臨床倫理教育の現場から

 

白浜雅司・三瀬村国民健康保険診療所長

 

 

(リード)

昨年11月、入職した1年目の研修医を全国から集めて「1年目研修医・中間研修会」が2日にわたって開催された。主な目的は臨床倫理と患者さんやご家族とのコミュニケーションについての研修であった。その講師として白浜雅司先生を招いた。研修後、白浜先生に三輪博久・徳洲会研修委員会委員長(共愛会病院副院長)と佐土原道人・福岡徳洲会病院総合内科医長がインタビューした。

 

 

 

プロフィール

白浜雅司(しらはま まさじ)

三瀬村国民健康保険診療所

 

1983年九州大学医学部卒業

1983年佐賀医大総合診療部

1994年三瀬村国民健康保険診療所

認定内科専門医、佐賀大学臨床教授

 

 

 

 

――臨床倫理に携わられるようになったきっかけはどのようなものでした。

 

 佐賀医科大学の総診療部にカリフォルニア大学サンフランシスコ校からグード先生という臨床教授が1年間来られていました。ある抄読会で、私が『倫理の教育』についての論文を読んだところ、「臨床に役立つ倫理の教育を学びたいのなら、シアトルのワシントン州立大学で勉強しないか」と強く勧められました。そしてワシントンの医療倫理教授アルバート・ジョンセンが中心となって書かれたClinical Ethicsという本をくださったのです。その本を読み、できれば留学して勉強したいと願っていました。

ところが忙しい仕事をしながら、留学準備をしていて、自分自身がバーンアウトしてしまって、結局その留学はできず、病床でその本の翻訳を始めたのでした。今ふりかえるとその時ストレートに留学してうまく行かずに、自分が患者になるという経験をしたことが、今の患者の視点を大事にした日本での臨床倫理を推進していくうえで大事なことだったと思えるのですが。

しばらくの休暇の後、病気も回復し、短期間でしたが、ワシントン州立大学の1週間の短期倫理集中セミナーにも参加して、いわゆる4分割法の実践にふれることができたのです。

このセミナーには、私の前の年に、今、東大の医療倫理の教授になった赤林朗先生も、出席されていて、

2人日本人が続いたから、『クリティカル・エシックス』を翻訳しないかということを勧められ、その翻訳をしながら、佐賀医大の学生に臨床倫理の教育を始めたのが、臨床倫理教育のスタートと言うことになるでしょうか。

 

――臨床倫理の問題は、ホスピスでは色々取り組みやすいのですけれど、一般的な病院では難しいのではありませんか。

 

 緩和ケアの場面では、医学的にできることが限られるので、また死が近いので、患者の意思決定が尊重される傾向がありますが、私は緩和ケアだから意思決定が大事なのではなくて、すべての治療において、患者の意思決定は必要だと考えます。

。緩和ケアに移る前の一般病棟での医療の中で、自己決定がされていないと、緩和ケアの段階、最後の最後になってから意思決定しなさいと言われても難しいでしょう。

大変だとは思いますが、徳洲会病院のバタバタしてあわただしい救急外来でも、患者や家族の思いに配慮したケアをやって欲しいですね。一番難しいターミナルケアは救急でのターミナルケアですよ。ホスピスはだんだん悪くなっていく過程で色々なやりとりをする時間があるけれども救急の現場では、突然病気やけがをおった患者さん、あるいは意識のなくなった患者の家族と最後の治療をどうするかを決めなければならないのです。大変だけれど、救急で臨床倫理の問題が考えられるようになれば、色々な場面で臨床倫理が実践できるようになると思うのです。

 

――新臨床研修制度では態度の教育が重要視されていますね。卒前教育でも、いくつかの大学で、アメリカのように臨床倫理教育を年間を通じてするところがでてきました。卒前教育の内容もだいぶ変わり、今後の卒後臨床研修での倫理の問題、態度教育をどのようにに扱っていったらいいのでしょうか。

 

 かなり難しいでしょうね。もともとモチベーションを持っていて、それをシェアできる学生や研修医なら、スマートに、うまくできると思います。ところが、そういうことにレセプターを持たない人もいるのです。あるいは、否定する人も。そういう人には難しいでしょうね。

強烈に覚えているのですが、最初に倫理の授業始めたときに、「理系出身の私としては、答えが2つ以上あるような問題を解決することはできません」と言った学生がいました。とても正直な人だと思いましたが、臨床では答えは1つでないこともあります。ある立場からはこういう選択をした方がいいが、別の立場からは別の選択もあるという曖昧さに耐えられることが必要です。

態度教育というのは、どうしても昔の修身や道徳教育みたいな感じで、「こうあらねば」、「こうあるべき」となりがちです。これまでの医療倫理教育はそのような傾向が強かったと思います。ある意味で偉くなった弱さを見せない医者がトップダウンで教えていたのです。

私は倫理の原則を伝えるよりも、実際に事例をあげて、その中でどんな問題があるか、そして医療者がどういうことができるのかを重視した教育をしたいです。すべてのことを完璧にはできません。でもできるだけその事例の問題点を考えて、何かひとつでも対応できることはやっていく。それが、患者さんのケアのためでもあり、もうひとつは自分のケアのためでもあるということを伝えていきたいのです。

NHKで患者の自己決定を尊重す事前指定書に関する番組にコメンテーターとして出たことがありました。アナウンサーは一生懸命「医師はこういう難しい倫理的な判断を求められますよね。大変ですよね」「医師が方向性を患者さんに示さなくちゃいけませんよね」とずっと私に問い続けるのです。でも私は、「医者が1人で決めるのではない。それが今まで問題であったと思います。患者さんの思いを聞ける医者。患者さんの思いを共有できる医者。さらにチーム医療ができて、チームのみんなと一緒に考えることができる医者を育てたいと願っています。」と話しました。

患者さんも家族も、自己決定したいと思いと医者に預けたいという気持ちの間でゆれているのです。医者一人で決めれば簡単かもしれないけれど、それでは不満が残ると思います。いまの患者さんたちは、一方で医者に預けながら、もう一方で自分たちも決定のプロセスに参加したいという気持ちをもっておられるのです。

いかに患者さんと一緒に問題を共有できるか、そういう態度教育であって欲しいのです。そのためには倫理教育はいかに患者が困っていること、悩んでいることを共有できるかというコミュニケーション教育と表裏一体で進めていかないといけないと思っています。

 

――臨床倫理は、原則論を教えるのではなく、問題に気付いて患者さんや家族とそれを共有して解決のきっかけにすることなのですね。

 

そうですね。具体的に私が学生といっしょにやっている臨床倫理のカンファレンス授は、今年からカリキュラムの変更で、臨床実習経験が豊富な医学部の6年生から、まだ実習経験の乏しい5年生が対象になりました。そのため、彼らが臨床倫理の討論に提出する自分事例が難しいかなと思っていたら、臨床実習で経験した事例よりも、自分の医療経験とか、家族の医療経験を提示して、もとに検討することが多くなりました。結局それが良かったと思っています。。まだプロフェッショナルになっておらず、一般人としての目があるうちに、倫理的な問題を考えてほしいのです。

午前8時から、そのような学生が提出した倫理の事例のひとつを選んで、1時間ほど学生たちとディスカッションします。大体1回の事例討論に参加する学生は5‐6人で、彼らがメールで送ってくる事例すべてに、最初にメールで返事をし、一番討論しやすいような事例を選んで、みんなで考えもらいます。

午後は、学生らが自分たちで事例を作って患者役、医師役としやったメディカルインタビューのビデオを見ながらコミュニケーションの教育をします。事例は何も倫理的なものと限定するわけではなく、普通の外来患者を想定して、自分たちの思い、心配なこと、家族背景などすべてを作らせて、学生らが患者や医者の役をしてもらうのですが、そこで患者の思いを聞きだすことがいかに難しいかということを実感するようです。今やっとそういう教育が始まったのです。

卒後教育の中でも、共感の表し方であるとか、感じ方とか、表に現れてはいないけれどくすぶっている患者さんの最終的な不満みたいな問題点を見いだす目を養っていけるといいですね。オスキー(OSCE)も始まりました。オスキーは形です。でも形から入って心の部分に至ることもあります。

形と心の」」」両面が必要だと思います。評価やマニュアルにしやすいのは「形」だから、どうしても「形」の方に行きやすいのです。「心」は、どのくらい共感したのか、コンパッシブであったのかを評価しにくいですからね。

内部専門医会委員会で臨床倫理のお話をして、延命治療のケースをディスカッションしていた時に、30年のベテランの先生が、「いやあ、いまでも悩んでいるんだよ」と言われのです。それはものすごい教育だと思いました。悩んでいいのだという。その場に研修医もいました。普通のカンファレンスだったら教授が、強く「こうするんだ」とか言ったりします。でも、こういう倫理的な問題は30年経験したって悩む。悩んでいいと思います。そこから色々なことが見えてくるはずです。

 

――結局、曖昧でいいんだ、と。基本的に曖昧なものなんだというところで。

 

感情の中で揺れ動きというか、モヤモヤするものがスタートなんですよ。それを1度分析するのです。モヤモヤのままではモヤモヤで終わってしまうので、それを理知的に、無理やりでも4分割≠するわけです。そうすると感情で左右されていたものが、「ああここの情報がわかればいいんじゃないか」とか色々な選択肢が見えることもあります。

最後にもう1回感情に戻るんですよ。伝えるのはやっぱり言葉ですから。言葉は絶対感情を伴いますから。だから「情」から入って、「知」で分析して、実際の対応を言葉という「情」でもどすのです。

態度教育は形というよりも、どれくらい「情」の部分をコントロールできるか、弱さや、怒りなどを、プロとしていかに乗り越えて行くことができるのかということが鍵になります。この教育では指導医が教えながら、同時に自分自身の診療を振り返ることになるのです。

自分が経験したものの中から、「こうしなさい」ではなく、みんななんか持っているので、それを共有しながら、その中からいいものを引き出していくのです。

 

――倫理的に悩んでいる研修医をバーンアウトさせないようにうまく指導したいのですが。

 

熱心な人ほどバーンアウトしやすいのです。のめり込みますから。でも、そういう人こそ臨床医としてのすばらしい素質をもっているのですから、成長して次の指導医として残って欲しいですね。

これまでの大学病院の医局と違って、一般の病院では、結局、研修医を守ってくれる人がいません。個と個のぶつかり合いになって、評価の世界ですから、「まあ、お前休んどけよ」という具合にはいきません。

ぜひ、研修病院では、研修医の心理面への配慮をしてほしいです。彼らがもし助けられた経験をすると、今度は彼らがほかの医師を助けることができますし、患者さんを助けることもできると思うのです。

 

――コミュニケーションにトラブル抱えている研修医がいます。先生が臨床倫理の講義や、コミュニケーションロールプレイなどで、問題になるのではないかと思うんですけれど、実際はいかがですか。

 

佐賀医大ではほとんどそういう問題はなかったですね。そういう人はロールプレイ自体ができません。一部の大学では、このようなコミュニケーション教育に対して、明らかに醒めた目があるようです。「そんなことをしても、業績にはならないし、評価されない。。」と言われると、その通りですから。でも臨床では、このようなコミュニケーションの力がものすごく大事なんですよ。

最初の授業の反応の中で、「この授業を受けただけでも佐賀医大に来た意味があった」という千葉から来た学生の言葉が印象に残っています。1人でもそういう学生がいたら、自分も精一杯教育しようと思ったのです。研修医と指導医の関係も同じでしょう。両方の相乗効果でいい研修ができるのではないでしょうか。

 

――そういうことを言ってくれる人がいるのは嬉しいですね。

 

そうですね。私は自分のできることと、できないことをさらけ出しながら、教育していこうと思っています。だから大変ですが、臨床医を続けたいのです。臨床倫理の専門、医療倫理の教授とか、そういう話もありました。しかしやっぱりまだ現場にこだわりたい。「現場は大変だよね。でもこれくらいだったらできるんじゃないかな」と自信をもって伝えたいのです。

医学的なことをいい加減にして臨床倫理の教育はしたくないんですよ。もちろん精神的体力的な限界もきますから。もう診療所での死実践と、臨床倫理の教育者という2足のわらじを履くことをあと10年続けることはは無理だろうと思いますが。

 

――研修医の倫理とコミュニケーションの教育を通じて、医者・患者関係を本当に深めて、医療上意味のある関係を構築していけるように、研修医を育てていきたいと思っています。研修医はそれぞれ、それなりのものをもっているので、さらに伸ばしていくことが望ましいのですが、どういう風なことを先生はお考えですか。

 

患者中心ということで言うと、教育にも患者さんによる評価が入るといいと思います。

たとえば、民医連などの病院は患者会とか患者が病院の経営をサポートしています。そこでの講習会には患者さんも参加します。そうすると患者さんによる評価も出て、研修医と指導医との関係だけじゃなくて、それ以外の、まさに態度評価などもできます。

指導医の前ではものすごくいい研修医が、看護師や患者さんには、ものすごく偉そうにするとかね。まさに態度教育は、上司のいないところで、どういう態度で接しているかでわかるじゃないですか。だからこういう態度評価で最近いわれているのは、マルチ・プロフェッショナル評価または360度評価といって、それこそ掃除のおばちゃんによる評価まで含めるのです。

臨床倫理を指導するドクターがすぐに育たなくても、そういうことを検討したり、事例検討会やったりすれば患者の視点を大事にした倫理的な配慮のできる医師を育てることにつながると思います。