1998年度、ケース3)胃癌(告知とターミナルケア)

6年の選択コース「臨床倫理」で学生(今回は9/22〜10/13)が提出した症例です。
毎週火曜日の午後4時から学生と討論しますので、毎週月曜の夜(最終的には10/12)までに何かコメントをいただけると感謝です。



(症例)
75歳男性。数カ月前から食欲不振、心窩部痛、全身倦怠感が、近医を受診し、転移性肝癌を疑われ、原発巣検索のためにA病院に紹介され入院した。この1〜2年の間に10Kgの体重減少があった。
入院後、原発巣である進行胃癌が見つかり、家族の意向から本人には病名を知らせないことになった。患者は食べることが趣味の美食家である。症状から胃癌なのではないかと心配していたが、医師に胃の潰瘍であり胃癌ではないとの説明をうけ、喜んで退院した。退院後の方針は近医に任せることになった。
患者本人は胃癌を疑っていたが、医師にはっきりと否定されることで安心を得た様子であった。
この方は約5年前に喉頭癌の手術を受けており、その時は告知をされ、現在食道発声ではあるがきちんとコミュニケーションはとれる。
 

(討論したい点)
今後、上記の症状が進行して患者が再び自分が胃癌ではないかとういう疑いを持った時どうすればよいのだろうか。それでも真実を知らされるよりは希望を持てるのだろうか。
近医での対応次第の部分もあると思うが、本人の期待や努力にもかかわらずいっこうに状態は軽快せず
ご飯もまともに食べることができないまま、周りの人間に対し疑心暗鬼になりながら死の床を迎えることになるかもしれない。
A病院の医師は病名告知をしないまでも、その場しのぎの安心感を与えるだけでなく、今後予想される患者の状態を考慮した説明をするべきではなかったか。
家族との話し合いにおいても、家族の意向を知るだけでなく、本人の意向をくむための相談や近医との連絡を盛り込んだ議論が必要だったのではないか。



(臨床倫理の4分割法による分析)

医学的適応
進行胃癌で肝転移があり、年齢も考慮すると外科的切除の適応もない。
症状の緩和の為に化学療法を行うこともできるが、副作用もある。
食事は柔らかいものなら経口摂取できる。
胃癌と喉頭癌の関連はないとみなされた。

患者の意向
胃癌なのではないかと心配している。
5年前喉頭癌の手術を受けた時は告知をされている。
5年前まで建築現場監督をしており、理解力も良い。

QOL
最近は満足に好物を食べられないので不満である。
喉頭癌手術後で、食道発声にてコミュニケーション。

周囲の状況
妻(81)と2人暮し。息子、娘とも結婚し独立しているが交流は多い。
息子、娘は父親を落胆させたくないと言う。
年金生活。
自営として小さな駄菓子屋を営んでいるが、妻が腰を悪くしてしばらく閉めている。
紹介先の近医での入院も可能。



 ケース3)についての第1回(9/22)討論のまとめ
(学生の報告に白浜が加筆訂正したもの)

日本では、癌患者に対して病名を告げないケースが依然として多い。
これは患者の「自己決定」が乏しさに問題があるとよくいわれている。
今回の癌告知に関する症例を検討する上で、第1回目の討論では「自
己決定」がキーワードとなった。

#告げられる側の問題
告げられる側の問題としては、「自己決定」能力が低いという国民性と
切り話して考えるのは難しい。飲食店でのおまかせコースにみられるよ
うな、個性を尊重するというよりも横並びで他の人と同じことをしてい
れば安心するというような文化の影響は大きいだろう。
宗教感が薄いという事も関わるが、人生の終わりの時に急に自己決定を
せまっても、学校教育レベルから「自己決定」能力を育てるようにしな
ければ自己決定することは難しいだろう。

#告げる側の問題
告げる側、つまり医師の問題はなんだろうか。
患者にいくら能力があっても、医者が「知らしむべからず、依らしむべ
し」という古い姿勢では「自己決定」は実現しない。
まず「情報の開示」という大前提がなければ成り立たない。
また、告知する、その後のサポートをしてゆくという場合はそれなりの
覚悟と準備が必要になるが、今回のケースでは、A病院の医師は診断後
は前医に引き継ぎ、患者を最期までみない立場をとっており、その必要
性をあまり感じていなかったのではないだろうか。
今の日本の医療現場には、悪い知らせを告げる(なおかつ患者に希望を
持たせる)やり方、患者をサポートしてゆくシステム作り、そして何よ
り実際に当事者となる医師をはじめ、医療従事者の専門職としての教育
が必要だろう。
そのため、アメリカなど外国にあるシステムに習うのが有効だというこ
とはわかってきている。

しかし、日本人の「自己決定」能力の低さといっても全くないわけでは
なく、相対的な評価であり、中には自己決定できる人もいるので、その
ような人が自分のことについての決定に参加できるようにするのは当然
のことであろう。また一律にアメリカで行われていることを日本で実行
ようとして、そのまま取り入れようとしても、感情論からの反発があ
ったりしてうまく根付かせるのは難しいというのも事実である。

患者の「自己決定」のための日本ならではのポイントがあるとしたら、
そのキーワードは「参加する」ということなのではないか。
患者を中心に、それをとりまく家族、医療スタッフ等全員が参加する
チームにより「自己決定」を実現させてゆくというアイデアが重要に
なるのではないか。

話はかわるが、2000年から導入される介護保険についても多くの職
種や人材のネットワークをもつケアマネージャーがチームの調整に当た
ることができれば良いが、単に民間の派遣会社の人が自分のところのサ
ービスを売り込むたのプランをたてるようになると、何もわからない当
人は担当者の言いなりのサービスを受けることになるのではないか。き
ちんとした情報開示がなされ、誰もがアクセス可能な様々なサービスを
知らされて始めて自己決定ができるのではないだろうか。

#具体的なこのケースへの対応
このケースでも、本人にとって、また家族にとってのキーパーソンは
その集団の中で誰なのか、本人や家族の受容能力はどのくらいなのか、
もっと突っ込んで探り、本人を含む家族全体に対してアプロ ーチでき
たのではないだろうか。
家族の意向を重視するとしても、本人より家族の方がうろたえている
ケースもあり、このケースも当てはまると思われる。5年前に喉頭癌
の告知を受けて、手術を受け、食道発声でコミュニケーションをとる
ところまで頑張られたのは、相当強い意志の方であると考えられ、そ
れに比べて、家族の方がきちんと事実に向き合うことができずに逃げ
ているのではないか。また医療者側もその家族の決定だからといって
本当に大切な今後の病状の変化についての話は避けて、あとの一番大
変なターミナルケアの部分は紹介先の病院に押し付けてしまったとい
うことではないだろうか。



第二回討論(10/6)のまとめ

前回に引き続き、先に提示した症例に基づき癌告知について話した。
今回は前回参加の学生、社会学(もとソーシャルワーカー)の齋場先生、総合診療部の
小泉先生、白浜の他に、法学の増田先生の参加があり、法学的な視点からも意見を聞く
ことができた。
建て前としては近代的な日本の法律と、それが実生活に生かされない現状を再認識させ
られた。

#癌告知の特殊性について

予後が悪い疾患の中でも、なぜ癌症例での告知がとくに問題となるのはなぜか。
(予後が悪い神経系疾患や膠原病と比較してみて)
*「癌」という言葉のもつ死と直結している強烈なイメージ(他にもAIDSなども)
*「死」というと日本にはキリスト教でいうような召される、天国へいくという疑念がな
いのではないか。いや浄土真宗など汚れたこの世から西方浄土へいくというキリスト教に
共通するような概念があるはずだ。
*「癌の専門家がいない」こと。神経疾患や膠原病ではある意味で専門医が診断から治療
まで連続して持つので、ある意味でそのうちに人間関係ができるが、癌では、診断、治療
それぞれの時期に応じて外科医、内科医、放射線科医など複数の医師が関わることが多く、
経過も早いために告知するに十分な患者との関係を築けない問題があるのではないか。

#実際に告知する場合の問題は何だろうか。

(法学の教官の意見)
「患者に説明をするのは医師の義務」
民法上、医師と患者は契約関係にあり、問題となるのは、1)契約不履行、つまり説明義
務違反と、2)不法行為の二点が考えられる。
医師は説明義務を怠れば1)の契約不履行で問題となるが、説明したこと自体に対しては
通常は2)不法行為の問題にはなり得ないといえる。あるとすれば、例外的に告知の前に
重度のうつ病があって告知すると自殺する可能性があるのに何の配慮もなく告知した場合
などが考えられる。そのような場合、告知だけでなく、その後適切なフォローをしたかど
うかということが問題になるだろう。
この症例では、患者に告知をした場合、患者の容態に直接悪影響を及ぼすと予想され何ら
かの根拠があったのだろうか。また実際どのようにしてこの人は耐えられそうだという判
断を下すのだろうか。

(医療ソーシャルワーカーの意見)
「人間には告知に耐える力があると信じて告知をすすめる。」
ソーシャルワークでは「患者の現実吟味力」と「現実処理力」を常に判断しつつ個々の症
例にあたる。そして、患者は私たちが心配する以上に、難しい現実を吟味し、処理する能
力を持っているようだ。経験上告知をした方が患者が力をより発揮できるケースも多い。
しかし、これはあくまで個々の症例により、それを判断するのがソーシャルワーカーの力
量になるだろう。

(臨床医の意見)
「直面しなければならないことに直面することが大切。」
患者及びその家族がいずれ直面する真実、すなわち患者の予後が悪いということを適切な
機会(症状が悪化して話す余裕もなくなる前に)を選んで直面させることが大切だと思う。
その際、医師としては患者が何を知りたがっているか、何を恐れているかに留意する。ま
た、ただ真実を隠そうとするよりも、真実を受けとめ患者の為に最良な選択をしようとす
る議論を持つことで、後に残された家族にとっても納得できるのではないか。
医師および家族がこの大切な事実との直面を避けている。本人がこわいとか、かわいそう
という前に、家族や医師が厄介な現実との対面を先送りにしているのではないか。そして
本当は対決して乗り越える可能性のある患者本人がかやの外に置かれているのではないか。

#「家族」について
法的には、家族に対する説明の義務は、あくまで患者に対する義務に付随的なものと位置
づけられる。また本来、医師は患者の利益を提供するという契約関係であるが、現場では
患者のみならず、家族の満足をも満たすことが求められており、そうでない場合問題が生
じうるというのが実際である。
かつて、日本の「家」は個々に統制され、「家」に対する働きかけをすれば、家族のその
隅々まで行き渡っていた。しかし現在では家族の「もたれ合い」の部分だけが慣習として
残っているだけで、従来の家族で問題を解決する、対処するという能力は低くなっている
のではなかろうか。
第一回目の討議で話された「参加型のネットワーク」により患者の「自己決定」を実現さ
せようとする際にも、この様な「家族」の現状をはっきりと整理してアプローチする必要
があるのではないか。

このケースのような患者の「自己決定」と「家族」の意向の狭間の問題を解決する方法と
して、患者の意志で「代理決定者」を立てることを選択することも有効なのではないか。



全体の討議を終わっての学生のまとめ(10/23)

昨年から病棟での臨床実習の為学生として入院患者の症例に接してきた。
今回提示した症例は、「現場では癌告知は行わないのがむしろ普通である」という事を
改めて知らされた、私にとって印象深い経験であった。
実際に家族や本人への説明の場に出席して、
まさか、こんなにあっさりとお決まりのコースをたどっているなんて、いまだに。
私には、主治医の話のもって行き方が非常に軽率なものと思えてならなかった。
人生の大事を自分の知らない所で他人が決めるなんて!
私だったら嫌だ、というレベルの批判を当時の私は持っていたが。
理想ばかり掲げていても現場では通用しない複雑さがあることにも気付いていた中で、
近い将来、若年の医師として現場に出た時、一体私は何を主張できるのだろう。
そう思っていた。
そしてこのたび、こうして症例を分かちあう機会が与えられ、
様々な立場の方から意見していただき、色々な気付きがあった。
医師には患者に対する告知義務がある事、患者には自己決定権があること。
これを前提として明らかにした上で、ここのケースに応じてゆかなければならない。
ケースごとに異なった難しさに直面すると思われるが、倫理的に許される限り、患者の意
向は尊重されるべきである。
一人の患者をとりまく状況は私が捉えていたよりはるかに広い。
医療者はそのなるべく広い範囲でチームをくむことが望まれる。
主治医は、チームの一員として、またプロフェッショナル側のリーダーとしての役割を果
たしてゆく責任がある。
また、それを支えるシステムや教育も早く整備されたい。
そして、各々の医師は、従来の流れの中で立ち止まって自らの信念を問いなおす必要があ
るだろう。医療界ではどんなにいっても、医師の担う役割は大きいのだから。



英文コメント

臨床倫理の討論のページへ戻る