死と向かい合う(1)
死の準備教育
インマヌエル佐賀教会員 白浜雅司


2回にわたって、「死と向かい合う」ことについて書くことになりました。編集者からの依頼には、「死をどのように迎えるか」は、永遠のいのちを確信しているクリスチャンにとっても最大の問題であるといえます。けれども教会としては、死の問題については信仰的には分かっていることとして、なかなか実際的・具体的な取り組みが不十分で、自分や身近な人の死の宣告に対する精神的な動揺や痛みや悲しみ、ショックについて深く関われていなかったという現状があります。死を迎えるということはどのようなことか、どのような問題があり、どのような取り組みが必要であるかを霊的・信仰的な角度ばかりではなく、医学的、社会的な角度を含めて、論じていただければ感謝です。」とありました。
私は、ホスピスのようなターミナルケアの専門家ではなく、人口千七百人の村の診療所で「日常的な病や死」に立会いながら、大学で、どのようにしたら患者に最善の医療を提供できるかという臨床倫理や医療コミュニケーションの教育に当たっている医師です。そのような視点と一信徒の立場から、「死とどう向かい合うか」について書いてみたいと思います。


1、死は必ず訪れる
 最近医学界では、エビデンスベースドメディスン(根拠に基づいた医療)という言葉がはやりです。統計データをもとに、目の前の患者さんに最善の医療を提供しようというものです。しかしながら人間は個体差が大きいために、ある人には効く薬が、別の人には全く効果がないばかりか、予測もしなかったような副作用で不幸にも命を落とすことさえあります。そして皮肉にも、唯一百パーセント正しく予測できるのは、人間は必ず死ぬということです。ところがこの人の死を現実的に体験する機会が、現代社会では非常に少なくなってきています。


2、死を体験することが少なくなった理由
 ではなぜ、死を現実的に体験する機会が少なくなったのでしょうか。
一つは、病院という社会から隔離された場所での死が一般化したことにあるようです。1947年には90パーセント以上の人が家で死んでいたのが、2003年には、80パーセント以上の人が病院で死んでいます。また家族が離れて住むようになったために、家族の最期の看取りに定期的に関わるということも難しくなってきました。私の住んでいる山村でも、この十年、家で最期を看取る人は激減しています。家の近くで農業などをしている人は、まだ昼食時に帰って患者に食事をあげてということも可能ですが、家族が昼間仕事に出ている家族では、最期の看取りはかなり難しいです。また、病院はどうしても治療優先の場ですので、大切な家族とのお別れよりも、最期まで家族を外に出しての延命治療が優先され、きちんと人生のお別れをする、最期を看取るということが二次的になっているのも事実です。
二つ目には、痛みや悲しみの感情を伴う現実の死ではなく、ドラマやニュース、さらにはゲームの中の死との混同があると思われます。最近子供達にまで安易な殺人事件が起きることに関連して、20−30パーセントの子どもが、「人間は死んでも生き返る」とアンケートに答え、その理由としてコンピューターゲームと同様にリセットがきくというようなショッキングな報告もありました。


3、しっかり死に向き合うことのできない現代人
自分や自分の周りの人の死に突然出会わなければならなくなった時に、その状況をなかなか受け入れられないことがあります。最近医師として、一般の方の先端医療に対する過度の期待と、その裏返しの医療不信が気になっています。「入院したのになぜ死んだのでしょうか」とあたかも医療ミスでもあったかのように語られ、身近な人を失った不安や怒りをぶつける場所がなく医療者にぶつけられているのだろうなと思うことがあります。人間は死に直面すると、非常なおそれと不安とストレスを感じます。心療内科では一番のストレスは配偶者の死であると言われています。そのような意味で、自分にも家族にも確実に起きる死についてあらかじめ考えておく「死の準備教育」が必要になってきているのです。


4、死の準備教育の必要性
 死の準備教育については、日本では上智大学のデーケン教授が中心になって普及され、著書もたくさん出てきますので参考にされたらいいと思いますが。私は特に以下の2つの面から「死の準備教育」の必要性を感じています。
1)すべての人が直面することになる死への準備
 高齢で徐々に悪くなっていく病気だけでなく、若い人も突然病気になったり、事故にであったりして、準備されてない死に直面する。早期がんの治療ができる時代になっても「がん=死」と考えてしまって、絶望的になり、それからの治療に向き合えない方がおられます。まったく冷静にというのは難しいでしょうが。日常的に時々、死について考える時をもつことによって、本当に死に直面せざるを得なくなった時に、しっかりと死に向かいあう心備えができるように思います。
2)命の尊さ、生きている喜びを知る機会、神様と出会う機会
 人間が限りある命であることがわかって、自分の生き方をふり返り、さらに成長するかたがおられる一方で、自分の不幸を恨んだり、神様をののしったりするということがあります。特に病を通して、また死の過程をとおして神様と出会い、本当の意味での永遠の命を信じてまさに天国にかえられるのだとわかる方がいる一方で、なんで神様はこの私が、今、病を得て、死ななくてはならないのかと悩む人がいます。有名な淀川キリスト教病院のホスピスのカルテに、「信じている宗教の有無」、「その宗教が今あなたを支えていると思いますか」というような項目がありました。私は信仰がそのような場合の真の支えになるように、牧会者、家族、友人の祈りと支援が重要だと感じています。


5、具体的にお勧めしたい「死の準備教育」の取り組み
1)身近な死にきちんと直面すること
 なかなか、臨終の場にいることは少ないですが、もしそのような場にいることができたら、きちんとお別れをしてください。子供達や高齢者にはかわいそうだからと遠ざけるのではく、きちんと臨終の場にいてもらい、手をつないで、お祈りして、また天国で会おうねと言えたら最高でしょう。そのような経験が、死が悲しいこと、でもクリスチャンにとって死は永遠の別れではないことを確認する時になるでしょう。
 またペットの死など、身近なものの死についてもきちんとお別れをするということが大切でしょう。
2)リングウィル、エンディングノートの利用
 最近、このような題名の本がたくさん本屋さんに置かれています。これらは、自分が最期の日々をどのように送りたいかを書きとめておくものですが、「書き込んで安心、読んで家族はなお安心」という副題がついているものもあって、このようなものを残すことで、自分のこれまでの人生がどのようなものであったかをふり返った上で、自分の最期をどう過ごしたいのか、認知症で理解力がなくなった時や意識がなくなった時に、どのような治療を望むのか、家族の誰に決めて欲しいのかなどがわかるように工夫されています。興味深いのは、死んだ後、自分はどんな人間だったと記憶してほしいとか、どのような葬式で、誰を呼んでほしいとか、墓はどうしてほしい、などまで書く欄があることです。
3)命が限られたときにどのような最期を迎えたいかを話す時をもつ。
ホスピス医のパイオニア、クリスチャンドクターの柏木哲夫先生は「誕生日に死を思い、結婚記念日にがんを語りあう」といいうことを勧めておられます。日本では今、三人に一人はがんで死にます。がんになったときに病名の告知をどうするか、どの辺まで闘うか、死ぬのは家がいいか病院がいいか、ホスピスを選ぶか、選ぶとしたらどこのホスピスがいいか、など具体的に死とがんについて一年に一度身近な人と語り合って確認できたらと思います。先に述べたエンディングノートで確認することもいいかもしれません。
そして教会でも(教会員の葬儀や、召天者記念礼拝などがふさわしいでしょうか)自分たちの死について考え、語り合う機会を作って欲しいと思います。
次回は、死に逝く人に寄り添うことと家族のケアについて書く予定です。


参考文献 
アルフォンス・デーケン「死とどう向き合うか」NHKライブラリー
柏木哲夫「人生の実力」幻冬舎