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日 本 医 史 学 会 神 奈 川 地 方 会 だ よ り

 
第 10 号
 
平成13年5月吉日発行
        

目 次(ページは原雑誌のまま)

平成12年度年次報告                                 1頁

平成12年度総会ならびに第16回学術大会                         3頁

横浜市立大学医学部病院における看護のあゆみ             吉川 幸子    3頁

19世紀イギリスの子どもの状況−ナイチンゲールの視点から     温 忍      4頁

医療ソーシャールワークのルーツを探る−浅賀ふさの生涯とその業績 三沢 光子     5頁

医の倫理の歴史と教育                       関根 透     6頁

日本医史学会9月例会・第17回学術大会  合同会                     9頁

古代アテネの人々の生活用水                   日野 英子    9頁

糖尿病の歴史                           大久保 慎一 10頁

根岸外国人墓地の墓碑銘                     佐分利 保雄 11頁

漢方の歴史                           小曽戸 洋   12頁


■平成12年度一般会計決算書                            16頁

■平成13年度一般会計予算                             17頁

参考事項(役員並びに会則)                            18頁

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平成12年度活動報告(平成12年1月1日〜12月31日)


●大会
1.平成12年度総会並びに第16回学術大会

(2月19日/於:横浜市健康福祉総合センター)
【一般演題】 座 長  滝上 正
 1)横浜市立大学医学部病院における看護のあゆみ            吉川 幸子
 2)19世紀のイギリスの子どもの状況−ナイチンゲールの視点から    温 忍
 3)医療ソシャールワークのルーツを探る−浅賀 ふさの生涯とその業績  三沢 光子
 
【特別講演】 座 長  杉田 暉道
 医の倫理の歴史と教育                         関根 透

2.日本医史学会9月例会・第17回学術大会合同会

(9月30日/於:横浜市健康福祉センター)
【一般演題】 座 長  深瀬 泰且
 1)古代アテネの人々の生活用水                    日野 英子
 2)糖尿病の歴史                           大久保 慎一
 3)根岸外国人墓地の墓碑銘                      佐分利 保雄

【特別演題】 座 長  杉田 暉道
 漢方の歴史                              小曽戸 洋

●幹事会
 5月18日、11月9日に開き学術大会等について協議した

●その他
1.日本医史学会理事会(於:京都)において、平成16年度日本医史学会総会の開催地を横浜とすることが決定された。これを受けて幹事会では会場等につき検討に入ることとした。

2.横浜市立新センター病院(浦舟町)内に「シモンズ博士記念碑」が建てられたので、横浜総合医学振興財団、市大医学部同窓会と共催で、横浜市中央図書館の協力をえて5月13日(土)に設立記念講演会が横浜市健康福祉センター講堂で開かれ満員の盛況であった。講演演題並びに講師は次の如し。

1)幕末から明治にかけての日本の医療について           酒井 シヅ
2)シモンズと横浜野毛山十全医院について             荒井 保男


3.「神奈川地方会だより」第9号7月に作製し会員に配布した。

4.平成12年9月30日現在の会員数 116名

5.平成12年度の神奈川県医師会学術功労者に会員の中西淳朗氏が選ばれて表彰された。

6.『神奈川県北西・湘南地方の医史跡めぐり』の小冊子を横浜総合医学振興財団と共同で編集した。

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平成12年度総会並びに第16回学術大会

《一般演題》

1.横浜市立大学医学部病院における看護のあゆみ

横浜市中央職業訓練校 吉川 幸子

 
 横浜市立大学医学部病院は明治5年『十全医院』が設立したことに始まる。

 看護婦養成所は明治31年に開校された。以後幾多の変遷を重ね発展し横浜における医療の中心として市民に貢献と信頼を得てきた中で看護が医療や社会にどのような役割を担ってきたかを知ることはこれからの看護を展開する上で意義があると考える。
 
<看護の変遷と看護教育>
 明治元年、横浜軍陣病院に初めて女性の看護人がおかれた。明治17年桜井女学校で日本初の看護教育が行われた。十全医院では明治31年5月12日看護婦養成所が開校、当時の看護教育は医師にゆだねられており看護業務は主に診療補助であった。関東大震災では被災者救護活動を始めとして市民の生命を守ってきた。第2次世界大戦後GHQの指導のもと昭和23年保健婦、助産婦、看護婦規則が制定された。昭和27年横浜市立高等看護学院開校定員15名であった。昭和31年厚生省指導のもと総婦長制が導入され看護業務の充実と看護教育の要である実習の受け入れ体制を整えた。

 昭和45年全国で初の専任臨床指導者9名を看護学院で確保注目をあびる。昭和46年横浜市立大学医学部付属高等看護学校と改称。平成7年横浜市立大学看護短期大学部開校し平成9年横浜市立大学医学部付属高等看護学校開校45年の使命を終える。卒業生総数3,000名におよび行政・教育・医療等の各分野で活躍しており看護界に貢献した功績は大きい。

 21世紀に向けて看護はますます医療の高度化、多様化まためまぐるしく変る社会構造の変化に対応出来る専門性が要求される。

 これらの現実をふまえたうえでの看護の展開、教育が市立大学医学部病院並びに看護短期大学部に課せられた役割であると考える。

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2.19世紀のイギリスの子どもの状況−ナイチンゲールの視点から

看護史研究会 温 忍

 看護の道を歩む者にとって近代看護を確立した、フローレンス・ナイチンゲール(1820年〜1910年)の看護をより深く理解し継承してゆくのに19世紀のイギリスの子どもの状況を「看護覚え書」に著している子どもについての事柄から考察する。

 ナイチンゲールは、新鮮な空気、陽光などの環境を整えることで死亡率を減少させると考えている。高死亡率の原因にはナイチンゲールのいう田舎と都会という新鮮な空気と陽光の地域差だけではなく、貧困という経済的要素のため、新鮮な空気と陽光を取り入れられる居住環境が下層階級には得られなかった。ナイチンゲールは病人の生活背景を知ることの重要性を述べているのに、労働者階級の子どもがおかれている具体例を「看護覚え書」に著わせなかった。これは社会情勢の実態調査というような事を彼女の立場ではおこなええなかったからであろうか。

 クリミア戦争後体調を崩したナイチンゲールは外に出ることがほとんどなかったといわれている。1854年までに体験したことを中心に思考の組み立てをしていたと考えられるため、具体例が労働者階級から遠ざかる傾向になったと言えるのではないか。19世紀のイギリスの子どもが、親や先生の健康に対する無知の中で育てられていた状況、またその背景にあるイギリスの労働者階級と上流階級の階級差社会を知ることが出来た。

 ナイチンゲールの看護を継承しようとする時、看護の基本的な考え方を明確に打ち出し、看護の基盤となる論理を整えたナイチンゲールの素晴らしい業績と共に社会の現状をより深く見て、どうしてこのような状況が生まれたのか、それを解決するにはどうすればよいか「社会と個の生活」の両面から考えられる看護を継承してゆくのが私達の課題である。

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3.医療ソーシャルワークのルーツを探る−浅賀ふさの生涯とその業績

看護史研究会 三澤 光子

〇はじめに
 現在の医療の現場では多くの専門職種が一人の患者を中心に関わりあっている。そこで、看護婦のきわめて近い職種である医療ソーシャルワーカーがいつからどのような経緯で日本に導入されたかを、浅賀ふさの個人史を通してそのルーツを探った。

○年譜からみた浅賀ふさ
 浅賀は1894年(明27)愛知県の半田町(現在の半田市)で生まれ、旧姓を小栗将江といい、生家は資産家であった。大学を卒業した彼女は、25歳の時に兄の渡米に同行した。渡米当初は社会事業と無関係な事を学んでいたが、滞在中に手術を受けたことや、身近に社会事業部門の研究生がいたことなどが社会事業を学ぶ動機となっている。そして、この間に、出会ったキャボット博士・キャノン女史が浅賀に影響を与えたようである。大学院を卒業した彼女は渡米していた当時の聖路加国際病院の院長に社会事業部設立を訴え、1929年(昭4)に帰国して、現在の聖路加国際病院に就職し、結核患者への援助等で活躍した。結婚と同時に退職し、終戦を迎えた。戦後すぐに厚生省児童局に就職し、その後は医療社会事業協会の会長等を歴任され、80歳で日本福祉大学を退職されるまで医療社会事業の普及に尽力され、1986年に92歳で永眠された。

○文献からみた浅賀ふさの医療ソーシャルワーク像
 浅賀の文献は1960年代に執筆したものが多い。医療ソーシャルワークの技術として、浅賀はケースワークを重視し、ワーカーの資質に厳しい条件を示し浅賀理論といわれるものを打ち出している。

○おわりに
 わが国の近代医療社会事業は1925年(大15)に済生会病院によって、ワーカー清水利子が事業としての活動を始めているが、最初に本格的な技術導入をしたのは、浅賀によると考えられる。医療が高度化・多様化している今日、患者の不安や要求に対応できる機能が重要視される必要があり、医療ソーシャルワーカーとケアマネジャーは目的と内容が異なるのではないかと考えている。

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《特別講演》

「医の倫理の歴史と教育」

鶴見大学歯学部 関根 透

 今世紀の日本は価値観が転換し、混沌とした激動の時代であった。今や「世紀末」と言われ仄暗い時代に私たちは生かされている。この現代に酷似した時代が「鎌倉時代」と思われる。鎌倉時代も「乱世」と呼ばれ、末法思想が現実の姿として現れた仄暗い時代であった。

 この鎌倉時代に真摯に生きた2人の先人の叡智に学ぶべく、2人の考え方を紹介したい。それは浄土宗の第三祖・記主禅師然阿良忠上人(1199〜1287)と真言律宗・西大寺派の僧医・梶原浄観房性全(1266〜1337)である。前者の然阿良忠上人は、現代のターミナル・ケアにおける叡智として「救い」の思想を検討し、後者の梶原性全は現代医療における医の倫理の叡智として「癒し」の思想について説明したい。

 まず、然阿良忠上人は、彼が撰述されたと伝えられる『看護用心鈔』をターミナル・ケアの研究資料とし、梶原性全は『頓医抄』50巻を医の倫理の研究資料とした。

 『看護用心鈔』は、現在3種の写本があるが、その3種とも、その撰者を明確に良忠上人であると記載してないのである。最も古い貞治2年(1363)に存覚上人によって書写された『看護用心鈔』は、現在、京都・常楽台の今小路覚真氏所蔵のもので、その「奥書き」には「大願円満 看護用心鈔 本云鎌倉上人御作 私云然阿弥陀仏良忠也」と記されている。つまり、書写した「私」は鎌倉上人を良忠上人であると示している。しかし、鎌倉上人が良忠上人であるとする証拠資料はない。玉山成元氏は『日本歴史』第139巻で、「当時、京都に於ける良忠は、悟真寺上人或は鎌倉上人といわれたであろうことは十分に想像し得るところである」と述べている。

 第2の『看護用心鈔』の写本は、滋賀県安土・浄厳院の勝山定信氏が所蔵の『看病用心抄』である。これは応永20年(1413)に隆堯上人によって書写されたもので、その「奥書き」には「此用心書案悟真寺上人作也云々……以上本蔵ノ分也」とあって、文保3年に阿忍が書写し、それを阿念、覚阿、樂阿と書き写し続けたものを隆堯上人が筆写したものである。つまり、この用心書は案ずるに悟真寺上人の作であると推測しているのである。1240年頃の作と言えば、悟真寺上人とは『光明寺文書』から良忠上人と言うことになる。

 第3の『看護用心鈔』は金沢文庫所蔵のもので、昭和2年(1927)に大崎桐ケ谷専修寺にあった『看護用心鈔』を石井教道氏が書写し、それを熊原政男氏が昭和28年(1953)に原稿用紙に筆写したものである。現在、専修寺の写本は今次大戦で焼失し、石井氏が書写した写本も戦後の混乱期に損失してしまっている。その「奥書き」には、石井氏と熊原氏の私記が示されているが、作者名も時代名も記されておらず、「爾来、茲ニ六年鎌倉上人ニ非ザルカト心ヅキ」と石井氏が記しているだけで、良忠上人作との文字は見えないのである。

 以上、現存する3種の『看護用心鈔』の写本から撰者名を然阿良忠上人であると確定する記述を見い出すことはできなかった。

 そこで、『看護用心鈔』の撰者を良忠上人であると断定した先人の研究業績を見てみよう。先述した玉山成元氏は良忠上人を京都では悟真寺上人、鎌倉上人と呼んでいたとの推測から説明している。鷲尾教導氏は『仏教史学』第3の8号で、『浄土大意』と『看護用心鈔』との言葉使いや内容の類似性などを比較して、両者は姉妹関係にある書物と指摘している。また、伊藤真徹氏は『日本浄土教文化史研究』の中で、良忠上人は『往生要集』研究の権威者で、臨終用意に関心をもたれた人物として知られており、『看護用心鈔』の撰者を良忠上人とするのが自然であろうと述べている。

 私も撰者の確定を試みたが、間接的な記事はあるものの、確かな証拠を見い出せなかったので、先人の研究業績を尊重し、然阿良忠上人撰述『看病用心鈔』として、その内容を検討してゆくことにした。

 『看護用心鈔』は、臨終に至る病人への献身的なターミナル・ケアを扱った倫理的な臨終行儀書である。そこには、「前向き」、「19ケ条の条文」、「後書き」の3部分で構成され、「救いの道」が具体的に示してあり、その内容は現代のホスピスの精神を彷彿させるものである。例えば、善知識である看病僧と病人との関係は仏と僧、親と子の関係の如く、親愛の情のような慈悲のある信頼関係でなければならないと前置きしている。医療の目的は延命ではなく、苦痛の緩和除去である。酒肉五辛を食べた人を近づけてはいけない。病床は清潔にし、静かで、看病僧は3人ぐらいがよい。看病僧は常に冷静で、念仏を勧め、病人の極楽往生を願うことが具体的に示されている。

 このように然阿良忠上人は『看病用心鈔』において、ターミナル・ケアの看取り心得として、浄土へ至る救いの道を具体的に示したのである。『看病用心鈔』以前の臨終の行儀書としては、源信の『往生要集』をはじめ善導の『臨終正念訣』や『観念法門』道宣の『四分律行事鈔』・『瞻病送終篇』、法然上人の『臨終行儀』、湛秀の『臨終行儀注記』などが知られていた。しかし、そのどれもが全体的抽象的な記述に終始し、その文面も短かく、人々の心を納得させるものではなかったのである。

 次に、旧仏教の真言律宗の僧医・梶原浄観房性全が著した『頓医抄』50巻から、現世における病人の救済を目的とした「癒しの倫理」を考えてみたいと思う。梶原性全は、彼のひとり息子への秘伝書・『万安方』62巻の若干の奥書きから、文永3年(1266)に誕生したことがわかる。死亡年は『群書類従』の「常楽記」から建武4年(1337)となる。彼は西大寺中興の祖といわれる思円房叡尊の弟子で、親朋には極楽寺の開山・良観房忍性がいる。叡尊も忍性も、文殊菩薩の熱心な信者で、慈善的救済事業には大変熱心であった。弱者に献身する2人に影響されて上梓したのが『頓医抄』であると思われる。それは『頓医抄』の中に「コレ偏ニ普ク人ヲ救ハント云志ヨリ発レリ」と述べている点からである。

 『頓医抄』第46巻では、医の倫理がまとめられて示されている。仁と慈しみの心を備えた「大慈惻隠之心」や病人を貴賤貧富男女愚智などによって差別しないこと、全ての病人を「至観ノ想ヒ」で診ること、財利を規らないこと、日頃の医学の研鑽が大切なことなどが語られている。「慈悲ノ心ヲ以テ行ハハ、縦ヒ其ノ薬拙トモ、皆効アルヘシ。欲心不仁ニシテ学ハセバ、千書万方ヲ明メ、無尽ノ妙薬ヲ施ストモ、其ノ効シアルヘカラス」と述べ、当時の俄か医者の医療態度を厳しく批判している。そして、「凡医者ハ造次(急の時)モ医ニヲイテシ、顛沛(つまずき転ぶ)ニモ医ニオイテセヨ」と述べて、この『頓医抄』は常に勉強できるように和文体にして示したのである。「此書和字ナレハ、ヨミヤスクサトリヤスシトテ、イタツラニウチカサネテ置クヘカラス」と述べて、医療の研鑽こそ「是性全之本意也」と第6巻で結んでいる。更に、第8巻では「此仮名カキノ趣キアマ子ク人ニシラセテ、天下ノ人ヲタスケンカタメ也」と語り、漢学の素養のない俄か医師にも解るように医学知識や医学技術を示したのだから、多くの苦悩する病人を慈しみをもって救ってほしいと願っている。

 梶原性全は『頓医抄』において、中国移入の最新の医学知識や技術、秘伝などをわかり易く説明するとともに、医師の職業使命観、医師のあるべき姿、病人を思う思いやりの心など「癒し」の倫理を随所に示したのである。この彼の医の倫理は、現在の複雑な日本の社会においても充分に通用するような叡智であると思われる。

 以上2人の人物の著作、『看病用心鈔』と『頓医抄』から鎌倉時代の医の倫理観を簡単に説明したが、実は大学における医の倫理の教育に大変有効に作用する資料だと、最近思うようになった。

 医の倫理の教育は、一般には医学知識や医学技術を豊かにする教育ではなく、医療の現場においての善悪を峻別する心を育むことであると思う。倫理学という科目の性格上、「人間の本質とは何か」、「医学とは?」という抽象的、本質的、道徳的な話題を扱うため、新々人類にとって興味のない科目になっている。また、医の倫理を聴いたからと言って、物事がよく解るようになったわけでもなく、知識が豊かになったわけでもない。倫理的な事の善悪は充分にわき前ている新々人類にとって、今や国試にも医の倫理が出題され、社会は倫理的な、他人の痛みのわかる医師を要求している。そんな社会的情況を考えると、医の倫理の教育は重要であると思う。

 そこで、私は医の倫理を教育する者として、いくつかの試行錯誤を重ねた結果、先人の叡智を説明する方法がよいと考えるようになった。それも同じ血統にいる日本人の叡智の方が、学生は納得してくれると思った。それは理屈を越えた共感や感動を覚えるからである。現代の混沌とした激動の社会の中で、学生自らがもがきながら活路を拓くよりも、先人の叡智を学ぶことによって、未来を拓く鍵が提供されるからである。先人の叡智との対話は、時代を超えて私たちに感動や勇気や知恵を与えてくれる。歴史に名を残した先人は数々の辛酸を嘗め優れた叡智をもって私たちに迫ってくる。その結果、以前よりも学生が医の倫理を興味深く聴くようになったと推測している。真に成果が先人の叡智を紹介することによって上ったとは思わないが、今回はこうした試みを発表することによって、先生方の忌憚のないご教示でも賜れば幸いと思っている。

 なお、5枚の資料を配布したが、これは拙著『日本の医の倫理』(学建書院)を基にして、鎌倉時代の2著作を取りあげた次第である。

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日本医史学会9月例会・第17回学術大会 合同会

《一般演題》

1.古代アテネ市民の生活用水

中区 日野 英子

 川らしい川が殆ど無いアワティカ地方の都市国家アテネでの、古代の人々が生活に使った水について、遺跡の出土品から考察した。

1.飲用水
 市民生活の中心であるアゴラではアクロポリスの麓からの湧き水、エンネアクロノスからの給水と400余の井戸に頼っていた。

2.下水処理
 大土木工事で巨大な排水溝を造築し、泉屋、浴場、トイレなどの汚水を都市の外に導き出し処理した。BC4世紀の構築。

3.水洗トイレと浴場
 公衆トイレがストアの近くに設けられ、各戸ではオマルを使用し、汚水は大排水溝に繋るパイプのマンホールで処理された。

4.水時計の利用
 議会や裁判のために時を計った水時計が市民裁判所遺構の前に残っている。日の出と日没の間を均等に目盛りに刻んで時を計ったので季節によりこれは調整された。

5.大排水溝の水の利用
 アゴラの各所で大排水溝の支線に開けられたマンホールで、牛や羊などの飲み水に利用したり、これからの撒水をアゴラの神殿の木々に利用して神域を保護した。

6.医聖ヒポクラテースの水に対する言葉
“我々は神々に詣るため聖域に入るが、この時、もしその人が純潔でなかったとしたら、自分を楔ぎせず境間に居ることはできない。”

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2.糖尿病の歴史

大久保医院 大久保 慎一

 糖尿病の歴史を、小児糖尿病(タイプ1型)を中心に報告した。

 糖尿病の記載は、紀元前1500年前のエジプトのパピロスの記載に溯る。タイプ1型糖尿病は、発症後数年で悲惨な死をむかえるので、インスリンの発見まで死に至る病いとして怖れられた。糖尿病(タイプ1型)は、1921年(大正10年)にバンテングとベストによるインスリンの発見により初めて治療可能な疾患となった。

 インスリンの発見後79年の間に科学の発達により、その治療成績は飛躍的に改善した。その治療成績の向上に寄与したものは、

@ インスリン製剤の純化とヒトインスリンの開発
A 自己血糖測定器の開発
B インスリン注射器の改良
C 血糖コントロール指標の開発
などである。

 日本における小児糖尿病の治療成績は、発生患者数が諸外国に比較し少なく、専門医も少なかったので、欧米諸国の治療成績より劣っていた。長い間、小児糖尿病の治療として成人の糖尿病に準じた厳格な食事療法がとられていた。

 大久保は、小児インスリン依存型糖尿病の治療方法として食事療法を緩め(Unmeasured diet)、インスリンの注射量を変動する治療方法を提案し、現在まで25年間にこの治療方法での治療を継続した。この治療方法を継続した当院で治療中の患者(25名)は、健康人と変わらない社会生活を送っており、合併症の発生頻度も少なく、その治療成績は、18年前の全国成績に比較して格段の進歩を認めた。

 大久保の提案する治療方法を追試する医療機関も増え、小児糖尿病の専門医も増加し、日本の小児糖尿病患者を取り巻く環境も欧米諸国のそれと遜色がなくなった。

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3.根岸外国人墓地の墓碑銘

磯子区 佐分利 保雄

 日本の墓石には、いきなり戒名が書かれており、序文はない。ところが、西洋の墓碑にはしばしば序文が刻まれている。

 英語では、IN LOVING MEMORY OF:親愛なる記念にという書き出しが一番多い。全部大文字で書かれており、OFは行を変えて中央に書かれている。LOVINGを略してIN MEMORY OF、TO THE MEMORY OF、TO THE SACRED MEMORY OF,IN AFFETIONATED MEMORY OF、あるいは IN REMEMBRANCE OFなど文面が多少変わったものもあるが、意味はほぼ同じである。

 フランス語ではEn douce memoir de:優しい思い出に、ポルトガル語ではEm saudosa memoria deと記され、英語の場合とほぼ同じ意味である。

 ところが、イタリア人の墓碑にはQuiriposa、フランス人ではIci repose、オランダ人ではHier rust、ドイツ人ではHier ruht:ここに眠る、ここに憩うと書かれており、英語のようにMEMORY記念にという語は見られない。

 ドイツ人では序文が長く、Hier ruht in Gott、神と共に休むとかHier ruht fern von der Heimat:故郷を遠く離れてここに休むとあり。また、Hier ruht unsere innigst beliebte Tochter und Schwester・・・我々の心から愛した娘であり、姉妹である・・・がここに休む。このように死者と生存者の属柄が丁寧に記されているのが見られる。

 なお墓碑の先頭あるいは末尾に、R. I. P.と刻まれているのは、Rest inpeace:安らかにお休み下さいと言う意味で、ラテン語のRequiescat in paceに由来している。したがって、英語以外の墓碑にもR. I. P.が刻まれている。

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《特別講演》

漢方の歴史

北里研究所東洋医学総合研究所 小曽戸 洋

 中国には約三千年、日本にはその半分の約千五百年にわたる伝統医学の歴史がある。本講演では日本における伝統医学−−漢方の歴史を、近年の新知見を盛り込みつつ、スライドを用いて、およそ一時間ばかりで鳥瞰してみることにしたい。
 

○奈良時代以前

 わが国における大陸医学文化の導入はむろん他の大陸文化と軌を一にし、六世紀頃までは主に朝鮮半島経由で行われていた。医薬書伝来の初出記録は、仏教伝来にわずかに遅れる五六二年、呉人智聡の半島経由による「薬書・明堂図」などの将来である。「明堂図」とは針灸のつぼを図解した人体経穴配置図であろう。

 七世紀以降、遣隋使・遣唐使による中国との正式交流開始にともない、医学文化が直接、大量に輸入されるようになった。恵日・福因らが大きな役割を担った。やがて律令制が導入され、七〇一年には大宝律令が施行。医制を定めた医疾令には医学の教科書に『脈経』『甲乙経』『本草経集注』『小品方』『集験方』『素問』『針経』といった漢〜六朝の中国医書が指定され、学習された。この規定はとりもなおさず、初唐の医制をほぼそのまま受容したもので、逆に当時の中国の方針を知ることができる。『針経』は『霊枢』の古称であり、『素問』と合わせて『黄帝内経』を成す。『甲乙経』(西晋)は『素問』『霊枢』に経穴解説書『明堂』を加えて再編集した針灸医学書。『脈経』(西晋)は『黄帝内経』『傷寒論』その他の古典から再編成した脈診学の典籍。『本草経集注』(五〇〇年頃)は『神農本草経』を補注した薬物学書。『小品方』(五世紀後半)および『集験方』(六世紀後半)は『傷寒論』系の処方医学を中心とした医書である。いずれも前述の三大古典の延長線上にあった。
 

○平安時代

 平安時代には自国の文化意識の高揚によって日本独自の医学書が編纂されるようになった。八〇八年には出雲広貞(いずものひろさだ)らが『大同類聚方』を、八七〇年以前にはその子菅原岑嗣らが『金蘭方』なる医書を勅を奉じて撰したというが伝わらない。現伝本はいずれも偽書である。

 遣唐使は八三八年を最後に廃止されたが、それまでには唐の主だった医書のほとんどは輸入されていた。『日本国見在書目録』(八九一〜八九七年頃)には一六六部、一三〇九巻もの漢籍医薬書の存在が記録されており、日本人の中国医学文化に対する摂取意欲の旺盛さがうかがえる。

 九八四年にはこれらの渡来医書を駆使して日本現存最古の医学全書『医心方』三十巻が編纂された。撰者は帰化中国人の八世の子孫、丹波康頼である。この書の記録のほぼすべては二百種近くの中国医書(一部に朝鮮医書)からの引用で成り立っており、その意味では本質的に中国医書であるが、資料の選択眼には日本の風土・嗜好の反映が認められる。本書は成立時に近い古写本が現伝しており、中国には宋の印刷本を介した古典しか伝存しないのに対し、六朝・隋唐医学書の原姿を研究する上で貴重な資料を提供している。
 

○鎌倉・南北朝時代

 鎌倉時代に入る頃となると、中国より宋の医学書が伝えられるようになり、その様相は一変した。北宋代には印刷技術が革新的な発達をとげ、従来写本として伝えられた医学古典の数々が校勘され、はじめて印刷本として世に流布するようになった。これは医学知識の普及という面において画期的なことであった。また『太平聖恵方』や『聖済総録』といった膨大な医学全書、あるいは『和剤局方』という宋の国定処方集が政府によって編纂・出版。南宋に入ってからも医書の刊行は相次ぎ、それら宋刊本が日宋貿易を背景に続々と舶載された。金沢文庫伝来の古版医書はその一端を示すものである。

 武士の時代にあって、医学の新しい担い手は従来の貴族社会の宮廷医から禅宗の僧医へと移行し、医療の対象は貴族中心から一般民衆へも向けられるようになった。僧医梶原性全の『頓医抄』(一三〇三年)や『万安方』(一三一五年)、そして有林の『福田方』(一三六三年頃)はこの時代の特徴をよく反映した医学全書といえる。従来の日本の医書は、中国医書から漢文のまま忠実に抜粋したものであったが、『頓医抄』や『福田方』は新渡来の多くの医書を駆使しつつも和文に直して咀嚼され、しかも著者独自の見解が随所に加えられている。
 

○室町時代〜江戸時代前期

 室町時代には明朝との勘合貿易が始まり、明に留学し帰朝した医師たちが医学界を先導するようになる。南北朝末の竹田昌慶を皮切りに、月湖・田代三喜・坂浄運・半井明親・吉田意安などがいた。

 当時導入された明初の最新医学は、金元時代に新たに勃興した革新的医学理論を背景にしたものであった。この金元医学は、たてまえは端的にいえば前述の漢の三大源流医学を理論統合しようとする試みであったが、結果は中国医学に新たな方向性を開くこととなった。その主導者として金元の四大家(劉完素・張子和・李東垣・朱丹渓)と称される人々がおり、治療方針の特徴からそれぞれに学派をなした。たとえば劉完素の創製した防風通聖散や李東垣の補中益気湯などは今日でも頻繁に使用される漢方処方であり、また補養を軸とする李東垣・朱丹渓の医学は日本でも李朱医学と称して大いに受けた。この金元医学理論の本質は陰陽五行説に依拠するもので、現代中国に引継がれて中医学理論の柱を構築している。

 室町時代の知識階級の医家達はこの新医学を盛んに摂取し、普及につとめた。その機運の高まりのなかで、一五二八年、日本で初めて医学書が印刷出版された。それは明の熊宗立が編纂した『医書大全』を堺の阿佐井野宗瑞が財を投じて覆刻したもので、医書の印刷出版は中国に遅れること五百年であった。さらに七〇年後には豊臣秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮から活字印刷の技術が伝えられ、これを用いて金元・明を中心とした多量の医薬書が印刷され広く普及するようになった。いわゆる古活字版である。日本の医書出版文化はここに始まる。

 室町末期から安土桃山時代に活躍した名医に曲直瀬道三がいる。道三は当時の中国医学を日本に根づかせた功労者として特筆すべき人物である。田代三喜に医を学び、京都に医学舎啓迪院を創建。あわせて宋・金元・明の医書を独自の創意工夫によって整理し、『啓迪集』をはじめとする幾多の医書を著述して、後進の啓蒙・育成に尽力した。道三の医学理論は明の医書を介するところの金元医学に依拠する。この陰陽五行説を背景とし、経験処方の駆使運用を手段とする曲直瀬流医学は、後継者の輩出によってさらに後の明代医書(たとえば『万病回春』など)を積極的に吸収し、江戸前期には最も隆盛をきわめ、中期から末期へと及んだ。この流派を、その後興った古方派に対して、後世方派と称している。
 

○江戸時代中〜後期

 一七世紀後半、日本の漢方界には新たな潮流が興った。古方派の出現である。古方派とは『傷寒論』を最大評価し、そこに医学の理想を求めようとする流派である。江戸中期以降の漢方界は、漢の時代に作られた『傷寒論』の精神に帰れと説くこの古方派によって大勢が占められるようになった。

 中国では宋代に『傷寒論』が印刷出版されて再評価され、さらに明から清にかけて復古と称し『傷寒論』に理想を求める一学風が生じた。『傷寒論』を自己流に解析し、『傷寒論』中の自説に合う部分を張仲景の正文とし、自説に合わない部分を王叔和や後人の竄入として切り捨てる過激ともいえる学派(方有執・揄嘉言・程応旄ら)である。日本の古方派はこれに触発されたのである。この古方派に属する医家として、名古屋玄医・後藤艮山・香川修庵・内藤希哲・山脇東洋・吉益東洞などが挙げられるが、それぞれ違った観点に立っていた。なかでも吉益東洞は最もきわだった考えを持ったアジテーターともいうべき医家で、現代の日本漢方に絶大な影をおとした。

 中国人は論理性、いわば抽象的理屈を好み、これに対し日本人は実用性・具体性を優先する傾向にあるといわれる。これは医学でも同じである。古方派が極端な主義に陥った反省もあって、処方の有用性を第一義とし、臨床に役立つものなら学派を問わず良所を享受するという柔軟な姿勢をとる流派も現れた。こういった立場の人々を折衷派と呼んでいる。代表的人物の一人に和田東郭がおり、その臨床手腕の評価はすこぶる高い。蘭学との折衷をはかった漢蘭折衷という派もある。筆頭に有名な華岡青洲がいる。青洲は生薬による麻酔剤を開発し、世界初の乳癌摘出手術に成功を収めた。幕末から明治前期にかけて活躍した浅田宗伯もその学術においては折衷派に属する。宗伯は幕末明治の漢方界の巨頭として最後の舞台の主役をつとめた。臨床家としての業績は今日の漢方界でも最大級の評価を受けている。

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参考事項(役員並びに会則)

日本医史学会神奈川地方会役員

名誉会長 大滝 紀雄
会長   杉田 暉道
幹事長
幹事   荒井 保男  大村 敏郎  金澤 司  衣笠 昭(会計)  河野 清  関根 透       坂本 玄子  佐分利保雄  滝上 正  中西 淳朗  深瀬 泰且  真柳 誠
     山本 徳子  吉川 幸子
監事   家本 誠一  大島 智夫 

〔50音順〕
〔第5期:平成12年2月〜平成14年1月〕

日本医史学会神奈川地方会会則

第1条(名称) 本会は日本医史学会神奈川地方会という。

第2条(目的) 本会は医学の歴史を研究してその普及をはかるを目的とする。

第3条(事業) 本会は第2条の目的を達成するために次の事業を行う。
 1)総会
 2)学術集会
 3)その他前条の目的を達成するために必要な事業

第4条(入会) 本会の趣旨に賛同し、その目的達成に協力しようとする人は、会員の紹介を得て会員となることができる。

第5条(会費) 正会員は年会費3000円を前納する。

第6条(役員) 本会は運営のためつぎの役員をおく。
 会長1名、幹事長1名、幹事若干名(うち会計1名)、
 監事2名。任期は2年とし、重任は妨げない。

第7条(名誉会長、顧問)本会は名誉会長、顧問をおくことができる。
 任期は会長の任期に準ずる。

第8条(会計年度) 1月1日より12月31日をもって会計年度とする。なお本会の事務所は横浜市におく。

付則   この会則は平成13年1月1日より発効する。

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