触法精神障害者の問題

触法精神障害者の事件が起こるたびに,懲罰派と人権派の間で感情的な議論が闘わされるだけ,精神科医は両サイドからサンドバッグ同然に叩かれるだけ,そして決して法制度の改善に繋がらない悲劇が繰り返されている.

そんな時に,医師兼弁護士である東海大学の児玉先生から,あるメーリングリストで,触法精神障害者に関する問題点をわかりやすく説明していただいた.ご本人の許可をいただいたので,下記に転載させていただいた.ただし,概説であること,typeA typeBといういい方は,一般的な表現ではなく,この説明に限るものであることをお断りしておく.

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留学中に精神障害者の犯罪についての法制度を勉強する機会がありました。

日米比較のタームペーパーを書いたら,日本の法制度がそんなひどいわけがないじゃないか,日本にはdue process of lawの観念がないのか,とさんざんに教授におこられてしまいました。日本の法制度が「そんなにひどい」ということを理解していただくのに,ずいぶん苦労しました(苦笑)。以下に,制度の概観についての私見を述べさせていただきたいとおもいます。

1)犯罪を犯すヒトをどこかに閉じ込めておく目的
社会がヒトをどこかに閉じ込めておく目的は,大きく分けてふたつあります。

(A)非難

ひとつは,やった「コトに対する非難」です。判断能力があるのに放火殺人などを犯したとすれば,社会から「非難」を受けて当然です。また,判断能力のあるヒトならば,社会からの「非難」をうけて,ああ,自分は罪深いことをしてしまった,と反省することができるはずです。非難は,魂に向けられています。判断能力があるのに悪事を犯すことが非難に値します。

ここでは「typeA」と仮に名づけます。過去に犯した犯罪に対する非難のための拘束です。

(B)社会防衛

もうひとつは,やった「ヒトの危険性」です。判断能力がなくて,放火,殺人(幼女の強制わいせつ事例など,繰り返しが目立つ事例もありますね),を今後も繰り返す可能性があれば,社会は社会を防衛するために,ひとりひとりの個人の生命・身体・財産を守るために,そういう危険のあるヒトを拘束する必要があります。

ここでは,「typeB」と仮に名づけます。未来に犯すかもしれない犯罪の可能性に対する社会防衛のための拘束です。

2)現状の法制度

刑法(刑事法)による処罰は,原則がtypeAです。判断能力のないヒトには非難ができない,だから責任能力なしのときは,刑事処罰はできません。できません,というところで話が終りになります。将来の危険性ではヒトを拘束できません。もちろん,「犯人の性格」というような「情状」で多少の考慮はされますが,危ないから終生拘束するという話にはなりません。

一方,強制的に入院させる制度はあるのですが,この制度に裁判所の関与が非常に弱いところが日本の特徴です。typeBは,治療のための制度ではありません。社会防衛のための制度です。この制度が日本にはありません。

措置入院制度は,正面きって裁判所が本人の危険性を認定して拘束する制度ではありません。

精神科医は
(A)早く退院させて再び犯罪をおかされれば,精神科医の個人責任(主として民事責任)になる
(B)拘禁が長期間になって,「危険性なんかないじゃないか」という批判を浴びれば,これまた人権侵害として精神科医の個人責任(主として民事責任)になるというわけで,(A)にいっても(B)にいっても責任を問われる可能性があります。まさに進退両難です。

ところで,精神科医が確実にそのヒトの危険性を評価する「科学」をわれわれは手にしているのでしょうか。いろいろとご意見はあると思いますが,私はそのような「科学」が現状では存在しないと思います。

精神科医は十分な科学的方法も持たず,進退両難に置かれています。法制度が破綻しているときに,往々にしてこういうことがおこります。

例えば,刑務所から釈放されたヒトが凶悪犯罪を起こすことがしばしばあります。そんな短い刑期を定めた裁判官釈放してしまった刑務所のいずれも,全く責任が問われません。なぜでしょうか。なぜそれでいいのでしょうか。確実に予測する手段がないことは同じなのに,なぜ精神科医だけが責任を問われなければならないのでしょうか。

3)typeBの法制度

typeBの法制度にはふたつあります。

typeB-1  特に犯罪を犯したというきっかけがなくても,社会に対する危険性を裁判官が判断し,治療処分などの処分を下す(拘束するのも釈放するのも裁判官の判断です)。ドイツ型の制度。

typeB‐2 犯罪を犯して,責任能力なしと判断されたら,typeAの処罰をするかわりに,裁判所がtypeBの判断を下す(これも拘束するのも釈放するのも裁判官の判断です)。アメリカ型の制度。

日本には,typeBの制度が両方ともありません。もともとは,革命をめざすヒトビトは正義であるにも関わらず,現行法上は犯罪を犯す可能性のあるヒトなわけで,そういうリッパなヒトビトを拘束するのは,思想弾圧だ,人権侵害だ,という議論がありました。いまでもあるのかもしれません。私は個人的にはこういう議論に何らのシンパシーもありませんが。およそtypeBが人権侵害であるかのような議論が日本では力を持っていて,typeBの制度導入の議論はタブーに近いものがあります。

しかし,アメリカ人の感覚でいえば(つまり,私の指導をしてくれたアメリカ人のロースクールの教授の感覚で言えば),次のようなことが言えます。

イ)人権保障は,社会に対する重大な危険を放置することを意味しない

ロ)社会防衛のための危険性を確実に予測する科学をわれわれが手にしていない以上,精神科医や「専門家」が拘束するか否かを判断することができないことは明らかである。

ハ)およそヒトを拘束するためには,公開の法廷で,双方の言い分を十分に主張立証する機会が与えられた上で,裁判官が判断する,というコトが必要である。

これは法の適正手続due process of lawといって,人権保障の根幹である。たとえ社会に対する危険が認められるヒトであっても,この意味での人権は保障されるべきである。

こういう観点からすれば,日本の制度は

イ)しばしば社会に対する重大な危険を放置する

ロ)確実な根拠なく,ヒトの拘禁を「専門家」の手に委ねている

ハ)拘束されるヒトについて,人権保障がない

という点で,欠陥だらけの制度だと思います。

4)個人的なつぶやき

typeBの法制度をきちんと検討しない限り,拘束しすぎたり,拘束してないことが問題になったり,精神科医はいつも極めて不安定な立場に置かれ,社会に対するリスクは減りません。typeBの法制度の検討が必要です。ただ,typeBの法制度によっても,今回のような事件を100%防止することには困難があります。犯罪ゼロの社会をめざすべきかどうか,は価値観の問題だと思います。私は,犯罪がある程度ある社会が健全だと思います。犯罪ゼロの法制度は少々恐ろしい感じがします。今回のような事件が「減るべき」とは思いますが,法制度の力によって「ゼロにする」というのは反対です。

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