エビ固めの男

といっても名郷直樹先生のことではない。泉谷しげるのことである。下記は忌野清志郎が亡くなった時の取材記者と泉谷の会話である。私は実際にその場に居合わせたわけではないが、だいたいそんなもんだったであろうと、こんなところを読んでいる読者の方々にも御賢察いただけるだろう。

記者「泉谷さん、忌野清志郎さんが亡くなったそうですが、御感想は?」

泉谷「なにい?この野郎、おめえが殺したのか?」

記者「めっそうもない」

泉谷「バカヤロー!!じゃあ、なぜ清志郎が死んだなんて、デマを流すんだよ!」

記者「だって、みんながそう言ってます。先ほど、喉頭がんで急に亡くなったって」

泉谷「バカヤロー!!だからよー、どこにそういうエビデンスがあるってんだよ」

記者「はっ?海老です・・・か・・・??」

泉谷「なんだとお、この野郎、てめえは、そんな駄洒落を言うためにのこのこやってきやがったのか。おめえ、俺より若いくせに、エビデンスも知らねえのか?証拠だよ、証拠。エビデンスがないのをデマゴギー、デマばかり流すてめえみたいな奴がペテン師。なあんだ、俺の方がよっぽどインテリじゃねえか」

記者「そんな・・証拠と言われても・・・」

泉谷「バカヤロー!!エビデンスも示さずに、よりによって、清志郎が死んだなんて、とんでもねえデマ流しやがって! 清志郎を勝手に殺すような奴は俺が成敗してやる!!」

死という不可逆的な形で肉体が視界から消える他にも、旅、引っ越し・転勤・単身赴任、失踪、と何種類か可逆的な形がある。ある人間の肉体の消失が、本当に可逆的なのか、不可逆的なのかは、時が経って実際に戻っきて初めてわかるのであって、それ以外に可逆性か不可逆性か、ある時点だけで頑健に担保する方法は、無い。

人が死んだというエビデンスを示すのは、その人の死体を示さない限り不可能である。だからこそ、EBMのEの字も知らない警察や検察さえもが、殺人事件の立証の際に、死体探しに躍起になる。しかも、死体ならば何でもかんでもいいというわけではない。その死体の状態が良好で、伝統的な個体判別が可能である必要がある。DNA鑑定に全面的に依存することの愚かさは、警察・検察そして裁判所が、足利事件で立証済みである。

犯罪と死が関係ない場合でも、瞳孔散大、心停止、呼吸停止のおごそかな確認から始まって、通夜、葬儀、火葬、お墓、納骨、仏壇・・・故人と様々なしがらみを持った家族は別として、家族でないものが、どこまで苦労して死を認める必要があるのか? 考えてみると、実はよくわからない。あなたが役所の戸籍係でないとすれば、人の死の認定作業をいい加減にしたからといって、給料がもらえなくなるわけでもない。

五十を越えてから、年に一度、友の訃報に接するようになった。友の肉体の消滅を事実として受け入れる作業は、これだけ図々しい私にとってもひどい苦痛である。十年に一度なら、まだしも、それを年中行事でやられてはたまらない。このごろは、そんな作業がひどく面倒になり、通夜も葬式も行かない。

「○○が亡くなったの、お前、知らないのか?」と言われても、「そういう噂もあるらしいな」程度で、ずっと放置してある。それ以上、私に苦痛きわまりない作業を強要する奴は、泉谷にインタビューした記者のような目に遭うはずだが、私に近づいてくる連中には、そんなバカは、さすがにいない。そうこうしているうちに自分の方が先にあの世に行って,苦痛を味わうことも無くなるだろう.

とっても役に立つ付録:
次の等式を覚えておくと、何かと便利です。みんながそう言ってます=エビデンスがない

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