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*「分かる」ということ


「分かる」というのはたぶん、答えを見つけることなんかではなくて、止められない思考をきりのいいところで停止して、落しどころを発見することなのだと思う。

そして、「分かる」ためには、記号化、言語化は情報の欠落を避けられない。

分かるためには、分かったことを伝えるためには、それを言語化しないといけなくて、言語化が為された時点で、その人が感覚、思考していた状況というものは、もはやありのままの写実ではいられなくなってしまう。

言語化すること、表現することと自体が何かを失っている。書くことも然り。宗教の聖書も、伝えるための苦肉の策という面もある。その背景を伝えることは「御伽噺」であったり、「伝聞」であったりする。だから「弟子」。弟子と読者の差もここにある。

だが、「落としどころが分かる」と「思考停止」は表裏一体である。see,plan,doの内「do」が多すぎれば、落としどころという名の思考停止に落ち着かざるをえない。

「納得」といってもいいかもしれない。

結論:「分かる」=「落としどころ」=「思考停止」=「納得」 自分の都合に合わせて使い分けているだけの気がする。「思考停止」という側面を忘れないように。そのためにはある程度の「ヒマ」が必要不可欠だろう。学問の発展も、哲学も「ヒマ」と「カネ」によって発展したものなのだから。



 2007.12.18 記載