論文は「この野郎」で書く
    
    
    旭中央病院での臨床研究・論文作成指導の時,私は常に,「論文は”この野郎という気持ち”がないと決して書けない」と言うのですが,論文を書いた
    ことのない人には,わからないでしょうから,下記に具体例を挙げます.素晴らしいデータを持っているのに,なかなか論文が書けない若手に書いた手
    紙です.
    
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    > ちなみに昨日朝倉とあって話す機会がありました。池田先生と朝倉のやり取りを拝見しました。
    > 自分にはなんとかパブリッシュしようという情熱が 足りないのだと改めて感じました。
    
    ↑ この違いがどこから来るのかはまだわからないでしょう。
    それは決して君が「劣っている」からではありません。朝倉君には論文を書こうという動機付けが研究を始める前から生じていたのですが、君の場合に
    はいまだに動機が生まれていないからです。では、その動機はどうやって生まれてくるのでしょうか?
    
    朝倉君の場合には、旭で感染症の診療していくうちに、国際標準のガイドラインが「おかしい・間違っている」との強力な疑念が生じました。
    「ESBL産生菌感染症にカルバペネムを使うなんてガイドラインは高校生でも作れる。プロならば、カルバペネム耐性菌のリスクを如何に低下させる
    かを考えるべきなのに、そのためのガイドラインはお
    ろか、研究さえなされてないじゃないか.日本はもちろん,海外だって,専門家だとか専門医だとか偉そうなことを言っていながら何にもわかってやしないじゃ
    ないか.」という止むに止まれぬ気持ちです。
    
    その気持ちがあったからこそ、他の医者が「今時retrospectiveなデータなんて英文にならないよ」と冷ややかな目で見る中、「今に見て
    いろ」とばかりに、手持ちのretrospectiveなデータをまとめて、旭の内科では私のBMJの論文以来、12年ぶりにインパクトファク
    ターのあるジャーナルにフルペーパーとして掲載できたのです。わたしはアイディア・方向性を呈示するだけでした。
    
    君の場合には、その止むに止まれぬ気持ちが生じていません。だから書けないのです。君のデータはぴかぴかです。朝倉君のデータが「10位以内の入
    賞」レベルだとしたら、君のデータは金メダルを狙える位置にあります。人間というのは
    不思議なもので、周囲の人が「それは独創的な素晴らしい新知見だから是非とも論文にしなさい」と言ってくれる時は、それだけでいい気持ちになってしまっ
    て、全く筆が進まないものです。
    
    それでも、重症の神経学的後遺症が残ってしまった子供を直接何人も受け持っていれば、何とかあの子達や家族のためにも論文をという気持ちが出てく
    るのですが、君は論文で呈示された6例のうち、何例を直接受け持ちましたか?
    
    誠実に診療していれば,いつかは必ず,ひどく悔しい思いをします.それは,医師としての自分自身の無力さに対してだったり、既存の権威者による蔑
    みに対してだったり、時には職場の同僚や医局の先輩の冷笑に対し てだったり。それが論文執筆の唯一無二の原動力となるのです.
    
    一方,名誉とか肩書きとかお金のためを思っても、論文は絶対に書けません。名誉とか肩書きとかお金のためを思って書けるのは、STAP細胞論文の
    ような空想科学物語だけです。
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    追伸:論文だけではありません.自分の保身のために私を藪医者呼ばわりして難病患者の人権を蹂躙するような卑劣な医師・検察官・裁判官とのシノギも,”この野郎という気持ち”
    がないとできませ ん.
    
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