2001年度臨床倫理討論


症例5)末期癌患者への告知(本当に告げることは必要か)

【症例】
71歳の女性。肺癌の骨転移を認めている為、積極的な治療は行わず、疼痛管理目的
で入院していた。肺癌を指摘されたのは、2年前で、その時点ですでに骨転移を来し
ており、余命は余り長くないという医師の言葉を聞いたご主人の強い希望で、本人へ
の告知はしないこととされていた。本人には、腰部や下肢に疼痛があることより、
「神経の病気」と伝えてある。その後、病勢は徐々に進行したものの、当初考られて
いたよりも長い経過となった。経過が長くなっても、本人は自分の病状について詳し
く医療スタッフにも家族にも尋ねることはなかった。
ご主人は最初に告知しなかったことに対して、大きな引け目を感じているようだった。
「しかし、今更言えない。」とご主人の考えは変わらないまま、患者は亡くなった。
最後まで、彼女は自分の病気について本当のことを知らないままだった。
(HP上の事例は、患者さんのプライバシーを守るため内容を変更して提示します)

【問い】
病状を知らない患者と医療スタッフの間に本当の意味での信頼関係は生れ得るのだろ
うか?




【1回目の討論の話題と次回迄の課題】
 この患者は、自分の病気について説明されないことに、特別に強い不信感も持って
いるようにも見えないかった。こういう最期を送る日本人の患者は多いのかもしれず、
それが必ずしも悪い終末期ケアだとは言えないのではないか。
次回迄に日本人の死の迎え方や日本のターミナルケアの特徴について調べてくる。


事例の4分割法による分析


<医学的適応>
・2年前の発見時:肺癌StageW 骨転移(+) → 手術適応(−)
・疼痛管理目的で入院 → 疼痛コントロールは良好
・下肢の運動は不良だが、上肢は良好。

<患者の意向>
・疾患についての興味を全く示さない。(positiveにもnegativeにも)
・疼痛除去は、医療スタッフに求める。
・告知は、全くされていない。(本人には「神経の病気」と言ってある。)
・判断能力は十分に有する。
・誰にも弱音を吐かない。決してつらそうな表情をみせない。

<QOL>
・ベッド上のみの活動
・他の患者との交流はない(個室)が、見舞い客が常時いる状態。
・遠方に住んでいる孫の来院には喜んでいた。
・現状に不満はない、とコメントしている。

<周囲の状況>
・夫が告知をしないことを強く望んだ。
・夫は、告知をしないことに対して悩んでいたが、タイミングを逸したという
 理由で、最後まで告知は行っていない。
・ けい経済的な問題は特にない。
・医療スタッフの間でも告知の是非に関するディスカッションはしばしば行われた。
 →患者の夫の意向に従うというのが基本的な姿勢



松尾智子(九州大学法学部)さんのコメント

症例5)末期癌患者への告知(本当に告げることは必要か)
病状を知らない患者と医療スタッフの間に本当の意味での信頼関係は生れ得るのだろ
うか?
【1回目の討論の話題と次回迄の課題】
 この患者は、自分の病気について説明されないことに、特別に強い不信感も持って
いるようにも見えないかった。こういう最期を送る日本人の患者は多いのかもしれ
ず、
それが必ずしも悪い終末期ケアだとは言えないのではないか。
次回迄に日本人の死の迎え方や日本のターミナルケアの特徴について調べてくる。

 癌告知は、それを本人が望む場合にこれをしないというのは問題ですが、しなくて
も、結果的に信頼関係が保たれていれば、よいのではないでしょうか。このケースは
結果論としては、問題がないと思います。告知をする場合、患者の意思と家族の意思
のどちらを優先するかが問題になりますが、これは、両者の意見が対立する場合には
大きな問題となるものです。原則的に、患者の意思を尊重し、告知はするべきである
という方向に向かっているように思います。



福島智恵美さん(内科医)のコメント


白浜先生、こんばんは。

問いについてですが、ご本人が夫とどのような信頼関係にあったかにもよるような気が
します。病状を話してある方が次の物事がスムーズになることも多く、医療者の気持ち
としては楽かも知れません。もちろん、家族にとっても。

ご本人の気持ちはどうだったのか。わかりませんね。
そろそろ、お迎えだ、と感じて亡くなる方がほとんどのように思っています。

本当の意味での信頼関係、というのは難しいな、と思いました。
こちらが良い関係だと思っていても、実際はそうでなかったり、こちらがまずいかな、と
思っていても、相手にしたら、すごく信頼してくれていたり。

それは病状を話してある、話してない、だけではなく、気持ちを汲めている、というか、
わかってもらっている、というか、そういうところにも大きく関与しているように思います。

自分の現在の状況と話されている病状が離れていった場合、不安がでてくる方(患者さん)は、
家族や医療者に、そういうサインを出してくれているように思うのですが、この考えは甘いで
すかね。

もしかしたら、病状を話していないことで信頼関係が築けないと思っているのは、医療者の後
ろめたさがあるのかもしれない、と思うこともあったり。

まあ、話せる時はかなり、家族にも話す方針ですすめてはいるのですが。

まとまりがなくなりますね。

それでは。



藤原靖士さん(西伊豆 安良里診療所医師)のコメント


 白浜先生、こんにちは。藤原です。こちらも検討してみます。

症例5)末期癌患者への告知 (本当に告げることは必要か)

 四分割法

「医学的適応」
 肺がん+骨転移
 腰痛・下肢痛が主症状
 積極的治療の適応なく疼痛管理などの緩和ケア
 予想よりも長い経過(2年間?)

「患者の意向」
 自分の病状を尋ねることはなかった
 自分の病気についてどれだけ知っていて、どれだけ知りたかったのかはわか
らない

「QOL」
 疼痛管理目的での入院(緩和ケアなら在宅ではできなかったか?)
 自分の病気について「病名」を知ることでQOLは上がるのか

「周囲の状況」
 夫は病名を伝えなかったことに大きな引け目を感じている
 夫は今からでは病名を言えない

 いわゆる癌の「告知」では、全ての情報を与えることが「告知」ではなく、
本人の知りたい情報を、知りたい時に、知りたいことだけ与えることが大切で
す。
 また、病名を告げることがあってもなくても、その予後がおおよそ伝わって
いればその人にとっては十分である場合もあるでしょう。
 このケースでは、本人はどのように考えていたのかはわかりません。ひょっ
とすると長い経過から、予後がよくない病気と感じていたかもしれません。本
人が尋ねなかったのは、病名を知りたいという強い気持ちや、はっきり病名が
わからないことでの不満はそれほどなかったのかもしれません(あったけど表
面に出なかったのかもしれません)。

 本人が病名を理解して積極的に治療に参加する必要性が高い状況でなく、病
名を知らないことで本人が不安定でなかった(実は内部で葛藤があったかも)と
すると、「病名」の「告知」の有無は本人にとってはあまり重要でないかもし
れません。

 それでよかったのかどうか、できれば、ある時点で、「今の病気について、
病名や今後の見通しについて知りたいことはありますか?」などと医療者側か
ら尋ねてみてもよかったかもしれません。

 このケースでは、病名を告げられなかったことを引け目に感じる夫の思いへ
の対処が課題かと思います。
 「今更言えない」と夫が思った時点で、医療者とあらためて話し合い、本人が
どう思っているのか、上記のように聞いてみることを提案してはどうでしょう
か?もちろん、夫はその相談だけでもいろいろ考え躊躇するかもしれません。
しかし、本人にとってどうすればよいかを考えるために、本人の気持ちを聞い
てみることが重要と説明すれば、本人へ尋ねるでは受け入れてくれるのではな
いでしょうか?あるいは、尋ねないとしないにしても、本人にとってどうすれ
ばよいかを夫が考える機会を持ち、心の整理ができるのではないでしょうか?

 何もしないまま亡くなった今は、言えなかったことは引け目だが言うことも
できなかったという夫の思いを受け止めてあげることができることでしょう
か。言えなかったことで何が引け目か、何が心に引っかかっているか、お話し
ていただきたいです。
 その上で、「病名の告知」だけが重要でないこと、それ以外に奥様に何をして
あげたか、どのように過ごさせたか、よい点を見出し、受容できるよう支援で
きればと思います。

 「癌の病名の告知」はそれ自体が目的なのでなく、本人およびその周囲(家
族・親戚だけでなく医療者も)がよりよい生き方をするためにされるものでな
ければならないでしょう。どのようなところまで、どのような形で、どのよう
な時期にされるかは、1例1例違ってよいと思います。(患者の積極的に治療参
加が必要である場合には「告知」が前提となるでしょう。「癌の専門家」が診
るのはそれがほとんどかもしれませんので、「専門」の方は「告知」の重要性
を言うでしょうが)



Susan Longさんのコメント


Dear Dr. Shirahama,
Thank you for posting many interesting cases.  Concerning the question about cancer
disclosure, as a cultural anthropologist I have a somewhat different approach that
bioethicists.  My research in Japan on this topic might be of interest to you because
it takes a descriptive and analytical look at the situation in Japan (as of five
years ago) rather than a normative approach.  I have published several articles,
which I will be happy to send you if you are interested in this gaijin's perspective
on the Japanese situation.

Long, S.O.  (1999).  Family surrogacy and cancer disclosure in Japan.  Journal of
Palliative Care 15: 31-42.
http://square.umin.ac.jp/masashi/surrogacy.html

Long, S.O.  (2000).  Public passages, personal passages, and reluctant passages:
Notes on investigating cancer disclosure practices in Japan.  Journal of Medical
Humanities 21: 3-13.
http://square.umin.ac.jp/masashi/passages.html

Long, S.O. and Long, B.D.  (1982).  Curable cancers and fatal ulcers:  Attitudes
toward cancer in Japan.  Social Science and Medicine 16:2101-2108.

I assume you already are familiar with the work of Dr. Michael Fetters and his
colleagues on this topic.

I look forward to hearing more of your cases.

Susan Long
Professor of Anthropology
Department of Sociology
John Carroll University
University Hts., OH  44118



上記の2つの論文については先生から送っていただいて、それぞれ下にリンクしたHPに載せています。

上記の論文の要約
Long, S.O.  (1999).  Family surrogacy and cancer disclosure in Japan.
Journal of  Palliative Care 15: 31-42.

【要点】
 古典的なモデルとして、情報は任意の患者と単独の内科医の間での交換だった。それを社会的に変換しようとしているが、今もなお隔たりがあるのが現実だ。
 現在、倫理の構築を目指し、様々な文章が書かれているが、それらは、家族の構造の変化を認識してはいるものの、種々の文化的状況の中での家族の意味に言及しているものは少ない。
 そこで、この論文で、日本の病院および家の中で日本の医学システムおよび日本の家族に関する20年間の研究、そして7ヶ月のフィールドワークの経験を基に書こうと思う。ただし、注意点であるが、これは1996年における話である。
 アメリカでは「知る権利」を主張した消費者運動と医学の構成の変革が結びつき、1970年代に開示を普及させることとなった。患者が、自分の疾患について良く理解した上で治療に関する自立的な決定を下すよう裁判所の判決が出た。
 翻って、日本では20年前には、ほとんどの人が情報の開示に関して関心がなかった。情報開示は死刑宣告のようなものであるという慣習があったからだ。そのせいか、インフォームド・コンセントの訳語が「説明」という弱い語調になってしまった。
 私は、日本において完全開示が文化的に不適当であると考え、それに対し慎重なアプローチに賛成します。生命倫理者は、アメリカ式インフォームドコンセントの導入を叫ぶが、それを導入するには時間をかけなかえればならない。日本風にアレンジする必要があるからだ。
 そのような動きに押され、厚生省も見解を出したが、インフォームド・コンセント概念を広げる必要を強調すると同時に、立方によってではなく文化変更によるものが望ましいと主張した。司法も、インフォームド・コンセント権は認めたが、内科医の慣習をさらに支持した。
 そして、公的な場での討論にもかかわらず、臨床の慣習の変更はそれに追随するだけのスピードを持っていなかった。
 かつての患者の情報開示に関するアンケートは、多項式選択のフォーマットをとり、全体としての傾向は見出せても、個々の複雑な考えを聞き出すに至らなかったので、私は18人の患者に対して無制限のインタビュー形式をとった。また、3つの病院での内科医巡回・介護・会議に立ち会った。
 その結果、13人は「伝えてほしい」と答えた。理由としては、死の為に準備がしたい(財産のこと)・家族との開かれたコミュニケーションを行いたいなどであった。残り5人のうち、3人は死について伝えられることにたいして否定的であり、、残りの2人ですが、非常にアンビバレンバレンツだった。1人は「開示は理論上はいいと思うが、実際には難しい。」もう1人は、「患者が知りたいとその家族が思えば、その意見にその患者は依存するだろう。」これは、衝撃であった。
 医師側はどうかというと、2つの構造対立が見受けられる。ベテランの部類に属する医師たちの父親的温情主義と若者を中心とする個人主義である。
 しかし、この個人主義を唱える医師でさえ、開示にはためらうという。その理由は、上司である医師の意見に逆らえないということなど、環境的なものだった。
 日本では、ジレンマに陥ったときに、それを他の内科医と共有する場がない。だから、他の医師がどのようにアプローチしているかを知らない。これを彼らに伝えると、そのアプローチの差に驚いていた。
 個人と文化の間にもこのようなバイアスが存在する。例えば、20年前、女性は情緒的過ぎるところがあるので、衝撃的だと思われるニュースを扱えない、と考えられており、それが内科医の決定にも影響を及ぼしていたことは想像にたえない。これは、社会的偏見だが、個人がどのように受け止めるか医療側は良く知らない。今回のインタビューでも複数の保健専門医が、情緒的に取り乱した患者の支援を提供する術を知らないと打ち明けた。
 家族への開示も問題を含んでいる。医師が患者の病状を家族に伝えるとき、その場には、患者と疎遠になっているような家族も同席していることがしばしばある。日本は核家族が主であり、いっしょに住んでいる家族であれば、患者の意志を汲むことができようが、日本古来の家長制度は今なお色濃く根付いており、伴侶であったり、長男がその決定権をもつこととなる。
 また、それをクリアできたとしてら、次は家族が家族の役割を果たすことが難しい状態ある。かつて、家で亡くなることが多かった日本だが、現在では病院で亡くなることがほとんどである。それにともない、病院という家族にとって、非常に居辛いスペースにおいて、患者と医師の間に入るのは難しいことである。家族は、患者に混乱した状態ではなく、「平和な顔」で死ぬことを希望する。それが、情報の隠蔽につながると考えられる。
 個々の患者が企業利益と単独で対決しなかればならないアメリカとかつての父親的温情主義との間に揺れる日本ですが、患者個人による真実の自治が目標であって、どちらもそうでないなら、どちらかに偏る必要はないと考える。



Long, S.O.  (2000).  Public passages, personal passages, and reluctant passages:
Notes on investigating cancer disclosure practices in Japan.
Journal of Medical  Humanities 21: 3-13.
【要点】
 1996年に日本の大都市の3つの病院で、重病患者や家族のケアの中にある高齢者に6ヶ月かけてインタビューを行った。病院は、無宗教の病院・キリスト教系の病院・ホスピスを訪れ、また、そこで多くの患者・その家族・医療スタッフ・生命倫理学者・その道のエキスパートと話をした。
 私が日本でのフィールドワークを始めた20年前にはなかったのだが、世論が大きく変わり、情報開示に関して多くの人が求めるという世論調査の結果が出ている。
 癌の「告知」注は、社会問題にもなった。
 情報開示・インフォーム・コンセント論者は、人権の豊富な用語を用い、父親的温情主義を非難し、議論を停滞させるし、完全開示を求める人の中には、国際比較を用いる者もいて、悪いものおよび初老の世話をするという非常に大変な責任を家族から取り除く為に政府によって提供される北ヨーロッパスタイルの福祉サービスの拡張を主張している。
 しかし、今の若い世代の人たちは、死をそれほど直接的な経験を持っていな。彼らに、本当に情報開示が望ましいかどうかを尋ねても、日頃家族の中でさえ、死を語らないので、答えが出て来ない。
 つまり、現在の日本の状況は、社会全体として一種のモラルの審議中にあると言える。
 現場でも、混乱はあり、多くの医療スタッフが、開示は必要だと考えているが、情緒的に取り乱した患者の支援の仕方に関するトレーニングを受けるかという質問に対しては、否定的であった。
 情報開示の論法のひとつに「アメリカ人がそれを行うから、我々も行おう。」という論があって、不快感を禁じ得ない。そのような経験に巻き込まれたこともある。あるジャーナリストと協力して大手新聞社にコラムをのせることにしたのだが、私は日本でのインタビューを基に原稿を書いたが、そのジャーナリストは、日本の社会への批判を書いてほしかったらしく、最終原稿の論調はそのようになっていた。それは私の意図していたところと違っており、厳重に抗議して変更させたが、まだ完全ではなかった。私はインタビューを行った内科医にその矛盾を突っ込まれた。
 現在の若い研修医の大多数は、1960年代の学生運動に参加した世代の教育を受けており、外国で勉強してこそ成功という段階を経るだけで、上の世代の父親的温情主義と対決し、情報開示しようとする者が少数派であることは驚きである。
 彼らは、なかなか時間がなく、少数派であるゆえ、声が小さい。それらの声を社会モラルに反映させるのが私の仕事だと考える。

注:論文の作者は、「notice」という単語を、「告知」と訳すことを快く思わないかもしれないが、便宜上、そうした。

要約制作の感想(言い訳):
あれだけの文章量を限られた枠組みの中でまとめるのは、どうしようもなく不利である。つまり、うまくまとめきれなかった。英語力への渇望とともに付記する。



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