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*臨床研究と基礎研究〜to make evidence〜


*歴史から見て

ドイツ医学が実験研究を重視した「病気を観る学問」だったのに対して、イギリス医学は、実験的な裏づけがなくとも実際のエビデンスを重視した「病人を診る学問」であったといえる。昔の明治維新時代のドイツは、コッホの破傷風菌、結核菌、コレラ菌の発見による医療への寄与などが著しく、その流れを東京帝国大学医部、さらに陸軍への浸透した。一方、日本海軍は、イギリス海軍にならっていた関係もありイギリス医学を実践していた。脚気の予防を成し遂げた木兼寛はイギリス医学の恩恵によって、事業を成し遂げた。一方、緒方正規などのドイツ医学は脚気は「脚気菌」による伝染病として最後まで反対していた。

*現在では

当時が、微生物の正体を解き明かすことが医学の主流だった。現代医学においては、遺伝子の問題に固執しすぎているように感じる。決して基礎研究を否定するわけではない。ただ、臨床研究と基礎研究の双方が相補的に行われることで初めて病気は予防、または治療しうるのではないだろうか?

*エビデンスを「使う」から「作る」へ

近年、EBMの名の下(=エビデンスと多くの誤解をえながらも)、科学者として、「アナログ」である「サイエンス」を使うものとしてはむしろEBMは当然のことである。患者に合わせてエビデンス(=データ)を使うことは…。(EBM、NBMの話は別項参照)。使うことも多くの医療従事者が少しは親しんできたと感じる、次は「作る」である。現場の疑問に基づく「解決のための対応方法(対応だけでも充分すごいが)」だ。その方法は難しくないと聞く。ただ慣れていないだけだと。私も今勉強中の身、これ以上のことは言えません。ただ、これができれば(できそうな気がしている)、これこそ自己学習・情報発信も大きな武器になるだろうと確信している。どんな田舎にいっても、(できればインターネットは欲しいが…)「医療」ができる!!気がする…。これこそ医療が地場産業になれるかの分水点ではないだろうか?

*なぜ「作る」のか?

理由は2つ。

1.「なんのために臨床研究をするのか?」の問に等しい。目の前の患者をなんとかしたい!これだけでもできれば相当なものだ。ただ、1人の臨床医が生涯にわたって診ることのできる患者の数はどれほどだろうか?1つのクリニカルエビデンスは、さらに多くの自分が直接かかわれない人達にかかわれるかもしれなという魅力と威力を秘めている。

2.「なんのために医療をするのか」に等しい。自分の疑問が解決できる、または解決できるかもしれないという楽しみ。自分の満足、そして人々の満足、面と向かいあっている人々の疑問・問題への対応⇒解決。すばらしい手段である。

最後に、もっとも重要なこと

「いくらエビデンスが構築され治療法が確立されても人々に適応されなければ意味がない!」具体例は「エビデンスの構築と還元」の項参照。

*余談

本来、相補的な関係であるはずの2者が、いつの間にか権力争いをしているのは人間の性であろうか? 歴史は繰り返される。

・西洋医学と東洋医学
・臨床研究と基礎研究
・総合医と専門医
・雇用者と被雇用者
・教師とPTA
・親と子供
    etc…


2007.11.6