検察官・裁判官に対する医学教育の実際
−矯正医療に対する国家賠償訴訟を利用したOJT−

「ドクターGと仕事で御一緒できて光栄です」


国敗訴の可能性が高いと考えられていたにも関わらず、私の意見書で形勢が逆転した事案の最終局面、私が証言する期日(*1)の前日、東京法務局で行われた長時間の打ち合わせの休憩時間のことだった。飲み物を買うために寄った局内の地下売店で、担当の若手訟務検事から清々しい表情で声をかけてもらった。その 1年前、初めての打ち合わせの際、たまたま北陵クリニック事件に対する私の活動が担当チーム内で話題となり、「あれは全部でっち上げですから」と言い放った私を見て、顔が歪んでいた彼から、そんなふうに声をかけてもらえるようになった時、教育が世の中を変える手応えを感じた。

検察官だけはない。裁判官も医療訴訟に関わる。にもかかわらず、裁判官にも医学教育を受ける機会が全くない。このため、今日もどこかでトンデモ医療訴訟が行われている。私はそんな訴訟の品質向上を目指し、検察官と裁判官双方の医学教育を2015年1月から始めた。といっても新たに塾を開いたり生徒を募集したりしたわけではない。矯正医療に対する国家賠償訴訟(国賠訴訟)という既存の行政訴訟を利用した、コストゼロのOn the Job Training(OJT:実地訓練)である。

国賠訴訟利用のOJTが効率的な医学教育となる理由
国賠訴訟における私の主な役割は、被告である国の代理人(刑事訴訟における弁護人に相当し国を弁護する)を務める法務局訟務部付検事(訟務検事)(*2)の要請に応じ、刑務所や拘置所での診療の妥当性について意見書を書くことである。訟務検事は若手の検事と判事補(裁判官に任官して10年未満)が交代で務めるから、若手の検察官と裁判官の両方を教育できる。さらに、書面や証言によって、私の考えをわかりやすく裁判所に伝えることは、担当裁判官の教育にもなる。

国賠訴訟1件につき訟務検事は1人だからマンツーマンの教育となる。書面のやり取りだけでなく、担当チームのメンバーも交えてテレビ会議での打合せも行う。判決までの何年もの間、人事異動で交代する場合もあるが、それでも私が直接やりとりできるのはせいぜい1件につき3人までだ。「中身は濃いかも知れないが、果たしてそんなスピードで医療訴訟全体の品質向上が実現できるのか?」との心配は御無用。

私は神経学、総合診療、臨床研究、EBM、レギュラトリー・サイエンス等、様々な分野で教育に携わっているが、その教育対象母集団は医師だけでも30万人を超える。一方、裁判官は3000人足らず、検察官は2000人足らず。単純に人数だけで考えても、教育の効率は医師の場合の60倍。「自分の教育がトンデモ医療訴訟の撲滅に繋がる」と思うと教育にも自然と熱が入ります。この教育活動に対して、昨年3月には法務省矯正局高松矯正管区長から表彰状も戴いた。

さらに彼らの競争意識が学習の動機付けを強化する。裁判官、検察官それぞれの集団における出世競争は、医師同士のそれとは比べものにならないぐらい激しい上に、裁判官と検察官の間にある緊張関係も互いに切磋琢磨するための原動力になる。

矯正医療に対する国賠訴訟の実態










No.

原告主張病名

原告主張

最終診断

原告側医師

争点診療分野

池田出廷

池田証言

結果



1

意識障害

診断の遅れ

マロリー・ワイス症候群

救急科

2000万円→800万円


2

PTSD

診断の遅れ

覚醒剤精神病

精神科

請求棄却


3

耳下腺癌

診断の遅れ

耳下腺腫瘍→耳下腺癌

耳鼻咽喉科、神経内科

勝訴的和解


4

潰瘍性大腸炎

不適切な治療

覚醒剤大腸炎

消化器科

請求棄却


5

リスフラン関節脱臼骨折

診断の遅れ

変形性リスフラン関節症

整形外科

(係属)


6

ナルコレプシー

診断の遅れ

覚醒剤依存症

精神科

(係属)


7

外傷

危険物の放置

自傷

プライマリ・ケア

請求棄却


8

眼感染症

診断の遅れ

眼感染症

眼科、感染症

(係属)


9

食道癌

診断の遅れ

食道癌

消化器科

(係属)













2015年1月から19年5月までの間、敗訴の可能性が否定できないとして私に意見が求められた国賠訴訟10件のうち、医療過誤が明白だった1件(無駄に争わずに裁判の早期収拾を助言)を除く9件を表に示す。 9件全てについて意見書を作成するとともに、テレビ会議も利用し、期日前の打ち合わせにも参加した。2件では出廷し、そのうち1件では証言も行なった。原告側から医師の意見書が提出されたのは5件だった。

原告主張の具体的内容は、診断および治療開始の遅れがあったとするものが7件と多数を占めていた。関連診療分野は多岐にわたり、特定の診療科への偏りはなかった。2019年7月現在、9件のうち4件が係属(まだ裁判が続いているという意味)、3件が請求棄却、 1件が勝訴的和解、1件が請求額2000万円に対し800万円の支払いを認める判決だった。

私への依頼があった時点では、9件いずれも敗訴の可能性が否定できなかったにもかかわらず、これまで判決が出た5件では、全て敗訴を免れている。形勢逆転の原因は、第一にそれまで訟務検事が気づいていなかった原告主張の重大な事実誤認を、意見書で私が明らかにしたこと、第二に、何回もの打ち合わせに参加し、弁論や尋問の内容についても積極的に意見を述べ、証人として出廷するのも厭わず、担当裁判官の疑問に対して常に分かりやすい説明を心がけた点にあると考えている。

もちろん、私にとっても大いに学ぶところがあった。医療訴訟の実務に、それも第三者としてではなく、被告国の当事者として関わるのは、矯正医官にならなければ決して経験できなかったことである。「教えることは学ぶこと」を正にそのまま地で行く国賠訴訟を9例も経験し、法務省からの表彰まで戴いたおかげで、定年後のキャリアパスも見えてきた。

*1 法廷での審理をこう呼ぶ。刑事裁判の公判に相当
*2 国が行う法務を「訟務」と呼ぶ

参考ページ
裁判官に対する科学・医学教育の必要性−最高裁判所の不作為について−
訟務局の紹介(法務省のホームページ内)
裁判官数・検察官数・弁護士数の推移(弁護士白書2018年版から)

メモ:行政訴訟は稀,医療訴訟はもっと稀
行政訴訟は一般の民事訴訟のわずか1.4%(裁判の迅速化に係る検証に関する報告書(第7回) 2 地方裁判所における民事第一審訴訟事件の概況及び実情 2016年は,民事全体が148295件に対し,行政訴訟が2093件と極めて数が少ないため,多くの法曹が苦手意識を持っている。それゆえ行政法務(国の立場からは訟務)とを学べる職位として,訟務検事は特に若手法曹から人気が高い.医療訴訟は行政訴訟よりも更に少なく,834件(2016年)と,民事訴訟全体の0.6%にも満たない件数となっている.だから,医療訴訟に精通している検察官,裁判官など,この世には存在しない!それゆえ,彼らにとって,医療訴訟は,原発訴訟同様に,苦手意識に苛まれる訴訟となっている.

法的リテラシー