[創立7周年記念行事] 公開講座(参加費 無料) 日時:平成11(1999)年2月20日(土) 14:00-15:00
会場:神奈川県保険医協会
6F会議室 Tel 045-453-2411
横浜市神奈川区金港町5-36 東興ビル(JR横浜駅東口より2分)
演題:神奈川地方会名誉会長 大滝紀雄「神奈川県の医史跡(横浜を除く)」
神奈川の医史跡(横浜を除く)
大滝紀雄
1 葉山海岸のべルツ碑
葉山森戸海岸を訪ね、森戸神社に入ると海を背にしたところにべルツの碑が建っている。べルツは明治9年来日、26年間、東京大学医学部内科教師として勤めた医学会の恩人である。内科学一般のほか、衛生学、栄養学、人類学など極めて幅広い研究をした。また温泉医学には特に関心が深く、伊香保、草津、熱海、箱根などを訪ね調査研究をした。 葉山のべルツ碑は、葉山が避暑にも避寒にも好適な健康地であることを提唱したものである。明浩20年イタリー・マルティーノ公使が葉山に別荘を建てた。べルツ先生もこの土地を推奨した。明治22年鉄道が敷設されて便利になり、多数の著名人が訪れるようになった。二人の外人の着眼点に敬服するのは東大名誉教授入沢達吉の撰文である。
2 稲村ヶ崎公園、コッホ記念碑
結核菌とコレラ菌の発見者ロベルトコッホは、北里柴三郎の招待によって明治41年夏、2か月あまり日本に滞在した。彼はその間しばしば霊仙山に上りそこから見る富士の姿を楽しんだ。コッホは帰国2年後バーデンバーデンで死去した。更にその2年後の大正元年、霊仙山山上にコッホをしのぶ記念碑が建てられれた。しかしこの山へは登山が困難なため、結核菌発見100年を記念して昭和58年、現在地稲村ケ崎公園に碑は移動され、誰でも簡単に記念碑を見ることができ、天気の良い日には富士を望むことができる。
3 極楽寺
江の電極楽寺駅を下りるとすぐそばに極楽寺がある。極楽寺の裏手が稲村ヶ崎小学校に続き、校庭の裏山には高さ3.5メートルにも及ぶ二基の重文五輪塔が建っている。いまでこそ小さな極楽寺だが最盛期には七堂伽藍と四十九の塔頭が存在した大寺院というよりも大規模な医療センターであった。孤児院、養老院、無料診療所、癩病院のほか、馬病舎までが付属していた。開設者は良観房忍性であった。現在では昔を偲ぶものは殆ど残っていないが本堂前に、大きな「千服茶臼」と「製薬鉢」が、無言で存在を誇っている。
4 桑ケ谷療養所跡
江の電長谷駅下車、大仏へ向かって進み、光則寺入り口を過ぎ、能楽堂入り口を左折したすぐ左手に「桑ケ谷療養所跡」の碑がある。忍性が飢餓に際して難民に粥の炊き出しを行った。また、この桑ケ谷に大病院を建て地域医療活動を実施したことがこの碑文に書かれている。
5 長与専斎と鎌倉
長谷大仏の境内へ入ってしばらく進むと、大仏の手前左側に、高さ4メートルもあろうかと思われる「松香長与先生紀功之碑」が建っている。篆書の読みにくい字で書いてあるが、初代衛生局長・長与の業績が理解される。彼は由比ケ浜に我が国最初の結療養所を創設、またこの地を海水浴の最適地と格づけた。
6 松本順と大磯
松本順は順天堂の祖、佐藤泰然の次男として生まれたが、松本良甫の養子となった。彼は長崎でポンペに西洋医学を学んだのち、初代陸軍軍医総監に任命された。男爵となり大磯を海水浴の適地として選び、彼自ら晩年の15年を大磯に住んだ。 こうした関係で、妙大寺、鳴立庵および照ケ崎海岸の三か所に順の墓石と碑がある。
7 伊勢原市の桂川墓地
伊勢原市上粕谷、太田道潅の墓のそばに上行寺がある。この寺には江戸時代後期、初代から七代まて150年間代々将軍の侍医であった桂川一家の墓がある。桂川―家は蘭学界の名門中の名門であり、代々外科医として最高の法眼の地位にあり、蘭学圧迫時代にも例外として蘭書を読むことが許可されていた。七代の中でも、四代桂川甫周、六代桂川保賢および七代桂川甫周は群を抜いて輝いている。 上行寺の入り口には「東京都指定 史跡 桂川甫周の墓」の石柱が建っている。この寺は昭和37年まで東京三田の二本榎にあったが、都会の喧騒を避けて当地に移転した。