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*総合診療に興味がある理由



*私が総合診療に興味がある理由
 
「なんでもやりたいから」ではなく「なんにもやりたくないからだ」
ということに気づいた。

今の医学界、医療界でされていることの有効性と限界を知って、すでにされていること、またはやりたいと燃えている人間がいることはそういう人にやってもらう。だれかがやってくれそうなことはみんなやってもらう。各医療分野にしても、何にしても。そういう分野が枝葉末節とは言わない。思わない。しかし、そ
ういう部分を省いた結果、本質を、principleを追求できる。新しいことができる。気がする・・・。
 
プロは情報を共有する流れを作り、流し終わったら新しいことをやる。これの繰り返しだ。全体像、全体の中での自分の、そして自分のやっていることの位置を把握する。そうすれば、把握できていないことはおもしろい。「本質は自分の興味のないところにある」とはよくいったものだ。まさにそう思う。学ぶこともそういうこと。新しいことをやって、発言力があるのも全体を、各分野を少しでも経験したことがあるから。今は名郷先生もおっしゃっている「構造主義学的医療」の構築に興味がある。今まで、何の関係もないと思っていた私の哲学が医学、医療分野に応用できる可能性を見いだしたからだ。

でも、EBMにしろNBMにしろ、人間関係のいわゆる「あたりまえ」のコミュニケーションの問題だと思う。EBMという内容に対する誤解がもう訂正不能のところまできてしまったために、わざわざNBMという言葉を作ったたけだろう。結局は私とあなたは別の人間である。お互いのコミュニケーションは本当には理解できてはならない。想像しあう偽一致を一致したと感じる満足。ただそれだけ。

そこで思う。本質を求めている時は本質は見えない。求めていないとき、ちょっと力が抜けて、ふと一歩引いたときに見える世界、そこになにかを感じてきた。

死は常に背後から来たり。「本質」は常に背後から来たり。なんか近い気がする。「だ〜るまさんがころんだ〜」の感覚。公式ルールでは「鬼以外の参加者は、鬼の呪文詠唱時に鬼から離れる方向へ移動してはならない。」とあった。これはおもしろい。鬼には嫌がおうでも近づかなくてはならない。

必死で逃げて死=本質なのか?近い気がするがしっくりはこない。それだけでないものがこの背後にもある気がする。鬼に近づいて、その近づく方向の背後に、鬼からしか見えない方向に「死や本質」がある?そのほうがしっくりくる。振り返って追いかけているつもりが、その背後にある。追うのに疲れて、本来の離れる方向にふと目をやったとき、鬼の方向にたった時、鬼にタッチして鬼から逃げる時、鬼に果敢に挑まない人がいつも見ている方向、景色をふと見たとき、なにかが見える。

振り返ること、その言葉はnegativeなイメージを持ちやすい。世間では「常に前を、上を向いてあゆみなさい」と声高に叫ばれる。しかし、進みすぎて、前を向きすぎている時、の振り返りは鬼の見る方向、みんなが見ている方向、これは全体でのpositiveだと気づく。

やっと、みんなと同列。追いついた。あ〜あ、何してたのだろう。「あたりまえのことじゃないか!」という感覚。なんでも「鬼」を追ってみる。そして、結果的に「鬼」を追わなくなる。逃げていく。でも、そう思って逃げた先の鬼を追ったものはまた別の「鬼」だったりする。


〜〜〜ちょっと一息。〜〜〜


なんでもやりたくて、すべての鬼を追ってきた昔、振り返ると同じような景色。なにもやらなくなって鬼の景色をみていると意識して、「みんなあたりまえ」を過ごす今。すべての鬼の景色をみれるかな?みれるわけない。すべて追う必要はない?無いのかもしれない。すべて追って振り返ることなどせずとも、今見ている景色・世界がすべての鬼の世界の集合体だ!

やっともとに戻ってきた。「なんでもやること」は「なんにもやらないこと」に近づくと理解する。そしてその背景を振り返る世界を意識して追いかけない!これがしっくりくる。

じゃあ、現実にどうしたらいいのだろう?俺は医療というツールを使ってなにをしたらいいのだろう?分からない。ただ、医療を使わない、追いかけないという目線の背後を意識できればなんかいい感じなのかもしれない。

やっぱり「なんでもできる」を追いかけるて、振り返る。何にもやらない。なんにもやらないを追いかけて、背後を意識する。この方が楽しい。鬼がいるのを分かって逃げていく感じ。でも目はpositiveに向いてる。でも、たまには「鬼」のほうも振り返ってみる。いや、振り替えざるをえない環境・状況に四方八方ふさがれて押しつぶされる。でも、やっぱり「なんでもできる魅力」もあると自分に思いこませているのかもしれないと思える余裕はなく、思わされている。

でも何もしない。気分は子供のいたずら。大人の世界像に挑戦している気分。でも大人の世界像を振り返りながら、何にもなんにもしない、いたずらをする。

こんな自分が給料もらって働いていく自信がない。やはり見かけだけは「なんでもできる」を追いかけている様に装う必要があると現実を認識する。みんなで「なんでもできる」を追いかけているのだから、一人くらい「鬼」を追いかけなくても……といったそばから弓矢が飛んできてねらわれる。あいつは要注意人物だと。。でも現実はそんな注目さえ浴びずに、ただ脱社会される、無視される。「あいつはちょっとおかしい」、と仲間はずれにされる。もう慣れているけどね!でもちょっと寂しい。淋しい。と感じてしまうほど自分も洗脳されている。ほんとは「せいせいする」と思いたいのにね。


わがままだね。僕って。こんな葛藤して、みんなと鬼を追いかけた方が楽なんだと思っても、子供のいたずら心がくすぐる。大人を装った子供になりたいのかな?。それとも大人になりたいのかな?「子供」にはなれない。それは分かっている。なんにもしたくないと意識しているから。「子供」は何でもやりたい、か、なんにもしていないだ。これでは、弓矢で打たれてハイ終わり。

「何にもしないで、『何にもしない』をすることで、何かをする」。本質はいたずらだ!と思う。人生を半分降りれるようになりたいとつくづく思う。

死を背景に意識している自分の背景の本質を追いかけない気持ちで追いかける

*これで15%くらいは決まりかな??

だからこそ、昨今の「なんでもできる」を全面に出した家庭医、総合診療のイメージ戦略?は、非常に炮ないと思っている。みんなでスーパーマンになろうといっているに等しい。総合医は、マクロ経済の視点とコーディネーターという視点でこそ意義がある。「なんでもやりたがる」総合医は、勤務医をますます疲弊させるし、たんに専門医との喧嘩や、「どっちがすぐれている!?」というくだらない議論にしか至らないだろう。そもそも、対立でなく相補的な関係を手段として、患者・社会を目的に考えるものと思う。


2007.6月記載