震災とネットワークと私の行動

95年1月17日の震災との直接のかかわりは,1/24から1週間,東灘区住吉の住之江公民館の救護所で診療していたことです.現地にはマッキントッシュパワーブック145Bとポケットモデムを持ち込んで,EQUAKE(パソコン通信のニフティサーブの地震に関する会議室)をのぞいていました.当時私がどう行動していたかを,ネットワークのことを交えながらお話していきます.

まず,現地に行こうと決めたのが1/19だったのですが,もちろん被災地のボランティア機関には電話など全く通じませんでした.ニフティの地震フォーラム自体も整備不良の段階で,あらゆる意見と情報がごったまぜに書き込んでありました.しかし,災害発生から2週間以内の医療需要が高い時期でも,医療系のボランティア団体からメンバー募集の積極的な書き込みはなかったように思えます.ですからその時点では,ネットワークを通しても,現地入りするための有用な情報は得られませんでした. 何とか大阪のYMCAに電話で連絡をとりましたが,おきまりの待機の指示でした.

結局連絡を待っていてはらちがあかないということで,私の同僚が,1/20に勝手に西宮体育館の関西医療NGO本部に出向きました.そこからの紹介で,彼が東灘区の住吉公民館で診療を始め,私がその後に現地入りしたという訳です.この間,連絡はすべて電話とファックスで,電子メールは一切使えませんでした.これはもちろん相手方にメールを使うという考えも,人も,設備も全くなかったからです.

コンピューターとモデムを被災地に持ち込むにあたっては,正直言って私自身迷いました.理由は二つあります.一つは被災地でパソコンの前に座ってキーボードを叩くという仕事に対する抵抗感です.当時は,被災地での活動というと,水くみ,炊き出しなどに代表されるような肉体労働が尊重されるという先入観にとらわれていたのです.私自身も,周囲も,被災地でパソコンを使うことに抵抗するのではないかという不安がありました.もう一つは,電話線の確保を含めて現地での通信状況が混乱していて,パソコン通信が役立たないのではないかという不安でした.EQUAKEの中身が混乱していて,有用な情報が得られないのではないかという危惧もありました.

しかし同僚が”生活用品は何でもあるが,コンピューターだけはない.是非ともパワーブックを持ってこい”と言ってくれたので,モデムとともに持ち込みました.受け入れ先の住吉公民館との連絡はすべてファックスと電話でした.高木以外の現地のチームのスタッフは,私がコンピューターとモデムを持ち込むと連絡しても,あまりぴんと来ない様子でした.

現地での診療活動にパソコン通信が役立ったことは残念ながらほとんどありませんでし た.私自身が,医療スタッフ間の打ち合わせ会議のため,東灘区住吉と西宮体 育館の間をオートバイで往復しなくてはならなかったことは象徴的でした.会 議自体は1時間弱で終わりましたが,渋滞のため往復に3時間かかりました. 会議の内容は,丹念に電子メールのやりとりをすれば済んでしまうことでし た.ホームパーティやパティオ(池田注:当時のニフティサーブのパソコン通信オプションサービスで,メーリングリストに類似した電子会議室)を活用すればもっと効率のいい連絡会議や情報 交換ができたでしょうに.

東灘区は最も死者の多い区だったのですが,交通機関の復旧の恩恵を受けやす かったので,医療機関の立ち直りも早かったのです.保健所や各救護所もよく 活動していました.その東灘区でさえ,医療機関同士の情報交換に,パソコン通信は全 く使われていませんでした.パソコン通信が活躍できたはずの仕事は医療面だけに限っ ても山ほどありました.しかしパソコン通信をやっているスタッフも,使える器材も, 通信にさける時間も,すべてがあまりにも少なかったのです.

パソコンを扱うことに対して現地での違和感や反感はありませんでした.た だ,いつでもオープンにしておきたい電話やファックスの回線を,たとえ一時 的にせよ占拠してしまうことには随分遠慮があって,EQUAKEにアクセスするの はいつも夜9時過ぎにしていました.少なくとも私が被災地に滞在している間 は(95/1/24-1/31)EQUAKEの会議室は整備されていませんでした.意見と情報 がごちゃまぜで,情報も整理されていなかった.今のインターネットの NEWSGROUPのような状態でした.

結局,被災地滞在中に私が通信を使ったのは,EQUAKEのROMと,埼玉の職場と の連絡のメールだけでした.EQUAKEの中には本当に雑多な情報が飛び交ってい ました.いろいろ勉強にはなりましたが,自分の活動に直接役に立つ情報には 出会えませんでした.私が活動していたのは被災地の中でもごく狭い地域です から,直接役に立つ情報に出会う確率はとても低かったわけです.それに加え て,医療や公衆衛生の情報の比率が,EQUAKEの中ではとても低かったのです.

2/1に埼玉に帰ってからも,ネットワークを通して何か貢献できないものかと 考え,医療関係のボランティア募集の広告をEQUAKEの掲示板に出しました. EQUAKEの中でインターボランティアネットワーク会議室が本格的に立ち上がる 前でした.僕が関係した関西医療NGO(西宮体育館に本部がありました)の” 代理店”みたいになって人を集めてやろうと企んだわけです.3ー4人の医師 の方からコンタクトがありました.診療科とか,現地入り出来る期間,期日の 関係でうまくあっせんは出来ませんでした.でも私とのやりとりで現地の事情 がわかって,自分で”働き口”を探した人もいました.

また2ー3人の情報ボランティアの方とメールで連絡をとり,2月末に西宮体 育館の関西医療NGO本部に勝手に押しかけて,ネットワークを通して,人集め でも何でもいいから手伝えることはないかと聞いたのですが,地元医療機関の 立ち直りもあって,一般診療に関しては新たな人手は要らないということにな りました.もうこの時期には医療の需要はほぼ満たされていて,問題は福祉の 供給をどう確保するかということに変化していたのでした.