佐賀医科大学における医療倫理教育
 The Bioethics Education at Saga Medical School
(第7回日本生命倫理学会ワークショップ「医療従事者のための生命倫理教育」発表 )
 
     白浜雅司
     Masashi Shirahama
   三瀬村国民健康保険診療所所長
   (佐賀医科大学総合診療部非常勤講師) 
Key Words
医療倫理教育(Bioethics Education)
臨床医療倫理(Clinical Ethics)
一般教育と臨床医の協力(Collaboration of Premedical teachers and Physicians)
倫理コンサルテーションシステム(Ethical Consultation System)

(要旨)
 佐賀医科大学は地域と時代の要請に応える医師の養成を目的とした新設医科大学で、医療倫理教育にも積極的に取り組んでいる。一般教育の医学概論で医療倫理的課題についてのディベート、障害者施設での介護実習、大学病院での看護実習などを行い、臨床教育の中で、病気だけでなく患者の気持ちを理解することを目的としたインタビュートレーニングや具体的症例の検討を中心にした「臨床医療倫理」などを一般教育の教官と総合診療部の医師が協力して行っている。
 このような教育の目標は、日常診療の中で起きる医療倫理的な問題に気付き、臨床医療倫理の方法を使って問題点を分析し、患者の意見を尊重しつつ、広い分野の意見を参考にしながら最善の解決策を探ることである。将来このような教育を受けた学生の中から、日常の診療の中で倫理的課題について議論できる臨床医が育ち、病院の中に医療倫理的課題についていつでも相談できる倫理コンサルテーションシステムができることを願っている。


1、はじめに
 佐賀医科大学は、1976年に開学した新設医科大学の一つで、時代の要請と地域医療の要望に応える人格と能力を有する医師および看護者の養成を行うことを教育の目標としている。つまり、これまでの大学医学部、医科大学で求められた研究者養成というよりは、地域の第一線で役立つ医療従事者の養成を大きな目標としているのである。このような医科大学においてどのような生命倫理教育(医療倫理教育)が行われているかについて報告する。
 このような地域の第一線で役立つ医療従事者の養成という目標を達成する試みの一つとして1989年、佐賀医科大学に国立大学としては最初に総合診療部が設置された。これは専門化しすぎた医療への反省から、患者を総合的に診ることを目的につくられた診療部門で、旧来の内科、外科などの枠にとらわれずに、第一線でどのような訴えにも対応できるプライマリケア医を養成するだけでなく、医療の効率性の評価、予防医学、ターミナルケア、患者医師関係、医療倫理、地域医療、保健医療福祉の連携など、臓器別の専門科では対応しにくい分野の教育、研究をすることを目的としている(図1)。このような経緯から佐賀医科大学全体の医療倫理教育についても、一般教育の教官だけでなく、総合診療部の医師が1年次から6年次まで関与している。今回その教育の現状と課題について報告する。まだ取り組み始めたばかりの部分も多いが今後の医学生に対する生命倫理教育の一つの試みとしてご批判、ご意見をいただければ幸いである。

(図1)

2、これまでの医療倫理教育とその問題点
1)医学概論1)、アーリーエクスポージャー (1年次必須)
 開学以来佐賀医科大学においては1年次の医学概論1)として、基礎医学、臨床医学の各分野の教授がそれぞれのの専門分野についての入門的な話がなされていた。このような講義は、医学部に入ったという実感は与えるものの、系統だって医師の人間性を育てるような内容にすることは難しかった。
 またアーリーエクスポージャーとして精神病院、精神薄弱児施設などでの1日介護実習を行ってきた1)。このような実習を体験して、最初は難しかったが最後は何とかコミュニケーションがとれるようになって援助者としての喜びを味あう者もいたが、やりっぱなしで十分なフォローアップがないために、患者に叩かれて痛かったこというようなネガティブな印象だけが残る者もいた。
2)一般教育倫理哲学(1、2年次選択)
 哲学の副読本としてデーケン博士と曽野綾子さんの書かれた「旅立ちの朝に」を副読本として読ませ、人間とは何か、死とは何かについて考える時間を持っていた。
3)医学概論1)(3年次必須)
 病棟介護実習として大学病院の準夜勤時間帯に、看護婦(士)の補助者としての実習。自分達と将来一緒に働く医療従事者の仕事の大変さを知る意味は大きいが、傍観者となることが多く、本当に患者が何を求めているかを知る機会にはなっていなかった。
4)臨床入門(4年次必須)
 5年次からの臨床実習を前に医師に必要な心構えについて病院長や教授が講話をしていた。しかしこれは概念的な話で、必ずしも臨床医学で役立つ臨床医療倫理の課題や方法については学ばれていなかった。
 このようなこれまでの教育の反省から新たな医療倫理の教育の試みが始まった。
3、新たに始まった医療倫理の教育
【一般教育】
(1)1年次の医学概論の講義に、学内の教授だけではなく生死の問題を取り上げた作家、医療人類学者、僻地医療に携わった医師が加わり、広い視野から医療について考える機会を持つようになった。
(2)1年次の医学概論の中で「代理母の問題」、「癌告知の是非」、「脳死と臓器移植」、「障害児の統合教育」の4つの大きな現代的医療倫理の問題について、学生がディベートする時間を設けた。まだ現実の医療に接する経験がないので、書物などから得た概念的な原則論だけで討論したグループもあったが、夏休みにリハビリテーション施設を見学した学生もあり、このようなテーマについて意見を戦わせた経験は将来臨床に出たときに必ず何らかの役に立つものとなるだろう。
(3)一般教育の社会学の教授は、身体的障害を持ちながら医療ソーシャルワーカーとして働いた経歴があり、患者の視点でものを見ることを目標に、車椅子で大学内や市内を移動する実習や、障害者が参加するような社会学の授業を始めた。松葉杖で教室を回る教授から学ぶQOLは概念的に学ぶQOLとは違って具体的なものとなるであろう。
(4)一般教育法学も新しく就任した講師により、法学一般だけでなく、「患者の自己決定権と法」というゼミナール形式の小人数教育が始まった。
【臨床教育】
 臨床における医療倫理教育は前記のように総合診療部が中心になって行っている。
(1)4年次臨床入門での試み 
 問診、診察を学ぶ臨床入門系統講義全40コマの中に、患者遺族が参加した「ターミナルケア」の講義、実際のケースを学生と一緒に考える「臨床医療倫理」、自分の病気体験をもとに、身体症状だけでなく心理社会的背景などを重視して作成する「カルテ記載実習」、模擬患者を用いた「インタビュー実習」など、医師の人間性を育てることに力点をおいた授業を6コマほど組み入れた。
 このうち「臨床医療倫理」では以下のようなケースを事前に課題として与えておいて、賛成反対に分かれて議論した。
 1993年度の課題(トピックスを中心に)
 1、九州大学で行われた肝移植手術の是非。 
 2、男性のエイズ患者から自分の子供がほしいと相談された時の対応。
 3、逸見アナウンサーへの癌告知の是非。
 これらの問題はマスコミでセンセーショナルに取り上げられていたためか議論が表面的になってしまったため、次年度には以下のような実際の症例を提示して討議した。
 1994年度の課題(実際の症例の提示)
 1、リハビリを拒否し自宅で寝ている55歳の商店主への対応。
 2、転移性骨腫瘍の45歳の男性への対応。
 3、腎腫瘍が見つかった精神遅滞のある結節性硬化症の23歳男性への対応。
 臨床経験のない学生にとってはやや難しい面もあったが、学生たちは積極的に取り組んでいた。
 また模擬患者を用いた「インタビュー実習」では、33歳の子宮癌の疑いのある女性に手術を勧めるという設定でインタビューさせたが、そこでは患者が来月結婚を控えていること、そして出産を望んでいることを聞き出せるかなどを目標とした。
(2)6年次の総合外来実習の中でのインタビュー実習
 上記の臨床入門でのインタビュー実習では4人の代表者しか実際のインタビューをできず全員がやりたいという希望が多かったため、学生全員に心理社会的背景を含めた患者シナリオを作成させ、患者役と医師役の両方のロールプレイを必ず一回は行い、いかに患者の気持ちを理解することが難しいかを体験させている。
(3)6年次の選択コース「診療所実習」、「臨床医療倫理」
 佐賀医科大学では6年生が基礎医学、臨床医学の約160の選択コースの中から自分の興味のある分野を選ぶ18週間の選択コースが設けられており、その中に2週間の「診療所実習」コースと4週間の「臨床医療倫理」コースとを設けた。
 診療所実習は、大学から車で30分ほどの筆者の勤務する山村の国保診療所で、地域医療における保健医療福祉の連携を体験するものである。初年度の今年は5名の学生が選択したが、大学病院で病気の患者しか見ていなかった学生が、往診などを通して地域の中で病気を持ちながらも生き生きと生活している患者の姿を見る意義は大きかったようである。
 またもう一つの選択コース「臨床医療倫理」
は、今最も力を入れている教育で、学生が5、6年の臨床実習の中で倫理的ジレンマを感じたケースを持ち寄り、週1回約2時間、4週間にわたって学生と総合診療部医師、一般教育の哲学、法学、社会学の教官が一緒に色々な角度から討論するものである。ケース内容は、Jonsenら2)の臨床医療倫理の4分割法(医療倫理の課題を医学的適応、患者の選択、QOL,状況因子の4つに分けて考察する方法)(図2)を参考にして分析する一方、ケースと問題点は、国内外の医療倫理の専門家、医療関係者、患者代表にもインターネット、ファクスなどで送って色々な立場からの意見を求め、学際的だけではなく国際的な討論の場としている。初年度の今年は7人の学生が履修した。具体的に選択コース「臨床医療倫理」で討議した症例と問題点は以下の通りである。
 1、横紋筋肉腫と診断された10歳の男児とその両親に対するインフォームドコンセントの問題。
 2、糖尿病と脳梗塞による右半身マヒがあり、2回目の心筋梗塞を起こして入院した64歳女性患者に対するバイパス手術の手術適応とインフォームドコンセントの問題。
 3、住民検診で肝臓癌が発見された67歳男性についての治療法の選択とインフォームドコンセントの問題。
 4、治療に抵抗する特発性間質性肺炎による呼吸困難で入院した66歳男性に対するインフォームドコンセントと今後の治療、転院の問題。
 5、癌であることを告げられないままに肺癌に対する化学療法を受けて無事退院した64歳主婦と真実の告知を希望して、胃癌であることを知らされた後、精神錯乱状態になった35歳の製薬会社員という2つの症例から考えた癌告知の問題。
 6、焼身自殺による熱傷で入院した60歳女性患者。つけかえの度に強い痛みを訴えながら、3ヵ月後に多臓器不全で亡くなられた症例を通して患者の望む最善の医療を 考える。
 7、NHKスペシャルで放送されたアメリカのハーマン病院に入院した19歳女性の頭部外傷患者の症例から考えた意識が回復しない患者に対する延命治療の問題。
 このように学生が臨床実習の中で何となく心にかかっていた症例の臨床医療倫理的な問題を、臨床医療倫理の4分割法を参考にして分析し、その症例で問題となる事項についてカルテをチェックしたり、文献を検索したりして自分なりの意見をまとめ、教官も課題についての資料を集めたり、他の専門家の意見をインターネットを通じて聞いたりして毎週の討論に備えた。議論は医学的課題から社会文化的な課題に発展することもあったが、それぞれの専門分野から意見を出し合い、広い視野で討議できたことは有意義であったし、学生も「多くの違った側面から問題を考えることができ、自分の考えなかったような見方を知ったことが良かった。」「自分の中でもやもやしていた事柄を言葉にすることで、問題点が明確になり、さらに可能なこと、不可能なことがはっきりしてきたので良かった。」などと評価していた。
4、医療倫理教育の目標
 現時点での佐賀医科大学における医療倫理教育の目標は以下のようなことである。
(1)日常臨床の中で起っている医療倫理的ジレンマに気づくこと。
(2)ジレンマを臨床医療倫理の方法を用いて分析し、具体的な問題点を挙げること。
(3)問題点を明らかにする過程で、カルテの検討、文献検索を行うとともに、文献の批判的な読み方やDecision Analysisなどの臨床疫学的手法を学ぶこと。
(4)問題の解決法については、倫理的原則や医師の論理を押し付けるのではなく、色々な立場の意見を聞いて、最終的に自分が主治医であれば何をするのかを決定すること。(患者の意見を優先するのは当然であるが、医療従事者は臨床の難しい問題を傍観するわけにはいかない。)
(5)日本の医療倫理的問題のかなりの部分はコミュニケーション能力の不足に起因するものが多いので、自分の意見をわかりやすく説明し、色々な立場の人と率直に意見交換する能力を養うこと。
5、将来の医療倫理教育のビジョン
 今後の医療倫理教育のビジョンとして以下のようなことを考えている。
(1)医療倫理の教育の中で医学科と看護学科の学生が討論できる場を設け、チーム医療の中で医療倫理を語り合える医療者を育てること。
 近年多くの4年制の看護大学や、看護学科ができているが、その大きな目的の一つは、将来、患者のために医師と対等に議論できる看護婦(士)と彼らの意見を聞ける医師を育てることでチーム医療の質を向上させることであろう。将来上記の臨床医療倫理などのコースに看護学生が参加することを願っている。筆者がモデルにしたアメリカワシントン州立大学の医療倫理コースは夜6時から開かれていていて、全学年の医学生、看護学生だけでなく、ソーシャルワーク専攻の学生、法学部の学生、一般開業医にも公開されていて、実に多方面から現実の医療倫理的課題を考えていた。たぶんこのような議論の中から日常的な医療倫理的課題を討議できる倫理委員会のメンバーが育つのではないかと考えている。
(2)医療倫理に関心を持つ医療従事者を育て、彼らが核となって臨床各科のカンファランスで医療倫理的問題が日常的な話題として取り上げられるようになること。
 日本の病院の臨床カンファランスは臨床医療倫理の4分割法でいくと医学的適応の議論がほとんどで、その他の患者の選択やQOLまではなかなか言及されない。臨床医療倫理の教育を受けた学生たちが順調に育って、各科の中堅医師となり、カンファランスの中でごく自然に医療倫理的課題が語られるようになることが望まれる。
(3)病院内で発生する医療倫理的課題について、24時間いつでもコンサルテーションできるシステムができること。
 このようなコンサルテーションシステムができれば、患者のために有益なだけでなく、熱心に患者のことを考えながらも、現在の医療体制の中での限界にぶち当たってやめていく本当に人間性に富む医療者を支えることにもなるであろう。
 6、おわりに
 このような医療倫理教育に対する学生の感想として「知識の詰め込ばかりで、自分で考えることがなくなっていたが、久しぶりで医療の目的を考えることができて良かった。」「患者の立場を考えていては医師になれないのではないかと不安になっていたが、この授業に出て、しっかり患者のことも考えていこうと安心できた。」などと書いてくる学生がいる。確かに職業人として患者との適切な距離を覚えることは大切であるが、このような学生の持つ素晴しい人間性をそこなわずに大切に育てていけるような教育を目指したい。また一方には「医学部では医学を教えればいいのであって、今さら人間性を育てようとしても無駄だ。」「理系出身の自分としては答えがいくつもあるような問題を考えることはできない。」と率直な感想を書いてくる学生もいる。感想だけで判断することは危険であるが、その中には研究者にはむいているが、必ずしも臨床医にはむかない学生が含まれている可能性があり、彼らに臨床医以外の道があることを勧めることも、医学教育に当たる者の責任であろう。
 筆者は現在人口1800人の山村の診療所の医師をしながら選択コース「診療所実習」の学生を受け入れ、週一回非常勤講師として佐賀医科大学で、総合外来実習のインタビュートレーニングと選択コース「臨床医療倫理」の教育に参加している。このように現場の医師が医療倫理教育に関わることは、学生に先端医療における医療倫理だけが問題なのではなく、日常の診療の中に多くの医療倫理的課題が潜んでいることを認識してもらい、決して理想的とは言えなくても、このような倫理的側面を大切にしながら働いている現場の医師がいるんだというモデルを示すだけでも意義深いことだと考えている。
【謝辞】このような教育の場を与え、御指導いただいている佐賀医科大学の小泉俊三(総合診療部)、斉場三十四(社会学)、針貝邦生(倫理学)、増田幸弘(法学)の各先生方に感謝いたします。またワークショップの司会者として今回このような発表の機会を与えて下さった東京大学赤林朗、産業医大大林雅之両先生にお礼申し上げます。
 
参考文献
1)山本裕士・武市昌士『佐賀医科大学における“Early Exposure”』医学教育,17(3),1986
2)Jonsen AR,Siegler M,Winslade WJ. Clinical Ethics : A Practical Approach to Ethical Decisions in Clinical Medicine(3rd ed.). McGraw -Hill,New York,1992
 



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