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努力は必ず報われるか??


私の嫌いな「きれいごと」の1つです。以下大きく分けて2点述べる。

1.努力は手段であって目的ではない。

2.運と努力と能力。「報われる」ための運の要素の大きさ。

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1.努力は手段であって目的ではない。


なんのために努力するのか?コレが揺らぎ、努力自体が目的となったときに、歯車が狂いだす。努力を評価できる人は「物事の過程」を評価できる人だ。

宋文洲のメルマガを読んだ。以下抜粋とコメント。


「努力は必ず報われる」とそのまま信じきった人には努力という主観に評価の基軸を置きがちです。信じ込んだ努力が報われない時、彼らは馬鹿にされた気分になり他人や世間の否定に走ります。


  「努力は必ず報われる」が真ならば、「報われないのは努力していないからだ」も真である(待遇)。報われないことを怒る人は,努力していないと批判されたと,怒っているのだろう。
 


 これと似ていますが、人間はあまり表面上の真面目さだけを追求すると、思いもよらない落とし穴が待っています。


 「報われるように」努力することが大切。しかし、失敗しないと分からないことも多い。失敗を手段と捕らえて、目的を見失わないこと。そして、なによりも失敗したときのリスクヘッジを十分に準備することが大事。えてして、成功したら「これだけ」すばらしいものになります!よりも、失敗してもこれくらいのリスクで済むという意識に欠けている風潮を感じている。

*上を向いて歩いてもいいが、穴に落ちない注意も重要。

「努力」自体にいみがあるとすれば「失敗したときの言い訳」だろう。しかし、この言い訳は、自己のプライドを守るためではない!為すべき方向と理由とそれへの努力を、「相手の目に見える形で表すことで、方法論の是正を試み、失敗を共有できる可能性が生まれるからだ。

つまり、失敗した時にすべきことは、「あの失敗があったから今の自分がある」などと、前向きにとらえることではなく、「あの失敗が、これだけ自分を衰弱させてしまった。もう二度とあんな目に遭わないためには、どうすればいいか?」というリスクヘッジを考え、その方法を学ぶことだと思う。



 努力も真面目も言うまでもなく良いことですが、原理主義的にそれを信じ込むと複雑な世間や多様な人間に対して寛容さを失っていきます。クレーマーの急増と魔女狩的な批判風潮は、ここに遠因があるのではと考えます。 


 今の医療界も同じ、「医療は完全である!害が起きれば、それは医者が悪い」と原理主義的に信じて疑わない人、彼らは「真面目なのだ」、いや、「病死を今一度自然なものとして粛々と受け入れることができない」のだろう。

 

魚を与えるより、釣りを教える、が学習の基本だと思っているが、その結果一匹も魚が連れなかったらやはりそれは意味がないといわれても仕方がない。結果ほど分かりやすい評価はないから。分かりやすいことほど広く広まる分かる=思考停止であるので一層注意が必要。誰もが「分かっている」と信じて疑わないのだから。


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2.「運」と「努力」と「能力」

「必ず」があるものは「必ず」間違い。試験でもそうでしたね(笑)。そうです「必ず」なんて、100%なんてこと、ないと思っています。今までの人生だって「無駄」はないと思っているけど、当時は思いもよらなかった「有益」に変化したってことも少なくない?将来という時間軸を使わなく、この時点という点で考えても、『「無駄」という「有益」』と解釈すれば、それは「有益」なんだろうか?

ただ、この時の『「無駄」という「有益」』の中の「無駄」とは、あくまでその時点では無駄である。失敗は失敗。

そう、時間軸を無視したとき、無駄は無駄の枠はなかなか超えられない。そして、将来に対してでなく、その時点での「無駄、失敗」を『真面目に努力したのだから』というフレーズで美化するのは勘違いだと思う。

努力はすばらしいとは私も思う。ただ、報われるのはその極一部だけ。二宮金次郎のように、努力すればどんなに貧しい人でも大成功できる、というのは現在では神話だと思う。生まれながらに、多くは決まってしまう

私がこうしているのだって、「たまたま」日本に五体満足で生まれ、日々食べ物に困るほど植えていたわけでもなく、学校に行くお金もあり、身に覚えのないことで道端で刺し殺されたり、抗争に巻き込まれて死にもせず、大きな病気もかからず、こんな文章を書いていることができるくらいの暮らしができる・・・すべて偶然である。これらは「どうしようもないこと」なのだ

そして、その中でも「好きなこと」を職業に結びつけることができる人はごく限られた幸運な人だけ。そこには「能力」と「偶然(運)」というどうしようもない2つの要因が絡み合いながら控えている。

能力がいかに優れていても、交通事故に巻き込まれて死んだ友人だっている。ゴッホ以上に、ランボー以上に劇的な生涯を送りながらも、闇から闇に葬り去られた莫大な数の詩人たちがいる。歌が死ぬほど好きで、限りない努力をしても一向に芽が出ない歌手もいる。

身も蓋もないとおもわれるかもしれませんが・・・

われわれは「運」としか言いようがないものに生涯、翻弄され続ける。

『「治らない」時代の医療者心得帳――カスガ先生の身も蓋もない悩み相談室』(本)と内田 樹ー春日武彦対談 より以下抜粋
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 「医師に必要なものとして、誠実さとか優しさとか、人間愛とか自己犠牲だとか、的確な判断力だとか冷徹な技術だとか、鬼手仏心だとかいろいろなことが言われます。しかしわたしが思いますに、医師として何よりも大事なのは運の強さです。

 強運――これに勝るものはありません。自分を守り相手をも守る強烈な運の強さ。必要なのはこれで。これさえあれば、死にかけの患者へ下手な処置をしても助かります。逆に運が悪い医者は、どれほど善人かつ技術に優れていても、「治療は見事だったが、患者は死んだ」といった結果になります。ひどい話です。」

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これは「研究者」でも、「政治家」でも、いや「人間」ですら、同じことが当てはまるだろう。

身も蓋もない!と思われることこそ、本質を物語っている。と思う。


現代は「機会の平等」ばかりが強調されて、「結果の平等」がなおざりにされている。100m走を10人で一斉にスタートしても、1本しかゴールに繋がっていないようのものだ。機会の平等だって、お金がないと「受験できない」など、ハードルはもともとの「資産」に偶然あやかっていたかに因っている。という、現代では、「努力」<「運」の要素は限りなく大きい。
大企業は元々に純資産が大きくて、どんどん大きくなるけど、中小企業は銀行への借金返済のためにいくら「儲け」ても「金持ち」にはなれないのと同じだろう。「金持ち」は「賃借」であって「損益」の話ではないのだから。



 
2007.12.18 記載