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*地域医療の先進性

以下はe-residentの名郷先生の記事からの抜粋である。http://www.e-resident.jp/essay/article.php?int_id=129

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 自分自身は、すでに地域医療に興味のある人を対象として、地域医療専門医の育成をどうするか、なんてことを話したのだが、そんなことをいっている場合ではないのである。地域医療の専門医を目指す人に向けてどんな教育をするか、そんな狭いことをやっていてはどうしようもない。すべての医師に対して、地域医療のエッセンスを伝えること、そうでなければ、もうどうしようもないのである。地域医療の専門医にどういう教育をするかなんていっても、医師全体の理解は得られない。地域医療とは、別にへき地の問題ではない。都会の地域医療こそ崩壊している。へき地で地域医療が崩壊しても、それはたいしたことにはならない。へき地とは、医療に限らず基本的にそういうところであるからだ。それが都会においても崩壊しつつある今、ようやく地域医療が問題にされるようになったのだ

 そうした考えをもう少し進めてみる。フロアから、「地域医療は昔から崩壊していた。別に新しい問題でもなんでもない」、そういう発言があった。確かにそうだ。地域医療が崩壊しているわけではない。医療全体が崩壊しているからこそ、こうしたシンポジウムが、特定の地域に限った問題ではなく、日本全体のこととして、日本医学教育学会で開かれるのだ。

 つまり問題は地域医療の崩壊でなく、それを支える医療全体の崩壊である。そんなふうに考えると、これまたばかばかしいほど当たり前のことなのだが、そんな当たり前のことを見失うほど、医療全体が崩壊している。これがへき地などの限られたところでの崩壊であれば、このような大きな問題には決してなりえない。ここで取り上げられた地域医療の問題とは、決して部分的な問題ではなく、医療全体の問題なのである。

 しかし問題解決の糸口は、医療全体を考えることではなく、へき地の医療を振り返ることから見出されるかもしれない。へき地医療の困難さは、今の医療全体の崩壊をある意味先取りしていたからだ。少子高齢化はどこから始まったか。へき地である。小児科医、産婦人科医の不足は、へき地では当たり前であった。24時間拘束される医師が、へき地の現場から疲れ果てて、その場を去る、そんなこともへき地では常に聞く話である。珍しいことではない。そうしたことが、今都会でおこっている。都市部の病院の入院患者の大部分は高齢者だ。小児科医、産婦人科医の不足は深刻だ。勤務医が病院から続々と去り始めている。これはいつもへき地で起こっていたことではないか。へき地は遅れているのではなく、進んでいたのだ

 現在の医療全体の問題は、先進的なへき地医療を提供しているところから学んだことを、都市部へといかに適応するか。そういう問題なのかもしれない。へき地の現場で、少子高齢化にどのように取り組んできたか、医師不足にどのように取り組んできたか、医師が疲れ果ててその場を去ってしまうような事態をいかに避けてきたか。それをへき地の特殊なこととして片付けてきたところに大きな問題がある。へき地を遅れた地域として考えたところに、今の医療全体の崩壊の原因のひとつがある

 もともと地域医療なんてものは、個人個人や、個別の施設や、個別の市町村の努力に支えられていただけで、システムとしてそれが浸透していたわけではない。そうした地域医療を支える人たちの多くは、自分自身が学んできた、西洋医学の王道から、足を踏み外すことにより、さまざまな困難を乗り越えてきた。しかし、いまだ医学教育は、「真理の追究」なんてのんきなことを言っている「医学モデル」によってその大部分を支えられている。地域医療の視点での医学教育など、いまだゲリラ的に存在するだけである。

 その「医学モデル」は、もともとへき地医療など、地域医療の現場では通用しなかった。そこで、地域医療には、医学モデルとは違う新しいモデルが必要であると、そこを手がかりに、自分自身も地域医療に取り組んできた。それはへき地医療の現場が先進地であったがためだ。決して遅れていたからではない。「医学モデル」が通用しないことが真っ先にへき地で明らかになった。そして、その「医学モデル」が、いまやあらゆる医療現場で通用しなくなっている。それこそが医療崩壊の一番の根本にある。

 生物心理社会モデルなんてのが提唱されて久しい。それから30年以上がたつ。それにもかかわらず、問題は何も解決していない。今こそ地域医療の現場から学んだ、新しい医療のモデルを示すべきときだ

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そのとおりである。これは「総合医」の議論でも同様である。

最近、「総合診療医、家庭医」をつくるぞ〜!という動きが少しづつ大きくはなってきた。ただ、そこにかかわっていくのは、たまたまこの分野に「興味をもった人」だけなのである。「興味のないことにこそ本質がある」。興味を持っていない人々にいかに伝えていくか!これが最も重要だ!興味が湧いた時点で、現在の医療界では「異端児」である。

現在の「家庭医療!」と声高に叫んでいる人を見ると、

・「なんでもできるようになりたい!自分の潜在能力ならできる!」
・「マイノリティーであることを自覚をしてないマジョリティーの如く振舞っている祭り(身内の宴会)」
・「人の役に立ちたいという自分の満足を認識していない偽善の心への陶酔
 (ボランティアをしている自分が好き、または、自分の欲求を我慢して患者の要求を聞いてあげているという自分の満足を意識できていない)」

などを強く感じる。そして、「専門医じゃなくて、家庭医だよ〜!」などと、他を排除する動きが強い。総合医と専門医は相補的な関係であるという基本を見失いがちである。このスタンスのために、専門医集団から逆に排他的にされている総合医集団をよく見かける。総合医を目指す人は、総合医の社会的な「意味」をもう一度考えて欲しい。それははたして「なんでもできるスーパーマン」でしょうか!?

総合医の大きな役割の1つに「総合医の視点を専門医に伝えること」があることを忘れてはならない!。。。と思います…が、皆さんはどう思いますか?


2007.4.月  記載