症例  67歳  女性  鬱病

朝、自宅で首を吊っているところ(ただし、死ねるような吊り方ではなかった)を息子が
発見し、A病院(精神病院)に医療保護入院(本人の同意無し、家族の同意での入院)。
生来健康、性格は几帳面で明朗快活だったが、5年前、夫を胃癌で亡くし、そのころより
発病したらしい。3年前にwrist cutで一度入院している(それ以後から今回入院までの
follow upについては不明である)。夫を亡くして以来、一人暮らしであるが、長男が近
くに住んでいる。家族歴、既往歴に特に問題はない。

入院以来、保護室にて加療中である。自分は役立たずだという罪業妄想、自殺念慮強く、
電撃ショック療法を行っている。抑鬱症状が強く、自発的行動は殆ど見られず、呼び掛け
に対しても時々軽くうなずいたり首を振ったりすることがある程度で、コミュニケーション
が極めてとりづらい。終日臥床して過ごしている。

(症例について)この症例は、私が夏休みに見学させてもらった精神病院の症例である。
実際に患者さんにふれたのは三日間だけであり、前述のように殆どコミュニケーションが
取れない状態であったので、病歴もカルテの記載以上のものではなく、患者さんのその後
の状態も不明である。このような討論に出すには症例に対する情報収集があまりに不十分
であることは承知しているが、私の臨床実習の中で最も倫理的問題を感じた症例であった
ので、あえてこれを提示することにしたい。



4分割表による検討

(1)医学的介入の妥当性

1.診断と予後 

本症例の診断名は鬱病である。鬱病は、人格水準は保たれ、人格荒廃に至ることはないも
のの、身体、精神的活動性が低下し、反面妄想は活発になり、社会生活にも支障を来す。
通常は抗鬱薬の適切な投与で軽快する。しかし、再発を繰り返す場合が多い。最も問題と
なるのは自殺企図であり、治療の主な目的もいかに自殺を防ぐかということにあると思わ
れる。

2. 治療目的の確認

 a,健康を増進し、病気を予防すること
電撃ショック療法の予防効果については殆ど無いものと思われる。

b. 症状、痛み、苦しみを緩和すること
電撃ショック療法は、自殺念慮、妄想の症状を緩和することができるとされる。

c. 病気を治療すること
 鬱病は内因性の精神病とされており、遺伝性がかなり強い疾患だともいわれている。従
って、電撃ショック療法により、鬱病が完治することはありえないと思われる。

d. 予期しない死亡を防ぐこと
これが今回の治療の最大の目的であろうと思われる。自殺の危険を減ずるためにこの治
療法を行うのである。

e. 機能を改善する、あるいは安定している状態を維持すること
広い意味では脳の機能の改善と言えないこともないかもしれない。電撃ショック療法に
て、脳のホルモン環境が変わるとも言われている。しかし、逆に脳に器質的傷害を与える
のではないかという意見もある。

f. 病状や予後について患者を教育し、相談にのること
今回、患者に対してはインフォームド・コンセントは全く行われていない。病状、予後
についての教育、相談は不明である。

g. ケアを受けている患者に害を与えないこと
電撃ショック療法の副作用には、後に述べるようなものが報告されているが、熟練者が
正確な手技を用いて適用条件を満たした患者に行う場合には、逆行性健忘、記銘力低下以
外の害を及ぼすことは無いとされる。しかし、前述のように、この治療法が脳に非可逆的
な器質的障害を与えるとの意見も無いわけではない。
 
3. 治療のriskとbenefit

電撃ショック療法は自殺念慮に対しては多くの医療機関で有効な治療法とされている。薬
物療法に抵抗性の鬱病11例に対してこれを行った結果、10例に対して何らかの改善がみら
れたという報告もある。しかしながら、治療の有効性の原理はまだよくわかっていないと
いう。副作用としては大腿骨・上腕骨・椎骨骨折、逆行性健忘、記銘力低下等がある。死
亡例は殆ど無い。脳への器質的影響については賛否両論ある。全く行われない医療機関も
多い。最近では麻酔科医の管理下に全身麻酔にて無痙攣で行うcaseが増えてきた。
 

4. 治療は無益か。
自殺防止という目的に対しては無益ではないといえる。
 

(2)患者の意向
1. 患者の法的行為能力
鬱病だから法的行為能力が無いとは限らないが、本症例のように自殺念慮がある場合に
は自傷多害の恐れがあるものとして法的に自由は制限される。また、本症例の入院形態は
医療保護入院であり、本人の意志に関わらず保護義務者の同意により入院させられるもの
である。

2. インフォームド・コンセント
本症例においては本人に対するインフォームド・コンセントは全く行われていない。イン
フォームド・コンセントは家族(長男)に対してのみ行われ、承諾書も家族の署名のみで
あった。
なお、先に述べたように、電撃ショック療法には副作用として逆行性健忘と一時的記銘力
低下があり、本人には治療を受けたことを全く知らせないことが可能である。

3. 事前の意思表示
本人は電撃ショック療法については何も知らされておらず、事前の意思表示は全く無か
った。

4. 家族などの代理決定者の判断
家族は治療についての説明を受け、同意書にサインした。

(3)QOL

1. QOLの定義と評価法

 非常に難しい問題である。誰が、何を基準に判断するのか。この症例では医療者側も家
族も本人が自殺を回避することが本人の幸福であるということを前提にしている。しかし
、もし本人が本気で自殺することを望んでいるならば、少なくとも治療行為は本人の意志
に反することになる。

2. 偏見や先入観の危険性

 上に述べたが、自殺念慮の患者を死なせないことが本人の幸福につながると断言できる
のか。この症例の場合はあとで「生きててよかった」と患者が思うであろうことを期待し
ているのであろう。

  また、今回の鬱病の場合には比較的問題は少ないかもしれないが、一般に精神病者の
場合、本人の“真の意志”を捉えるのが難しい場合もあると思われる。それでも患者の発
言をそのまま受け止めるべきなのか。あるいは隠された“真の意志”を洞察すべきなのか
。その場合、客観性という問題はどうなるのか。

(4)周囲の状況

1.公共の利益、医療資源配分

 電撃ショック療法は装置も単純であり、用いる電力量もたかが知れており、資源・エネ
ルギー的に は極めて簡素な治療法であると思われる。ただし、無痙攣で行う場合には手
術室を用い、麻酔科スタッフもそろえなければならない。

2.家族や他の利害関係者

  近親者を自殺で亡くすことによって家族が感じる悲しみ、無力感、社会的圧力、教育
的影響は無視できない。

3. 医師側の心理的問題、社会的責任

 おそらく多くの精神科医にとっては患者を自殺で亡くすことが最大の痛恨事であり、な
にはさておいてもこれだけは避けたいものではないだろうか。しかし、電撃ショック療法
は他科の医師はもとより、一部の精神科医からもいわゆる“野蛮な治療法”とされており
、ましてや一般市民が抱いているイメージはさらに悪いものであろう。また、本人が知ら
ないうちにそのような治療法を行ったうしろめたさをもつこともあるかもしれない。
 

4. 病院や科の方針

  先に述べてきたように、電撃ショック療法には賛否両論あり、他科はもとより、同じ
精神科であっても施設によって全く考え方が異なる。本症例に限れば、M病院は非常に積
極的に電撃ショック療法を行う施設であり、これを行うことが病院の方針に合致すると思
われる。

5. 経済的側面

 電撃ショック療法が薬物療法に比べて特別に経済的に負担になるとは思えず、問題ない
と思われる。

6. 法律

 治療については特に問題ないと思われる。

7. その他

 電撃ショック療法は他の多くの精神科治療法と同じく、経験に基いた治療法であり、確
かに有効ではあるが、その原理は不明である。もともと、癲癇患者の精神症状の研究過程
で、痙攣発作を薬で抑制した群と痙攣発作をおこした群とで幻覚妄想症状の発症率を調べ
たところ、後者が有意に低かったところから、精神分裂病、鬱病患者への応用が考えられ
、実験的に行われるようになったものである。かつて、電気痙攣療法は入院生活に適応で
きない患者に対して懲罰的に行われていた歴史を持ち、これが近年有効性が実証されつつ
あるにもかかわらず、本邦ではなかなか広がらない大きな原因の一つであるとも考えられ
る。



(討議したい問題点)

1. 自殺念慮患者への電撃ショック療法のインフォームド・コンセントについて

この症例にてまず問題にしたいのは、未だ社会的に広く治療法として容認されているとは
言い難い電撃ショック療法が本人の同意無しに行われた点である。一般的には本人の同意
無しに治療を行うことは、道義的にも法的にも許されないことであるとされる。しかし、
本症例は自己決定能力(権)が問題とされる精神疾患であり、自殺念慮という切迫した状
態にある上、コミュニケーションが極めて難しい状態ではある。自殺企図に対しては電撃
ショック療法は最も即効的で効果的な治療法であるとする意見もある。いろんな意見を伺
いたいと思う。

2.精神病者が浮き彫りにするインフォームド・コンセントの問題点

鬱病に限らず、他の精神病者(特に精神分裂病者)のインフォームド・コンセントについ
ても考えてみたい。

身体疾患のみの患者ならば患者の発言イコール患者の意志ということができるが、精神分
裂病者の場合、発言を額面どおりに受け取っていいものだろうか。隠された“真の意志”
があることも多いと思われるが、仮にそれを患者の“真の意志”だと考えても、それを判
断するのは主治医である。つまり、そこに悪意が存在しないにしても主治医によって都合
のよいように解釈される危険がある。そこには第三者からみる客観性は存在しないのでは
なかろうか。

インフォームド・コンセントは確固とした半永続的な本人の意志というものが存在するこ
とを前提としていると思われるが、果たしてそのようなものが本当に存在するのか。精神
病者ならずとも、決断する時には迷いがあるのが普通ではなかろうか。人間というのは少
なくとも医療を受ける上では社会的存在であり、いかなる“自己”も“他者”無しには存
在し得ない。そもそも“自己の意志”と“他者からの強制”という分け方自体、客観的な
定義など存在しないのではなかろうか。

医療におけるインフォームド・コンセントは必要不可欠なものである。しかし、気をつけ
なければただ単に社会が不適応者を排除するための手段の一つになりかねないのではなか
ろうか。

3.自殺権の問題について

自殺権の問題はどうであろうか。これは安楽死の問題ともつながると思うが、死にたい人
間を他者が妨害する権利はあるのか。あるいはこういう問題を提示すること自体、非人間
的なのであろうか。御意見を伺いたい。



(自殺の症例第二回討論)

前回の討論では、二番目の問題点についての討論、考察が不十分であったと思われるので
、今回はこの問題を中心に考えてみたい。この問題点は、私が以前から漠然と抱いていた
疑問ではあったが、問題点として取り上げるきっかけとなったのは、熊倉伸宏先生の「臨
床人間学」を読んだことである。

現在のインフォームド・コンセントの議論は、治療決定は原則としてあくまでも自己決定
を優先すべきだというものである。しかし、広く容認されている強制治療というものも現
に存在している。特に精神疾患についてはそうである。強制治療は、社会防衛的な目的も
あるが、パターナリズムの考えに基いて行われてきた。治療決定権を患者と治療者のどち
らに置くかというのが大きな問題として議論されてきた。これは、臨床の場においては非
常に客観的判断が難しいものである。

そもそも、自己決定権というものは、社会から全く孤立した存在としての“自己”の存在
を前提としているが、そのようなものは実際には存在しない。社会的“自己”とは“他者
”に認められることによって初めて存在しうるものである。しかし、“自己”“他者”と
いう概念もまた“権威”というものによって規定されることによってはじめて考えられる
ものである。治療関係も患者と治療者の二者関係により成り立つのではなく、インフォー
ムド・コンセントもこれに基いて行われなければならないのではないか、と「臨床人間学
」には書かれている。

ところで、症例に対して多くのコメントを頂いた。

山口大学 大林先生のコメント

・「精神病患者」と言う表現は、学術的には差別表現ではな
 いということでしょうが、一般の人間から見ると現在では
 あまり使いたくない言葉です。
・この場合におけるようなICの問題は、日本ではなかなか表
 に出ませんが、家族や身近な人への説明や相談はどうなっ
 ているのでしょうか。

ワープロで打っている時には意識していなかったが、確かに「精神病患者」という言葉は
あまり聞きなれない。「精神病者」というのが好ましい呼び方である、と何かの本で読ん
だような気がする。訂正したいと思う。
本症例のICは、先に述べたように、長男への説明は一通り行われている。他の施設では本
人の同意を得て初めて行う所が多いようである。

九大法学部 松尾智子さんのコメント

 自分を役立たずというようにみなすということに、自殺企図の原因があると思います。
電気ショックよりも、精神的ケアの方が私には有効だと思われます。どの程度の効果があ
るか分かりませんが。意志疎通が不可能であるという以外には、できる限り、治療の説明
はするべきだと思います。精神科医療では、なにか生き甲斐となるようなものを見つけだ
すことができるように支えていくということが、医療者には

できないのでしょうか。精神科において必要とされることは、電気ショックなどよりもむ
しろこのようなことだと考えます。最終的に社会復帰することがゴールにあるのですが、
社会の側の受け入れや、家族の協力などもこの場合は重要で、多くの精神病が、家族関係
の影響が大きいことを鑑みると本当に難しい問題だと思います。

確かに、できることならば電撃ショック療法よりも精神的ケアのほうが望ましいと思う。
しかし、私が感じた限りでは意思疎通は殆ど不可能に近い状態であり、自殺念慮も切迫し
た状態にあったと考えられることから、かなり精神療法はかなり厳しいのではないか、と
素人目には映った。松尾さんのおっしゃるとおり、精神医療のゴールは社会復帰であると
私も思う。

Tom.McCormick先生(Washington州立大学医療倫理)のコメント
Regarding severely depressed patient. In the US, we do not do Electro
Shock Therapy without the patient's permission-----however, if the patient
is severely depressed, the patient may be considered incompetent, and in
that case, a family member of agent for the patient could make the
decision.  In such cases it is considered a "life saving therapy" when the
depression is so severe, and traditional drug therapy has not been
helpful.

本症例は、薬物に抵抗性と思われ、米国にては"life saving therapy"ということになる
のかもしれない。先生のコメントを読む限りでは、米国の現況も日本とあまり変わらない
ように思える。

Philip Hebert 先生(Tronto大学家庭医療学兼生命倫理学教授)のコメント(コメント本
文は削除)について
   アメリカでは意思決定能力の判定が日本よりも厳密に行われているようである。また、
自己決定能力に欠ける患者でも治療内容を知る権利はあることが強調されている。本症例
においては、私がいた時点では、患者に対して治療の説明は全くなされていなかったよう
である。アメリカでは、このようなケースにおいてもきちんと説明はするということであ
ろうか。
 

Michigan州立大学家庭医学兼医療倫理Brody教授よりのコメント(コメント本文削除)に
ついて

非常に考えさせられるコメントを頂いた。精神病者(特に分裂病者)の治療に当たって、
自己決定能力が無いと判断された患者は、強制的に(代理決定者の同意のもと)治療を受
ける。しかし、治療が効を奏し、症状が軽快し、自己決定能力が認められる程度になった
時が問題である。この時点で患者が治療を拒否した場合、どうするのか。患者の意思に従
って治療を止めた場合、再び症状は悪化してしまう。そして、自己決定能力が否定された
時点で治療が再開される。このような“堂々巡り”が現在のインフォームド・コンセント
の考えに従って診療を行うとおこってしまうのである。昔のように医療者側が納得する
まで強制治療を行うほうが病勢の悪化を防ぐことができたのである。特に人格荒廃に至り
うる精神分裂病の場合はこの問題は深刻であると思われる。難しく、今の私にはとても答
えが出せるような問題ではない。しかし、無事精神科医になった暁には直視すべき問題と
なることは間違いない。

ちなみに、以前、ある精神病院の外来を見学させてもらったことがあるが、その病院の先
生はなかなかきちんと薬を飲もうとしない精神分裂病の患者さんに「薬を飲まないんなら
診てあげません。来ないでください。」と厳しい口調でおっしゃっていた。一見パターナ
リスムのようにもみえるが、それでも患者がやってくれば診ないわけにはいかないわけで
あり、自己決定権とパターナリスムをあいまいにした、それなりにうまい方法かもしれな
い。
 

弟三回討論(学生のみ)

自己決定権の基準が問題になった。米国では、客観テストのようなものも考えられている
ようである。また、判定の手続きも精神科医、司法等が関るきちんとした基準がある場合
が多いようである。しかし、日本では入院については自己決定権判定が法的に規定されて
いるが、治療についてはそのような法律が制定されているわけではない。その場その場の
医療者の判断に任されているようである。

また、本症例について、今回の鬱病発症には、夫の死というきっかけがかなり明らかであ
り、薬物、電撃ショック療法以前にそのきっかけへの対処、ケア(精神療法ということに
なろうか)が必要ではないかという意見もあった。先にも書いたが、私もそれが精神医療
の原点であろうとは思う。しかし、現実には効果、時間、人的資源の問題もでてくるかも
しれず、今の私にはわからない問題である。



まとめ

結局、インフォームド・コンセントが問題として浮き出てくるのは、“学問”というもの
が発達し、あたかも世界の全てを網羅できるかのような錯覚に我々が陥ってしまいそうに
なるほどになってしまっがのが大きな原因かもしれない。世界をわかりやすくするために
臨床医療倫理も含めて、学問というものはあるのだが、そのよってたつところのものは言
葉と、それに基く理論である。ある現実を言葉にした場合、どのような場合でも、必ず現
実から捨て去られてしまう部分が存在する。その言葉に基いて理論を組み立てていくと、
常にその過程で現実と照らし合わせ、捨て去られた部分をも認識していくようにしなけれ
ば、やがて現実から大きくかけ離れてしまったものになりかねない。

自己”“他者”“オートノミー”“パターナリスム”といった言葉も現実そのものを表す
確固としたものではなく、本来はそれを使う時々に慎重に吟味せねばならないように思え
る。かといって、どこかで折り合いをつけなければ議論は進まない。臨床医療倫理という
ものは、緻密な四分割表を作って、どんなに議論を重ねても絶対普遍の答えなど見出せな
いであろう。そもそも、倫理学などという学問が存在すること自体、人間の世界にはどう
しても悪意というものが消し去れないのであろうかということを考えさせられてしまう。
ここで悪意の根元は?などと考え出すと、ますます分からなくなってしまう。しかし、今
回のコースをとって、いろんな方々のおもいもかけないいろんな意見を伺うことができ、
自分の考えを修正させられることもあり、やはり良い医療をおこなうにあたって臨床倫理
、四分割表に基く議論というのは少なくともささやかな武器にはなりうるのではないかと
いうことを実感できたことは確かである

最後になりましたが、白浜先生、小泉先生、増田先生、妙木先生、斎場先生、コメントを
下さった国内外の学外の諸先生方にはご多忙の中をお相手して頂き、多くを学ばせて下さ
いまして、ありがとうございました。

一応、まとめ終わったことにしたが、その後、法学の増田先生よりの“自殺権”に関する
コメントを頂いた。自分で提示しておきながら、無責任に撤回してしまっていたが、非常
に考えさせられるコメントを頂いたので、もう一度考えてみたいと思う。

自由主義社会においては他者の利益を損なわない限りにおいては自殺権は存在するが、自
殺によって他者の利益を損なわないことは考えられないので、事実上、自殺権は存在しな
い、と先生は説明されている(と私は理解した)。非常に明快な説明であり、私もそのと
おりだと思う。そして、ここでも他者の利益と個人の尊厳という葛藤問題が出てくる。他
者の利益を損なわないことをあまりにも重視しすぎると、他者の利益のためだけに生きて
いるということがおこりかねない。

しかし、前提とされている主客二元論の“主”と“客”の二分は、ここでは厳密には成立
しないのではないかとも思える。ここでの“自己”と“生命”は互いにかかわりあってし
か存在し得ないものである。しかしながら、これを否定して新しい説明法を示せと言われ
ても出来ないので、これは受け入れるしかない。

結局、どのように考えてみても、ファジー(適切な使い方ではないかもしれないが)な問
題はファジーな結論になってしまうものであり、そのファジーの位置を変えていくことに
よってよりわかりやすくすることしかできないようである。二変数の方程式一つでは、い
くら変形しても解は出せないのと同じかもしれない。

先生のコメントの最後の生命の自己所有については、これはもともと体感に基く経験則で
はなかろうかと私は思う。自己は生命から生まれるものである。生命は他者たる両親によ
って作られるというのはあまり関係ないかもしれないが、人間が社会的存在である以上、
生命は他者の影響無しでは存在し得ないと思われる。また、自己というのも他者の目を考
える事によって(すなわち客観化する事で、と言いかえられないであろうか)はじめて存
在できる、つまり自己と他者は厳密には切り離せないものである。このことだけ考えても
、生命の完全なる自己所有の権利は有り得ないのではないか、と私には思える。