食戒、不促金銀宝戒の十種である。
平安朝の後半期になると、戦争や疫病の蔓延がさらにはげしくなり、一般庶民の人心の不安が一層広がっていった。この時代に仏教はその教えをやさしく説き、現世は穢土であることを強調し、戒を守らないものは死後地獄におちることを力説した。源信の『往生要集』は末法思想と浄土、穢土という対抗関係で地獄を画き、現世は穢土であると力説し、往生して浄土へ行く為には戒を守らねばならぬと強調した。さらに『起世経』、『地獄草紙』、『餓鬼草紙』によって地獄の様子が理解され易くなり、死後の恐怖感を中心とした仏教思想が一挙に民衆の間に広がった。また朝廷は「天下触穢」の布告を出し、このケガレを消すために陰陽師(占い師)を使って種々のタブーを出した。かくして「凡そ穢悪事に触れ、忌に応ずる者は人死は30日に限る。産は7日、六畜死は5日、産は3日、その宍を喫するは3日」となった。これはケガレとは次のものでこの時に謹慎する日数は、人が死亡した時は30日間、出産では7日間、鶏を除いた畜生が死んだ場合は5日間、出産は3日間、肉を食べた時は3日間であるという。そして上記の日は役人は仕事をしてはならない。お祭りは上記の時にしてはならないというのである。また『古事類苑』の項では、死穢、殺人穢、五体不具穢、戒葬穢、発墓穢、産穢、傷胎穢、胞衣穢、妊者穢、月事穢、失火穢、穢火、喫肉穢、食五辛穢、などがあり、それぞれ謹慎する期間を述べている。このようにして平安朝の後半期になると、「浄・穢」という観念が民衆の間に定着していった(筆者、日本医史学雑誌、30巻35頁、1984)。
4、ケガレとは
ケガレは何ぞやということについては、先に宗田は『祝詞』に「人間の共同生活にとって忌むべき行為(国津罪)をケガレというと述べている。山本は「人間の属する秩序を攪乱するような事象に対して、社会成員の抱く不安・恐怖の念がそうした事象を忌避した結果、社会的な観念として定着していったもの」ということができると述べている(山本幸司著『穢・祓』、77頁、平凡社、1992)。
5、古代日本の浄、不浄(ケガレ)観の観念と現代日本の衛生観、治療力観念の類以性
1)古代日本の不浄(ケガレ)観は、うじのわいた身体、死体または膿の出ている病人に触れることに関連しており、この事実は現代日本においてもそのままあてはまるものである。しかし、死と不浄とのつながりは古代の方がはるかに強かったといえる。
2)古代において祓い清めの役割を担った自然の諸力は、現代においても引き続き同様の力を付与されている。
3)浄・不浄の対立は観念的のみならず、道徳的側面もあわせて持っていることは、古代と現代とはよく類以している。すなわち清浄、不浄(ケガレ)観=生・死=上・下の観念は現代は古代と同じように文化の中に浸透しているといえる。
6、むすび
臓器移植の問題点はいうまでもなくその提供者側に多くっ存在する。しかしてその問題点について歴史的にも詳細に検討した結果、古代日本人の死体燗が現代でも脈々と受け継がれていることを知った。とくに「ケガレ」については日本人特有の観念が存在することがわかった。さらに死者については、精神と肉体とは分離したものと考えていないことが明らかになった。
臓器移植については、医療側も臓器を受ける側も上記の点を十分に認識する必要のあることを強調したい。
(本論文の要旨は1993年9月11日開催された日本医史学会神奈川地方会第3回学術大会で口演した。)
司会 大村 敏郎B 第3回学術大会
1、開会の辞 大村 敏郎
2、挨 拶 大滝 紀雄
3、祝 辞 神奈川県医師会会長 川口 良平
4、議 事
座 長 大滝 紀雄
議 案
1)1992年度事業報告 杉田 暉道
2)1992年度会計報告 衣笠 昭
3)1993年度事業方針(案) 杉田 暉道
4)1993年度予算(案) 衣笠 昭
5、閉会の辞 深瀬 泰旦
一般口演 (15時)特別講演(16時5分)
座長 杉田 暉道
1、ケガレと臓器移植 杉田 暉道
2、ペスト残影(ボンとその周辺の間巻き) 滝上 正
3、「まんが中国医学の歴史」 山本 徳子
座長 大島 智夫C 懇親会(17時)
民間医療信仰の旅 立川 昭二
司会 河野 清
開会の辞 河野 清
閉会の辞 荒井 保男
今回は旧西ドイツの首府ボンとその周辺にみられるペストの記念物件について解説を加えた。これらの「記念」はいずれもペストの第二次Pandemie, とくにボン周辺が襲われた1660年代のペストに関連して作られたものであるっが、ケルンのペスト十字架像Pestkruzifixはこれより少し古く、14世紀初期に作られたものとされているペスト聖人と呼ばれている人々のうち、ペストの退散を感謝して聖Sebastian,聖Rーochus に捧げられた礼拝堂、教会がボン市内のBad Godesberg,Duisdorfにそれぞれある。またペスト聖女Annaにペスト退散を感謝して捧げた小さな彫刻が三つボンの郊外Bad Honnefに見られる。詳細を紹介した。
ついでボン市内で旧市街の対岸Beuel にあるHeimatmuseumに陳列されているペスト死者の墓石の数奇な来歴について紹介した。ケルンのロマネスク式教会のうちSt.Maーria im Kapitol,St.Grorg,St.Ursula にはペストの病苦に苛まれている痛々しいキリストが十字架にかけられている彫像Pestkruzifixがそれぞれ一つずつあるので、それらについても紹介した。
モーゼル河畔のBernkastel Kues の市内にあるSt.Michael教会内にある立派なペストの祭壇は17世紀のペスト流行時の市民の様子の偲ばせる彫像であって、それについて解説を加えた。
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炎帝神農氏姜姓。人身牛首。火徳王。故日炎帝。以火名官。 木為組。揉木為耒 耒耨之用。以教万人。始教耕。故号神農氏。以赭鞭鞭草木。始賞百草。始有医薬。とある。これを絵で表現するとさらにわかりやすくなる。
日本の医療の特色は、最近話題の医療人類学からというと、「多元的医療」といわれる。日本は医療先進国として、近代西洋医学にもとずく高度の病院医療を誇っている。しかしいっぽうで、東洋医学にもとずく漢方も広く共存し、鍼灸はもとより、指圧や整体から心理療法や器具療法におよぶさまざまな民間療法が氾濫し、各種の民間薬も大量に出回っている。
さらに、僻地には古くからの土着医療があり、巷には手かざしなどによる病気治療を看板にする新興宗教があふれており、それに新旧の神仏への病気平癒・健康長寿祈願の「願かけ」もまた、ますます繁盛している。
こうした現象は、キリスト教国やイスラム教国と異なる日本人特有の多元的コスモロジーによるものといわれる。もとより現代の日本人のほとんどは西洋医学を信じ、病気になれば薬をのみ、医師にかかり、病院に行く。しかし、病気を治癒し苦痛を除くという営みは、合理的・科学的な要素だけでなく、つねに非合理的・呪術的な要素をふかく抱えている。病苦を癒してくれるさいごのものは神や仏と考えるのは、なにも昔の庶民ばかりでなく、現代医療を享受しているこんにちの日本人の心性のなかにもひそんでいるのである。その証拠に、病気にきくという大小無数の観音さまや地蔵さんが全国各地にあり、いずれもこんにち大繁盛している。かっての「願かけ」という習俗は、ハイテク時代の現代日本でもしぶとく生きと続けているのである。
医薬の助けのとぼしかった昔、神仏への「願かけ」がさかんであったのはいうまでもない。庶民は病気というと、霊感あらたかな薬師や霊場をめざし、必死のおもいで旅をつづけた。
江戸後期には、こうした人々の需要に応じたガイドブックが出版された。文化11年(1814)に刊行された万寿亭正二著の『江戸神仏願懸重宝記』は、江戸町内で名高い願かけ31ヶ所を案内したもので、このうち頭痛・疱瘡・痰咳・歯痛・痔など病気癒しの願かけ所がもっとも多い。大阪版としては、文化13年に浜松歌国著の『神社仏閣願懸重宝記』が刊行されている。
現代医学にとって病気は征服し排除するものであるが、かっての人々にとっては、なだめ、しずめ、まつりあげるものであった。病気を癒し苦痛を救ってくれるのは、霊感あらたかな神仏であり、それにまつわる護符や霊水などであった。医にまつわる土俗信仰はひろく深く存在し、それが現実的な治癒力をもっていたであろうことは、こんにちの私たちの想像をこえるものがある。そして、いかに文明が発達し医学が進歩しても、人間の病そのものが無くなることがないように、人間が病に寄せる根源的な畏れと祈りの心性はいつの世も変わらないのである。
*
ところで、江戸時代の川柳に「撫でさすり四百四病ではげ給ひ」とあるが、古くから寺院の廊下などに無造作に置かれていた「おびんずる」(賓頭隴盧尊者)の木像は、病気の者が自分の患者と同じ場所を撫で、その手で自分の患部を撫でると病気が治ると信じられ、多くの人の手で撫でられたその木像は頭といい足といい、いたるところはげてしまっている、という意である。
また撫でるのは仏像だけでなく、「撫牛」といって寺社の境内にある牛の石像を撫でたり、「御撫石」といって祈祷を受けた石などで牛の石像を撫でることも多い。
神仏になにか願い事をかけ願い祈りを捧げとき、人々は手を合わせ、賽銭を供え、お礼やお守りをいただくだけでなく、自分の願いや祈りの心の深さや強さを表すために、自分のからでそれを表現しようとする。
「お百度参り」とは、寺社の境内の一定の場所(お百度石の間)を廻って願い事をすることで、信心を強く表わすためにはだしでやるのが「はだし参り」である。
このように、日本では願かけや札参りのとき、仏像を撫でたりお百度石を廻ったりするという特有の身体表現、パフォーマンスが見られ、その風習はこんにちでも行われている。
たとえば、京都の紫野にある今宮神社の疫社の「やすらい祭」は、日本最古の疫病除けの祭礼で、民俗無形文化財に指定され、京の三奇祭の一つである。その昔、春の花が飛び散る頃、疫病は花びらにのって広がると考えられていた。そこで、その時節の旧3月、疫神を鎮めるための鎮花祭を行った。今では4月の第2日曜に行われる。この日、今宮神社の産土の町々からは「錬り衆」といわれる行例の一団が繰り出す。その先頭には大きな花傘が進むが、この傘の中に入ると病災をのがれるといわれ、人々は競って花傘の中に入る。賑やかに囃したてて疫神をこの傘に宿らせ、町の外に連れ去るという意味があった。
今宮神社に着くと、社殿の前で祈願のあと、囃子に合わせ、「やすらい花や」と唱えながら、緋の衣と黒い長髪をふり乱し勇壮に踊り回る。太古の息吹きを伝える異様な踊りである。踊りが終ると、花傘を先頭にふたたび行列を組み、自分の町へと戻って行く。「やすらい」には「やすらかに」とか「ゆっくり」という意味がある。病魔を花傘の中に抱え込み、歌舞音曲で浮かれさせ、おだやかに外に送り出していく、それがこの祭事であった。
また、東北の厳寒のさなか裸の男たちが勇壮な蘇民袋の争奪戦をくりひろげる祭りに、岩手県水沢市の黒石寺の蘇民祭がある。蘇民祭とは、疫病除けの蘇民将来に因む古い土俗的な祭りで、1200年の伝統を今に伝える。
黒石寺の蘇民祭は毎年旧正月7〜8日に行われる。祭りの準備から進行一切は、黒石寺の檀徒がとりしきる。祭りの日、日没とともに男たちの裸参りで始まり、時間ごとの定まった一連の清めの行事が夜を徹して続く。クライマックスは拝殿前に持ち込まれた蘇民の小間木の入った袋を、待ち構えていた裸の男たちが奪い合う場面である。小間木や袋の切れ端を持っていると災厄をまぬがれるといわれ、だれも必死になって奪い合う。無病息災を願うすざましいエネルギーの噴出、闇の中で再生を願う荒々しいパフォーマンスである。
なお疫病を村から送り出すために、身代わりの人形を藁などで作り、村境に立てる習わしがとくに東日本に広がっている。行事のたびに作られ、ときには水に流されたり火で焼かれたりする。その一つ茨城県石岡市のオオニンギョウは風雨にさらされ、村の辻に立っている。雛人形の原型である流し雛も、もともとは病災を流す意味であった。
*
病気癒しの神仏や霊場をめざす旅は今も昔も、保養と観光が結びついている。江戸の人たちと同じように、旅行ブームのこんにちの日本人の嗜好にもぴったりなのである。最近は願かけもバス会社が参拝ツアを仕立てて押しかけるようになったが、そのバスは帰りにはかならず温泉や名所をまわっていくという。あるいは、そういう観光保養地に近い神仏が繁昌しているともいえる。
ところで、現代日本人の二大不安といえば、ガン不安とボケ不安である。いま各地の寺社の一隅では、ガン封じ観音とボケ封じ観音が競って建てられている。また昔からあった瘡守稲荷や瘡神大明神は、もともと梅毒や腫物の神様であったが、最近はガン、そしてエイズの神様に変身しつつある。
こうした現象こそは、現代日本人の病いと不安をもっともよく写しだしており、またこうした日本人の集合的な心性と態度が、じつは日本の現代医療の繁栄を見えない所で支えているのである。
病にと医にまつわる神仏・霊場・祭り・行事の探訪は、学術的には医療人類学やあるいは宗教社会学のテーマであるが、それはまたつねに未知の土地を訪ね歩く祈りの旅であり、路地裏に癒し路をたどる一時でもある。
挨拶 大滝 紀雄一般講演(一題20分、質疑応答5分)
座長 衣笠 昭特別講演(16時〜16時40分)
1、訪問看護のルーツ 坂本 玄子
2、長崎国際墓地に眠る人々の死因 佐分利 保雄
3、横浜軍陣病院の研究 中西 淳朗
座長 大滝 紀雄懇親会 (17時)
腹帯の歴史 蔵方 広昌
司会 中西 淳朗
開会の辞 中西 淳朗
閉会の辞 家本 誠一
名誉会長 大滝 紀雄奮ってご参加下さいますようお願いいたします。
会長 杉田 暉道
実行委員会 委員長 深瀬 泰旦会長講演 仏教と医療とのかかわり ー古代インドから現代日本までの移り変わりー
特別講演 1、米医D・Bシモンズについて 荒井 保男
2、横浜軍陣病院の再検討 中西 淳朗