臨床倫理とは何か(緩和医療学2001年1月号、p3-12)
白浜雅司(三瀬村国民健康保険診療所/佐賀医科大学総合診療部)


要旨
 臨床倫理とは何かについて、まだわが国における統一した定義はないが、臨床の現場では、倫理的な問題で悩んでいる患者、家族、医療者は多い。これまでの論文などを参考に、臨床倫理を「クライエントと医療関係者が、日常的な個々の診療において発生する倫理的な問題点について、お互いの価値観を尊重しながら、最善の対応を模索していくこと」と定義し、その対応の一つの方法として、Jonsenらの提唱している医学的適応、患者の意向、QOL、周囲の状況からなる臨床倫理の4分割法をもとに、認識、分析、情報収集、対応、評価と修正いう流れを事例を用いて解説した。このような臨床倫理の考え方が、一般の診療現場に普及し、クライエント、医療関係者双方の助けになることを願っている。

キイワード:臨床倫理、医学的適応、患者の意向、QOL、周囲の状況



<はじめに>
 最近、わが国でもclinical ethicsの日本語訳としての臨床倫理の考え方を用いた倫理的課題への対応が、診療や教育の場で用いられはじめている1)。その内容や定義については、まだ十分にコンセンサスが確立しておらず、文化的背景の違う米国の臨床倫理の考え方をそのままわが国の医療現場に取り入れることの難しさもある。ただ間違いなく言えることは、わが国でも、患者およびその家族と治療に関わる人々が、日常診療の場で何らかの倫理的問題点を感じており、その対応を求めていると言うことである。これまでそのような倫理的な問題点は、医療者の倫理観で解決してきたという意見もあるだろう。しかし、筆者は約8年前に、初めて米国の臨床倫理の手法に触れ、個人の倫理観だけに頼らず、多くの違った立場の人の討論により倫理的問題に対応していくという手法が、わが国の臨床現場でも必要なことを痛感した。それ以来、自分自身の診療、医学生や研修医、医療従事者への教育、一般の臨床現場での症例検討の相談などを通して臨床倫理の考え方の普及と実践に関わってきた。その経験をもとにわが国の臨床現場で使われるような臨床倫理の考え方を提示したい。この論文を通して、臨床倫理の考え方が決して難しいものではなく、困っている症例について一度使って考えてみようと思う人が出てくるならば、これ程嬉しいことはない。


<臨床倫理の歴史>
 米国で1960年代より、倫理、哲学法律といった医療以外の研究者を中心とした脳死、臓器移植、遺伝子治療などの先端医療の倫理的問題の議論の中から生命倫理bioethicsという学問が発展してきた。それに対して、1980年代に特に医療関係者から、もう少し日常臨床に根ざした倫理的な問題を検討する必要性ががあるのではないかという問題提起がなされ、それに呼応した倫理研究者などとの共同作業により、臨床倫理clinical Ethicsという考え方が発展してきた。その普及には、臨床現場での倫理的な問題の相談にのる臨床倫理の専門家Clinical Ethicistと、各医療機関毎に倫理的な問題のある症例を検討する倫理委員会Ethical Committeeによる実践的なサポートが果たした役割が大きかった。

<臨床倫理とは何か>
 臨床倫理Clinical Ethicsという言葉を最初に用いた、Sieglerは臨床倫理の目標を「日常診療において生じる倫理的課題を認識し、分析し、解決しようとする試みることにより、患者を向上させること」2)とし、わが国では、藤沼が「臨床の現場では、医学的・科学的判断だけでなく、倫理的問題を同定し解決することを求められる。ある特定の患者の具体的な臨床場面で、より良い倫理的意思決定を模索するのが臨床倫理clinical Ethicsである。」3)という定義をした。
H.Brodyは来日時の「日常診療における臨床倫理」という講演において、
1、 良く起きる問題の種類が違う。(遺伝子治療などまだ評価の定まっていない先端医療の判断をすることはない。)
2、 患者の特徴が違う。(より軽症で自分で判断できる人が多い。)
3、 医師患者関係の違い。(医師ム患者関係が継続的で「知っている者同士の間の倫理」である。)
4、 家族や、他の医療スタッフの影響を受ける。(患者に関わる多くの人の意見が聞こえてきやすい。)
5、 文化や地域の影響を受けやすい。(医療施設内だけでなく在宅など患者の生活の場での問題も大切になる)
という特徴をあげ、これまでの日常診療における臨床倫理の必要性を説いた。
 また名古屋大学総合診療部の伴は、臨床倫理を医師の総合的判断能力の重要な一つの要素とした上で、プライマリ・ケアと臨床倫理の共通点として、
1、 多くの同様な疾患を有する患者の一人としてではなく、それぞれの固有な存在として尊重し、対応を心がける。
2、 良好なコミュニケーションが必須である。
3、 医師からの一方的な“指示”ではなく、話し合いと教育を重視する。
4、 「病気を治すことが究極の目的ではなく、良い人生を送れることが大事なのである」という価値観。
ということをあげている。4)
 さらに、赤林は、文献調査をもとに、臨床倫理の特徴として以下の6点を指摘している。5)
1、 臨床現場での実状を出発点にする極めて実学的要素と、学際性を持つ。
2、 個々の医療者・患者関係に注目、個々の患者ケアの質の向上を目指す。
3、 臨床現場での個々の症例の意思決定に重きをおく。政策決定、マクロの資源配分などは射程外。
4、 医療者・患者関係や医療従事者側の心理的社会的要素、症例に付随する状況的要素にも配慮する。
5、 教育は臨床場面で症例中心に、研究は理論的、経験的なものを学際的に行う。
6、 広い意味で患者の視点を取り入れた、医療を供給する側の、現場での意思決定の際の考え方。
 このような意見と自分のこれまでの倫理的な問題を含む症例検討の経験をもとにして、私は、現時点でのわが国の臨床倫理を「クライエントと医療関係者が、日常的な個々の診療において発生する倫理的な問題点について、お互いの価値観を尊重しながら、最善の対応を模索していくこと。」と定義したい。
クライエントとしたのは、必ずしも患者だけでなく、その家族も、また健康な人も検診などで医療に関係するからである。医療関係者も、介護スタッフなど医師看護婦以外の様々な職種の人が関わってくることが多くなった。このような様々な立場の様々な価値観を持っている人全員が100%納得するような対応策が見つけられることはないだろう。また医学は不確実性の学問であり、予測できない事態が起きることもある。しかし、関係するものが自分の考えを出し合った上での対応であれば、たとえ期待と違った結果になっても、患者本人、家族、そしてそのケアに当たる医療スタッフに、不満もあるが、できるだけのことはやったねという気持ちを残すのではなかろうか。そしてそれが、患者や家族の立ち直りを支えるだろうし、医療スタッフ自身のサポートになり、次の患者へ良いケアを提供することにつながるだろう。私は臨床倫理は、患者のケアの向上を目指すとともに家族や医療者もケアするものであると思っている。


<臨床倫理の考え方>
 では実際に臨床倫理では症例の倫理的な問題点をどのように考えて対応していくのだろうか。私はこれまでJonsenらが開発した臨床倫理の4分割法6)をもとにして、これまでわが国で行った討論をもとに、以下のようなステップで考えるとわかりやすいのではないかと考えている7)。
1)認識:倫理的な問題点がありそうな症例に気付くこと。
何が倫理的な問題を含む症例かをすぐ判断するのは難しいが、患者、家族、医療スタッフなど事例に関係する人の間で、何か意見の違いやもやもやすっきりしない心にかかる問題があることに気付くことが、臨床倫理を考える出発点になると思う。
2)分析:症例の具体的な問題点を分析する。
何かしっくりしない倫理的な問題を含む症例ではないかということは認識できても、何が倫理的な問題かということは混沌としていることが多い。そういう問題点をはっきりさせる方法の一つとして私はJonsenらの臨床倫理の4分割法を用いている。この方法は、症例の一つの倫理的な問題点だけに目がいってしまいがちな私たちに、もっと広い視点から検討することを教えててくれる。症例の倫理的な問題点は必ずしも一つではないことが多い。8)
3)情報収集:問題点を分析していく中で、倫理的判断のために必要な、まだ不足している情報を集める。その情報を得るだけで、解決する問題もある。
4)対応:分析した問題点への対応を、関係する人と相談しながら決めて実行する。その場合、重要かつ簡単に実行できそうな対応から優先的に実行していく。全部の問題に対応することは難しいかもしれない。でも一つの問題が解決することで、関係する者同士の信頼関係は増し、次の問題が解決しやすい環境ができてくる。
5)評価と修正:対応の成果を評価して、その対応を続けた方が良いかを検討し、必要であれば修正を加える。当然時間の経過とともに病状も関係する者の考えも変化するからである。


<具体的な事例検討>
では、話を具体的にするため一つの事例で考えてみよう(表1)


表1、事例提示
63才男性。公務員を退職1年後、何か食事がつかえるような感じがあり、近医を受診、内視鏡検査で胃癌を疑われ、総合病院へ紹介入院となり、胃切除手術を受けた。ただし、既に腹腔内リンパ節への転移もあり、再発の可能性が高いことが家族へは告げられ、半年後に腸閉塞をおこして再入院となった。
本人の希望で、手術時に胃癌であることは告げられていたが、半年後の腸閉塞が起きた時の入院では、家族(特に妻)の希望により、腸閉塞が腹膜転移よるものであることは告げられず、術後の癒着であるという説明がなされていた。
腸閉塞については、人工肛門を作り症状は改善したが、入院中に新たに食道への浸潤が出て、通過障害があり、痛みや吐き気も伴うと言う状態で、現在痛み止めとしてモルヒネの坐薬を使い、絶食にしてIVH管理中。
患者本人は、ある程度落ち着いたら家に帰り(発病前に家を新築していたばかりで、新築した家の仏壇に魂を入れる仏事をしていないことも気にかかっているらしい)たいと願っていたが、なかなか病状が改善しないため家に帰って大丈夫かという不安もある。
主治医はできれば食道ステントを入れて、少しは口から食べられるようにして家に帰してあげたいと思い、担当看護婦は、落ち着いている間に、早めに一度本人を自宅へ帰した方がいいと思っていた。妻には、主治医から、半年は難しいだろうと話されたが、妻自身、仕事をもっていることと、家で急変することが不安で、できれば入院を続けてほしいと思っている。


表2に臨床倫理で考慮するべき大まかなチェックポイントを記入した臨床倫理の4分割表を提示した。この表と、本文の解説を読んで臨床倫理で考慮すべき主な要素を知っていただきたい。


表2、臨床倫理の4分割表
1)医学的適応
  Medical Indication
 “Benefit、Non-malficience”
    恩恵、無害の原則

   (チェックポイント)
   1.診断と予後
   2.治療目標の確認
   3.医学の効用とリスク
   4.無益性(Futility) 

2)患者の意向
  Patient Preferences
“Autonomy”
自己決定の原則

 (チェックポイント)
   1.患者の判断能力
   2.インフォームドコンセント
 (コミュニケーションと信頼関係)
   3.治療の拒否
   4.事前の意思表示(Living Will)
   5.代理決定
 (代行判断、最善利益)

3)QOL
   QOL(生きることの質)
   “Well-Being” 
   幸福追求の原則 

 (チェックポイント)
  1.QOLの定義と評価
 (身体、心理、社会、スピリチュアル)
  2.誰がどのように決定するのか
 ・偏見の危険
 ・何が患者にとって最善か
  3.QOLに影響を及ぼす因子

4)周囲の状況
  Contextual Features
  “Justice-Utility”
   公正と効用の原則

 (チェックポイント)
   1.家族や利害関係者
   2.守秘義務
   3.経済的側面、公共の利益
   4.施設方針、診療形態、研究教育
   5.法律、慣習
   6.宗教
   7.その他

まず最初に、事例についてチェックポイントごとに問題点を確認していく。いくつもの枠に関わる問題は、複数の枠に入れて構わない。また、どの枠に入れるかわからない問題は、とりあえず周囲の状況のその他に入れておく。
4つの枠組みに規定することで、それ以外の問題点を考えなくなるのではないかという批判はあるが、特に医師などは最初の医学的適応だけで判断しがちで、4つの枠を作って初めて別の側面を考えるようになったというメリットの方が多いようである。この考え方は様々の立場の人が一緒に議論するための枠組みを提供することにもなる。



1)医学的適応(Medical Indication)
主に医師が考え、一般の症例カンファレンスでも討議されてきたことだが、医療のプロとしてこの部分をおろそかにすることは許されない。この部分の検討がきちんとできた上ではじめて、その他の様々な臨床倫理の検討が始まると言っていいと思う。
(1)診断と予後
診断と治療による予後の予測は臨床倫理でも基本になる事項である。ただし、実際の臨床では正確な診断ができないままに治療を進めなければならないことが多い。最近盛んに用いられるようになったEBMの考え方を使って、必要な情報を収集した上で、目の前の患者にどう適応するかが重要になる。
(2)治療目標
治療目標として一般に以下のような項目が考えられている。
 a.健康を増進し、病気を予防すること
 b.症状、痛み、苦しみを緩和すること
 c.病気を治療すること
 d.予期しない死亡を防ぐこと
 e.機能を改善する、あるいは安定している状態を維持すること
 f.病状や予後について患者を教育し、相談にのること
(3)ケアを受けている患者に害を与えないこと
このうちのどの部分がその症例の治療の目標とするのかを、他の枠にある患者の意向や家族の考えなども考慮して決める。
(4)医学の効用とリスク(Medical Efficacy and Risks)
治療には常に作用と副作用がある。そのメリットとデメリットを勘案して判断する。
(5)無益性(Futility)
患者の病状や重篤な場合など、上記の治療目標の達成が困難、あるいは、治療の結果が、患者の苦痛を増やすだけと判断される場合には、医学的介入は行わない、または限定すべきだと言う判断が医療者によってなされることがある。

2)患者の意向(Patient Preferences)(倫理学ではより正確に選好という言葉が用いられる)
“Autonomy”自律性尊重の原則を背景にしているが、わが国ではまだ患者の意見が前面に出てくることは少ない。これは、医師側に「知しむべからず、依らしむべし」という感覚が残っていて、わかりやすく患者に伝える、患者の意見をうまく聞き出すというようなコミュニケーション能力が不足していること、患者側に自分の意見をはっきり表明し、それに対して自己責任を持つという感覚に乏しく、どこかでまだ「おまかせ」医療を望んでいるという双方の問題があると思われる。

(1)患者の判断能力があるか
重度の痴呆老人や意識低下している患者では判断ができないし、うつ状態の場合は悲観的な判断をしやすいなどを考慮する。患者の判断力に問題がある場合は、事前の意思表示や、代理決定を尊重することになる。
(2)インフォームドコンセント
日本の臨床症例では癌の告知などこの問題が一番大きいように思われる。インフォームドコンセントの根本は医療者とのコミュニケーションと信頼関係の問題で、柏木9)が提唱しているICC(Informed communication consent:患者の理解力に応じたコミュニケーションをとり、十分患者がわかるように説明して、患者がわからない部分を聞いた上で納得する)、あるいはISC (Informed sharing consent:情報を一方的に伝えるのではなく感情を含めて共有する)などが大切である。事実は冷酷かもしれないが、伝え方が冷酷で、患者の希望を奪い取るようなものであってはならない。最近悪い知らせの伝え方の良書が翻訳されている10)11)。参考にしていただきたい。
(3)治療拒否(Treatment Refusal)
当然患者は医師から伝えられた治療方針に対して、拒否することもある。その患者に判断能力のあると思われる場合には、その意思を尊重して、別の方法や治療しなかった場合の対応について伝える必要がある。
(4)事前の意思表示(Advance Directives)
 まだ日本では、自分の判断能力がなくなった場合には、延命治療はしないでください等という文書(Living Will)を残しておく人は少ないが、家族や医療スタッフが、患者がどのような治療を望むかを聞いておくことは大切である。
(5)代理決定(Substitute Judgement)
 患者の判断力が低下した場合、誰かが患者に代って患者の希望を代弁あいなければならないが、その場合、患者をよく知る人が、患者の言動から、「患者に判断能力があったらこうするだろう」とおもんぱかって判断する「代行判断」(substituted judgement)と、理性的な人間なら誰もが同じような状況に置かれた場合に選ぶと思われる最善の方法を選択する「最善利益」(best interests)の2つの考え方が大切になる。日本では自分が判断できなくなった時、誰に判断してもらうかなどを、きちんと書式で残すことは少ない。介護保険を機に整備されようとしている成年後見人制度などの確立に期待したい。

3) QOL (日本語では生きることの質、生命の質、人生の質など色々な意味を含んでおり、そのままQOLという言葉を使うことが多い)
(1)QOLの定義と評価:色々な評価法が提唱されているが、身体、心理、社会、スピリチュアル(生きる意味など)の側面から評価する。
(2)誰がどのように決定するのか:患者が評価するのが前提であるが、判断力がない人では代理決定が必要となる。
(3)QOLに影響を及ぼす因子:向上させる因子を取り入れ、低下させる因子を除くこと。
 また、これは次の周囲の状況に含まれることだが、ケアをする者のQOLも実は大事な問題である。医療スタッフや家族、介護者のQOLが保たれていなくては、真に患者のQOLを向上させるケアを続けることはできないからである。

4) Contextual Features(周囲の状況)
医療は医療者と患者だけで行われるものではない。その周りの家族、社会の仕組みが複雑にからみ合っている。それぞれが大事にしているものをうまく調整していく必要がある。
(1)家族や利害関係者
 日本では特にこの家族の意向が強いが、患者本人の意思と家族の意見の双方を尊重して調節することが日本の医師には求められであろう。家族は大きな力を持っており、それが治療に効果的に働くことと、阻害因子として働くことがある。また患者だけでなく、患者家族もケアされるべき人である。
(2)守秘義務
 患者の病状について話してよいのは原則的には、患者と患者が望む人である。精神疾患や感染症については社会の偏見が強いので、特に慎重な配慮が必要となる。電子カルテの普及や、カルテ開示など、患者の診療情報提供などの動きの中で、どう患者のプライバシーを守っていくのかが問題になるであろう。
(3)経済、公共利益
 日本の医療経済もすでに難しい局面を迎えている。コストだけでなく稀少資源の活用の問題もある。例えばICUベッドが一杯のとき誰が一般病棟に移るのかなど。感染症の隔離の問題など公共の利益を前提とした対応も問題になる。
(4)施設の方針、診療形態、研究教育
施設やスタッフの数、研究や教育機関など診療の内容によってできる診療の内容は違ってくる。また治療スタッフ間の意見の対立なども問題になる。まだまだ日本では医療スタッフの中でのお互いを尊重した意見の交換の場が少ない。
倫理委員会というようなシステムの導入も大切だが、まずこのような倫理的な問題が日常の診療の中で相談できるような、スタッフの中での信頼関係ができることが望まれる。現実には業務の増加、スタッフの不足などの問題からそのような余裕がないと言う意見もあるが、このような倫理的な検討は、患者とのまた医療スタッフの間のコミュニケーションを促進し、最近大きな問題になっている医療過誤の防止にも役立つと考えている。
(5)法律、制度、慣習
 精神保健法による入院の手続きや、新たに施行された、虐待予防法、感染症予防法、成年後見法など患者の人権を守る法律については知っておく必要がある。また患者からのお礼などの問題の対処など慣習の中にも注意すべき問題が含まれている。
(6)宗教、代替医療
 エホバの証人の輸血拒否をはじめとする、ある種の宗教的の特別な治療法など、特に終末期の治療では重要になることがある。
(7)その他
これまでの4つの枠のチェックポイントにはいらなかったものは、一応その他として周囲の状況の中に入れて検討する。



この事例には表3のような4分割表を用いた分析がなされ、表4のような新たな情報収集と対応がなされた。この事例の分析、対応ともあくまで一つの考え方で、別の見方もあるだろうが、実際一つの症例にたくさんの倫理的な問題点があり、それに対する具体的な対応も色々とあることに気付かれたのではないだろうか。このような症例検討をくり返すことによって、実際にいちいち4分割表を作らなくても、大まかな倫理的な問題点が頭に浮かぶようになり、問題が起きる前に、事前に予防的な対応することができるようになっていく。


表3、事例の4分割表による分析
1)医学的適応
1.診断と予後
 進行胃癌でリンパ節転移もあり、予後は極めて悪く半年以内と予測
2.治療目標の確認
治癒は望めず、b.症状の緩和、e.機能を改善する、あるいは安定している状態を維持することf.病状や予後について患者の相談にのることが重要になる。
具体的に何を今回の治療のゴールにするかが問題になる。IVHをつけたまま一度家に帰すのか、食道ステントを作って少しでも食べられることを目標とするのかなど。
3.医学の効用とリスク
ステントを入れる場合、食事ができるようになるメリットと、手術によって退院の時期を逸するというリスクが考えられる。
これまでの医師の経験や文献的検討が大事になるが、あくまでそれは予測であり、実際の結果は患者にステントを挿入しないとわからないという不確実性が臨床の現場には存在する。
4.無益性(Futility)
 この患者では、治癒を目指すという意味での医学的介入の無益だが、症状、痛み、苦しみを緩和するという目的の治療は無益ではない。 
2)患者の選好
1.患者の判断能力
 現在のところ、患者は意識もしっかりしていて判断能力はあると思われる。しかし、自分の体調が悪くなっていており、少しうつ傾向にあり、悲観的な判断をする可能性はある。
2.インフォームドコンセント
(コミュニケーションと信頼関係)
 最初の手術はきちんと説明されているが、今回の再入院の腸閉塞の原因ががんの腹腔内転移であることは、本人に隠されている。なぜどんどんまた悪くなっているのかという不信があるようだ。患者の生きる希望を失わせることなく悪い知らせを伝えていく必要がある。
3.治療の拒否
 今のところ治療の拒否はない。
4.事前の意思表示(Living Will)
5.代理決定
 特に事前の意思表示の文書はない。これから意識の低下するような状態になることは十分予測され、何らかの自分の治療に対する意思表示はしておいてもらう必要がある。また、判断能力がなくなった時、かわりに誰に判断してもらうかについては、患者と家族、医療者との間で話し合っておくべきことである。

3)QOL 
1.QOLの定義と評価
 身体的には一応現在モルヒネで痛みはないが、精神的には症状悪化しており不安な状態。社会的に孤立したくない。スピリチュアルな側面からは新しい仏壇に魂を入れてきちんと自分の一生を締めくくりたい。
2.誰がどのように決定するのか
 意識のあるケースでは当然患者本人の希望が最優先される。
 本人の話では家で痛みや吐き気がなく安楽に過ごせることが今の自分にとって一番いいことだと思うとのこと。
 3.QOLに影響を及ぼす因子
痛みのコントロールと栄養状態の管理が十分にできること。
家族の精神的安定も患者の心身の安定には不可欠である。そのためにも地域の開業医との連携、在宅支援センター、訪問看護ステーションなどの定期的なサポートが必要になる。 
4)周囲の状況
1.家族や利害関係者
 妻は、家に帰って来ることに不安がある。娘達も自分たちの生活の場があり、そう長くは看病につけない。
2.守秘義務
 患者も家族も、近所の人には悪性の病気であることを知られたくない。
3.経済的側面、公共の利益
 年金とガン保険からの給付があり、経済的には問題ない。
4.施設方針、診療形態、研究教育
 まだ地域の診療所、開業医などとの連携が十分でなく、開業医に在宅ターミナルケアをお願いしたケースはない。
5.法律、慣習
 特に法律的な問題はない。
6.宗教
 本人にとっては家の仏壇に魂を入れる儀式が終わらないと死んでも死にきれない。



表4、事例についての新たな情報収集と具体的対応


 病院の主治医は、担当看護婦の意見も聞いた上で、ステントをいれるか、入れずにこのままIVHを入れたまま、自宅に帰って様子を見ることにするのかについてリスクと利点を検討して、今回はあえてステントまでは入れずにIVHのまま家に帰した方がいいのではないかと判断した。ただし、自宅に帰る場合の患者、家族の不安を考慮して、患者の地域で定期的に訪問診療や、急変時の往診が頼める地域の医師を見つける必要があり、地域の保健婦などに相談していたが、妻が糖尿病で定期的にかかっているかかりつけの開業医に話したところ、訪問診療や往診をすることを了承してくれ、患者も家族も安心して帰宅することになった。また病院の主治医は、入院治療が必要であればいつでも再入院できるように話し、それも患者家族の安心につながった。
患者は自宅に戻って2日後、仏壇の入魂式を行った。そしてその翌日から、気が抜けたのか、意識が低下することが多くなった。治療を引き継いだ開業医は、前の病院の主治医にも相談して、点滴内のモルヒネの量を減量した。また、時々息苦しさもあり、聴診上心不全による肺うっ血もあったため、輸液も少し絞り加減にし、在宅酸素療法を業者に依頼して開始した。この時点で開業医は、家族に、かなり状態の悪いことを話し、急に呼吸や心臓が止まることがあっても、心臓マッサージ等はせずに、家族がそばにいて看取ることを確認した。退院5日めに急にあえぎ呼吸がおこり、往診、その後だんだん呼吸数がおちてきたため、近くにいる親戚には連絡をとって集まってもらい、家族に手を握られながら息をひきとられた。 
娘さんと奥さんは「何で急に悪くなったのですか、こんなに早くなくなるならもっと早く休みをとって看病してあげたのに。」と後悔されていた。ただ、病院の主治医、および治療を引き継いだ開業医からは、退院した後、いつ急変してなくなることがあってもおかしくないことは何回か説明されていたのだが、そのことを家族は受け入れたくなかったのであろう。
奥さんは定期的に開業医に通っており、その医師は、睡眠はとれているか、食事はとれているかなどを聞きながら、奥さんの悲嘆についてのサポートに勤めた。半年たって、少しずつ元気を取り戻しておられるようである。


<臨床倫理の今後の日本での普及への提案>
最後に臨床倫理が日本の医療現場に普及するための提案をしたい。日本で、米国のような臨床倫理の専門家がや倫理委員会が育ち、臨床倫理の啓蒙活動をするのにはもう少し時間がかかるだろう。それまでは、現場で臨床倫理の有用性に気付いたものが中心になって、事例検討を重ねてていくことが、一番現実的で確実な普及法ではないかと考えている。
1、 倫理的な事例について気付き、考えようとするような信頼関係を、患者、 患者家族、医療スタッフとの間で日頃から作っておくこと。
2、 信頼関係を作るためには、コミュニケーション能力と一般の人の感覚を身につけること。医療者である前に、まず一人の社会人としての役目を果たすことが大切である。
3、 自分で気付いた倫理的な問題を含む事例を自分なりに考えてみる。その上で誰かの意見を聞いて、自分以外の見方を学ぶこと。
4、 問題解決のためには、様々な資源の利用を考える。一人、一医療機関だけで抱え込まないこと。
5、 臨床倫理の必要性、有用性を感じた人を中心に臨床倫理の教育を進める。これは学生時代、生涯教育を通して続けていく必要がある。
6、 臨床倫理の研究を進める。特に日本における事例検討や難しい倫理的判断で考えるべき点を明らかにし、それを現場にフィードバックする。

最後に、これまで臨床倫理の検討を一緒にやってきた佐賀医大の学生、先生方をはじめ、HPでの討論や、講演会などで貴重な意見を下さった方々に心から感謝します。またこの文章を読んで、さらに実際の事例検討を学びたいという方や、質問相談のある方は、参考文献にあげる私のHP12)を御覧下さい。



文献
1) 浅井篤、福井次矢「臨床倫理とは何か(その2)」看護学雑誌62:pp258-261、1998
2) Siegler M, Edmund D. Pellegrino, Peter A. Singer:Clinical Medical Ethics The journal of Clinical Ethics. 1:5-9、1990
3) 藤沼康樹「臨終の立ち会い方」(臨床倫理)JIM6、p617-18、1996
4) 伴信太郎:プライマリ・ケアに求められる臨床能力とはーI 総合的判断能力ム倫理的側面への配慮、日本医事新報、No.3971、pp30-32
5) 赤林朗、大井玄:「医療・看護実践および教育の場における“クリニカル・エシックス”の役割、生命倫理5、pp55-59、1995
6) Jonsen AR, Siegler M, Winslade WJ:Clinical Ethics--A practical Approach to Ethical Decisions in Clinical Medicine (3rd ed.). McGraw-Hill, New York, 1992. (日本語翻訳版:赤林朗、大井玄監訳「臨床倫理学:臨床医学における倫理的決定のための実践的なアプローチ」新興医学出版社、東京1997)
7) 白浜雅司:卒後臨床研修医必携「臨床倫理の基本」、JIM10、pp229-233、2000
8) 白浜雅司:医療職を目ざす学生の倫理的感受性をいかに育てるか、看護教育41、pp260-266、2000
9) 柏木哲夫:がんの告知、日本内科学会雑誌85、pp3-8、1996
10) 「真実を伝える」ロバート・バックマン著、恒藤暁監訳、前野宏、平井啓、坂口幸弘訳、診断と治療社、東京、2000.9.21
11) 「いかに”深刻な診断”を伝えるか」チャールズRKハインド著、岡安大仁監訳 、高野和也訳、人間と歴史社、東京、2000
12) http://square.umin.ac.jp/masashi/discussion.html
「臨床倫理の討論のページ」、これまで筆者が佐賀医大の学生との討論を中心に国内外の方と行った臨床倫理の事例検討などをホームページにまとめて掲載したもの、上記の筆者が書いた論文も読める。何か相談のある方はそのページからメールを送って下さい。


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