死と向かい合う(2)
死に逝く人に寄り添うことと患者家族のケア

インマヌエル佐賀教会員 白浜雅司



今回は実際に死に逝く人にどう寄り添うのかと、大切な家族のケアについて書くことにします。

1、悪い知らせを伝えること
「がん告知」ということが話題になりますが、私自身この「告知」という言葉はできるだけ使わないように医学生に指導しています。告知と言う言葉は、強い立場の医師から、弱い立場の患者に上から下への一方的に情報伝達するイメージが強く感じられるからです。告げるか告げないではなく「いかに希望を奪わずに悪い知らせを伝えるか」が大事だと思います。
日本では、「悪い知らせ」は伝えないで最期まで隠して「きっとよくなるから、がんばりましょう」と安易に励ましてしまうことがあります。また家族の方から、患者が希望をなくすので、「がん」であることは告げないで下さいと懇願されることもありますが、本人が病状について知らずに、最期の大事な時期にすべきことを何もしないまま人生を終えるということは、本人にとっても家族にとっても後悔することにならないでしょうか。私はそのような家族の方に、「本人が何も知らないでこれから病状が悪くなって、家族のサポートが大切になる最期の日々、患者さんのそばにすわって素直に色んなお話ができるでしょうか。」と問うことにしています。患者さんのためと言いながら、本当は医者も家族も死を避けているのではないでしょうか。



2、悪い知らせの伝え方
病気の治癒が難しい状態であることを知った上で、これからやれることをやっていけることを支えために「悪い知らせ」を伝えるのです。すべての希望を奪うことは避けなければなりません。最初は「ちょっと長期戦になりそうです」とか「完治は難しいかもしれない」「今後病状の急変もありうるので、必要なこと(たとえば仕事の引継ぎ)は早めに確認しておいて下さい」などと言う説明から始めるべきでしょう。確かに一時的に落ち込みますが、人間は強いもので、時間がたてば必ず立ち直ります。病状が進んでから、「がんばりましょう」と言ってもむなしいだけです。「何を今更がんばれっていうの?」。これが多くの末期患者さんの本音でしょう。自分の病状と周りの説明が食い違うほど、本人の不安は増していきます。「真実は冷酷なものかもしれないが、真実の伝え方が冷酷なものであってはならない。」という視点にたって私は祈りながら、患者さんに病状を伝えています。「私はもう治らないのではないでしょうか。死ぬのではないでしょうか。」といわれたときに、「死ぬなんて言わないで。きっとなおりますよ。」と話をさえぎるのではなく「本当に治るといいですね。祈っていますよ。」と情を込めて言うのとは違うと思うのです。また「死が遠くないような気がするのね。つらいね。何か今のうちにしておきたい、してほしいことがある?」と答えられたらどうでしょう。「死ぬのが怖い」という人には、「死はおわりではない。また天国でお会いしましょう。待っていてください。私もそう遠くなくいきますので。」という会話ができたらどうでしょうか。私たちクリスチャンにとって死は敗北ではないはずです。また、すべての真実を伝える役として医師がふさわしいかどうかは一概には言えません。有名な闘病記「わが涙よわが歌となれ」は、ご主人である牧師先生が、悩みに悩みながら、患者の牧師婦人に伝えられ2人で死に精一杯向き合われた記録でもあります。


3、死に直面した方の反応と周囲の対応
「今回の病気の治癒は難しいと思われる」とうい話を聞いたときに患者さんはどのような反応をされるでしょうか。この反応は人によって様々でしょうが、Aデーケン先生は12の悲嘆のプロセス(「精神的打撃と麻痺状態」、「否認」、「パニック」、「怒りと不当感」、「敵意とうらみ」、「罪責感」、「空想形成ないし幻想」、「孤独感と抑うつ」、「精神的混乱と無関心」、「あきらめー受容」、「新しい希望−ユーモアと笑いの再発見」、「立ち直りの段階−新しいアイデンティティの誕生」)を提唱しておられます。紙面の都合で、詳細は先生の本を参照していただきたいのですが、たとえクリスチャンであっても最初からすべてのことを冷静に受け入れられるわけではないことは知っておいてほしいです。もし最初そのことを冷静に受け入れられなくても、決してそれは自分の信仰が足りないからだからとか、自分の罪を神様が罰せられているのだと思わないでほしいと思います。そのような時を通しても神様は私たちを成長させてくださいます。もちろん、その時点で、心にわだかまりとして残っているものがあれば神様に祈って許してもらうこと、誰かと和解が必要であれば、素直に許しを請えばいいと思います。そのことを神様は最善に導いてくださるでしょう。
私の患者さんで、戦時中に部下を多く死なせた部隊長がおられます。肺の病期による呼吸苦がつよく、酸素療法を勧めたのですが、自分のような部下を殺してしまったものが、楽に生きているのは申し訳ないと拒否されました。しかし私たちの罪は決して一人で背負いきれるものではありません。罪を潔めて下さるイエス様の愛を信じているのですから、この病気は自分の罪の結果だと自分をさげすむのではなく、もう一度神様の前にこのような私を助けてください。おゆだねしますという祈りができたらなと思います。「わが涙よわが歌となれ」の中には、トイレにも自分ではいけないけれど「あ、り、が、と、う」といえる。いつものように祈ることができる、そしていつものように子どもの宿題を見てあげようという自然体の信仰が描かれています。信仰は本当に力になるのですという証に、我々が勇気付けられます。その支えとなるのは、やはりその方自身の祈りと、周りの方のとりなしの祈りであるように思います。
あとひとつ知っておいてほしいのは、聴力は最後まで残るということです。患者さんの手をとって耳元で、「これまでいろいろありがとう。これから私たちがあなたの信仰を引き継いでがんばっていきますから。安心してください。」 というようなお別れができたらと願います。                  
4、家族のケア
 最後に家族のケアについて述べます。柏木先生によると、愛する家族を失った家族は大体1年くらい様々な悲しみの症状を経験するようです。「寝つきが悪い」、「十分に寝た気がしない」という睡眠の障害、「食欲不振」、「うつ気分」、「涙もろさ」、「興味の低下」、「家にこもる」、「寂しさ」、「自責の念」など一言で言うと「うつ状態」です。半年でこの悲しみから乗り越えられる人が50%、1年で70%、20%の人は1年半以上このような症状が続くのだということと、悲しむべきときに、きちんと悲しんでおかない(男の人も泣くべきときに泣くことが必要です)と悲嘆が長引くことがあるということを指摘されています。時間が薬というのも事実ですが、まわりの方が十分に悲しんだ上で悲しみを乗り越えられるように祈ることが何よりも大切です。ここでも安易な励ましが家族を傷つけることだけは知っておいてください。柏木先生の本に、牧師の夫を交通事故で突然亡くした後、教会の婦人会の方から(もちろん善意で)「いつまでもくよくよしていてはだめよ。もっと早く立ち直るようにがんばりなさいよ。」と励まされたこと。また、夫の死をきっかけに、問題のあった息子が立ち直ったことから、「神様は息子さんを立ち直らせるために、ご主人の命を召し上げられたのよ」というような勝手な理由付けをされ、余計に辛くなった経験を通して、死別カウンセラーになった牧師婦人の話がありました。
 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣ける」支え手でありたいと思います。クリスチャンとしてコリント13章の愛の章に書かれているようなケアをできればいいのではないでしょうか。自分のため、自己満足のケアでない、いつも相手を思いやることのできるクリスチャンとして成長できればと願っています。


参考文献
アルフォンス・デーケン「死とどう向き合うか」NHKライブラリー
柏木哲夫「人生の実力」幻冬舎、「死を看取る医学」NHKライブラリー
原崎百子「わが涙よわが歌となれ」新教出版社