境界

BSEが日本でも騒がれた後,2001年10月19日のことだ,ある先輩医師が私に話し掛けてきた.

”昨日在庫品回収の知らせが回ってきましたが,カットグット(腸線縫合糸.生体に吸収される手術用縫合糸)は牛の腸を使っていたんですってね.怖いですねえ”

”はあ,それで,そのカットグットが原因で異型クロイツフェルトヤコブ病になったという症例報告はあるんですか”

”それは知りませんけど,でも怖いですよねえ”

Et tu, Brute! あんたも牛乳を飲まない口か.ついこの間まで内視鏡的胃瘻造設術で,ばんばんカットグットを使っていたじゃないか.それが,30年後に裁判所に呼ばれるかもしれないと怖くなって,その時におまえも共犯で呼ばれるぞって脅かしたいのか?

大丈夫,それまで,おまえさん,生きちゃいねえぜ.俺だって,運良く生き延びていたとしても,75だ.アルツハイマーになっているか,そうでなければ,被告席でアルツハイマーのふりをするぐらいの知恵が残っているぜ.おあいにくさま.

そんな心配より,あんたの親父さんと同じ年のじいさんの発熱にも,ボルタレン座薬を使うのを早くやめてくれねえかな.こっちの胃にまで穴が開きそうだぜ.

まじめな臨床家の彼をここまで怯えさせた裁判は罪深い.それは血友病HIV訴訟であり,脳硬膜によるクロイツフェルト・ヤコブ病訴訟である.よかれと信じてした医療がずっと後になって過失だとして訴えられ,裁判で有罪となる.今も教科書にその名を残す偉人伝中の医師でさえ,どんな病気に対しても瀉血しまくっていたのに,彼らは牢獄につながれることなど決してなかった.なのに,今は,ヒポクラテスの誓いが患者も医師も守ってくれない.なんて世の中になったのだろう.彼はそう思っているに違いない.

幸いにも,彼の心配は杞憂である.硬膜移植によるクロイツフェルト・ヤコブ病の医原性の伝播と,牛由来の材料を用いたvCJDの伝播のわずかながらの可能性とは,天地の差がある.その根拠は次のとおりだ.

1. ヒト硬膜の場合は,ヒトからヒトへの感染なのに対し,BSEは牛の病気である,牛とヒトの間には種の壁(動物の種類が違えば病気が移らない)がある.ヒト硬膜がヒト型CJD病原体に汚染されていれば,ほぼ確実に医原性CJDが発症するが,BSEの場合は,ゼロでないにせよ,vCJD発症の確率ははるかに低い.英国ではこれまで18万頭ものBSEが発生しているが,vCJDの患者数は100人あまりである.換算すると,日本でBSEが100頭出たとしても,vCJDの患者数は0.1人にしかならない

2.人体実験ができない以上,ヒトの遺伝子を導入して種の壁をなくしたマウスにBSEの病原体を植え付け,vCJDを発症させる実験がBSE原因説の直接証拠となるが,この実験がまだ成功していない.また,vVJDは英国でもBSEのような爆発的な増加を示していない.これらの理由により,BSEがvCJDの直接原因かどうか,まだ最終的な結論は出ていない

3.英国を中心に報告されているvCJDでも,BSE病原体で汚染された食物が感染経路と考えられており,牛由来の医薬品や医療器具が原因とは考えられていない.BSE病原体で汚染された医薬品や医療器具によるvCJDはこれまで報告されていない.

4.そもそも,vCJDの症例のほとんどが,20代から30代なのである.この年齢層を考えただけでも,手術手技に関連した潜伏期間の長い医原性感染症の可能性に反する年齢分布だろう.

幻の裁判に怯えるあまり,彼は我々が毎日行なっているリスク・ベネフィット判断の感覚を失ってしまった.彼もまた,ゼロリスク探求症候群の罠にかかってしまったのだ.もし,カットグットが将来vCJDを起こすかもしれませんよとの”インフォームドコンセント”が必要ならば,航空会社は,チェックインカウンターで,”当社の航空機の墜落率とハイジャック率はこのようになっております.この確率を踏まえて,自己責任でお乗りになってください”と説明する義務がある.

もちろんこんなことをすれば,航空会社は潰れる.ましてや墜落率やハイジャック率は具体的な数字で出るが,カットグットによるvCJDはこれまで全く報告がない幻のリスクなのだ.しかし,たとえこんな幻のリスクのインフォームド・コンセントをしたって,病院は潰れないで済むのだから,他産業から妬まれ,やれ医療改革だの何だの,やいのやいの言われるも無理はない.

私の敬愛する内科専門医,小内  亨先生は,日経BPのサイトMedWaveの2001年10月25日のコラムに次のような話を書いている.

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先日、米国留学時代の恩師にお会いした。日本で開かれた学会に 招待され、来日したのだ。あの忌まわしいテロ事件の後であった ので(実は彼も当時ニューヨークに滞在していた。)、日本への 飛行機に乗るときどう思ったかと聞いてみた。彼は別になんでも ないという顔で、「米国では1日に百人以上もの人が交通事故で 死んでいる。私の乗った飛行機がテロに遭遇する確率はそれに比 べればきわめて低い。」と答えた。
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これがまっとうな医者の判断である.処方箋一つ書くにも,リスク・ベネフィットの境界を常に念頭に置いて行動する職業人の誇りである.敵が得体の知れない牛の病気だろうがテロリストだろうが,プロとしての誇りを見失ってはならない.

ちなみに,medicins sans frontieres (m仕icins sans fronti俊es:日本語フォントでは文字化けしていますが,欧文フォントでは正しいつもり) を国境なき医師団と訳すのは間違いである.frontieresは国境ではなく,英語のfrontと同じく,前線ということである.前線がないということは,前からも後ろからも弾が飛んでくるということである.彼らの場合,30年後に裁判で訴えられるかどうかは,おそらく心配していないだろう.

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