症例10)(脳死患者の治療について)

28歳、男性。交通外傷。
仕事で県道にて土木工事の測量をしていた所、わき見運転の普通トラックが突っ
込んで来た。しゃがんで作業をしていたため頭部をトラックのバンパーで強打。
即座に意識不明となり、救急車にて、病院に運ばれた。
[診察所見]
意識は深昏睡であり、瞳孔は散大。対光反射は消失。他の脳幹反射も消失。自発
呼吸は救急車で搬送される際になくなる。心肺に異常は無い。
[頭部CT]
びまん性脳浮腫。両側に硬膜下血腫あり。クモ膜下血腫あり。
[personal data]
父、母、弟、祖母健在。5ヶ月後婚約者と結婚を予定。
[治療]
head CT を撮った後、すぐに低体温療法を施行した。家族は「できるだけの治療
をして助けてほしい」と言っている。
低体温療法中に検査をしてみたが、脳波は6電極とも平坦。低体温ということを
除けば、脳死の状態と言えた。(結局1週間低体温療法をして徐々に復温中に心
停止で死亡)

【討論したいポイント】
1)医師側は治療最優先で対応していて十分な時間もなかったため、家族に対する
病状の説明としてCTなどを用いて「厳しい状況です」「低体温療法という治療を
し、少しでも脳を保護して回復を待ちたいと思います」とだけ伝えた。
 家族は突然のことで動揺していて、「できるだけの治療をして助けてほしい」
という返事であったが、他の治療法の可能性(開頭血腫除去に外減圧、バルビツ
レート療法など:どれも結果は厳しかっただろうが)を比較した説明をしなくて
はならなかっただろうか。
治療中止を含め、家族に治療法を選択する余地があるのだろうか。
 またこの場合説明を受けた家族に婚約者は入っていなかったが、入れなくても
いいのだろうか。

2)先日脳死移植法が施行されたが、もしも今回の症例に適応するとなるとどのよ
うな問題があるか。
 脳死の判定はいつするのだろうか。患者がドナーカードを持っていているかど
うかを確認して、確認されて家族の同意ができればすぐ救急外来で脳死判定がさ
れるのであろうか。また逆にそれらがなければ脳死の判定はできないのであろう
か。
 ドナーカードの有無の確認自体、家族は治療の打ち切りと臓器提供を暗に強要
されていると思い、冷静な対応ができないのではないだろうか。

<脳死患者への対応についての学生の分析と実際の討議>

【4分割法による分析】
(1)Medical  Indication
 1)診断と予後
診断は脳浮腫、硬膜下血腫、クモ膜下血腫で、おそらく予後は良いものは望めな
い。脳死、あるいは植物状態、びまん性軸索損傷が十分かんがえられる。
2)治療目標の確認
QOLの向上を目指す。治療としては低体温療法、開頭血腫除去に外減圧、バルビ
ツレート療法が考えられる。
3)Medical Efficacy and Risk
脳死の診断が確定していれば低体温療法の適応はない。しかし、救急に運ばれた
時点では、脳死かどうかの判断に時間がかかり、患者の年齢や、家族の意向を考
えたら、治療は妥当であった。
4)Futility
当時は脳死移植法案が国会で可決されたのみで施行はされていなかったので、低
体温療法は適当ではあったと考えられる。
しかし、施行された現在、完全に脳死であったら、低体温療法は無為である。今
回は、脳死が疑われるにしてもその判定より積極的治療を優先して、低体温療法
を行った。実際の医療の現場では脳死が疑われても、低体温療法は無為では無い
と思われる。

(2)Patient  Preferences
1)患者の法的判断能力
患者は意識がない。
2)インフォームドコンセント
患者本人にはできず家族へされた。 
3)治療の拒否
すべてにおいて全く無い。
4)Living Will  ない。  
(このケースではないが、今後はdonor cardの普及により増えるかもしれない。)
5)代理決定  
おそらく両親あるいは家族がすることになる。

(3)QOL
1)QOL の評価
最低のレベルであると思われる。
2)誰がどのように評価するのか
一般的、あるいは普遍的事実として、そのように考えられると思われた。
3)QOLに影響を与える因子
自発呼吸の有無。意志の疎通の有無。それ以上の神経学的徴候の有無(四肢麻痺、
膀胱 ・直腸障害など)。

(4)Contextual  Features
1)家族や利害関係者
家族は両親に弟。利害関係者として、婚約者。仕事中であった為、会社の関係者。
また交通事故であった為、加害者。
2)守秘義務
警察、保険会社、新聞社、会社の関係者に対する説明はして良いのか。電話での
応対はどうすべきなのか。
3)経済的側面、公共の利益
低体温療法に対する費用。現在ならば臓器提供に関する問題。
4)施設方針、診療形態、研究教育
低体温療法、脳死判定に関しては問題なく行なえる。ただ、低体温療法を行うま
えに、主治医は開頭血腫除去、外減圧術を行うベきと考えていたが、オーベンが
低体温療法を行うとした。
5)法律、宗教
脳死移植法はこの段階では成立していない。従って、脳死はヒトの死ではない。
現在は脳死移植法が施行されているので、臓器提供の意志があれば脳死はヒトの
死と認められる。
 

【インターネットで取り寄せた意見】
1.家族が治療法を選択できるかと言う疑問に対しては、

 平田 道彦さん(唐津日赤麻酔科医師)は、選択する「余地」は、なかったが、
「権利」はある。ぎりぎりの精神状態なので、治療者側はその権利を施行する人
を支えるような気持ちを持っていないと、つきはなす事にもなりかねない。とい
うコメントを頂いた。
 伊藤恵子 さん(長崎大学衛生学医師)は、こういう救急症例では、医師側の説
明を「十分説明し、納得してもらう」という形に持っていくのは難しい。なんと
いっても家族は動揺しているから、最小限にならざるを得ない。それでも、質問
しやすい雰囲気は心がけたほうが良い。家族は動転のあまり、普段より理解力が
落ちたりするかもしれないから。また、紙に書きながらの説明は記録性の点でも
大事な一策だろう。と言っておられ、また他の治療法の可能性(開頭血腫除去に
外減圧、バルビツレート療法など)については、まず最初にしようと思っている
治療法(低体温療法)についてあまり説明せず、第2、第3の方法を告げると混
乱が起こりやすいだろう。と言われていた。

2.婚約者の扱いについては、

 伊藤恵子 さん(長崎大学衛生学医師)は、家族が「婚約者を説明の場に入れる
か、否か」最終的に決めると思うとコメントされた。
また、平田 道彦さんは、家族ばかりが、患者さんの「家族」ではないことは、
十分に考慮すべき。逆に家族が必ずしも、「家族」ではないこともある。という、
含蓄のある意見を頂いた。

3.今後問題となりうる脳死の宣告や、donorカードについては、

平田道彦さんは、ドナーカードの保持の確認は、救急外来に搬入する時点で、事
務的になされるべきこと。治療の途中での確認は上記の懸念の元。といわれてい
る。
伊藤恵子 さん(長崎大学衛生学医師)は、「ドナーカードの有無の確認自体、家
族は治療の打ち切りと臓器提供を暗に強要されている」という反応は、今後はま
すます増えてくるのではなかろうか。大多数の日本人にとって、(感性的に)脳
死はまだ受け入れ難い概念だろうから、「延々と治療する」ということが”無駄”
と言わんばかりのニュアンスで伝わると、家族と衝突することになりやすい。と
いうコメントを頂いた。
また同時に脳死について、今の日本の社会では、ストレートに言うことが、必ず
しも歓迎されないのも事実なので慎重に判断すべき。脳死のイメージもかなり幅
広く、どういう理解がされているのかいろいろ探ってみる必要もあろう。とも言
われている。

ミシガン州立大学のBrody教授は、
  Maybe the better time for "informed consent" is after the patient has
beenstabilized as much as possible in the intensive care unit, and the
family hashad at least 6-12 hours to recover from the initial shock.
In that setting one can be a bit more blunt about the poor prognosis and
about the lack of likelihood that various therapies will work-- while at
the same time being compassionate in recognizing the family's anguish.
  In the US, many families actually find it a relief in the end to be able
to donate organs, as this makes them feel that at least some small good
is coming out of the evil of death. If, on the other hand, the request to
consider organ donation came from the physicians responsible for deciding
upontreatment, it would be hard for many families to fully trust the
physicians to be doing everything possible to produce recovery.
と言うように、日本とアメリカの脳死に対する受け入れ方の違いにまで言及して
頂いた。
 

【脳死患者への対応のまとめ】
1)当然、治療の可能性についてそれぞれの治療の特徴とメリットとデメリット
につき説明した上で医師としてベストと考えられる治療法を行うべきだと思う。
家族はできること全ての治療を望んでおり、今回のケースで外科的な適応があっ
たなら、やはり行うべきだと思う。最も積極的な治療法は、開頭血腫除去に外減
圧を施行した後、バルビツレートを使いながら低体温療法をするものであると考
えられる。
家族の意見を尊重し、少なくとも、そこまでは説明し、そのような治療法が、当
施設で出来ないのであれば、他院に転送するなどしても良かったのではないか?

2)治療中止を含め、家族に治療法を選択する余地があるのだろうか。という疑
問に対しては、交通事故という大変なショッキングな出来事の後なだけに一般的
にもこの家族のようにできるだけの治療を求めると思う、それでも、可能性のあ
る治療法の説明は一通りなされるべきで、もちろん、その説明の記録は残してお
くべきだと思う。
また、家族の精神的影響も考慮し、患者さんの容体、家族の状況が落ち着いた後
にさらに何回かは、説明を施すことが、良い患者(家族)-医師関係を築きあげ
ていくのではないであろうか。

3)説明を受けた家族に婚約者は入っていなかったが、入れなくてもいいのだろ
うか。については、法的に家族の規定がない以上、両親などに一言了解を求め、
説明をしてもいいと思われる。もちろん、婚約者の気持ちは配慮する。それは医
師の裁量権として認められていると思う。ただし、臓器移植に関しては、婚約者
は家族に入れられておらず、その場合に限っては、医師が、婚約者の意見を家族
の前で聞く様なことは、混乱の原因になるとも思われるので、婚約者の意見は、
家族の方でまとめて頂くのがいいと思われた。

4)先日脳死移植法が施行されたが、もしも今回の症例に適応するとなるとどの
ような問題があるか。について、まず患者がドナーカードを持っていているかど
うかの確認については、来院時の受付の時に、まず事務の人なり、看護婦なりが
どの様な患者さんに対してもルーチンとしてdonor-cardの有無を聞いておきカル
テのパーソナルデータのところに書いておくようなシステムにしておき、意識レ
ベルの低い患者さんに対しては、細心の注意を払いながら、病歴や既往歴を聞く
ときに医師が再度確認するのが良いのではないかと思った。

5)脳死の判定はいつするのだろうか。
ということについては、低体温療法は、あくまで治療であり、臓器移植を念頭に
はおいていない。そのため低体温中に脳死の“判定”はしない。脳死が疑われる
患者さんでも、家族の意向ももちろん、医師としては救命を第1として、為し得
る治療を最優先にし、それでも不幸にして脳死状態であると考えられた時、脳死
の判定を委員会等の臓器移植スタッフに委ねるべきだと思う。
ただし、低体温療法(32℃〜34℃)中でも脳波自体は正常であれば消失はしない。
薬剤等で抑制されるにしても、低体温療法中に患者さんの状態を知るという、“
診断”目的では行っても良いと思う。