プリオン病潜伏感染者の立場から見た全頭検査騒動

日本内科学会認定内科専門医 池田正行

月間発生数が3万頭とBSEが正に猖獗を極めていた90年から92年に,英国の中でも,最も汚染されていたスコットランドに住み,地域住民と全く同じように牛肉を喰らい,結果的にヒトプリオン病感染者の懸念を一生背負うことになった私にとって,日本の現状は,地球上でも例を見ない楽園での特異な騒動に見える.強大な経済力,国民の健康意識の高さ,行政インフラといった,世界でも類を見ないわが国の特性が全頭検査を支えてきた.その現状は,常に8億人の人間が,日々の食べ物にも事欠く状態に放置されているグローバルスタンダードからは程遠い.

 私が子供の頃は,それまで戦争を繰り返していた世界各国が,力を合わせて地球を攻撃してくる宇宙人を撃退するなんて感動SF物語が,白黒TVで放映されていた.そして時代は21世紀.プリオン病という,未知なる敵に対しての闘いはどうかといえば,幼い頃の私の感動とは似ても似つかぬドタバタコメディの連続だった.英,仏,独,日,米と,かつて世界戦争で争った各国が,一方では科学技術の粋を尽くし,一方では担当大臣が恥を忍んでTVカメラの前でビーフバーガーやしゃぶしゃぶを喰らうという体を張った前時代的な作戦を展開してまで自国牛のために築き上げた防衛ラインは,全ていとも簡単に突破されていった.日本に至っては,何百億円もの資金を投入し,難攻不落と喧伝した全頭検査が,ただの張子の虎だったと自ら認めて撤去しなければならない羽目に陥った.全頭検査への費用を考えれば,ミサイル防衛システムなど,安い買い物に違いない.はてさて,オーストラリア牛は安全ですという,地球最後の防衛ラインの運命や如何に.

 全頭検査は,当初から科学とは相容れない存在だった.ゼロリスクを求める大衆にゼロリスクの幻想を与えるために政治主導で始まったのだから,科学的議論だけで決着をつけられるわけがない.BSEの利害関係者が,研究者や科学者に全頭検査騒動の収拾を押し付けているが,土台無理な話なのだ.日米間の全頭検査論争は,当初から,かつてのガットウルグアイラウンドを彷彿させるような政治ショーの色合いが強かったが,いまや,科学が政治に弄ばれている感がある.

 2003年のクリスマス,米国でBSEが発生するまでは,全頭検査で日本の牛はゼロリスクという建前でみんなが商売をしていた.それでみんなハッピーだった.だから全頭検査に誰も文句をつけなかった.ところが,去年のクリスマス以後,全頭検査がなくては商売できない人と,全頭検査が邪魔になって商売できない人が出てきた.一夜明けて,全頭検査は間違いだったと,かつての玉音放送と一億総懺悔を思わせるコペルニクス的転回に,多くの人が戸惑うのも無理はない.

 全頭検査は,科学的根拠というより,政治的な緊急避難策として始まったから,開始当初より,一般市民に対して,全頭検査の本当の意味を明らかにする動きはほとんどなかった.なぜなら,牛肉を恐怖の食べ物と捉える人々から,攻撃されるのが明らかだったからだ.誰もが猫の首に鈴をつけるのを嫌った,すなわち全頭検査即ゼロリスクという幻想を壊す役を敢えて演じようとしなかった結果,説明責任と情報開示の先送りが繰り返された.その結果,全頭検査は科学的根拠不要の強固な既成事実となった.そこへ米国でのBSE発生である.ここで全頭検査を撤廃すれば,“米国の圧力に屈して”,“科学的に正しい全頭検査を撤廃した” という,二重の誤った印象を国民に植え付けることになる.説明責任と情報開示先送りの結果のツケが回ってきたわけだ.

 ではどうすればいいのか?誰にも正解はわからない.なのに,人々は,度重なる失望と苦渋を忘却の彼方へ追いやり,これまで罵詈雑言を浴びせてきた役所や研究者や政治家に,またしても正解を求めているように見える.権威から自分が正解をもらえれば,相手を否定できると信じ込んでいる.しかし,今まで,これが正解だという主張に我々は何度裏切られてきたことか.もう,我々は,正解という名の青い鳥はいないことに気づくべきである.正解がないと悟った時,人々は論争する,その論争を通してはじめて,互いを認め合うことができる.

 真の論争を開始するためには,米国牛肉即時輸入再開すればよい。牛肉に問題はくっついてくるから、先送りのしようがない。もちろん親米派は牛丼にありつけると大喜び,反米派は憎き米国の肉を喰らってやると,これまたステーキ食い放題という,日本男児の美風復活のおまけつき.こうして,再開のあかつきには、神戸・横浜を始めとする各地の岸壁は、万景峰号入港時の新潟港同様の光景が繰り広げられ、成田空港周辺では三里塚闘争が再現されるだろう。やれ高齢化だ、少子化だと不景気な話ばかりの昨今、非難轟々喧々諤々、安保闘争以来の活気が久々に日本全国に満ち溢れること間違いなし。

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