何者でもない人になる
ーこれであなたも寺山修司ー

「自分は○○である」とは自分では規定できない。たとえ自分で「自分は○○である」と「宣言」しても、他人様は従ってくれないのが常である。性別を問わず、国境を問わず、人の心は日本の秋の空のように移ろいやすい。たとえ第三帝国総統であっても、藤原氏よりも平氏よりも遙かに短期間で、「実は私もあんなひどい奴が指導者だと思ってはいなかった」と、国民の皆様に裏切られてしまう。そんな世知辛い惑星に我々は住んでいる。

さらに悪いことには、「○○を地道にこつこつやっていれば、結局は○○屋であると認められるはずだ」という承認願望は妄想に過ぎない。他者評価はコントロールできないと耳にタコができるほど聞かされてきたではないか。そもそも「○○をやった」場合と「やらなかった場合」のRCTもやったことがないくせに、なぜ「○○をやる」と決断(=思考停止)して行動するのか?

どんなに一生懸命、○○をやっていても、「まだまだ経験が浅い」とか、「あいつは所詮は××だから」とか、なかなかこちらの希望するラベルを貼ってもらえない。どんなに苦労したって、ヘマをやった時に、「落伍者」という、世間的にはあまり見栄えのしないラベルが貼られるのが関の山だ。「落伍者」というラベルなんか、○○をやらなくても、何もやらなければ、そのまま手に入るじゃないか。だったら「○○をやろう」と思うだけでも損だ。

そもそも「○○をやる」という結論は、無数の「××をやらない」という除外診断(しばしば懊悩・煩悩との訣別)の末にようやく出てくるはずである。

以上より「××をやらない」という選択肢の意義は自ずから明らかである。自分がやっていないことなら他者は素直に評価してくれる。「あいつはたしかに元神経内科医だったかもしれないが、今は囚人しか診ていないじゃないか」、「PMDAで審査をやっていたとは言っても、もう10年近く前に辞めたじゃないか」、「囚人しか診ていない奴が、総合診療医とは片腹痛い」、「たかが医者風情に刑事司法の何がわかるってんだ」・・・・

このように「○○屋である」という看板は自分の思い通りに手に入らない。思うように手に入らないことがわかっているのなら、そう思わなければ良い。そして、「○○屋ではない」というラベルを片っ端から貼り付けてもらえば良い。

「○○屋ではない」というラベルは、大安売りどころか道ばたに落ちていて誰も拾おうとしない。「政治家ではない」、「経営者ではない」、「銀行家ではない」、「ジャーナリストではない」、「検察官ではない」、「中華人民共和国の国家主席ではない」・・・・・あらゆる既存の業種に関してフリーランスかつ素人。「僕の職業は寺山修司です」とは、その道ばたに落ちているラベルをこつこつ拾った結果である。

「自分は何者でもない」とは、独創性、つまり誰もが嫌がる・誰も手をつけようとしない作業の集大成の結果である。「自分は○○である」と承認してもらうことの馬鹿馬鹿しさに目覚め、「××をやらない」という選択肢の魅力に取り憑かれたあなたは、もうそれで寺山修司である。

私の才能と時間は「池田は○○屋である」との屋号のためにあるのではない。誰か他の人間ができる仕事のためにあるのでもない。検察官に対する医学教育のような、誰もが徒労だと思うような作業のためにある。誰もが徒労だと思うような作業をやる人間には既存のラベルは用意されていない。これが「レジェンド」であり、一代年寄であり、永久欠番であり、「木村の前に木村無く、木村の後に木村無し」である。

参考:内田 樹 自分探しイデオロギー (階層化する社会について) 、幻にすぎない“総合医・専門医論争”−ある若手医師への手紙から−

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