内科臨床研修指導マニュアル
「医療倫理(臨床倫理)」
三瀬村国民健康保険診療所所長/佐賀医科大学臨床教授
白浜雅司


<はじめに>
 研修医に対する医療倫理教育が、わが国でどのように行われているかについての調査は極めて少ないが、Asai1)らの117人の研修医への調査では、回答者の28%は月1回以上の医療倫理教育を受け、24%は何らかの倫理的な問題が生じた場合に教育を受け、18%はほとんど倫理教育を受ける機会がなく、30%は全くないと答えていた。また、回答者の75%が現在の医療倫理教育に満足せず、より総合的な倫理教育を求めていた。さらに、筆者が関与する臨床研修医のためのワークショップでも、研修医の多くが倫理的な問題に直面しているのに、そのような問題の対応について教えられる機会が少ないという意見が多かった。医師が臨床の中で出会う倫理的課題に気付き、それにどう対応するかは、臨床研修中に受ける指導によって左右されるといっても過言ではない。紙面の都合上、ここでは、臓器移植、遺伝子治療といった先端医療や研究の倫理までを含む医療倫理全般ではなく、研修医が直接に出会うことの多い、日常臨床における倫理的な問題をどのように判断していくのか、また研修医にどのように指導や教育をしていくのかを中心に述べてみたい。ただし、まだわが国の臨床倫理の教育は始まったばかりで、何をどのように教えればいいのかというコンセンサスがない。そこで、アメリカで行われているレジデントへの医療倫理教育の内容と、筆者が経験したこと、わが国の日常臨床における倫理的な問題を含む症例検討をもとに、具体的な倫理的問題の認識と検討の仕方、臨床倫理教育の方法などを提示する。
<臨床倫理とは何か>
 臨床倫理Clinical Ethicsという言葉を最初に用いた、Siegler2)は臨床倫理を「日常診療において生じる倫理的課題を認識し、分析し、解決しようとする試みること」と定義した。その中には従来の職業倫理学としての医療倫理学の枠組みだけでは解決できない、人間関係や心理・社会的な要素も密接に関わっている。筆者は臨床倫理を「クライエント(患者だけではなく患者家族や患者に関係する人)と医療者が、日常的な個々の診療において、互いの価値観の違いを認識しあいながら、双方にとって最善の対応を模索していくこと」と定義している。このように互いの価値観を尊重して倫理的に判断し行動することが、倫理的な問題発生の予防や解決につながり、そのこと自体が、患者のケアの向上だけでなく、医療者自身のサポートにもなると考えるからである。
<研修医に求められる臨床倫理の到達目標>
 アメリカ内科学会の卒後教育カリキュラムより、研修医に求められる医療倫理(ほとんどが臨床倫理に関すること)の到達目標についてのリストを転載する。(表1)それぞれの項目について、セミナーなどで習った、実際に臨床研修で学んだという点で評価するようになっている。
わが国の臨床研修でも同じような問題を経験するのではないだろうか。このチェックリストでは「知っていること」という表現が多いが、知識として知っているだけでなく、それを実践できるできることが最終目標となる。しかし、実際にきちんと対応している医師は指導医にもきわめて少ないのが現状ではないだろうか。まず指導医が、こういう問題に直面した場合自分ならどう対処しているだろうかと考えて、文末にあげる参考文献などを通して研修医とともに学ぶ場を持っていただきたいと思う。
<倫理的問題を有する症例の考え方>
 先にあげたアメリカのリストは、確かに研修医が倫理的な問題に直面する可能性の高い項目をあげているが、それ以外の状況でも倫理的な問題は生じる可能性がある。では、臨床の現場で、症例の倫理的な問題点をどのようにとらえて、対応していけば良いのだろうか。日本の症例について医学生や研修医と行った討論から、筆者は以下のようなステップで考えるとわかりやすいのではないかと考えている。
1)認識
 すべての症例が、何らかの倫理的な問題を常に有しているが、それが医療チームの中で特別に検討調整をすべき問題かどうかをすぐ判断するのは難しい。簡単にいえば、患者、家族、医療スタッフなど患者を取り巻く人の間で、意見の違いや、何かすっきりしない心にかかる問題があることに気付くことが、臨床倫理の問題を認識する出発点になると思う。ただ研修医があまりに忙しく目先の検査結果や指示だけに終わっていると、なかなかこのような倫理的な問題までは目が届かないことが多い。指導医が、まわりの医療スタッフと協力して倫理的な問題点を研修医に指摘する必要がある場合もある。
2)分析
 次に、何が倫理的な問題かということを分析して明らかにする必要がある。その方法として私はJonsen3)らの臨床倫理の4分割法を用いている。我々は、症例の一つの倫理的な問題点だけに目がいってしまいがちだが、これはもっと広い視点から検討することを教えてくれる。症例の倫理的問題点は必ずしも一つではないことが多いからである。(表2に簡単に提示する。全項目を埋める必要はないが、医学的適応、患者の意向、QOL、周囲の状況の4つの枠に何らかの検討事項を埋めるように心がけて欲しい。項目の詳しい解説は、文末に挙げた「臨床倫理の討論」のHP13)を御覧下さい。この表の詳しい内容や使い方について参考になる筆者の論文を挙げています。)
3)情報収集
 問題点を分析していく中で、十分な倫理的判断をするために不足している情報が明らかになってくるので、その不足している情報を集める。それは医学的な文献情報であったり、患者や家族の気持ちをより深く確認することであったり、対応のための法律やガイドラインのようなものかもしれない。それらの必要な情報を得ることが、倫理的な解決を助けることもある。
4)対応
 分析した問題への対応を、関係する人と相談しながら決めて実行する。その場合、重要かつ簡単に実行できそうなことから優先的に実行していく。全部の問題に対応することは難しいが、一つの問題が解決することで、関係する者同士の信頼関係は増し、次の問題が解決されやすい環境ができてくる。
 また個人やその病院だけで対応できない問題も、地域の保健医療福祉の資源を利用することで対応可能になるかもしれない。決して一人で問題を抱え込まないことが対応の鍵である。
5)評価と修正
 対応の成果を評価して、その対応を続けるのかどうかを検討する。必要であれば修正を加える。当然時間の経過とともに患者の状態も、関係する者の考えも変化するからである。
<臨床倫理の学び方と教え方>
1)指導医の模範提示
 指導医の倫理的な配慮をしながら患者の治療にあたる姿を研修医に見せることが大事である。研修医は指導医の態度を見て、倫理的な対応とは何かを学んでいく。えてして、研修医は指導医に言われたようにではなく、指導医がやっているように行動するものである。
2)研修医の倫理的な対応のチェックと指導
 研修医の患者への対応を見て(あるいは看護婦などのコメディカルから間接的に聞いて)倫理的な配慮ができているかチェックし、不足している配慮に付いて話し合い、適切な対応ができるように指導する。
 特に研修医が患者や家族に重要な説明をする場合には、指導医と何を話すべきか、聞くべきかを事前に打ち合わせ、指導医も説明に同席して、研修医の足りない部分があれば説明を補う。研修医の指導は、できるだけ研修医の考えを尊重して話し合いながら進めることが大切である。研修医の価値観を配慮しない倫理教育から、患者の価値観を尊重する医師は育たないからである。
3)定期的な臨床倫理のテーマについてのセミナー
 具体的なテーマは上記のアメリカのチェックリストや、実際の症例で問題になった項目を中心に選ぶことを勧める。内容は単なる定義や法律の一方通行の講義よりも、まず項目に関連する事例を提示して、自分だったらどのような対応をするか、その根拠(大事にする価値感)を参加者に述べてもらい、4分割表などを用いて討議した上で、指導医がどうしても押さえておくべき必要事項をまとめるやり方が深く残るようである。Asai1)らの調査によると、研修医が学びたいテーマは、「終末期の医療的判断」、「真実を告げること」、「有用なインフォームドコンセントの取り方」などであった。このような勉強会の中で、日本医師会などで検討された「終末期医療のガイドライン」などわが国で作成された倫理ガイドラインや関連の法律を提示することも有用であろう。
4)臨床倫理ケースカンファレンス(症例検討会で倫理的側面の議論を)
 アメリカでは研修医教育として、倫理の専門家を招いて症例の倫理的側面に絞ったカンファレンスが定期的にもたれている。特別な専門家がいないわが国の現状では、まず通常の患者の症例検討会で、4分割表の医学的な適応以外の、患者の意向、QOL、周囲の状況についても議論することが、倫理的な教育効果をあげる一つの方法であると思う。Asai1)の報告でも回答者の58%が症例検討会が臨床倫理の教育の場として相応しいと考えていた。
5)哲学者や倫理的判断ができる他の専門家との学際的な教育
 医療は医療者だけのものではなく、患者と医療者の共同作業であり、できれば上記のセミナーやカンファレンスに、患者の視点にたった哲学や倫理の専門家の参加をお願いすることも有用であろう。
6)コミュニケーション教育や態度教育との連携
 本書の別項であげられるコミュニケーションや態度教育と臨床倫理教育は重なるところが多い。臨床倫理の問題は、患者や家族と医療者の間、医療スタッフ間のコミュニケーション不足によるものが多いことを実感している。
<おわりに>
 すべての臨床医が、まず症例の倫理的な問題に気付き、患者や家族と共に対応しようとすることが、より多くの倫理的な問題の予防や解決につながると考える。紙面の都合で言及できなかった臨床倫理の具体的項目の解説については、巻末に挙げた参考図書や参考HPを利用していただきたい。


<参考文献、参考図書、参考HP>
1)Asai et al: Postgraduate education in medical ethics in Japan, Medical Education 32:100-104,1997
2) Siegler M, Edmund D. Pellegrino, Peter A. Singer:Clinical Medical Ethics、The journal of Clinical Ethics. 1:5-9、1990
3)Jonsen AR, Siegler M, Winslade WJ:Clinical Ethics--A practical Approach to Ethical Decisions in Clinical Medicine (3rd ed.).McGraw-Hill, New York, 1992.(日本語訳:
赤林朗、大井玄監訳「臨床倫理学:臨床医学における倫理的決定のための実践的なアプローチ」新興医学出版社、1997:4分割法の原則を提示した教科書)
4)加藤尚武、加茂直樹編「生命倫理学を学ぶ人のために」世界思想社、1998
(日本の生命倫理関係の方がまとめられた本で、生命倫理全体の主要なテーマとその論点を知るのに便利である)
5)グレゴリー・E・ペンス著、宮坂道夫・長岡成夫訳「医療倫理1」よりよい決定のための事例分析、みすず書房、2000 (Classic Casws in Medical Ethics accounts of Cases tha Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical,Legal , and HIstorical Backgrounds 3rd edの翻訳、アメリカの有名な医療倫理の事例がその倫理、法的、歴史的分析とともに提示されている)
6)ビーチャム、チルドレス著、永安幸正、立木教夫監訳 「生命医学倫理」、成文堂、1997(有名なPrinciples of Biomedical Ethics,Oxford Univ.Pressの翻訳)
7)Jeremy Sugarman:20 common Problem series, Ethics in Primary Care, McGraw-Hill, New York, 1992. (プライマリ・ケア医の直面する代表的な倫理的問題20項目を選んで論じた教科書)
8)Bernard Lo: Resolving Ethical Dilemmas - A Guide for Clinicialns,Williams&Willkins, 1995 (UCLAの医療倫理兼一般内科のLo教授が編集された臨床倫理の教科書)
9)Charles Junkerman, M.D. David Schiedermayer, M.D.:Practical Ethics For Students, Interns, And Residents(研修医のポケットに入るような倫理マニュアル本)
10)Allan D.Peterkin, Staying Human during Residency Traning, Second Edition, University Tronto Press, 1998(研修医が忙しく苛酷な研修状況の中で、人間性を失わずに医師として成長できるかを解説したマニュアル本。わが国と状況が違う部分もあるが、医療者のQOLが保たれない状態で患者のQOLは保たれない)
11)Academic Medicne 1989、64 December、Teaching Medical ethicsの特集号
Jay A.Jacobson, M.D,Susan W.Tolle, M.D.et al:Internal Medicine Residentsユ Preferences Regarding Medical Ethics Education, Academic medicine 1989, 64, 760-764その他多くの有用な医療倫理教育の現状が報告されている
12)American College of Physicians-American Society of Internal Medicine.Graduate Education in Internal Medicine, A Resource Guide to Curriculum Development
http://www.acponline.org/fcim/
13)臨床倫理の討論のページhttp://square.umin.ac.jp/masashi/discussion.html
(筆者の臨床倫理教育の報告のページで、臨床倫理の考え方を提示した論文や、検討してきたわが国の症例に対する国内外のさまざまな立場の方のコメントから広い視野で倫理的な問題を考えるとは何かを知ることができる。また国内外の有用な医療倫理関係のHPの紹介もしている)


表1、<アメリカ内科学会卒後研修、医療倫理関連のチェックリスト>(ACP: Graduate Education in Internal Medicine p29-30より)12)


1)一般的な医療行為および特別な治療や診断の介入について、患者に情報を伝え、自発的な同意を得るための方法を知っている。
2)救急やそれ以外の場において、医療者が勧める治療を患者が拒否した場合にすべきことを知っている。
3)患者が効果のないあるいは有害な治療を要求した時にすべきことを知っている。
4)患者の判断能力を評価できる。
5)患者の判断能力が欠けている時に、どのようにして適切な代理決定者を選ぶのかを知っている。
6)代理決定者が判断能力の欠けた患者に代わって決定する時、何を根拠に決定をすべきかを理解している。
7)患者が判断能力に欠けていて適切な代理決定者がいない場合、医師が患者に代わって決定しなければならない状況で、適用すべき原則を知っている。
8)死にゆく患者と、人生の終末の問題や医療の限界についてうまく話を進めることができる。(事前の意思表示、リビングウィルなど)
9)終末期の患者の以下のような状況にどう対応したら良いか知っている。
・栄養や輸液を含む生命維持の治療を控える、あるいは中止する場合。
・悪い知らせを伝え、患者、家族の意見を聞くこと。
・蘇生禁止(do not resuscitate)の指示を書く。
・患者が自殺幇助や安楽死を医師に要求した場合。
・患者との間に維持されている守秘義務を変更したい旨を伝えること。
・情報開示と医療過誤の現場において、真実を伝える原則と伝え方について知っている。
10)自分の患者と信頼関係を確立するために、以下のような倫理的原則を知っている。
・患者への義務と自分の権利のバランスをとること。
・患者への義務と社会の利益のバランスをとること。(たとえば、臨床判断や症例のマネージメントにおいて)
11)倫理的な問題を発生する可能性のある以下のような状況にどのように対応するかを知っている。
・需要を生み出すこと(医師の方から医療サービスが増えるようにしむける)
・業者からの謝礼
12)自分の同僚がアルコールや薬物中毒などで対応能力がないことを疑った場合の医師の義務を知っている。
13)臨床試験で発生する倫理的な問題を認識し、解決する方法を知っている。


表2、臨床倫理の4分割表
 
1)医学的適応
  Medical Indication
 “Benefit、Non-malficience”
    恩恵、無害の原則

   (チェックポイント)
   1.診断と予後
   2.治療目標の確認
   3.医学の効用とリスク
   4.無益性(Futility) 

2)患者の選好
  Patient Preferences
“Autonomy”
自己決定の原則

 (チェックポイント)
   1.患者の判断能力
   2.インフォームドコンセント
 (コミュニケーションと信頼関係)
   3.治療の拒否
   4.事前の意思表示(Living Will)
   5.代理決定

3)QOL
   QOL(生きることの質)
   “Well-Being” 
   幸福追求の原則 

 (チェックポイント)
  1.QOLの定義と評価
 (身体、心理、社会、スピリチュアル)
  2.誰がどのように決定するのか
 ・偏見の危険
 ・何が患者にとって最善か
  3.QOLに影響を及ぼす因子

4)周囲の状況
  Contextual Features
  “Justice-Utility”
   公正と効用の原則

 (チェックポイント)
   1.家族や利害関係者
   2.守秘義務
   3.経済的側面、公共の利益
   4.施設方針、診療形態、研究教育
   5.法律、慣習
   6.宗教



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