症例8)術後合併症のケース

60歳、男性。直腸癌、肝転移

4月に血便を主訴に近医を受診した際、直腸癌、同時性肝転移を指摘され、紹介
入院となり、7月、肝切除及び低位前方切除を施行された。術前説明では本人と
家族に対し、上記の癌のため手術が必要なこと、また手術の合併症として出血や
縫合不全が起こることがあり、その場合再手術となり人口肛門になる可能性もあ
ると説明された。

手術自体は問題なく終わったのだが、翌日合併症の出血のため再開腹となり、出
血は止まったが、神経性の排尿障害まで出現した。

さらに30日目には縫合不全及び腹膜炎のため三度目の手術となり、人口肛門が
作られた。その後肛門からの膿性の排液が続くため、肛門より管を入れて膿を出
す治療を行っている。また肛門の痛みが強いため、背部より持続的に麻酔の管を
入れていて、そのためふらついてうまく歩けない。

それぞれの手術は手技的には問題なかったのだが、残念ながら次々に合併症が続
いてしまって、医師のほうも何となくこの患者のところへ行きにくくなっている。

本人は何故自分だけが何度も手術になるのか、もう二度と仕事に復帰出来ないの
ではなど、不安が絶えず、医師や看護婦にも不信感を抱いている。また度重なる
手術や治療に対して最小限の治療にしてほしいと思っているが言えずにいる状態
である。一度妻の前で死にたいと口にしていた。

(討議したいポイント)

1..経過の思わしくない患者に対し、医師はどのように接して
いくべきか。

2.どうすれば患者の気持ちに気付いて、医師患者間の信頼関係
と相互理解を得ることができるだろうか。
 

【4分割表による分析】
【Medical Indication】
(1)診断と予後
診断;直腸癌、同時性肝転移  血中CEAの上昇や大腸ファイバー、生検の結
果から診断されている。
(2)治療目標の確認
直腸癌と転移性肝臓癌について、切除可能な状態であり、頑張って手術をしましょ
う。この説明に対し同意と理解を得ている
(3)医学の効用とリスク
癌の根治切除を期待して、出来れば肝切除、低位前方切除を同時にしたい。予後
は切除出来れば5年生存率が50%位です。合併症には出血や縫合不全(傷の直
りが悪くつなぎ目に穴があいて腹膜炎を起こす事があり、再手術、人工肛門にな
る)がある
(4)無益性について
治療について無益性はないと思われる

【 Patient Preference】
(1)患者の法的判断能力
判断能力は充分にあると考えられる
(2)インフォームドコンセント
医師からの術前説明や治療内容、合併症については説明を受けていたと思われる。
しかしこの症例のように、経過が長く様々な治療行為が行われている場合、全て
の治療行為について同意や十分な理解を得られていたかは不明であり、実際途中
から起こっていることが
よく解らなかったと述べている。
(3)治療の拒否
患者は真面目で大人しい性格で、問題ばかり起こる自分を受け持った先生に申し
訳ないと思っている。意思表示にも乏しく、経過の途中で治療は最小限にして欲
しいと妻にだけ訴えていた。
(4)事前の意思表示
患者からの意思表示は乏しく、治療に対しては従うだけで質問や要求はなかった
(5)代理決定
術前説明などは家族全員に行ったが、患者のkey−personは妻である<BR>

【QOL】
(1)QOLの定義と評価
人工肛門を設置した際には、苦痛とは思っておらず、妻と二人三脚で頑張るとの
べていた。また排尿障害についても、自尿が行なえるまで回復したが、排膿のた
めの痲酔を背部より入れてから、足がふらつき倒れる事が多くなった。このこと
が本人のQOLを著しく低下させている。またこのため今後自分は半病人のまま
なのではないか等不安を強くしている
(2)誰がどのように評価するか
医師としての経過の変化(医学的な病巣の改善)と患者が感じる経過の変化(Q
OLの低下)に隔たりがあったと思われる。
(3)QOLに影響をあたえる因子
本人の治療経過に対する理解と家族の支え。寝たきりにさせるような治療行為。
また医師の患者に接する時間も影響を与え得る

【Contextual Features】
(1)家族や利害関係
特に問題はない
(2)守秘義務
特に問題はない
(3)経済
特に問題はない
(4)施設方針
非常に患者の多くサイクルの激しい病棟であるため、医師が一人の患者に接する
時間が非常に少ない。治療設備、医療水準に問題はない<BR>
(5)法律
問題はない

【討論やコメントのまとめ】
吉田素文さん(九州大学、外科医師)のコメント
こういう患者さんこそ、医師の来室を待っているので、毎朝、毎夕面接をするこ
とが問題解決につながる。それぞれの手術について問題がなかったのであれば、
割り切って気長に信頼関係をつくっていくことがだいじであり、自分が後ろめた
い気分で接すれば患者にも
その気持ちが伝わってしまう。まず普通にはなせる間柄をつくること。

学生の感想
このコメントでは、時間による解決と医師の人間的度量の問題が述べてあり、確
かに経過のよくない患者など多少医師として会いずらい場合、そこであえて積極
的に会って話や愚痴を聞いてあげるという、いわば医学ではなく、人間性が要求
されているのだとおっしゃっているようにとらえましたが、実にそのとうりだと
おもいます。
 

松尾智子さん(九州大学法学部院生、元看護婦)のコメント
ここで問題となっているのは、経過が長くなった原因について十分な説明がなさ
れていなかったのではないかということである。患者の不安、ひいては医師への
不信感は全て患者と医師の接する時間の少なさから起こったものである。また現
在の状況や今後の見通しについて感心をもって患者に接しているという医師の態
度が重要である。

学生の感想
医学的に完全な処置を行っている場合でも、不安な状況は人間の心をもってしか
緩和することは出来ないため、なによりも医師は患者に接する時間を持ち、現在
の状況を話しあい、患者がこの人は自分の訴えを聞いてくれると思うようになる
ことが第一歩であると述べられています。

蔵田伸雄さん(三重大学、倫理学)
今後も新たな合併症が予想されるのか、肛門の痛みは今後も続くことが予想され
るのか、それともそれについては確実なことは担当医にもわからないのかといっ
たことですしかしこのように私がわからないと思うことが、患者にとっては最も
知りたい情報であり、患者が医師に最も要求していることは、そのような情報を
教えてもらうことだと推測されます。やはり医師が最低限しなければならないの
は、患者がなにを疑問に思っているか、なにが知りたいのかということを、医師
が察してそれを告げる事だと思います。また今後がはっきりしない場合、そのこ
とをきちんと告げることも義務であると思います。それだけで関係は改善するで
しょう。

学生の感想
やはり患者とのコミュニケーションの問題であり、医師が患者の知りたいことを
説明するという義務について指摘されています。

浜名研三さん(名古屋工業大学、哲学)
患者は肉体的な痛みと共に、自分が置かれている状況が理解出来ずに様々な不安
に襲われるという心理的な苦痛にも悩まされている、と言えると思います。合併
症の速やかなコントロールが第一であることはいうまでもないと思いますが、そ
れが容易ではない場合、何よりも、患者に自分の置かれている状況を理解させ、
苦痛や痛みを一定の枠組みに置くことを可能にすることが必要ではないのでしょ
うか。患者の生活の質にとって、情報不足、理解不足による無力感といったもの
は大きな因子となるもので、今後の治療の方向・あり方を決める際にも重要であ
るので、十分な相互理解のための努力が払われるべきであると思います。

学生の感想
患者の精神的な苦しみといったものを取り除くこと、ここでは患者が不安に思っ
たいることを時間をかけて話し、また聞いてあげることが、実際の治療と同様に
重要であることが述べられています。

【自分の感想とまとめ】
今回の症例については、医師患者間の信頼関係についてであり、明確な答えと言っ
たものが得難い問題でした。しかし様々な医療関係者や哲学分野の方からの意見
をいただいて自分なりに重要な点をまとめると以下のようになりました。
 
(1)医療技術上あるいは手技上の問題がある場合
(2)(1)意外の場合(医師患者間の問題)
大きく二つに分けられ、前者の場合は医療過誤の問題とも関わるため慎重に対処
する必要がある。後者の場合は以下の事があげられる
1、現在の状況や今後の見通しについて、患者への説明があったにせよ足りなかっ
た。あるいは十分に患者から質問を聞けなかった
2、患者の現在の苦しみ不安について、向いあって話し合う時間が足りなかった
3、患者のパーソナリテイー(大人しく医師に不安や質問などを口にしない)に
ついて医師が十分な配慮を考えるべきであった等です。
これらは当然通常の医療で行われるベき点ではあるのですが、多くの医師患者間
のトラブルはこれらの欠如のために起こっており、この患者のように経過の不良
な患者の場合は特にこれらの点に配慮し信頼関係を保って行く必要があると思い
ました。
また、心理学の妙木先生から心理学ではA-T split(Administrator-Therapist
split )という主治医方式があり、患者の感情的な不満の対象となる医師と治療
行為専門の医師とに役割を分担することで医師患者関係を維持するといった方法
もあるそうで興味深くおもいました。また医師の人間的余裕と言った言葉も出ま
したが非常に重要な事だと思いました。患者が自分の命を預ける対象の医師とは
また患者を安心させられるだけの人間性と度量を要求されるものだということ、
また医療上の技量等の問題や失敗については、はっきりと認め目先のプライドや
損得に捕らわれないことが本当の医師のあるあるべき姿だと思います。Brod
y教授のコメントには鬱の傾向を疑い積極的な抗鬱治療を考慮すると有りました
が、患者に会いずらいどころか、積極的な治療を考えていらっしゃる点で非常に
印象的でした。医師と患者関係というある種医療であって一番医療的でないただ
の人間関係のようなものが実は非常に多くの問題と同時に治療の大切な役割を担っ
ている事を知りました。