3、感 想 2頁
1993年新年大会
1、プログラム 3頁
2、一般口演の要約 3頁
3、特別講演 6頁
4、感 想 9頁
第95回日本医史学会 10頁
昨年(平成4年)秋、大滝、荒井、杉田の三会員表彰さる 11頁
A 発会総会
司会 中西 淳朗
開会の辞 衣笠 昭
議事
座 長 大滝 紀雄
経過報告 大滝 紀雄
祝辞
神奈川県医師会長 川口 良平
議案 1)会則の件 杉田 暉道
2)役員選出と役務分担の件 杉田 暉道
祝辞 日本医史学会理事長
蒲原 宏
閉会の辞
深瀬 泰旦
B 特別講演
「和英語林集成」より見たヘボンの医療
大島 智夫
座長 杉田 暉道
C 祝賀懇親会(10階オアシス)
司会
河野 清
開会の辞
大村 敏郎
乾杯
家本 誠一
閉会の辞
山本 徳子
「和英語林集成」にかんしては国語学上幕末および明治初年の一般社会の中で、話され、書かれていた日本語の貴重な資料として扱われ、また研究されてきたが、ヘボンの日本語語彙の多くは日常の診療行為を通じ日本人受診者との会話を通して採集され、一般庶民の疾患に対する知識と理解を反映しているので逆に本辞書を通し、ヘボンの医療の一端を垣間みることができる。
特に貴重なのは慶應三年に上海で印刷された初版で、語数約二万であるが文久元年宗興寺に施療所を開設以来、足掛八年間の幕末の外来診療の経験が滲み出ている。明治五年の二版、明治十九年の三版は語数が初版に比し、それぞれ約二千、一万五千が追加されているが、その内容は文明開化による外来文化の翻訳語、明治となり制定された学術用語が大部分で、ヘボンの診療行為の変化を伺わせるものではない。
見出し語の用例としてあげられる例文は改版後もほとんど初版のままであり、対話を思はせるものが少ない。それらの中に伝統的漢法医療に見放なされ、貧しさの故に医療を受けられぬ庶民のヘボンに救いを求める訴えと、その訴えに耳を傾けるヘボンが過大な期待を戒しめながら合理的な治療、治病生活の奨めを行っていたやりとりが数多く見られる。
医療関係の見出し語中に梅毒、淋疾、ハンセン氏病、コレラ、天然痘、結核に相当するものが極めて多く、これらが幕末に広く流行していたことがわかる。皮膚疾患、眼疾患に関するものが多いのは前者は外見から様々な皮膚疾患表現が一般化いていたのと、眼科医としてのヘボンの評判に多数の眼疾患患者がきたことを示している。精神疾患は「狐つき」として一括されていた。またヘボンの和漢薬、漢法医学理論の造詣の深さはそれらの見出し語の広範に渡る点からも驚くべきものがあった。←1・2号目次に戻る
大島智夫会員の特別講演は先に記したように、先生でなくてはできない根気で「和英語林集成」の中にみられる医学関係の用語を選び出され、これを用いて当時の日本人のり患状況を、さらにヘボンの和漢薬、漢法医学倫理の造詣の深いことを觧説された。辞書の利用方法について大いに教えられた講演であった。←1・2号目次に戻る
A、講演会
司会
杉田 暉道
1、開会の辞
杉田 暉道
2、挨 拶
大滝 紀雄
3、一般口演(一題につき口演15分、質疑応答5分)
1)初めてオーレオマイシンがもちいられた発疹チフスの流行 佐分利 保雄・星野 重二
2)アスクレピオス
日野 英子
3)ペス残影(その1ウイーンの巻)
滝上 正
座長
深瀬 泰旦
4、特別講演
映像と医学史をめぐって
大村 敏郎
座長
荒井 保男
5、閉会の辞
三輪 末男
B、懇親会 (ブリーズベイホテル)
司会
中西 淳朗
開会の辞
中西 淳朗
閉会の辞
立川 昭二
昭和25年(1950)東京、横浜で発疹チフスが流行し、ついで翌年北朝鮮と中共軍兵士のあいだで流行した。これが今世紀最後の流行とみなされている。一方オーレオマイシンは1948年に発見されたが、発疹チフスの流行に使用する機会は少なく、横浜の流行に試用されたのが最初で、しかも最後の治療実験となった。
当時オーレオマイシンは日本に輸入されていなかったが、米軍より予研(北岡部長)を通じで提供された。そのかわり、カルテの記載は細かく指示され、治療結果の発表は制限された。そのため、治療成績の詳細については公表されないまま40余年が過ぎた。ここに当時のカルテに基ずいて、その治療効果を調べた。患者は1月26日より4月19日の間に発病した。第2週にピークがあり、第5週までに大部分の患者が発病した。年齢は20代がもっとも多く、30代、40代と続き、多くは青壮年の男子であった。これは港湾労働者の宿舎で流行したためである。105人にオーレオマイシンが平均・5、4g13人にクロロマイセチンが7、5g経口的に与えられた。治療は3ー10病日に開始された。227人は対症療法のみであった。オーレオマイシン内服者は21ー149h,平均53、5h,で、クロロマイセチンは38ー128h,平均67、2hで下熱した。対症療法のみの人は12病日まで38℃を超えていた。抗生物質内服者からは死亡者がなかったが、対症療法だけの人では15人(6、6%)が死亡した。
以上の結果から、オーレオマイシンとクロロマイセチンは流行性発疹チフスを3日で解熱させ、致死率を0に下げることが期待できる。←1・2号目次に戻る
科学の進んだ現代社会でも命を脅かす病への恐れは大きい。古い時代の人々にとっては人力のおよぶ所は、はるかに小さかったから、人の命を守ってほしいという医神への祈りは各地に壮大な神殿の建立を促した。古典古代から、ヘレニズムの世界ではアスクレピオス信仰が広く流行し、地中海を囲む多くの古代都市には競ってアスクレーピオンが営まれ、多くの信者を集めた。
アスクレピオスは古代ギリシア世界で最も尊崇された医神であり、神話の語るところによれば太陽神アポロンと北ギリシアの王の娘との間の子だが、その出生前に母がアポロンの怒りに触れて殺され、帝王切開により生を得たことになっていて、このあたりから既に医学との関りが窺われるのも面白い。母の無いアスレピオスは賢者の半身半馬、ケイロンに育てられ医術をも教えられて名医となったが、その業が優れたあまり遂に死者をも蘇えらす程となってしまった。人は死すべきものという掟をさえ昌すこととなったアスクレピオスはオリンポスの神々を愁えさせ、ゼウスの雷霆に打たれて殺されたのだが、その死を哀れみ空へ投げられて、夏、南の夜空に輝く蛇使い座となった、とされている。
アスクレペイオンでは主神の神殿の他、劇場や運動施設、病棟として使われたお籠り部屋、滞在許可を得るまでの待合部屋、水治療法の浴室などをも持ってお り古代の綜合医療センターとして人々に頼られていた。
各地のアスクレペイオン遺跡はどこも街の中心から離れた水利の便を持っ郊外の地に建てられており、療養の環境としてよい立地条件が見てとれる。
また当時の医療が神官の祈祷などの外、出土した医療器具などを見ても、専門職の医師アスクレピアダイの治療も同時に行われたことが窺われる。
第2次ペスト大流行に当たり、ヨーロッパ各地にはペスト記念物がいろいろ残された。その種類は大は教会から小はコインに至るまで、更には芸術、文芸作品と多岐にわたる。オーストリア各地にみられる約200弱のペスト柱の中ここではウイーン市内にのこされた各種のペスト柱について、糸統的に解説を行った。その中でとりあげたペスト柱の中三位一体柱としてはグラーベン通り、ウルリツヒ広場、ラデツキー通りにあるものであり、又、マリア柱としてはマリア・トロイ広場、アムホーフ広場にあるものである。
更には第2次ペスト大流行についてウイーンの惨状を記録に残した宮廷付説教師、Abraham
a Sancta Claraの碑、第2次大流行に当たりよっぱらって道にねていたため、ペスト死者とまちがえられて葬られるところを、危く逃れてきた愛すべき町の楽士オーガスチンを記念するための噴水、第3次ペスト大流行の研究に当り、ペストの犠牲にたおれたDr.Hermannfranaz
Miillea(1866〜1898)の碑についても、紹介を行った。 ←1・2号目次に戻る
はじめに
医学の歴史を科学的に研究することが医史学である。しかし、この言葉ではなじみが薄いので医学史の方を使ったと、名著『日本医学史』を書いた富士川游は序文の中で述べている。現在では学会の名も研究の名も、また大学の講義の名も「医史学」となっているが、まだ広く多くの先生に関心を持って参加していただくには「医学史」の方が魅力があろう。字の順がいれかわるだけで少し雰囲気がちがってくるからである。
タイトルのもう一つの要素である映像について一言触れるならば、私の医史学は旅行と画像研究から始まった。旅先で出会った記念碑や銅像、そして文字では表現できない文献の中の画像などを蒐集し、記録し、伝達する手段としてスライドを使用している。これを学会発表や大学の講義に用いているので、映像は研究と教育の両面で大変有効に働らいていることになる。
1990年、近代外科の父アンブロアズ・パレ(Ambroise Pare,1510?〜1590)の没後400年祭の時にはフランスへ取材に出向き、そのビデオを背景にNHKテレビに出演した。また昨年は泉鏡花が約100年前に書いた短編小説『外科室』の映画制作に協力するなど、私の活動が少し映像の世界に近づいていることから、私の医史学という意味で、「映像と医学史」というタイトルにした。
日本に西洋医学を定着させた画像
日本の西洋医学が定着し大きな力を発揮したのにはいくつもの要素がある。明治時代のはじめにドイツ医学が導入される以前にさかのぼると1849年にジェンナーの種痘法が伝わり天然痘の予防と西洋医学の威力をみせたことがあげられる。1774年に出版された『解体新書』は有名であるが杉田玄白たちたちが解剖の見学をする時に持参したいわゆる『ターヘル・アナトミア』の解剖図が実態にそっくりであったことから、オランダ語という言葉の壁をのりこえて翻訳する事業を生みだしたのであった。玄白にとってはまさに蘭学事始であったが、わが国全体からみると、もっと古くオランダ語の医学書の翻訳は行われていた。1706年の楢林鎮山による『紅夷外科宗伝』がそれである。これは全訳ではなく抄訳であり、他の要素も加わっているが、1649年のオランダ語の『パレ全集』を参考にしたことは確かである。
この時も書物の中の数多くの外科絵図が興味をかきたて飜訳する意欲をわきたたせたのであった。画像が文化圏をこえて伝わる大切な役割を果たしたのである。そして日本に到来した最初の『パレ全集』が1649年のスキツペル版であった ことを私が同定できたのも、画像の中の特徴ある変化をみつけたことからであった。これも画像の持つ大きな役割である。
ルネサンス期の画像
日本の外科の源流そして系統だった西洋医学の源流であるアンブロアズ・パレは外科医としての技もすぐれ、医学に対する姿勢も心意気も並はずれた偉人であった。「私が処置をし、神がんこれを癒し給うた。(Je
le pen say et D-ieu leguarit,)という名言を残し、謙虚な外科医として高く評価されている。血管の結紮による止血法を広めたことは、近代外科の父と呼ばれるのに応わしい。
下層階級の出身で、当時の学術用語であったラテン語を学ぶことなく成長したために、パレの学んだ医学はアカデミックなものではなく、簡単に飜訳されたフランス語本と、ラテン語本の画像の多い部分でしかなかった。あとは自らの眼と手で築きあげたものである。そこにはラテン語という言葉の壁を前にして苦悩するパレが見えてくる。それがパレにフランス語で医学書を書かせることになり、処女出版から画像を挿入することになる。人体の構造や手術の技、使用する器械などは画像で表現する方がずっと便利である。
15世紀中頃からグーテンベルクの活字印刷によって出版活動が盛んになった。印刷革命から100年と立たない1545年がパレの『鉄砲傷その他の創傷の治療法』の初版が出た年である。1559年フランス国王アンリ2世の槍試合の事故死がきっかけで、近代解剖学の父ヴェサリウスと接点を持ったパレは2年後『人間の頭部外傷と骨折の治療法』を出版しその中にヴェサリウスの『ファブリカ』の解剖図を多数とりこんでいる。
画像は言葉の壁をのりこえるだけでなく、アカデミズムの世界から実践の世界への掛け橋にもなったのである。
アンブロアズ・パレ没後400年祭
私は外科医として1971〜2年のフランス留学の終りに、パレの生地を訪ねる旅をした。それが私にとって医史学の世界への入口になろうとは思いもしなかった。パリから300キロの所にあるラヴァル市の市役所前に建つパレ像を見て、それが没後250年の時に建ったことを知り、あと18年たったら没後400年になる、その時にはパレの影響をうけ恩恵をうけたわが国でも記念行事を行いたいものだと考えたのであった。
『パレ全集』のうち骨折と脱臼の部分をフランス語から直接飜訳し、没後400年にそなえていた。1984年その出版に察してはパレの原因と1840年のマルゲーニュの再編集復刻版の図と日本で受けとめた図の3つをならべて、画像の流れを比較できるようにした。
外科学会、医史学会、日仏医学会の有志でパレ没後400年祭実行委員会を作っている所へ、パレの生地ラヴァルから同じく400年祭の企画があり、国際歴史コロキアム「パレとその時代」に参加するように私は招かれた。後でわかったことだがパレの400年祭を行ったのは日仏2ケ国だけで、私はその両方の式典に出席し、両方で発表する機会を得たのだった。
ラヴァルの行事にには講演会、展覧会、音楽会、演劇など町をあげてのお祭であった。ラヴァル城を使った展覧会は3ケ月に及ぶ長いものであった。この城で1972年の旅行の時にパレの考案し使用した穿頭器トレパンのセットに巡りあった。18年を経て再びこの器械を前にした時、歴史と現代の外科を結びつけ、日仏両国の交流を深めている喜びをヒシヒシと感じたものであった。
コルキアムの演者はフランス人の他イギリス、イタリーが各1人と私で合計13人1日半かけて300人の聴衆の前で行われた。いずれもフランス語であった。私は持ち時間20分に50枚のスライドを使用して、パレ外科の日本への波及を 論じた。色彩のついた日本画化した外科絵図をパレの生地に里帰りさせることになったのである。10回のどよめきと10回の拍手に講演を中断されるほど大好評を得た。ここでまた映像の持つ説得力のすばらしさを味わうことが出来たのである。
日本の式典は丁度400年月の命日の晩12月20日に日仏会館で開催された。これにはNHKの協力によってフランスで取材したビデオも上映され、この行事の会長森岡泰彦教授(現在関東労災病院長)、日本医師会長、フランス大使館の代表の挨拶があり、私を含めて3人の講演でパレの生涯と業績をたたえたのであった。
おわりに
このようにアンブロアズ・パレの研究は旅と映像に支えられながら続けることが出来た。具体的に画像であらわさせる外科という領域であった事も幸いしている。また400年目という節目の年に当たった幸運にも恵まれて外科系のいくつかの学会で特別講演をさせていただいた。1991年の日本医学会総会での展示も行った。思想の流れ、技術のつながり、人の生き方など医学をダイナミックに展開できる医史学の領域を、映像で伝えることによって解りやすく、親しみやすくできること。そして国際的に通用し、時代を越えることも出来ると感じるようになった。今、大学での初期医学教育にも、医師の生涯教育にも、また一般の啓蒙教育にも映像を使った医史学をもっと活かしていきたいと考えている。←1・2号目次に戻る
と き 1993年9月11日(土) 15時
ところ 横浜市健康福祉総合センター 6階会議室
A 総 会
B 秋季大会
1、一般口演
1)ケガレと臓器移植
杉田 暉道
2)「まんが中国医学の歴史」について
山本 徳子
2、特別講演 民間医療信仰の小さな旅
立川 昭 二
C 懇親会 (10階オアシス) ←1・2号目次に戻る
と き 1994年5月14日(土)、15日(日)
ところ 神奈川県民ホール 6階大会議室
名誉会長 大滝 紀雄
会長 杉田 暉道
会長講演 仏教と医療とのかかわり
ー古代インドから現代日本までの移り変わりー
特別講演
1、米医D・Bシモンズについて 荒井 保男
2、横浜軍陣病院史の再検討
中西 淳朗
準備委員長 深瀬 泰旦
副準備委員長 小城原 新
来年行ないます第95回日本医史学会につきましては現在のところ上記のように進行しております。これについてご意見がございましたらご遠慮なく事務局までお申しいでください。←1・2号目次に戻る
1、大滝 紀雄 横浜文化賞
医史学分野における貢献
2、荒井 保男 日本医師会最高優功賞
内科および医史学分野における貢献
3、杉田 暉道 学術功労者(神奈川県医師会)
医史学および衛生分野における貢献