ある先生から私信をいただきました。
> 人間不信という厄介な怪物はどのようにやっつけるか、今後の課題ですね。しかし、地
> 域が医療を育てるとの意識がなければ、地域医療は消滅してしまいますね。
人間不信が溢れる世の中で悩む自分の解釈モデルを、コペルニクスか、ガリレオ・ガリレイと外在化すると、自分自身の姿が、素敵に見えてきます。この場合、天動説=「医師は常に守護神である」、地動説=「医者は患者に助けてもらわなければ仕事ができない」と考えます。
コペルニクスは、声高に地動説を主張すると自分に危害が及ぶことを恐れて、著書を自分の死後に出版しました。ガリレイの受けた処遇については、巷間言われるようなひどい迫害は受けなかったとの説もあるようですが、異端審問の裁判にかけられ、1992年にヨハネ・パウロ2世が謝罪するまで、350年間にわたって名誉は回復されませんでした。我々が日常やっている診療で人間不信を指摘すると、コペルニクスやガリレイのような名誉ある異端になれるなんて、素敵じゃありませんか。あるいは今、地動説がさざ波のように静かに広がりつつあるのなら、今さら地動説を主張しても英雄にはなれませんが、それはそれでもっと素敵なことです。
「医者は患者に助けてもらわなければ仕事ができない」というのは道徳でも謙遜でもありません。単純な事実です。なぜなら、全ての医師の出発点・原点である問診・診察そのものが、患者に助けてもらう行為だからです。また、地域医療で、患者が医者を助けた事例として、地域住民がコンビニ受診を控えて小児科増員となった兵庫県立柏原病院があります。
確かに、現在も、(意識してあるいは無意識に)天動説と人間不信を振り回す人々が、患者・医療者の両側に数多くいます。そんな世の中全体を、自分の力で、明日から、すぐに変えることはできない。だからといって、「こんな世の中」「マスコミが悪い、厚労省が悪い」と嘆くだけで、今日は何もしない、明日も何もできないということにはなりません。自分のコントロールできる範囲で、今日の診療からできることはいくらでもあります。
たとえば、両手のしびれを訴えてきた患者さんが、脳卒中が心配だからMRIを撮ってくれと主張したとします。両手のしびれが脳卒中で起こることはありえないのですが、この場合でも、MRIをとる・とらないは、実は本質的な問題ではありません。患者さんの要望に従って、撮影してもいいのです。撮影して、「脳卒中などありません、どうです。私の言った通りでしょう」と、堂々と説明しましょう。何しろ、みなさんは、10億円プレーヤーよりも偉いのですから。エビデンス、ありまっせ。
そして、患者さんには以下のように説明したらどうでしょう。
「今回は、両手のしびれとのお話があってはじめて、MRIなどなくても、脳卒中ではないと断言できました。ところが、仮にそれが、右手右足のしびれで、左手左足が何ともなかったら、逆に脳卒中を強く疑わなくてはなりません。どちらの場合でも、一番の拠り所は患者さんのお話なのです。10億円もするMRIなんかより、患者さんのお話の方がずっと大切で、頼りになるのです。」
医者から、「あなたが頼りです」って言われたら、誰でも悪い気はしません。しかも、それが外交辞令ではなくて、紛れもない事実なのです。どうせ医者やるならば、「このお医者さんの言うことなら、機械よりも信用できる」って思わせたいじゃないですか。そうしましょうよ。いつもの診療で。とっても面白い仕事ですよ。そうやって、みなさん1人1人が仕事をしていけば、地動説が優位になるのは、案外早いかも。
「問診は道徳ではありません。戦略です。」「Lose/Loseの関係にこそ、Win/Winのヒントがある」(池田正行オリジナル)