気付き⇒対応⇒解決:変化



<変化>

私にとっての物事のPrincipal(本質、起源)は「万物は流転する」である。言い換えれば、「すべてのものは移り変わってゆく」、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、淀みに浮かぶ泡沫は・・・・・・」とも表現できる。
移り変わるとは「変化」していくこと。そして、物事は点ではなく流れとして(関係性の変化、過去⇒現在⇒未来)捉えること。この「変化」から派生して考えられる3つのこと

1.変化を感じ取る感性の重要性
2.変化を予測する感性
3.変化とは周囲の関係性の上に成り立っている

を通した私の人生観と将来設計に関して以下述べたい。



<>1.変化を感じ取る感性

「変化」を感じることのできる「感性」は人を含めた生命としてもっとも根源的な能力である。「変化」を「感じる」からこそ、その変化に「対応」することができる。そして「対応」するという選択枝が挙がるからこそ、「解決」しようとすることが可能なのだと考える。

具体例を挙げると、『患者のなにかしらの変化に気付き、対応するからこそ、医療(西洋医学のみならず幅広い意味で)といったツールを用いて解決しようとすることができる。但し、その解決手段が「その患者」にとってよいことかは不明である。』という類である。

そして、このような状況において、医者とは、『だれもが抱えている「健康に対する不安」に気付き、対応するプロである。そして、その目的は、その患者の人生のactivityを高めることであり、さらにその家族、地域、最終的には「日本」のactivityを高めることである。そして、あわよくば解決するためのツールとして「医療(西洋医学、東洋医学、中華医学、インド医学、医療・保険制度、行政、政治、保険、介護etc)」がある。』と感じている。決して、西洋医学を扱うプロで終始してはいけないと思う。せめて人々の自然な生きる営みを邪魔しないように、できるだけ害を与えないで、可能ならば少しでも利益を享受できるような努力をすることが重要である。

以上より、医者として身に付けるべき能力は、第1に変化を感じる感性、第2に対応方法、第3に解決方法と考える。感性に関しては自分自身の心意気次第と思う。後は「魚を与えるより、魚の採り方を教える」の理念の通りであろう。



2.変化を予測する感性
 
物事を点でなく流れで捉えることが重要という概念から生じる。未来の変化を予想するための気付きには2つある。1つは、「未来の変化を引き起こすだろう現在の変化を感じること」、2つは「経験的に、時代背景的に、他との関係性としての現在変化を生じていないが将来起こりうる変化を感じること」である。

前者は、早期発見、早期治療(先手必勝)につながる。後者は、予防につながる。時代を見通すとも表現できる。


3.変化とは周囲の関係性の上に成り立っている

「変化」とは「周囲との関係性」を前提においた概念と考える。近年の社会の乱れはこの「関係性」の認識と感覚が欠如してきている結果、「共同体の崩壊」が促進していることによると考えている。
この際の「共同体」とは、「祖先から子孫という縦の軸(歴史)」と「同世代に生きる人々(環境)という横の軸」の交点という両軸の関係性のなかで存在する、ということである。

特に、一神教を善の拠り所とし、悪事と罰を御伽噺で伝えてきた欧米諸国や中東アジアなどと異なり、日本は産土神であり、善事を御伽噺で伝えてきた。つまり、日本は共同体の認識が支えていたと考えられる。さらに神道を初め、宗教における苦肉の策である経典がないことも日本の特徴である。文章化された言葉でなく、その背景の「感覚(非言語的コミュニケーション)」を受け継いでこれたことは素晴らしいと思う。

そして、第二次世界大戦後のアメリカナイズにより共同体が崩壊していく日本では関係性の認識の欠如を招き、えてして文化の危機に面している。これらは、個性と個別性と利己性を履き違えた主張をする人々、いじめ、虐待、法科大学院設立と訴訟多発問題、弱者を装う過度の権利主張、民営化問題、エリート教育の隠れ蓑のゆとり教育、外交(年次改革要望書、グローバリズムという名のアメリカナイズなど)、マスコミによる情報操作etcという形で如実に現れている。医療で言えば、国民皆保険制度は守るが、国民皆保険は守らないといった政府見解や、産科訴訟問題、医療費未納問題、医療ミス、薬害エイズ問題、C型肝炎問題、患者の医療不信、医療従事者の患者不振など数知れない。

共同体の再建こそが日本社会の命題であるという意見も聞く。確かにそれも重要である。しかし、グローバル化(欧米主義ではない)の進む今近代社会において必要なのは、共同体の再建ではなく、他の世界像を持つ共同体の承認と異なる世界像を持つ人間・社会同士の承認である。

社会全体が共同体的な役割関係から社会的な競争ゲームへと進展していく現代社会では、生の意味や理由をうまくつかめなくなる条件が増している。宗教などの「安易に」生きることの価値観を提供してくれるものが乏しく、代わりに共同体といった人間の世界観であった日本は、宗教という世界観と共同体といった世界観と同列に扱うことに失敗した。また、世界では欧米一国主義(金融資本家達)の横行している。それらは、他世界像への承認が乏しく、ある特定の世界像からの「異質」の排除を進めている。これはイラク、アフガニスタン戦争、イスラエル問題などという形で現在進行中である。 

この「異質」の排除といった流れは、「(社会を構成している」人間の生の一般条件」としてはむしろ当然の方向だとは思う。しかし、この流れは現代社会では大変難渋する。そして、今はこの過渡期とも取れる(これも末法思想かもしれないが)。えてして、不安を煽ったり、深刻な終末論を語ったりする人が増える。これをニヒリズムへの反動と捉えるか、これをすることで誰が得をするのかを考える必要がある。一つの価値観で過ごせていた時世は楽だったかもしれない。必要なのは「自分以外の他者の「自分」の承認する感覚」、「自分を生かすことは自分を殺すこと」 といった、共同体が失われたことでむしろ得にくくなったものを得ることである。



2008/8/10更新