胸焼けするスローガン

健康第一,癌の克服,脳卒中から奇跡の生還 なあんて数々のスローガンが胸焼けを起こすとしたら,それはなぜだろうか?健康でいたい,治りたいと思う気持ちが犯罪だと言っているのではもちろんない.何しろ,それで飯を食わせてもらっているのだから.でもですよ.

私健康な人,私治った人.だから,病気の悩み,死の恐怖からおさらばする資格がある.なんて素晴らしいことだと,世界の中心で大声で叫ぶ資格がある.

そうかね.そんな人はただ単に運が良かっただけだ.難病であればあるほど,治るのはごく限られたエリートだけで,治らない人の方が圧倒的に多い.中には亡くなる人もいる.自分はこんなに素晴らしい治療を受けてこの難病を克服した そんな声高な歓喜の声は,同じ病を負った多くの戦友に対する訣別宣言である.たとえ同じ治療を受けても治らなかったり,死んでしまう人の方が多い病はこの世に満ち溢れている.脳梗塞に対するアルテプラーゼによる血栓溶解療法一つとってもそうさ.

医者の方もおめでたいもので,ウチではアルテプラーゼが使えます,脳梗塞を治せますって宣伝するものだから,100%治るもんだと勘違いして飛び込んでくる患者・家族に,”3時間以内で,かつCT上で○○,かつNHISSが○○点以下,かつ・・・”と回りくどい説明をしなくちゃならなくなって,挙句の果ては,話が違うじゃないかって怒る家族にモンスターファミリーってレッテルをつけちゃう.そりゃ喧嘩になりますわな.

そこへ行くと,脳梗塞から奇跡の生還を果たした方の場合には,今度学会で報告させてくださいって医者に言われちゃったりして,大スター気取りになるのも無理はないわなあ.でも,どんなに運がよかったからって,人生の締め切りがちょっと延びただけってことは忘れないでね.

それから,まだ忘れていることってないのかな? 病気が治って,損したことってないのかな?えっ?そんな馬鹿なことがあるもんか,病気が治ってどこがわるい.なぜ医者がそんな嫌がらせみたいなこと訊くのかって? ふうん,そうですかね.

じゃあ,質問の仕方を変えるけど,病気に罹って初めて学んだ資産はなかったのかな?資産なんてなかったっていうのは,忘れちゃったってことじゃないのかな?えっ,そう言えば思い出したって?よかった.じゃあ,訊くけど,病気と完全におさらばしちゃうと,病気で苦しんでいた時に学んだ資産にアクセスできなくなっちゃうんじゃないの? 大丈夫,私は,病気で苦しんだ時のことを覚えているから って? 

やだなあ,ついさっき,病気が治って損したことがあるんじゃないかって訊いた時,こいつは,なぜ嫌がらせみたいな質問するのかって不愉快な顔をしていたじゃないの.つまり病気で学んだことをすっかり忘れていたってことでしょ.それを僕が思い出させてあげたんでしょ.

記銘力障害の中核症状は,自分の記銘力障害を覚えていられないことですよ.

病を得て,死を想って,初めて学ぶことがある.同病相憐れむことは同病にならないとできない.私達の生を豊かにしてくれる宗教,哲学,そして芸術の多くは,病と死がなければ生まれなかった.多くの病名が差別用語として葬り去られる世の中で,病者に対するあからさまな差別用語以外の何物でもないスローガンがもてはやされるのは何故なのだろうか.

参考
毎日少しずつ死んでいる

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